2.Disclose
S.P.Zセクター1の強化ガラス越しに、血のように赤黒く染まった黄昏の光が差し込み、主席室を妖気の漂う明暗の狭間へと染め上げていた。数百平方メートルに及ぶ広大な室内の床には、磨き抜かれた黒曜石が敷き詰められ、外の暮れなずむ空を鏡のように映し出している。ここからの眺望は、点灯し始めた貴族たちの浮遊島が、天空に浮かぶ宝石のごとく輝く様を一望に収めていた。
ワゼメロン主席――白髪交じりの髪に、権力の重圧と疲弊が深く刻まれたその顔貌の壮年男性は、重厚な金属製の一枚板で作られたデスクの後ろで、身じろぎもせず座していた。その対面、不遜極まりない態度でデスクの端に自然体に腰掛けているのは、ゲンソン・ジェスダであった。
ゴールド・スクールの能力適性検査にて、前人未到の満点を叩き出したばかりの17歳の少年は、細長い指先で水晶製のデータカードを弄んでいた。彼の放つ圧倒的なオーラは室内の空気を完全に支配し、S.P.Zの広大な管区を統べる最高権力者たる主席にさえ、警戒の念を抱かせるに十分であった。
「選考枠の削減だと?」ワゼメロンは眉をひそめ、組織のトップたる重々しさを湛えた低い声を絞り出した。「自分が何を提案しているのか分かっているのか、ゲンソン? S.P.Zの世界規模の選考試験は、単なる戦士の選抜ではない。大貴族家と連合政府との間の政治的均衡そのものなのだ。諸家は火星からの資源調達に何十億クレジットもの資金を投じている。その見返りとして、彼らの子女に組織内の席が約束されているのだ」
ゲンソンは、ふっと薄笑いを浮かべた。その笑みには、男子高校生らしい温かみなど微塵もなく、まるでパン屑を奪い合う蟻の群れを見下ろす高次元の存在のごとく、冷酷で傲慢なものであった。彼はデータカードの回転を止め、その底知れぬ瞳でワゼメロンを真っ向から射抜いた。
「あんたたちの言う、その腐敗しきった『政治的均衡』のせいで、S.P.Zのミュータント(異能者)の質は、鎧を着た案山子の群れへと成り下がっているんだ。先週、南部に出現したレベル3の怪獣に対し、あんたたちは貴族出身のミュータントを2小隊も投入してようやく片付けた。その上、インフラの損害率は40%にものぼる。S.P.Zに必要なのは、怪獣の脳天を一刀両断にできる研ぎ澄まされた『刃』であって、英雄の肩書を飾るだけの箱入り息子の群れじゃない。選考枠を60%削減しろ。重圧に耐えられない者は淘汰し、血筋を笠に着て裏口から入ろうとする者は排除しろ」
ワゼメロンは激昂してデスクを叩き、文字通り跳ね起きた。その顔は怒りで赤く染まっていた。
「貴様はこれから入隊を控えた一介の学生に過ぎん! どの口が私に命令を下しているのだ!」
ゲンソンは微塵も怯まなかった。彼はゆっくりと上体を起こし、主席へと歩み寄る。その足音は一切の音を立てなかったが、室内の精神的圧迫感は突如として跳ね上がり、ワゼメロンは胸を千金の重石で圧し潰されたかのような、息苦しさに襲われた。ゲンソンは手を伸ばし、月面最高評議会の「最高機密印」が押された一通の勅令をデスクに置いた。
「これより、私はS.P.Zセクター1の副主席として、来る選考試験の全権を直接監督、指揮する」
ゲンソンはワゼメロンの耳元に顔を寄せ、微風のように囁いた。しかし、その一言一言は、男の脳髄に突き刺さる短刀のようであった。
「勘違いしないでほしいな、ワゼメロン主席。僕はあんたと議論しているんじゃない。これは通告だ」
ワゼメロンは勅令に捺された鮮紅色の刻印を見つめ、両肩をがっくりと落とした。この少年が握る絶対的な権力を前に、彼は完全に打ちのめされた。だが、彼の恐怖はこれだけに留まらなかった。
ゲンソンは僅かに首を傾げた。二人の距離は、少年の体から漂う清涼なミントの香りが識別できるほどに近かった。少年はどす黒い笑みを浮かべ、密やかに囁いた。
「噂によると……あんたの愛娘、16歳のサニーも今回の選考試験に参加するらしいじゃないか? 彼女はアイスプラン族(氷天族)の出身で、『氷結』の能力を持っているとか……実に優秀な少女だ。学園での成績は、時に僕の背中に肉薄するほどだったな。肉感的な肢体を持ちながらも、男を庇護欲と征服欲へと駆り立てる冷徹な美貌を備えている」
「お前……サニーに何をする気だ!」ワゼメロンは震え、その瞳には父親としての明らかな恐怖が宿っていた。
「何もしないさ、あんたが僕に絶対服従である限りはね」ゲンソンはワゼメロンの肩を軽く叩いた。その長い睫毛の奥で、瞳が残酷な真紅の光を放つ。
「だが、もし今回の試験に貴族連中からの介入が少しでもあれば……お嬢さんが試験終了までその純潔を保っていられるか、僕には保証できない。僕のものにして、この訓練施設の中で僕の子供を身籠らせる。意味は分かるよね、敬愛なる主席殿?」
ワゼメロンは、怒りと無力感のあまり歯の根を鳴らし、石像のように立ち尽くすしかなかった。ゲンソンは高笑いを残し、主席室を後にした。その傲岸不遜な足取りに合わせて、ゴールド・スクールの制服のコートが大きく翻る。
サニー――ゲンソンはその少女をよく知っていた。幼馴染であり、アイスプラン族の誇り高き令嬢である彼女は、いつも彼を、憧憬と独占欲の入り混じった眼差しで見つめていた。サニーは狂ったように鍛錬を重ね、昼夜を問わず自身の氷結能力を燃やし尽くしてきた。それはひとえに、彼の成績に肉薄し、天才ゲンソン・ジェスダに見合う唯一の存在であることを世界に証明するためだった。彼女はまだ知らない。自分が人知れず想いを寄せるその男が、実の父親をも、そしてこの世界の命運をも掌の上で転がす、真の「悪魔」であることを。
地底に佇むオートン一族の屋敷、その奥深くに広がる鬱蒼とした原生林には, すでに完全な夜の帳が下りていた。木々の間から聞こえる虫の音に混じって、一人の少女の荒い息遣いが響き渡る。
広場の中心に立つウェンディ・オートンは、肌に張り付いた黒いタンクトップとトレーニング用のショートパンツを、滴る汗でぐっしょりと濡らしていた。17歳になる今日まで、一筋の火花も一陣の風さえも操ることができず、周囲から「無能」と蔑まれながらも、彼女が諦めることは決してなかった。狂気すら感じさせる過酷な肉体鍛錬を日々自らに課し、人間の限界という壁を幾度も打ち破ってきたのだ。
その血の滲むような努力の結晶は、彼女の肉体を完全に造り変えていた。7年前のあの痩せ細り、脆かった少女の面影はどこにもない。現在のウェンディは、引き締まった美しい筋肉が浮き出る、至高の機能美を体現した肢体を誇っていた。高強度のトレーニングによって培われたその肉体は、息を呑むほどに官能的であった。汗を吸って透けた薄いシャツの奥で豊満に盛り上がる双丘、そこから引き締まった蟻の腰へと繋がり、さらに上向きに弧を描く肉感的な臀部へと至るラインは、生命力に満ちあふれた艶めかしいS字の曲線を形作っている。今日の午後には、異能を一切排した純粋な「体術」のみの果し合いで、天才と謳われる兄のレイカイを叩き伏せ、完全に脱帽させたばかりだった。
ウェンディは古木の幹に仮留めされた大きな鏡へと歩み寄った。汗ばんだ髪をかき上げ、鏡に映る瑞々しい自身の肢体を見つめる。その脳裏に、ある馴染み深い少年の影がよぎった瞬間、彼女の頬はふっと朱に染まった。
(この身体……ゲンソンは、気に入ってくれるかな……)
ウェンディは胸を高鳴らせ、指先でその細い腰をそっとなぞった。
「そんな体術の訓練だけでは、S.P.Zの門を叩くことすら叶わないぞ、ウェンディ」
聞き覚えのある、磁力を帯びた低い声が唐突に背後から響いた。武闘家としての反射神経が作動し、ウェンディは跳ね起きるように反転。音のした方向へ向かって、空気を切り裂く猛烈な回し蹴りを放った。
――ヒュッ!
風圧を孕んだ一撃は、しかし、あっけなく静止した。彼女の足首が、ゲンソンの掌の中にすっぽりと収まっていたからだ。彼はいつの間に入り込んでいたのか、制服姿のまま、至極平然とした眼差しで彼女を見つめていた。
「あんた……ゲンソン!? 一体いつからそこに……っ!」
ウェンディは顔を真っ赤にし、慌てて足を引くと、汗で張り付いた衣類から露出する肉体を隠そうと狼狽えた。
ゲンソンはその問いには答えず、彼女の足を解放すると、手を後ろに組んでウェンディの周囲をゆっくりと歩き始めた。その視線は、まるで無価値な石ころの中から至高の骨董品を見定めようとする考古学者のように、彼女の肉体の曲線を一寸の狂いもなく舐めるように走る。
「お前は無能などではない、ウェンディ」ゲンソンが不意に告げた言葉は、少女の鼓膜を激しく震わせた。「17年間、お前が覚醒しなかった理由――それは、その体内にあまりにも巨大で、かつ完全に相反する二つのエネルギーが内包され、激しく衝突し合っていたからだ。この世界の旧態依然とした測定システムでは、それを感知することすらできなかったに過ぎない」
「二つの……異能、だって?」ウェンディは驚愕に目を見開いた。
「そうだ。一つは、高位の怪獣さえも一瞬で塵へと化す『重力操作』。そしてもう一つは、この世界で二番目の威力を誇り、物質の魂までをも焼き尽くす青き炎『火藍』だ。その二つの力が血管の中で絶えずせめぎ合い、回路を阻害していた。制御できなくて当然さ」
ゲンソンが手をかざすと、この科学技術の時代には存在し得ない、古びた羊皮紙の分厚い束が忽然と現れた。彼はそれをウェンディの手に握らせた。
「これは、僕自身が……見つけ出した、エネルギーの調和と研究のメソッドだ。深く読み込んでおけ。分からないところがあれば、いつでも僕のところへ来るといい」
ウェンディはその資料を愛おしそうに胸に抱きしめた。衝撃と歓喜のあまり、心臓が早鐘を打つ。彼女が感謝の言葉を口にするよりも早く、ゲンソンが一歩踏み出した。彼の大きな手が不意に彼女の細い腰へと回り、汗ばんだウェンディの身体を、自らの胸へと力強く引き寄せた。ウェンディの思考が停止する。首筋に、彼の熱い吐息が吹き付けられた。
同時に、ゲンソンのもう片方の手が下降し、彼女の弾力ある豊かな臀部を――パンッ!――と、凄まじい音を立てて叩いた。
静まり返った森に響き渡るその衝撃音に、ウェンディの顔は一瞬で熟したトマトのように赤く染まる。彼は唇を彼女の耳元に寄せ、情欲を孕んだ、低く嗄れた声で囁いた。
「それから、さっきの疑問に答えておこう……あぁ、僕は本当に大好きだよ。お前のその、淫靡で素晴らしい肉体の曲線がね、ウェンディ」
言葉が終わるや否や、淡い黄金色の光が瞬き、ゲンソンは「空間転移」によってその場から完全に消失した。後に残されたのは、夜の闇の中で一人立ち尽くし、両手で顔を覆いながら、恥じらいと甘美な幸福感に心臓を破裂させそうにしているウェンディだけであった。
しかし、その甘美なひとときは長くは続かなかった。
ゲンソンが立ち去ってわずか数秒後、ウェンディの周囲の空気は目眩を覚えるほどの速度で急降下した。温度の激変に伴い、彼女の腕に浮かぶ汗の滴が、みるみるうちに小さな氷の結晶へと姿を変えていく。
――ヒュオオオオオオオッ!
上空から、鼓膜を狂わせる凄まじい風切り音が響き渡った。北極の猛吹雪をも彷彿とさせる、狂暴極まりない極寒の烈風が突如として原生林を蹂躙する。白銀の竜巻と化した暴風は狂ったように吹き荒れ、数百平方メートルに及ぶ古木の森を一瞬にして薙ぎ倒した。巨木たちは永久凍土のごとく凍てつき、風圧に耐えかねて硝子の破片のように粉々に砕け散る。
ウェンディは顔を覆い、暴風に抗うように数歩後退した。吹雪の霧が次第に晴れていく中、冷徹な青き冷気を纏いながら、虚空に揺らめく一人の影が彼女の視界に飛び込んできた。
――サニー・ワゼメロン。
アイスプラン族の令嬢は地上へと舞い降り、高級ブランドの革靴で凍てついた草地をカツカツと踏み鳴らした。氷の如きペールブルーの髪をなびかせる彼女の美貌は、今や激しい怒りと狂気じみた嫉妬によって歪んでいた。二人は中学時代の同級生であったが、ウェンディが「無能」の烙印を押されて孤立して以来、相まみえることは久しくなかった。
「ウェンディ・オートン」サニーは氷の亀裂から絞り出すような声で 歯噛みした。彼女は確実な足取りでウェンディへと肉薄し、その距離は肌を刺すほどの殺気が伝わるほどだった。「貴様……なぜその資料の束を持っている? 言え! ゲンソンとどんな関係だ!?」
サニーの突如たる襲撃に驚愕しつつも、オートン一族としての矜持、そして長年の迫害に耐え抜いた不屈の精神が、ウェンディに退くことを許さなかった。彼女はゲンソンから授かった資料を愛おしそうに抱きしめ、サニーの瞳を真っ向から見据えた。
「彼を知っているわ。それが何か?」
「知っているだと!?」サニーは狂気に満ちた薄笑いを漏らし、その瞳には血の気が走った。彼女はウェンディの耳元に顔を寄せ、声を鋭く尖らせる。「あの人から離れろ。ゲンソンは私のものだ。S.P.Zの頂点で、私の傍らに立つ資格を持つ唯一の男だ。貴様のような無能の出来損ない、貴族の面汚しが、あの人に懸想するなど片腹痛い! 離れろ、さもなくば中学時代のように生ぬるい真似はしない。次こそは殺してやる!」
ウェンディは眉をひそめ、胸の内に怒りの焔を燃え上がらせた。彼女はサニーを突き放し、嘲笑を交えて問い返した。
「あんたはゲンソンの何なのよ? 誰の傍にいて、誰を訪ねるか、それは彼の自由でしょう。一体何の資格があって命令しているの?」
「貴様……この泥棒猫が!」
怒りで理性を吹き飛ばされたサニーは、金切り声を上げた。極寒の気を纏った彼女の手が電光石火の速さで突き出され、ウェンディの首を寸分の狂いもなく捕らえた。そして『風寒』の異能を以て、ウェンディの肉体を引き上げ、虚空へと吊り上げた。サニーの手から放たれる凍気は瞬く間に伝播し、ウェンディの喉頭を凍結させようと蝕んでいく。
しかし、現在のウェンディはかつての弱卒ではない。地獄のような特訓の日々によって培われた超人的な肉体能力が、ここにきて爆発した。首を絞められながらも、その瞳には強固な意志の光が宿る。ウェンディは両脚を引き付け、大腿部に全筋肉の爆発力を集中させると、サニーの胸元へ向けて痛烈な二段蹴り(ドロップキック)を叩き込んだ。
――ドゴォッ!
純粋な肉体の質量兵器とも言えるその威力は、サニーの想像を絶していた。ワゼメロン家の令嬢は十数メートルも後方へと吹き飛ばされ、凍りついた大地に靴底で深い溝を刻みながら、辛うじて踏みとどまった。サニーは激しく咳き込み、胸を押さえながら、信じがたいという眼差しで着地したウェンディを凝視した。ウェンディもまた、荒い息を吐きながら己の喉をさすっていた。
「無能の分際で、大した体術の進歩じゃないか……」サニーは立ち上がり、その笑みは一段と歪み、残酷さを増していった。「だがな、この異能絶対の世界において、能力を持たぬ虫ケラなど、どこまで行こうと所詮はゴミ屑に過ぎないのだよ!」
サニーが両腕を広げると、風寒の能力が限界突破まで膨れ上がった。魂の慟哭にも似た咆哮を上げて、巨大な氷嵐の竜巻が具現化する。猛烈な渦は周囲の巨木を何十本も根こそぎ巻き上げ、上空で旋回させた。サニーは強大な精神力でそれらをへし折り、削り、何百本もの鋭利な木製の矢へと変貌させた。その先端には、剃刀のように鋭い氷の刃がコーティングされている。
「死ね、有象無象が!」
サニーが腕を振り下ろすと、夜空を埋め尽くすほどの氷木の巨矢が一斉に放たれ、光速に近い速度でウェンディを目がけて降り注いだ。
ウェンディは奥歯を噛み締め、極限まで研ぎ澄まされた反射神経と変幻自在の歩法を駆使して、死の隙間を縫うように回避行動をとった。そのしなやかな肉体は、闇夜を駆ける黒豹のごとく躍動する。
――グサッ!
しかし、矢の数はあまりにも多く、攻撃範囲は広大無辺であった。死角から飛来した氷の破片が、ウェンディの右のふくらはぎを深く貫いた。鮮血がほとばしるが、瞬時に冷気によって凍結させられる。骨の髄まで達する激痛に耐えかね、ウェンディは膝から崩れ落ち、自由を奪われた。その手から離れた資料の束は、暴風に煽られて夜空へと四散していく。
サニーは天空から静かに舞い降り、無力化したウェンディの前に立った。その手には絶対零度の氷球が凝縮され、ウェンディの脳門へと向けられる。
「さらばだ、目障りなイレギュラー(不確定要素)」
サニーの氷球が放たれ、ウェンディの脳髄を永久に氷結させようとしたその刹那、森の境界から火炎を纏った獅子の咆哮が如き怒号が響き渡った。
「サニー! やめろぉっ!」
――ドガァァァン!!!
燃え盛る紅蓮の炎が、猛り狂う火竜の如く突進してきた。夜の帳を焼き尽くすその熱量は、サニーの氷球と正面から衝突し、凄まじい水蒸気爆発を引き起こした。真っ白な霧が戦場を一瞬にして包み込み、視界を完全に遮断する。
霧の奥から姿を現したのは、レイカイであった。全身に火属性の焔を纏った彼は、サニーと言葉を交わすこともなく、即座に負傷したウェンディを背負った。後方へ向けて巨大な炎の壁を展開し、追撃を退けると、高位異能者たる最高速度を発揮して、妹を背負ったまま闇夜の彼方へと逃走した。
立ち込める霧と炎の障壁に阻まれたサニーは、怒りのあまり狂わんばかりであった。「風歩」を展開し、虚空へと飛び上がってオートン兄妹を根絶やしにしようとしたその時、見慣れた、しかし抗いがたい絶対的な質量を持つ手が、彼女の肩へと静かに置かれた。その重圧に抗えず、彼女は再び大地へと引き戻される。
サニーは激昂して背後へ氷の掌撃を放とうとしたが、その人物の顔貌を視界に捉えた瞬間、全身の動きが凍りついた。
そこに立っていたのは、ゲンソン・ジェスダであった。その瞳は冷徹そのもので、一片の感情も交えずに彼女を見つめていた。
「そこまでだ、サニー。これ以上見苦しい真似はよせ」ゲンソンの声は平坦で、微かな揺らぎもなかった。
心から慕う男の出現、そして彼が他ならぬあの無能の女を庇うような発言をしたことで、貴族の令嬢としてのプライドと、長年蓄積された嫉妬、そして怨嗟が一気に決壊した。サニーは理性の制御を失い、一歩踏み出すと、右腕を高く振り上げ――
――パァァァンッ!!!
破壊し尽くされた森の静寂を切り裂いて、乾いた打撃音が響き渡った。
サニーの手掌が、ゲンソンの左の頬を正確に捉えていた。その一撃の凄まじさに、稀代の天才の完璧な横顔が僅かに横へと流れる。サニーは激しく肩で息をしながら、その美しい顔に無念の涙を大粒の雫として滴らせた。彼女は彼を指差し、嗚咽の混じった声で叫んだ。
「ゲンソン! あんたって人は最低の薄情者よ! 私は、あんたの隣に立つためだけに、毎日、毎時間、血の滲むような努力をしてきたのよ!? それなのに、私の裏で、あんな無能のゴミ屑を想い、抱き寄せ合っていたなんて……っ! S.P.Z主席の娘を愚弄した報いは受けてもらうわ! 大嫌いよ!」
言い放つや否や、サニーは背を向け、顔を覆って号泣しながら風歩を展開。夜空の彼方へと飛び去り、冷酷な青い尾を引きながら雲海の向こうへと消え去った。
荒廃した森に、一人取り残されたゲンソン。彼はゆっくりと右手を上げ、細長い指先で、今しがた平手打ちを食らった頬に触れた。そこにはまだ、仄かな熱量と小さな赤みが残っている。
数百万の銀河を統べ、神々の王たる絶対的存在であり、ほんの一時間前には「主席の娘を我が物とし、身籠らせる」と脅迫していたはずの最高位の超越者が……今やその場に呆然と立ち尽くし、サニーという少女の思考ロジックと台詞の意味を、何一つとして理解できずにいた。
彼はただ、「特異点」であるウェンディに資料を届けに来ただけに過ぎない。しかしサニーの脳内では、彼が不倫(浮気)を働き、二股をかけていることになっていた。この致命的なまでの認識の齟齬に、至高の神は人生で初めて……「人間の女性の心理」という不可解な概念を前に、完全に言葉を失っていた。
そこから数キロメートル離れた安全な岩窟の中。レイカイは包帯と消毒液を使い、ウェンディの脚の傷を丁寧に処置していた。彼は包帯をきつく締め上げながら、深く溜息を吐いた。その声には咎めるような、しかし深い慈愛と心配が満ちていた。
「正気か、ウェンディ? なぜサニー・ワゼメロンなどと悶着を起こした。彼女はS.P.Z主席の令嬢であり、アイスプラン族の申し子だぞ。俺の到着が数秒遅れていたら、お前の脳髄は永遠に凍結されていたところだ!」
ウェンディは岩壁に背を預け、失血と激痛のために顔色を青白くさせていたが、その瞳の光だけは失われていなかった。彼女は腕の中に残された資料へと視線を落とした。先ほどの激闘と逃走の最中、ゲンソンから受け取った分厚い羊皮紙の束は暴風に半分以上吹き飛ばされ、今や数枚の無残な断片が残るのみとなっていた。彼女は兄の言葉に答えることなく沈黙し、ゲンソンからの貴重な贈り物を失ってしまったという事実に、胸を締め付けられるような痛みを覚えていた。
時を同じくして、戦闘の爪痕が深く残る荒廃した森の中。
ゲンソンは倒壊した木々の間を静かに歩んでいた。彼は腰を落とし、サニーの暴風によって凍てついた大地に撒き散らされた古の羊皮紙の破片を、一枚一枚拾い集めていた。破れた紙片を丁寧に束ね直し、月光に照らされる古代文字を見つめる。
闇の眷属たる悪役の深淵なる瞳が、夜の帳の中で、一瞬だけ妖しく、そして燃えるような真紅の光を放った。彼はそっと舌先で唇を湿らせ、その口元に、冷酷でありながらも狂おしいほどの興奮を孕んだ笑みを浮かべた――。




