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哲学短編集

意味の博物館

作者: 紅茶

1.灰色の病と、ペーパーナイフ

フランスの哲学者サルトルは、人間と道具の違いをこう説明した。

例えば、ここにある「ペーパーナイフ」。

これは職人が「紙を切るため」という明確な目的(本質)を持って作ったものだ。だから、ペーパーナイフには最初から生きる意味がある。

けれど、人間は違う。

人間は誰かの道具として作られたわけではない。まずオギャーと生まれて(実存)、そのあとに自分で自分をどうするか決めなければならない。

つまり、人間には「生まれつきの生きる意味(本質)」がない。

空っぽの箱として世界に放り出され、死ぬまでその箱を自分で埋めていかなければならないのだ。

それは「自由」とも呼べるが、何をしていいかわからない「刑罰」のようでもある。

かつての人類は、その空虚さを埋めるのが上手だった。

神への信仰、国家への忠誠、家族愛、あるいは金銭欲。

だが、ある日突然、世界からそれらの「意味パトス」が蒸発してしまったとしたら?

人間は、ただ呼吸するだけの肉の塊に成り下がるのだろうか。

   *

世界が灰色に沈んでから、もう十年が経つ。

比喩ではない。実際に、世界からは色彩が失われつつあった。

「……ここも、もう駄目か」

私、アルヴィスは、荒廃した図書館の廃墟に立っていた。

かつては知識の殿堂だった場所も、今はカビと湿気に満ちた墓場だ。

私は防護マスクを直し、手にしたランタンを掲げた。

このランタンは照明ではない。「抽出器エクストラクター」だ。物質に残留している人間の情熱や執着――すなわち「生きる意味」を吸い出し、結晶化する装置だ。

書棚に並ぶ無数の本。

その大半は、すでにただの紙束になっていた。かつて誰かが魂を込めて書いた言葉も、長い年月の中で「意味」が揮発し、インクの染みになっている。

「おっ、微弱な反応がある」

私は一冊の古びた絵本の前で足を止めた。

タイトルは擦れて読めないが、子供が何度もめくったであろう手垢の跡がある。

私は抽出器のノズルを絵本に向け、レバーを引いた。

キィィン……という高い音と共に、絵本から淡い金色の光の粒子が立ち昇る。

それは蛍の光のように揺らめきながら、ガラス管の中へと吸い込まれていく。

ほんの数滴分。

だが、純度は高い。「純粋な好奇心」と「母の読み聞かせへの愛着」が混ざった、上質なパトスだ。

「よし、今日の収穫はこれで十分だろう」

私はガラス管を慎重にケースに収めた。

帰り際、廊下の隅でうずくまっている「それ」を見た。

一人の男性だ。いや、かつて男性だったものだ。

彼は膝を抱え、虚空を見つめたまま固まっていた。肌は石膏のように白く硬化し、衣服と皮膚の境目も曖昧になっている。

石化病ペトリファクション』。

生きる意味パトスを完全に失った人間が迎える末路だ。

肉体的な死ではない。心臓は動いているし、代謝もしている。だが、指一本動かす動機がないため、脳が身体を「不要な家具」と認識し、石のように変えてしまうのだ。

街には、こうした彫像が溢れている。

かつてサラリーマンだった像、恋人を待つポーズで固まった像、怒鳴り散らす表情のまま固まった像。

彼らはサルトルの言う「本質」を見つけられず、あるいは失い、ただの物質(実存)に戻ってしまった成れの果てだ。

私は男性の像に一礼し、廃墟を後にした。

私には、まだ彼らを救う仕事がある。

   *

私の店『意味の博物館ミュージアム』は、灰色の街の片隅にある。

看板にはこう書かれている。

「意味、修復します。過去の輝きをあなたに」

カランコロン、とドアベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

私がカウンターから顔を上げると、上質なコートを着た老婦人が立っていた。

だが、その左手は手袋の上からでもわかるほど硬く、不自然に動かなかった。石化が始まっているのだ。

「……アルヴィスさん、ですね」

「はい。ご予約のマダム・ローズですね」

「ええ。急いでちょうだい。今朝から左腕の感覚がないの。ああ、怖い……このまま全身が石になってしまうなんて」

彼女は震えながら、カウンターに大金を――かつて価値があった金貨や宝石を――積み上げた。

今や、貴金属に価値はない。唯一の通貨は「生きる気力」を与えるパトスだけだ。私がこの宝石を受け取るのは、単にそれが綺麗なガラス玉として使えるからに過ぎない。

「ご安心を。良い品が入りましたよ」

私は先ほど抽出した、金色の液体が入った小瓶を取り出した。

「これは『愛された子供の記憶』です。純粋な安心感と、明日への期待が含まれています。副作用も少ない」

老婦人はひったくるように小瓶を掴み、蓋を開けて一気に飲み干した。

瞬間。

彼女の頬に、ポッと赤みが差した。

うつろだった瞳に光が宿り、強張っていた表情が和らぐ。

石化しかけていた左手が、ゆっくりと握ったり開いたり動き始めた。

「ああ……! 暖かいわ。思い出したわ、私にもこんな頃があった……。世界は、キラキラしていたのね」

彼女は涙を流して喜んだ。

「ありがとう、これでまた一週間は生きていけるわ」

「お大事に。またのお越しを」

彼女は軽やかな足取りで店を出て行った。

先ほどまでの死の気配は消え、少女のような生気に満ちている。

だが、私は知っている。

彼女が飲み込んだのは、彼女自身の人生ではない。

どこかの誰かが持っていた「意味」を、麻薬のように摂取したに過ぎない。

他人の夢、他人の愛、他人の情熱。

それらを継ぎ接ぎして、なんとか「自分」という輪郭を保っているフランケンシュタイン。

それが、今のこの街に生きる人々の正体だ。

私はため息をつき、空になった抽出器を磨き始めた。

虚しい仕事だ。

私は人々に「生きる意味」を売っているが、それは根本治療ではない。

他者から借りてきた意味(本質)で、自分の空虚な穴(実存)を埋めているだけだ。

「……自分の意味は、自分で作るしかないんだ」

サルトルはそう言った。

だが、どうやって?

何もかもが枯渇したこの世界で、無から有を生み出すことなどできるのか?

ふと、視線を感じた。

店の奥、非売品の棚。

そこには、一つだけ「黒い瓶」が置かれている。

誰の記憶でもない、何の感情でもない、真っ黒な液体。

私はそれを『ニヒリズム(虚無)』と呼んでいる。

かつて、この世界で最も偉大な哲学者が残したと言われる、劇薬。

「すべての価値を否定する」という、逆説的な意味。

ドアベルが再び鳴った。

今度の客は、石化しかけた老人でも、怯えた金持ちでもなかった。

ボロボロのポンチョを纏い、目だけをギラギラと光らせた少女だった。

彼女は店に入ってくるなり、カウンターを叩いた。

「おい、修復屋。偽物はもういらない」

彼女は私の棚に並ぶ美しい「他人の思い出」を一瞥し、鼻で笑った。

「本物をくれよ。私が私であるための、絶対的な絶望を」

彼女の視線は、真っ直ぐにあの『黒い瓶』に向けられていた。






2.嘔吐と、深淵の黒

「本物をくれ、だと?」

私は布巾を置き、少女をまじまじと見た。

痩せこけている。蓬髪ほうはつは埃にまみれ、唇はひび割れている。

だが、その瞳だけが異様にギラついていた。石化病の兆候である「諦観」や「虚ろさ」が微塵もない。むしろ、過剰な生命力が彼女の内側を食い荒らしているように見えた。

「嬢ちゃん。あれは売り物じゃない」

私は棚の奥にある黒い瓶に視線をやり、首を横に振った。

「あれは『パトス(情熱)』じゃない。『ニヒリズム(虚無)』だ。飲めば生きる気力が湧くような代物じゃない。むしろ逆だ。あれを摂取した者は、世界の無意味さを直視させられ、精神が崩壊して即座に石になる」

「脅しはいいよ」

少女は鼻を鳴らし、カウンターに身を乗り出した。

「あんた、気付いてるんだろ? この街の連中が飲んでるキラキラした液体の正体に」

彼女は自分の胸元を乱暴に開いた。

そこには、無数の「継ぎ目」のような痣があった。

「先週、私は『家族の団欒』を買った。その前は『恋する高揚感』を、その前は『信仰心』を買った。全部、あんたみたいな売人が抽出した、どこかの誰かの燃えかすだ」

彼女は吐き捨てるように言った。

「副作用が出るんだよ。他人の記憶が混ざりすぎて、自分が誰だかわからなくなる。夜中に目が覚めて、知らない子供の名前を叫んで泣くんだ。行ったこともない海の匂いが鼻について離れないんだ。……気持ち悪いんだよ」

嘔吐ラ・ナオゼ

サルトルがその著書で描いた、自己と世界の存在に対する生理的な不快感。

自分の存在が確固たるものではなく、あやふやで、余計なものだと感じた時に襲われる吐き気。

「私は私だ。誰かの残飯で継ぎ接ぎされたフランケンシュタインじゃない」

少女はカウンターをドン、と叩いた。

「偽物の希望で自分を騙して生き延びるくらいなら、私は世界の無意味さを直視して死ぬ方を選ぶ。……いや、違うな」

彼女はニヤリと笑った。それは猛獣のような獰猛な笑みだった。

「全部ぶっ壊したいんだよ。借り物の価値観を全部溶かして、更地にして、そこに私だけの城を建てたいんだ。そのためには、一度『無』を通らなきゃいけない」

私は息を飲んだ。

フリードリヒ・ニーチェ。

彼はかつて「神は死んだ」と宣言し、既存の価値観が崩壊した後の世界を予見した。

ニヒリズムには二種類ある。

絶望して立ち止まる「受動的ニヒリズム」。

そして、古い価値を破壊し、自ら新しい価値を創造しようとする「能動的ニヒリズム」。

この少女は後者だ。

超人ユーベルメンシュ」の資質を持つ、稀有なバグ。

「……名前は?」

「エララ」

「いいだろう、エララ」

私は奥の棚から、慎重に『黒い瓶』を取り出した。

瓶の表面は光を反射せず、周囲の闇を吸い込んでいるように見える。

蓋を開けると、ツンとした刺激臭――漂白剤と、古い鉄の混ざったような冷たい匂い――が漂った。

「代金は?」

「金はない」

エララは懐から、古びた錆びたナイフを取り出した。

「代わりと言っちゃなんだが、私の『これ』をやるよ」

それは、ただの薄汚れたナイフだった。

だが、抽出器を通さずとも私には見えた。そのナイフには、彼女がこれまでの過酷な旅路で培ってきた「怒り」と「生存本能」が、どす黒いオーラとなって纏わりついている。

「……十分すぎる対価だ」

私はナイフを受け取り、黒い瓶を彼女の前に滑らせた。

「忠告しておく。これは劇薬だ。飲めば、君が見ている世界の『色』は完全に消える。友情も、愛も、正義も、すべてがただの電気信号と物理現象に見えるようになる。その空虚さに耐えられなければ、君の心臓は一分で石になる」

「上等だ」

エララは瓶を掴んだ。

手が震えている。本能が恐怖しているのだ。

だが、彼女はその震えを意志の力でねじ伏せ、一気に瓶をあおった。

ゴクリ、という音が店内に響く。

彼女が顔をしかめる。

「……まっずい。泥水みたいだ」

その直後。

彼女の瞳孔が開いた。

膝から力が抜け、彼女はその場に崩れ落ちそうになったが、カウンターにしがみついて耐えた。

「ああ……ああ……!」

エララが呻き声を上げる。

彼女の視界に何が映っているのか、私にはわからない。

おそらく、深淵だ。

人間が人間であるために無意識に貼っている「意味」という壁紙が剥がれ落ち、剥き出しになった冷酷な宇宙の真理。

無意味。無価値。無目的。

彼女の指先から、急速に灰色が侵食し始めた。

石化が始まったのだ。

皮膚が硬質化し、ひび割れていく。

やはり、耐えきれなかったか。人間の精神構造は、生の無意味さに耐えられるようにはできていない。

「エララ、目を閉じるな!」

私は思わず叫んだ。

「そこにある『無』を見ろ! 何もないなら、何をしてもいいということだ! 自由の刑罰を受け入れろ!」

彼女の喉から、獣のような咆哮が上がった。

「ガァァァァッ!!」

バキンッ!

乾いた音がして、彼女の指先の石化部分が弾け飛んだ。

石になったわけではない。内側から溢れ出る熱量が、固まろうとする殻を吹き飛ばしたのだ。

彼女は顔を上げた。

その瞳は、深淵の闇を吸い込み、さらに深く、恐ろしいほど澄んだ黒色に変わっていた。

「……見えた」

エララは荒い息をつきながら、自身の両手を見た。

「何もない。本当に、空っぽだ。世界はただの箱庭で、私たちはそこで踊るチリだ」

絶望の言葉。

けれど、彼女は笑っていた。涙を流しながら、清々しい顔で狂ったように笑っていた。

「最高じゃないか。誰も私の運命を決めてない。神様もいない。運命もない」

彼女は立ち上がり、私を見た。

「ねえ、修復屋。あんた、こんな店でいつまでチマチマと他人の人生を計り売りしてるんだ?」

その言葉は、鋭い刃となって私の胸に突き刺さった。

「私と一緒に来なよ。世界の果てに、『原初の樹』があるっていう噂がある。そこに行けば、世界にもう一度、私たちが決めた色を塗れるかもしれない」

「……原初の樹?」

「ああ。全ての意味が枯渇したこの世界で、唯一残っていると言われる『最初の意味』だ。それを燃やせば、新しい世界が始まるか、あるいは完全に終わるか」

彼女は私に手を差し出した。

その手はすすで汚れていたが、どんな宝石よりも確かな実存リアリティを放っていた。

私は店の棚を見渡した。

色とりどりの小瓶。過去の遺物。安らかな嘘。

ここでこれらを守り続けることに、何の意味がある?

私もまた、ペーパーナイフのように「店主」という役割(本質)に縛られ、自分自身(実存)を生きていなかったのではないか。

私はカウンターを出た。

エプロンを外し、床に捨てる。

「……ガイド料は高いぞ、エララ」

「出世払いで頼むよ」

ドアが開く。

灰色の風が吹き込んできた。

けれど、その風はもう、ただの冷たい空気ではなかった。

それは私たちがこれから歩む、何の意味もない、だからこそ無限の可能性がある旅路の匂いだった。






3.不条理という名の幸福(終)

旅は過酷だった。

世界はどこまで行っても灰色で、空は鉛のように重く垂れ込めていた。

私たちは廃墟を漁り、缶詰のスープを分け合い、夜は石化病の像が立ち並ぶ広場で眠った。

だが、奇妙なことに、私の心は店にいた時よりも軽かった。

エララが隣にいたからだ。

彼女は天才的な「嘘つき」だった。

ただの瓦礫の山を見て「あれは巨人の眠る城だ」と言い、泥水をすすって「最高級のスープの味がする」と笑った。

彼女は、世界が灰色であることを認めない。自分の認識メガネを通して、世界に勝手に色を塗りたくっていた。

ニーチェは言った。「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」と。

彼女はそれを地で行く、野生の哲学者だった。

「見ろよ、修復屋。あれだ」

旅に出て十日目。私たちは大陸の裂け目にある巨大なクレーターに辿り着いた。

その中心に、それはあった。

『原初の樹』。

伝説では、この樹から全ての「生きる意味」が生まれ、世界に降り注いだと言われている。

神話の時代から存在する、生命の源。

私たちは息を飲んで、クレーターの斜面を滑り降りた。

近づくにつれて、その全貌が明らかになる。

それは、あまりにも巨大だった。高さは数百メートルあるだろうか。天を衝くような巨木だ。

だが。

「……枯れている」

私は呆然と呟いた。

樹は、真っ白に乾いていた。

葉は一枚もなく、枝は骨のように痩せ細り、幹には深い亀裂が走っている。

生命の脈動など微塵も感じられない。それはただの、巨大な植物の死骸だった。

あるいは、最初から死んでいたのかもしれない。

「おいおい、冗談だろ……」

私は樹の根元に膝をついた。

絶望が込み上げてくる。

私たちはここまで、何を支えに歩いてきた?

この樹が復活すれば、あるいはこの樹の果実を食べれば、世界に再び色が戻ると信じていた。

「意味」の源泉があると信じていた。

だが、ここにあるのは「巨大な無」だけだ。

「空っぽだ。ここも、あの店と同じだ」

私は乾いた笑い声を漏らした。

救いなんてなかった。

世界は本当に、ただ物理法則に従って存在するだけの、冷徹な箱庭だったのだ。

足元から、灰色の浸食が始まる気がした。石化の予兆だ。

「あーあ、やっぱりね」

隣で、エララが腰を下ろした。

彼女は絶望するでもなく、つまらなそうに欠伸をした。

「やっぱり?」

「薄々勘づいてたよ。世界中から意味が消えたんじゃない。最初から『誰かが用意してくれた意味』なんてものはなかったんだってね」

彼女は枯れた巨木を見上げ、ニヒッと笑った。

「神様は留守なんじゃなくて、最初からいなかった。この樹はただのデカイ枯れ木だ。拝んでも祈っても、何もしてくれない」

「……それで、君は平気なのか? 旅の目的が消えたんだぞ」

「目的? 馬鹿だねえ、修復屋」

エララはポケットから、道中で拾った固い木の実を取り出した。そして、それをナイフで割り、中身を私に放り投げた。

「ほら、食えよ」

「……?」

「ここに来るまでの十日間、楽しかっただろ?」

私は木の実を受け取った。

楽しかったか?

飢えと寒さと疲労の連続だった。

けれど。

毎晩、焚き火を囲んで彼女と話したこと。石化した街で、二人で馬鹿な名前をつけ合って笑ったこと。

その記憶は、私が店で売っていたどんな「極上のパトス」よりも、鮮明で、熱を帯びていた。

「意味っていうのはさ、どこかに落ちてるもんじゃないんだよ」

エララは自分の分の木の実を齧り、立ち上がった。

「私たちが歩いた足跡そのものが『意味』なんだ。この枯れ木が何もしないなら、私がこいつの代わりに意味を作ってやる」

彼女はナイフを取り出し、『原初の樹』の白骨化した幹に、ガリガリと何かを刻み始めた。

「何をしている?」

「落書き。ここに『エララ参上』って刻めば、この樹は『エララが来た記念樹』になる。ほら、新しい意味が生まれた」

あまりに子供じみた理屈。

あまりに乱暴な「解釈」。

けれど、その姿を見て、私の胸のつかえが取れた。

カミュは『シーシュポスの神話』でこう語った。

神々から「山頂まで大岩を運び上げる」という罰を受けたシーシュポス。岩は山頂に着くとすぐに転がり落ち、彼は永遠にその徒労を繰り返さなければならない。

これは究極の不条理だ。

だが、カミュは言う。

「岩を追いかけて山を降りるその一瞬、彼は自分の運命を支配している。我々は、シーシュポスを幸福だと想像しなければならない」と。

世界には意味がない。

樹は枯れている。

明日も灰色のままだろう。

けれど、私たちは歩くことができる。笑うことができる。枯れ木に落書きをして、それを「聖地」と呼ぶことができる。

不条理な世界に対し、自殺でも逃避でもなく、ただ「生きる」ことによって反抗リボルトする。

それこそが、人間が持ちうる唯一の、そして最強の尊厳だ。

「……ふっ、ははは!」

私は笑い出した。腹の底から、涙が出るほど笑った。

石化の気配は消え失せていた。

「君には敵わないな、エララ。……よし、貸せ」

私は彼女からナイフを受け取ると、彼女の名前の隣に、自分の名前を刻んだ。

『アルヴィス、ここに在り』

「いい字だ。じゃあ次はどうする? ここに住む?」

エララが聞いた。

「いや、帰ろう。店は畳んで、移動式の屋台でもやるさ」

「いいね。何を売るんだ?」

「何も売らない。ただ、世界中を回って、石になりかけた連中に教えてやるんだ。『意味なんてないから、好きに生きろ』ってね」

私たちは背を向けた。

巨大な枯れ木は、相変わらず沈黙したまま佇んでいる。

けれど、今の私たちには、その白い巨体が、これから私たちが色を塗るための「真っ白なキャンバス」のように見えた。

空は相変わらず灰色だ。

風は冷たい。

だが、隣を歩く少女のコートの赤色だけは、目に焼き付くほど鮮やかだった。

私の手の中には、もう抽出器はない。

代わりに、エララと半分こした木の実の殻があった。

それは苦くて、硬くて、とびきり美味かった。

これが、私の人生の味だ。

(了)





実存主義は、19世紀から20世紀にかけて、「科学やシステム(国家・宗教)」が強くなる中で、「じゃあ、その中で生きている『私』という個人の悩みや不安はどうなるの?」という問いから生まれた思想です。



1. 19世紀:神とシステムの動揺

実存主義には「種」を蒔いた二人の思想家がいます。



① キルケゴール(デンマーク)


「絶望は死に至る病」


主張: ヘーゲルという偉い哲学者が「歴史や社会の大きな流れ」ばかり説くのに対し、「そんな全体の話より、今ここで悩んでいる『私』の方が大事だろ!」と噛みつきました。


キルケゴール自身、自分のあり方に悩みます。

そのために年代ごとに思想が移り変わり、最終的には宗教的な実存に落ち着きます。


高校生の頃、初めてキルケゴールの話を聞いた時、それは責任からの「逃げ」ではないのか、という疑問を持ちました。


同時にニーチェについても習ったので、僕にはニーチェの思想が正しく、キルケゴールは思想的な敗北をしたのだと考えました。


しかし当時の倫理の先生に質問したところ、彼は「宗教に逃げた」のではなく、「最も過酷で、狂気的な決断」をしたのだと教わりました。


曰く、それは紐無しのバンジーを行うようなものだと。


キルケゴールの、この宗教的実存について説明する時、旧約聖書のアブラハムとイサクの話が例に挙げられます。


アブラハムは神より、息子のイサクを生贄に捧げよ、と命じられます。

悩み抜いたアブラハムは、イサクを生贄に捧げることを決断します。


ここで重要なのは、アブラハムには誰も理解者がいないことです。


「神様の命令だから」と言っても、社会(警察や隣人)から見ればただの「狂った殺人鬼」です。


誰にも相談できず、誰からも正当性を認めてもらえない。


たった一人で(単独者として)、狂気と紙一重の決断を下し、全責任を負う。


キルケゴールにとっての宗教的実存とは、教会でみんなで讃美歌を歌って安心することではありません。


「世界中が自分を狂人だと思っても、自分の中の真実(神との対話)だけを信じて行動するという、孤独で恐ろしい状態を指します。


対比的に教わることの多いニーチェとキルケゴールですが、その思想を深く知ると、どちらも同じく極地を目指しているように感じます。


これこそがまさに実存だ、お前はしっかり、自分の人生を生きているのか? と問われている気分になりました。



② ニーチェ(ドイツ)


「神は死んだ」


主張: キリスト教という絶対的な価値観が崩壊したことを宣言。

ニヒリズム(虚無): 「生きる意味なんて最初からない」

超人: 「意味がないなら、泣くのではなく、自分で意味を作って笑って生きろ」


小説との関係: 少女エララは完全にニーチェです。彼女が「ニヒリズム(黒い瓶)」を飲み干して笑ったのは、既存の価値を破壊し、自ら価値を創造する「超人」への覚醒したことの現れです。



2. 20世紀前半ドイツ:不安と死の直視


第一次世界大戦後、不安な時代に理論として体系化されました。


③ ハイデガー(ドイツ)


死への存在: 人間はいつか必ず死ぬ。その「死」を直視した時初めて、ダラダラした日常(世人ダス・マン)から脱し、本気で自分の生を生きられる。



④ ヤスパース(ドイツ)


限界状況: 死、苦悩、争いなど、どうしても逃れられない壁にぶつかった時、人は「実存」に目覚める。



彼らは詰まるところ、人間が壁にぶつかった時、本当の自分、を見つめられると説いたわけです。



3. 20世紀半ば(フランス):自由と責任


第二次世界大戦後、ナチスの占領下にあったフランスで、レジスタンス運動(抵抗)と共に花開きました。


⑤ サルトル(フランス)


実存は本質に先立つ: (小説の冒頭で説明した通り)人間には「こう生きろ」という設計図がない。


自由の刑: 自由であることは、すべての行動に責任を持たねばならないという「重荷」でもある。


アンガージュマン(社会参加): 自分の行動で世界を変えようとすること。



⑥ カミュ(フランス)


不条理: 人生に意味を求めても、世界は答えてくれない。そのズレが「不条理」。


シーシュポスの神話: 岩を運ぶだけの無意味な人生でも、その運命を受け入れ、反抗して生きる姿は幸福である。


小説との関係: ラストシーンで、枯れ木に落書きをして笑う二人の姿にて、「意味がないこと」を嘆くのではなく、それを楽しむ強さに、カミュの思想を反映させました。



まとめ:小説のキャラクター配置

この系譜を今回の小説『意味の博物館』に当てはめると、こうなります。


世界観(石化病の蔓延): ハイデガー的な「死を忘れて、なんとなく生きている人々(世人)」の世界。


少女エララ: ニーチェの化身。「神は死んだ(原初の樹は枯れている)」と知りつつ、それを笑い飛ばして新しい価値を作る「超人」。


主人公アルヴィス: 最初は迷える個人(キルケゴール的)だったが、エララに出会い、サルトル的な「自由の選択」を行い、最終的にカミュ的な「不条理の中の幸福」に辿り着く。


こうして見ると、実存主義の歴史そのものをなぞるようなロードムービーになっているように思います。


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