一〇 リアリストが陰口をたたき、小娘が脱獄を企画すること
太守官邸を退去するなり、陳俊はいまいましげに唾を吐き、
「け。俗物が、洛陽に進軍でもやらかそうってのか」
ついでに指を喉に突き入れて、飲んだものをぶちまけてしまった。
ぐいと口を拭って、そのまま何事もなかったかのように歩きだす。
人というより、獣のような荒くれどもに揉まれてきた陳俊にとって、このくらいは芸のうちにも入らない。
「天下だとよ。まったく儒者が聞いてあきれるぜ」
呆れているのは、善悪の観点からでなかった。
モラルなど、薬にしたくても持ち合わせのない男である。
そもそも儒の教えを自分勝手に都合よく解釈した曹延に命じられ、商人たちから交易品を巻き上げてきたのが陳俊だった。
仕入れ値にも満たない売価に商人が応じないときは、手荒い手段で承知させるのが役どころである。
それどころか、敦煌を避けて内地に乗り込もうとする行商人を追いかけて、一切合財を奪い取るという、盗賊同然の仕事までこなしているのだ。
とにかく掠める、ぶん取るに躊躇も良心の呵責もない。
問題はその先だった。
モラルは欠如しているが、かわりに陳俊は徹底したリアリストだった。
で、あるからには現実をよく知っている。
王莽の新帝国が瓦解した後、陳俊が武将として大乱を生き抜いたのは事実だが、猛将でも知将でもない彼は、その節操のない性格を唯一の武器としてきたのだ。
もちろん剣の腕にもそれなりの自負はあるが、
「所詮、敵わねえ奴には、敵わねえ」
それが認められないばかりに、命を落とした武人が星の数ほどいることを思えば、その割り切りは長所だといえなくもない。
その現実主義者から見て、天下をとった光武帝と、その麾下の十三将という、それこそ身の毛もよだつような猛者どもが、建国したのが後漢帝国なのだ。
交易品を巻き上げて、いい気になってる頭でっかちが、調子に乗って色気をちらつかせても、
「馬鹿なんじゃねえか」
えせ儒者の夢物語につきあう義理も、つもりもない。
「ま、いいや。漢もまだこっちにゃ手がまわらねえだろうしな」
このような場合、どう対処するかは人によって大きく分かれる。
見ぬふりをする者と、みすごせない者とである。
あきらかに陳俊は前者だった、、、いや、
「んじゃ、ちょっくら点数でも稼ぎにいくか」
状況を利用して、むしろ利益を得ようと動くタイプだった。
* * * * *
罪人が拘留される牢屋は地下にあった。
石造りの廊下の壁面に横穴が掘られており、木の格子が取り付けられている。
夜半まで手厳しく尋問された劉嬰は、そのひとつに放り込まれていた。
小麦を固めて焼いたパンのようなものが差し入れられているが、それは勿論、水すらも手がつけられていない。
「しぶとい奴」
見回りに来た番兵が、死んだように動かない劉嬰を見て呟いた。
顔は人相のわからない程に腫れ上がり、あばら骨も二、三本ほど折られたが、趙将軍による直々の取り調べにも、ついに彼は名前
すら黙し通したのだった。
猛り狂う趙将軍は、本当に殺してしまいかねない勢いだったが、
「明日は―――こうはいかん、ぞ―――よいな」
またしても先に息があがってしまい、憎々しげに吐き捨てるしかなかった。
どのくらいの時間がたっただろうか―――。
篝火もなく暗い通路に、足音を忍ばせた人影がひっそりと姿を現わした。
やがて閂が静かに抜き取られ、微かな軋みを伴って、格子の一部分がゆっくりと開いた。
「劉嬰さん。劉嬰さん―――」
横たわる彼に二度、三度と囁きかける声は、媛にものに間違いない。
さっきまでぴくりともしなかった劉嬰が、目覚めてむくりと起き上がった。
「あっ―――」
思わず悲鳴がもれたが、グロテスクに腫れ上がった顔を見れば、それも無理のないところだった。
「しいっ―――なんで、こんなところにいるんです」
囚人がたしなめるとは、あべこべである。
しっかりとした口調だったが、口中に違和感があったとみえて、口をもごもご動かして吐き出すと、それは根元から折られた奥歯だった。
「あ痛たた。すっかり絞られちゃいましたよ。ははは」
「酷い―――」
媛の声が震えていた。
「いや、それはさておき。いったい、どうやってこんなところに忍び込んだんです?」
その時、通路から押し殺した声がした。
「お早く」
耳にした劉嬰は、
「なるほど」
と呟いて立ち上がった。
「しかしですね、こんな危ないことしちゃ駄目じゃないですか。看守さんを買収だなんて、ばれたら大変なことですよ。でも―――」
劉嬰はでこぼこになった顔を歪め、歯を見せた。
彼なりに微笑んだつもりのようだった。
「お気持ちは有り難く。ご迷惑ばかりかけたのに、感謝の言葉もありません」
「そんな―――それに、買収したわけじゃないんです」
「え?」
劉嬰はそこで口をつぐんだ。
油断なく周囲を見まわす看守の眼差しが、金に目がくらんだ者のものではないことに気づいたからだった。
「駄目じゃないですか―――」
劉嬰はそう呟いたきり、言葉が出なかった。