第12話 拒絶と渇望
希望を失った莉莉亞は、その後、通勤や通学で活気づいてきた朝の街中を自分のアパートまでどこをどうやって戻ってきたか、覚えていなかった。
(バイト行かなきゃ……)
ぼんやりと思い出した。
見捨てられた少女は鏡に映った虚ろな自分の顔を見る。
泣き腫らした目、乱れた髪……酷い顔だったが整える気力もなかった。シャワーも浴びず、着替えもせず、ただ惰性のようにアルバイト先のコンビニへのろのろと歩いてゆく。
ところが、着くや否や莉莉亞は「こっちへ来い!」と店長から襟首を引っ掴まれ、事務室へ連れ込まれたのだった。
「お前のせいで店、滅茶苦茶だぞ! どうしてくれんだ、ええ?」
「……?」
見捨てられたショックも冷めやらぬ彼女に追い打ちが待っていた。
店長が言うには莉莉亞の発注ミスで商品の欠品が相次ぎ、商品の陳列等でも不備が幾つもあったことのだという。店にクレームが入り、本部からも厳しい注意が出されていた。
だが、どんな発注や品出しをしたのかと詰められても莉莉亞にはハッキリと思い出せなかった。
何より深刻なのはレジの金額が売上と全然合っていないことだった。
「まさか、くすねたんじゃないだろうな」
店長の言葉にさすがの莉莉亞も色をなした。
「そんなことするもんですか。防犯カメラを見て下さい! 疑うなら警察に来てもらえば!」
思わず声を荒げた莉莉亞に店長もたじろいだが、憎々しげに顔を歪め「開き直りやがって。お前クビな」と吐き捨てた。
手切れ金のようにアルバイト代の残りを投げつけられる。莉莉亞は黙ってそれを拾い、コンビニを後にした。
出る時こそ毅然として歩き出したが、バス停のベンチを見つけるや力が抜けたようにへたり込んだ。
(どうして……)
悲嘆に暮れる莉莉亞の耳に、聞き覚えのある曲がかすかに聞こえてきた。かつての後輩達のアイドルグループ「スプラッシュウェイブ・エンジェルズ」のプロモーション曲。どこかの店が有線で流しているのだろう。
明るく楽しげな曲調に耐えられず莉莉亞はよろよろと立ち上がり、追われるようにその場を離れた。
華やかな後輩達に比べ、どん底の自分があまりにも惨めすぎた。
(アルバイトならまた探せばいいじゃない。オーディションだって……)
そう考えようとしても、どうかすると涙が先走ってしまう。オーディションなんて幾つ応募しただろう。みんな落ちてしまった……
歩道を行き交う人々から不審そうな視線が幾つも向けられ、莉莉亞は逃げるようにビルの隙間に入り込んだ。
壁に手を突いた彼女の口から嗚咽が漏れる。
光差すあの場所で歌える日は、もう二度と来ないのだろうか……
(信じたくない)
(誰か……)
(誰か、力を貸して……)
スマホを取り出すと電話帳を広げる。
登録数は二〇もなかった。莉莉亞に心を許せる友人はもういない。芸能界いた友人や先輩、後輩、知り合いは「あの日」から皆、背中を向け、関わりを閉ざしてしまった……
試しに何人かに電話してみたが、いずれも着信拒否されていた。
莉莉亞は涙をこらえ、必死に自分に手を差し出してくれる人を探し続ける。
そして……
「もしもし、莉莉亞です……」
『莉莉亞? え、僕に莉莉亞から電話だなんて! え! ホントに莉莉亞?』
「ホントの莉莉亞だよ、アツシくん」
ようやく電話に出てくれたのは……もっとも莉莉亞を熱心に推してくれたファン、平瀬敦志だった。
『僕に電話くれるなんて感激! ……でも突然どうしたの?』
頼りなさげな少年の声だったが、莉莉亞はそのとき自分にはまだ縋れる存在が残っていることを知った。その途端、涙が再びどっとあふれ出した。
一方のアツシは莉莉亞の泣き声に慌てふためいて聞き返した。
『莉莉亞、どうしたの? 何があったの?』
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「あの……診療に伺いました。お、お取次ぎを……その……あ、僕さっき予約の電話を入れた付き添いの……」
「うん、平瀬くんだね。ようこそ」
挙動不審にも思われそうなほどオドオドした様子で受付に現れた少年を、薮内は気さくな笑顔で迎え入れた。
口下手なこの少年は世渡りも下手なのだろう。きっと人に騙されることはあっても人を騙したりすることなど出来ないような……そんな為人が窺えた。
「そんなかしこまらなくていいよ。御覧の通り、閑古鳥が巣を作って鳴いてる貧乏クリニックだからね。ははは」
笑ったらいけないような冗談を言われ、アツシは困ったようにモジモジした。傍らの莉莉亞は暗い顔でずっと俯き、震えている。
あれから……電話を受けたアツシは取るも取りあえず莉莉亞を迎えに行った。オロオロしながら泣きじゃくる彼女を宥め、近くのファミレスへ場所を移す。そこで今まで彼女にどんなことがあったのかを聞いたのだった。
だが、事情を知ったからといって無力な一介のアイドルオタに救済する術など持ち合わせているはずがない。
「アツシくん、突然ゴメンなさい……」
「とんでもない! 推しに頼られるなんて僕超嬉しいから気にしないで!」
頬を紅潮させて声を上ずらせる無力なファンに、それでも莉莉亞はぎこちない笑みを浮かべた。
頼られているアツシもファンサイトを潰され、その前は復帰署名を拒まれるなどの屈辱を受けている。彼もまた、傷ついていた。
それだけに、莉莉亞の気持ちが痛いくらい分かった。
もう一度歌手として歌いたいと必死な莉莉亞に、世間はどうしてこうも冷たいのだろう……アツシは悔しくてならなかった。
だが、目の前で泣きじゃくる推しを前に、今はそんな憤懣で憤ってなどいられない。
(何とかして莉莉亞を助けなきゃ……)
(といっても、どうすれば……)
どんなに考えても、手立てらしいものは見つからなかった。
だが、「莉莉亞の物忘れを何とか出来る人、どこかにいないかなぁ」とアツシがこぼした時、莉莉亞はようやく「そういえば」と心理カウンセラーの薮内を思い出したのだった。
「今の酷い物忘れさえケアしてもらえたら莉莉亞の実力でオーディションで認めてもらえるはずだよ!」
「そ、そうかな……でもそうだね。相談してみるわね」
アツシの言葉に、莉莉亞はようやく人心地がついたようだった。
心細いからとアツシに付き添ってもらい訪れた莉莉亞を見た薮内は、まずはソファに座ってくつろぐよう勧め、ココアを作って二人に振舞った。
「ありがとうございます……」
「どういたしまして。大変だったね」
「すみません……」
芸能界は生馬の目を抜くと例えられるほど厳しい世界である。そこから一度は弾き出された歌姫が後ろ盾もなく復帰しようというのだ。実現が並大抵のことではないと、薮内もうすうす見当はついていた。
だが、彼は知らぬ振りをしてアツシへ「僕も莉莉推しなんだよ。今度ファンクラブにも入りたいからよろしく」と笑いを取った。アツシが冗談と思わず「じゃあ今度、入会書持ってきますね!」と返したので莉莉亞も思わず弱々しく苦笑する。
ココアのカップが空になった頃合いを見計らって、薮内は静かに促した。
「じゃあ気持ちを楽にして、何があったか話してごらん」
恥ずかしくもあったが、話せばこの先進む為の道しるべがみつかるかも知れない。今まで話せずにいたことも打ち明けよう……
莉莉亞は膝の上で置いた手をぎゅっと握りしめると口を開いた。
「先生、あのね……」
そうして一度言葉にしてしまうと、それは潮流のようにほとばしり、容易に止められなかった。
話しているうちに何度も涙がこぼれ、そのたびにハンカチで目を拭った。薮内は何も言わない。だが、目が合えば「大丈夫だよ」というように小さく頷いて続きを促した。
莉莉亞は話した。
今までラ・クロワのメンバーとは疎遠になったと話していたが実は絶縁されてしまったこと。
何度プロダクションへ復帰のお願いをと訪れてもいつも門前払いされ、話すら出来なかったこと。
ラ・クロワが新しいメンバーの募集を始め、復帰の可能性がなくなったこと。
諦めて別のプロダクションから再デビューをと思ったが、どこにも拾われず、オーディションにも失敗したこと。そんな自分を応援してくれるファンも数えるほどになり、それどころか多くの心ない人々から酷い誹謗中傷を浴びたこと。
そして親友だったラ・クロワのメンバー、チクサに捨てられてしまったこと……
悲しみも悔しさも、怒りも妬みも、寂しさも、今まで心の中に澱んで溜まった感情を吐き出すように何もかも打ち明けた。傍らのアツシは聞きながら涙ぐんでいる。
薮内は莉莉亞の独白に一言も口を挟まず、最後まで聞いた。
(かわいそうになぁ……)
(この娘には少し荷のかちすぎる成り行きになってしまったかもしれん)
だが。
薮内は考え込むうちに、次第に自分の表情が厳しいものに変わってゆくのを感じた。
この少女がこのままアイドル復帰をどんなに頑張っても上手くゆくとは到底思えない。辛い巡り合わせに何度も打ちのめされ、落ち着いて考えることが出来なくなっている。溺れ、もがいている人間が何も考えられずにいるのと同じように。
そして、もっと深刻なことがあった。
莉莉亞の「物忘れ」である。
今までは「もしかしたら」「まさか」程度に考えていたが、話を聞いてそれは確信へ近いものになった。間違いなく認知症だろう。検査を受けさせ、本人にそれを受け入れさせなければ……
だが、この少女にそれをどう伝えればいいのだろう。打ちひしがれ、明日への希望を見失った歌姫に、更に惨い現実へと向き合わせることになるのだ。
それでも放っておく訳にはいかなかった。そうしなければ、この少女はもっと傷つくことになる。
「なぁ、莉莉亞ちゃん。気持ちは分かるけど、今そんなに焦らなくてもいいんじゃないかな」
いきなり核心に触れるのではなく、探りを入れるように薮内は話し始めた。
「まだ若いんだしさ、ちょっと休んでこの先のことを考えてもいいんじゃないかな」
「……」
「僕は運勢とかはあまり信じないが、人には何でも上手くゆく時期もあれば何をやっても上手くいかない時期があるもんだ。莉莉亞ちゃん、今きっとそんな時期なんじゃないか?」
薮内は出来るだけさりげない言い回しで、莉莉亞へ芸能界への復帰活動を一度休止し、静養を勧めるつもりだった。その流れで医療機関での検査や鑑別も受けるよう勧めれば、あるいは彼女も納得するのではないかと思ったのだ。
「……」
「ここは焦らない方がいいと思うよ。落ち着いて自分を見直してさ。そしたら歌手以外でも自分の可能性がきっと見えてきて……」
「いいえ」
弱々しく俯いていた莉莉亞は首を横に振った。それだけは譲れない、というように。
「私、歌うことしか出来ない。歌う以外に生きる道なんかない……」
「そう頑なに考えない方がいいよ。ずっと歌い続けてきたんだから。ただ、もっと視野を広げて自分の可能性を……」
薮内は穏やかな口調で続けたが、莉莉亞は聞きたくないものを聞かされたようにキッとなって睨んだ。
「他の可能性なんか要らない。そんなの探したくもない。そんな余裕なんてないもの」
薮内には初めて聞く、棘のある言葉だった。
「なんでそんなに必死なの? 時間がない訳じゃ……」
「ないわ! 私にはもう時間がないの!」
時間がない、という己の言葉で触発されたように莉莉亞は立ち上がった。宥めようと「落ち着いて……」と言いかける薮内へ押し被せるように言い立てる。
「私がラ・クロワを追い出されて、もう一年経ってしまった。このまま時が経てば経つほど皆から忘れ去られてゆく。TVやネットから私の歌も名前もどんどん消えていってる。このまま流され、忘れ去られたくない! 絶対イヤ!」
まるで別の誰かが乗り移ったように莉莉亞は豹変していた。アツシはといえば半ば腰を浮かせている。
だが薮内は引かなかった。その気持ちに迎合してしまったら彼女の為にならない。
「焦ったところで何にもならないよ。落ち着いて考える時間こそ今は必要だと思……」
「必要ない、そんなもの!」
莉莉亞は反撥するたび、激昂していった。
「後輩や知り合いが次々とデビューしてゆく。光差す世界に羽ばたいてゆく。なのに私だけが……私だけがあそこへ飛び立てない。どうして? どうしてよ!」
「莉莉亞ちゃん、落ち着いて」
「このまま消えたくない! 一分だって一秒だって、もう待ってられないの!」
薮内は唇を噛んだ。
ガラスのくつを再び履きたい……その必死な気持ちは痛いほど分かる。
だが、このままではきっと取り返しのつかないことになるだろう。
「待たないのは勝手だ。だけど君は一度、病院へ行った方がいい」
「なんで? 私が狂ってるとでもいうの!」
莉莉亞の顔が怒りに歪んだ。薮内は違うよと首を横に振る。
「君の物忘れは誰にでもよくある物忘れじゃない。認知症の疑いがある」
「……は?」
老人じゃあるまいし……と莉莉亞は思わず失笑した。
「何言ってるのよ。藪から棒に……」
だが薮内の真剣表情は変わらない。
まさかという思いに莉莉亞の笑いが強張る。
「歌手にとって歌詞を忘れるなんてラ・クロワのデビュー当時はなかっただろ? 認知症は、不安や鬱といった心理症状を伴うことが多いんだ。ストレスや不安が酷くて莉莉亞ちゃんみたいに、若い人でも発症するのがおかしくない時代なんだよ」
「違う……私は違うわ!」
「うん。僕が君だったとしたらやっぱり認めたくないだろう。でも、もし本当に認知症なら考える力、気力、判断力が次第に衰えてゆく。日常の生活にも支障をきたすようになるんだ」
「嘘! 私、ストレスや鬱で物忘れが酷いだけだもん! 絶対に違う!」
「でも君は大事なオーディションで歌詞を忘れてしまった。アルバイトも発注ミスでクビになってしまった」
「そ、それは……」
「でもそれはキミが悪いんじゃない」
「……」
「かなり深刻な状態だから専門の病院で検査を受けた方がいい。もし何でもなかったら診療費を僕が弁償してあげる。だから……」
莉莉亞は信じたくなかった。
かつての仲間や後輩は今スポットライトを浴び、華やかに歌っているのに……
(なんで……)
(なんで私ばかりがこんな……)
「まず、病院で検査を受けよう。それから……」
「黙れ! 黙れ黙れ!」
鬼のように醜く顔を歪め、莉莉亞は絶叫した。
「嘘つき、ヤブ医者! 騙されるもんですか!」
「莉莉亞ちゃん。興奮しないで聞いてくれ。僕は……」
「黙れって言ってるでしょ! 私、諦めないから!」
「……」
「私、絶対に歌手に戻るんだから! 絶対に!」
莉莉亞は、わっと泣きながらそのまま部屋を飛び出した。
止める間もなかった。
「莉莉亞ちゃん!」
一部始終をただオロオロ見ていたアツシは、慌てて莉莉亞を追っていった。
「……なんてこった」
硬直したようにその場に立ち尽くしていた薮内は、しばらくしてようやく我に返った。
「参ったな……最悪の成り行きになってしまった」
落胆した彼は深いため息をつき、イスにへたり込む。
どうしようもなかった。彼女が落ち着いたとき、自分の言ったことを冷静に思い返してくれるのを願うしか……
** ** ** ** ** **
走り疲れた莉莉亞は、泣きながら歩道をよろめくように歩いていた。
周囲からは何事かと奇異の目が向けられる。おかし気に眺めてくる者もいたが、そんなものなど、もうどうでもよかった。
彼女から少し離れた後を、宥めることも慰めることも出来ないアツシがオロオロと付いてゆく。
彼も泣き出さんばかりだった。
ふと、莉莉亞の耳に、街のざわめきに紛れて「スプラッシュウェイブ・エンジェルズ」のプロモーション曲が聴こえてきた。
「……」
まるで神の啓示でも受けたように、莉莉亞はその場にぼう然となって立ち尽くした。
(私も……)
(私も歌いたい。あの娘たちのように……!)
狂いそうな渇望だけが心を突き動かし、莉莉亞はフラフラと歩き出した。宛てもないまま。
袖で涙を拭く。後から後から溢れるそれはいくら拭っても止まらなかった。
「莉莉亞ちゃん……」
背後から恐る恐る声を掛けられた莉莉亞は振り返り、「ついてくるな!」と叫んだ。
怯えて立ちすくむアツシを置き捨てて、莉莉亞は雑踏の中へ紛れていった。
「もう一度歌うんだ」
「光を浴びてあのステージの上で……」
自分へ言い聞かせるように、つぶやきながら……




