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九 野心をもった太鼓持ちが、別の野心を育むこと

「け。よく言うぜ」


 陳俊は耳がよかった。

 趙将軍の捨て台詞も、しっかり鼓膜に捉えていたのである。


「奴さん、今度こそ殺しちまうかもな」


 目もよかった。

 趙将軍が、足早に牢屋へ戻るのを、しっかりと見ていたのである。

 もちろん、再度みずから尋問にあたるつもりなのは間違いない。

 武人はこうした時、自分の腕をもっとも信用するものなのだ。


「単純な男だね。かえって張り合いがねえや」


 拷問の末に死なせてしまうようなことになれば、これは落ち度になる。

 人命の軽いこの時代、拷問死じたいを問われるわけではないが、将軍みずから一味の可能性を認めたばかりではないか。


「ちっとばかし、そのへんも耳打ちしとくか」


 太守の曹延は欲の深い男である。

 結果的に密輸、密売の芽を摘めなかったとなれば、さぞ機嫌を悪くするだろう。

 うまく煽って趙将軍を罷免できれば、敦煌の軍事権が転がり込んで来る。


(あと、二手だな)


 海千山千の陳俊は、もうそこまで計算していた。


(ツキがめぐってきたじゃねえか)


 悦に入りながら官邸の門をくぐると、門番が槍を立てて直立不動の態勢をとった。


「ん―――ご苦労ちゃん」


 ここが太守である曹延の住居も兼ねた、東西交易による富の頂点である。


(天子にでもなったつもりか―――)


 陳俊は表情を歪めた。

 漢の版図でありながら、なかば独立国のような敦煌である。

 かつての長安や今の洛陽のような壮大さはないが、豪奢な官邸には明らかに「あるもの」を意識した引見の間がおかれていた。

 美しく着飾った曹延は、そこで来訪者より数段高い席から、見下ろすように迎えるのだ。


「あっ―――」


 太守の姿を認めて、陳俊は小走りに駆け寄り、倒れこむように平伏した。


「陳俊めにござりますゥ」

「おお、遅かったではないか」


 背の低い曹延は、そのかわり太っていた。

 胸や腕、指にはトパーズや玉などの宝石がきらめき、地中海風の派手なトーガをはためかせ、パルティア産なのか靴の先が反り返っている。

 傍らには盆が並べられ、色とりどりの果実がうずたかく漏られていた。

 曹延は緩慢な動作ながら、しかし丸々とした指を絶え間なくのばして、それらを口に運ぶのだった。


「どうだ、一献」


 まだ日が高いのに、もう酒を嘗めはじめている。

 陳俊はさらに頭を低くして固辞しながら、


「本日もご機嫌うるわしく、何よりと存じまするゥ」

「なんの、そちのような有能な部下があればこそ、こうしてくつろがせてもらっておるわ」


 大物気取りの曹延は、漢の帝位を簒奪した王莽の時代、中央より派遣された太守である。

 儒教による厳格な身分制度のもと、専制君主を目指す王莽に寵愛されたこの男も、もともとは儒者であったという。

 さして統治能力もなく、そのくせ絶対者たらんとする王莽の、いわば太鼓持ちのような存在だったのだろう。

 その甲斐あってか、通商で潤う敦煌の太守に抜擢された曹延は、地理的に遠いのが幸いして、王莽が倒れた動乱にも巻き込まれずに済んだのだった。

 光武帝が再興した漢帝国は国力が回復しきっておらず、まだ西域の再復にまで手が回っていない。

 そこで、さしたる功績もないかわりに落ち度もなかった曹延が、黙認のかたちで太守に居座っているのだった。


「太守殿、小生は深い悲しみを覚えまするゥ」

「ほう、どうした」

「なんとなれば、お言葉を返す無作法を致さねばなりませぬゥ」

「ふむ。わしは何か間違いを言うたかの」

「されば、ご無礼ながら申し上げまするゥ。非才なる我ら臣下が、まずは無難に御役目を果たせますのは、ひとえに太守殿のご威光が臣民あまねく行き渡り、誰もが敬服しきっているからに他ありませぬゥ。つまり小生など太守殿の徳を拝借しているにすぎませぬゥ」

「は。抜け抜けと言いおるわ」


 口ではそう言いながら、曹延の目尻はいよいよ下がって、眼球は肉の合間に没してしまった。

 太鼓持ちだった男が権力を握れば、太鼓持ちのような男を欲するものである。


「まあ、近う寄れ。かくなる上は、どうしてもその腹黒い本音を吐かせてみせようぞ。ほれ、一献」

「やや、ご無礼の段、平にご容赦くださいませェ」

「いいや許さぬ。むむ、強情な奴。これは命令じゃ」


 そんなやりとりがしばらく続いて、結局、陳俊は三杯ほど干した。


「いや、いや、小生、すっかり目が回りましてござりまするゥ」

「何を申すか。これしきの酒で酔うということがあるか」

「こ、この陳俊、嘘いつわりは申しませぬゥ。それが証拠に、恐れ多くも太守殿が幾人にも見えまするゥ。これ以上、徳を増やされては敦煌に収まりきらぬのではと―――」

「ふム―――敦煌に収まりきらぬ、か」


 細い目の奥が、ちらりと光った。


「陳俊よ。わしの徳は、敦煌の民に行き渡っておろうか」

「それはもう、間違いございませぬゥ」

「そうか」


 曹延は深く座り直して、視線を宙に泳がせた。


「儒の理にてらせば、商いは不浄の所業である。下賎の民が欲望のままに蓄財すれば、漢のように天下の乱れを招く。然るに交易は天命を受けた者が一手に行ない、下賎は与えられた身上で慎ましく治められるべし―――これを、民は理解していような」

「教えは民の胸に深く染み渡り、疑いを持つ者すらおりませぬゥ。ただ―――」

「ただ―――なんじゃ」

「先頃、迷い込んだ下賎の者どもが、この敦煌で白昼堂々、世を乱す行ないで往来を騒がしたとの由」

「そのことよ。捕えたと聞いておるが」

「一味が逃げておりまする」

「誰が尋問しておるか」

「趙将軍にござりまする」

「奴か」


 曹延の眉間に小さな皺が寄った。


「優れた武人ゆえ、たちどころに泥を吐かせて、一味もろとも召し捕えるものとは思いますが」

「確かに、武人としての技量は疑わん。功もある。が、奴めそれをいいことに、時折このわしに要らぬ諌言をしおる。儒の教えを体現したこのわしに、たかが武人ふぜいが、だ」


 陳俊は黙って平伏した。


「それにな、陳俊よ」

「は」

「わしは、武人としても、そちが上と思っておる」

「勿体ないお言葉を―――」


 陳俊は、顔を伏せたまま声を震わせてみせた。


「民から召し上げた不浄の財がある。不浄には不浄の使い途があるも理。数万でも数十万でも、望むがままに兵を与えてつかわずぞ。わしはな、陳俊」


 曹延は声を低く落とした。


「王莽どのに代わり、今上陛下(光武帝)が洛陽で即位されたというが―――他言は無用ぞ」

「御意」

「儒の理に照らせば少々、疑問に思うところがある。朕は―――いや」


 朕とはこの時代を溯ること二百年余り、史上初めて中国全土を統一した秦の始皇帝がはじめた一人称である。

 前人未踏にこだわり、また何でもかんでも独占したがった始皇帝は、人や土地だけでは飽き足らず、一人称まで自分専用にしたのだった。

 そもそも皇帝という呼称からして、この時につくったものである。


 天皇・地皇・人皇―――。


 すなわち神話時代における蛇身人首の神・伏羲と、人類を創造したとされる女神・女禍、そして農業と医療の守護神である神農を三皇といい、それに続く五人の人間の王を五帝という。

 いずれも先史時代の理想的な統治者とされ、あわせて三皇五帝と称される。

 古代の人々は、神、あるいは聖人が築いた究極のユートピアとして、彼らが治めたという神話の時代に、切なるあこがれを抱いたのだった。

 皇帝とは、この三皇と五帝をあわせた造語に他ならない。


 聖なるユートピアを築いた神と神話の王たちが束になった存在―――。


 そう自らを定義づけたわけだ。

 そう言い切って憚らない強烈な自負こそ、始皇帝を覇者たらしめた、巨大な個性なのかもしれない。

 やがて秦にかわった漢王朝は、あっさりこれを踏襲してしまった。

 仮に、秦に滅ぼされた諸国が再興したのであれば、おそらく皇帝という耳慣れない呼称などは廃して、かつてのように王を名乗っただろう。

 ところが、農民から天下人にまで成り上がった前漢の創始者・劉邦はいかにも大衆的な感覚で、


 ―――そんなに偉いのか。じゃあ、俺もそれでいこう。


 ゆえにそれ以来、


(朕といえば皇帝、皇帝といえば朕)


 かつての王莽もそうだが、人間の感覚は麻痺をしてゆく。

 あまつさえ、陳俊のような男が煽るだけ煽っているのだ。

 どれほど大胆なことを口走ったか自覚もないまま、曹延は立ち上がり、窓辺に寄った。

 窓は東に開いており、その遥か先に漢の本土がある。


「天下か―――」


 しばし沈黙のあと、やがて太守・曹延はそう呟いた。

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