2.侮辱
その夜。
下宿の小さな一室は闇に沈み、窓硝子を透して往来の街灯だけが淡く差し込んでいた。
ゲンソン・ジェシュダは寝台に仰臥し、両手を後頭に組んで目を開けたまま――眠れなかった。
夕刻に繰り返された二十秒の信号が、未完のコードのように脳裡で反復している。
「ただの悪戯だ。」
と、彼は自分に言い聞かせる。
「だが、どうして──呼ばれているような気がするんだ?」
室内の空気が、わずかに震えた。非常に僅かな震動。
常人ならばそれを幻覚と片づけただろう。ゲンソンはすっと起き上がる。
「周波数の揺らぎか?」
手のひら大の球体が、まるで物質という概念を無視するかのように壁を貫いて現れた。
その球は彼の前で浮遊する。光を放ち、紫と黒の縞を帯びている。心臓が一拍早まった。
「装置か?」
「ドローンか?」
「それとも……地球外のものか?」
球体が開き、まるで眼の如く膨らんだ。光の奔流が室内を呑み込み、空間が裂け、円状の門が開いた。
「ちょっと──」
反応する間もなく、彼の身体は吸い込まれた。冷たい。物理的な寒さではない。魂を刻むような、冷え。
ゲンソンは瞼を開けた。辺りは紫と黒のみ。濃密な靄が毒のように立ち込め、足下の地面はざらついて音を立てる。彼が身を屈めると、頭蓋があった。無数の頭蓋が、石畳の道を成すように並んでいる。
立ち上がると、彼の声は奇妙なほど冷静だった。
「なら、夢ではないな。」
眼前には廃墟の古城が横たわる。錆びついた高い城門には、朽ちた札が三文字で刻まれていた──幽冥界。
枢がきしみ、門は開いた。内部には歪んだ姿の群れが列をなしていた。身体は捩れ、眼は飛び出し、口は耳まで裂けるほど大きい。彼らは一斉に頭を垂れる。
「汝を地獄へ迎える。」
「ここに来られたことを光栄に思え。」
ゲンソンは首を傾げる。
「光栄?」と、好奇に近い声で問う。
「お前達がそう言うということは——俺は死んでいるのか?」
一体が進み出る。
「そうだ。汝は死んだ。」
「我らと共に冥府へ行け。閻魔に会うがよい。」
数秒の沈黙の後、彼は微かに笑った。
「死んで何の感覚もないのか?」
「地獄の設計、ちょっと雑だな。」
彼らは答えず、ただ背を向ける。ゲンソンは恐れず、従った。観察するだけで、身は硬くならなかった。
薄暗い大庁──そこは地獄の中枢のようで、左右には人間に近いが白眼のない存在たちが控えている。ゲンソンは膝を強制的に折られ、抗うことはしなかった。
「見せてみよ。」
高座の上に、髭を撫でる影があった。指が弾かれると、松明の火が紫に揺らめき、光が落ちる。ゲンソンの視界がはっきりする。そこにいたのは年老いたが逞しい体躯の老人、曲がった山羊の角を持ち、瞳はただ黒一色。その顔に見覚えがあるような奇妙な既視感が湧くが、記憶は閉ざされている。
「我が誰であるか、分かるか?」と老は問うた。
ゲンソンは首をかしげ、言葉を返す。
「お前は何者だ、クソじじい?」
空気が凍りつく。周囲の者どもが吠えるような声を上げるが、老はただ溜息をついた。壇を下りると、彼の額に三度、軽く打ち付けるようにコップを当てるような仕草をした。三つの音──コク、コク、コク。
「思い出したか?」
「まだだ。」
老は息を吐いた。
「よかろう。ならば言おう。」
「我は神の王、名はバラーディスト。」
「汝の種族の復讐を助けに来た。」
ゲンソンの瞳が瞬く。
「種族?」
バラーディストは微笑む。
「汝は地球の者ではない。」
「汝は戦闘の神たる種族、プリモルディス・アルティオリスの一族だ。」
「かつて宇宙で最強、同時に最も残虐であった種族だ。」
空間が震え、小さな断片の記憶がゲンソンの頭中に閃く。光、爆裂、そして最後の言葉。バラーディストは続けた。
「その残虐ゆえに、我らは滅ぼされた。だが、汝は異なる。汝は自然に生まれ、慈悲を宿し、寛容の心を持つ。故に我は汝を選んだ。」
ゲンソンは彼の瞳を直視した。
「正義とは何だ?」と問う。
「お前の言い方では、正義はただのスローガンのように聞こえる。」
バラーディストは突然彼の頭髪を掴み、額を引き寄せて低く囁いた。声は鉛のように重い。
「正義とは、強者が己の残虐を覆い隠すために用いる概念だ。正義は強者にのみ存在する。汝が弱ければ道徳を語り、汝が強ければ法を定めるのだ。」
ゲンソンは身を引かなかった。
「で、貴様は俺より強いのか?」と静かに問えば、バラーディストは含み笑いを洩らした。
「現状では、ああ。だがもし汝が青く輝く惑星で低俗な存在どもとぐずぐずしているなら──汝は彼らと同じく永劫に弱いままだ。『低俗な存在』とは何かってか?彼らは自らを人間と称する。知性で獣より上だが、本性はどうだ?欲深く、嫉み、羨み、利のために互いを殺す。」
ゲンソンは黙り、養父母の記憶が胸をよぎる。
「違う、全てがそうではない。」とつぶやく。
バラーディストは唇を引く。
「汝は己を欺いている。」
「では、もし俺が同意したら?」ゲンソンが問う。
「一体何が起こる?」
バラーディストは高笑いした。
「汝は共に我と宇宙を征服する。汝は最強となり、正義を定める者となるのだ。」
一瞬の沈黙。ゲンソンはゆるく笑った。
「じゃあ、決まりだ。」と彼は言い、瞳で老を貫くように見据えた。
「老いぼれ畜生。」
衝撃が走る。ゲンソンは目を開けた。幽冥界は消え、目の前には巨木の森が広がっていた。千尺を越す古木が天を衝く。空気は希薄で、鋭く冷たい。振り向くと、バラーディストがそこに立っていた。
「汝はまだ死んではいない。正確には、死ねぬ存在だ。汝は不滅の実体、潜在は無限であり、汝の力はアッカ—マン級数の如く増大する。」
ゲンソンは眉をひそめる。
「その級数は現代数学には存在しないが。」と反駁する。
バラーディストは両手を広げ、説明する。
「ここは地球の別宇宙、BOIWII-880という世界だ。より大きな惑星で、冬は−167℃まで下がり、春夏の最高は約二十度。冬は二週間しか続かぬ。一年は七百二十日、二十四か月。この地の生物は長命だ。」
ゲンソンは空を仰ぐ。二つの月があり、霧のような環が輝いている。
「この地は戦いによって育まれる。正義のための戦いであり、憎悪のためではない。」とバラーディスト。
ゲンソンは振り返り言う。
「それはお前の正義か、それとも彼らの正義か?」
バラーディストは笑った。
「強者の正義だ。」
ゲンソンは一歩前へ踏み出す。
「学ぼう。ただし、貴様の道具になるつもりはない。」
バラーディストは目を細める。
「汝に選択があると?」と嗤う。
ゲンソンは顔を向けずに答えた。
「いつでも、ある。」
風が古木の間を吹き抜ける。新しい惑星、新しい宇宙。そして、ゲームが始まる──正義と力と真実が衝突する場所。
今回こそ、ゲンソン・ジェシュダの旅が、真に始まったのだった。




