1-3
宿営地の簡易テントの前に焚かれた焚き火に、両手をかざして暖を取る。陽の光さえ見えないような曇天だったのに、今は綺麗な星空が私たちを見下ろしていた。
「いろいろあったな……」
初めての魔物討伐会。初めての5大公家たちとの交流、初めての共闘。
そして――
「フローラ……」
どす黒い闇に囲まれたフローラの姿を思い出す。
緊急議会を終えてからしばらく経って、目を覚ましたフローラが政務官から処遇を言い渡された時の、絶望に歪んだ表情が脳裏にこびりついて離れない。
彼女にとって魔力を取り上げられることは、侮辱と同等であり、プライドをへし折られたも同然だろう。
リュシェル曰く、魔力を強制的に取り上げられるというのは拷問に近い行為らしい。
『とくに魔力量の多い人間であればあるほどね。心を壊す者もいるそうだよ』
憐みの目をフローラに向けたリュシェルが、呟くようにそう言った。
フローラの魔力量は人並み以上だ。生き延びたとしても、過酷な人生であることに変わりはないだろう。彼女はもう、〝家〟に帰ることはできないから。
『やったことは全部自分に返ってくるってことだね。それも、倍になって』
私の肩に手を置いて、意味ありげに頷く。きっと胸の傷のことを言っているのだろうことはすぐに理解した。倍に、ということは、あれよりももっとひどい処罰を受けるということだろう。
考えて、ゾッとした。
母親は今回のことで父から離縁を言い渡され、自慢の娘が「謀反の罪を犯した」と聞いて気絶してしまったらしい。離縁の理由は定かではないが、父なりのけじめの一つなんじゃないかと思う。母やフローラに迷惑をかけることのないように、と、思っているのかもしれない。今の父ならそれぐらいの考えを持っていそうだ。
医療テントの簡易ベッドに横たわっていたフローラが、政務官に連行されていく。テントの出入り口付近に立っていた私の横を、私と同じ髪色の毛束が掠めた。
フローラが足を止めて、こちらを睨みつける。自分が悪いとは思っていなさそうな目つきだ。
私は敢えて声をかけなかった。今更なにか言ったところで、関係性が劇的に変わることもないだろう。なんと声を掛けて良いのかもわからなかったし、何を言っても逆鱗に触れそうだ。
それに、彼女を許すことはまだ難しい。
『…………』
フローラもじっとこちらを見ていたが、彼女も言葉を発することなく、政務官に促されるまま魔法陣の上に歩みを進めた。
一瞬にして消えていった二人の残像を眺める。
私と妹の一生の別れは、随分とあっけないものだった。
医療テントに集まっていた関係者が、それぞれの拠点へと戻っていったのが数時間前のことだ。
見張りの人間以外が寝静まっている夜に、私は寝付けないでいる。
フェリノスがくれた指輪が火に反射してきらりと光った。やっぱり、鈍色の中に舞う雪がとても綺麗だ。守るように右手で包み込んで、胸に押し当てる。
いろいろあったが、いちばんに嬉しかったのは、王命が白紙になったことだ。念願の、という言い方は正しくないような気がするけれど、死罪を回避したかった自分にとっては、朗報以外のなにものでもなかった。
フェリノスの婚姻相手のことで進言した政務官の顔色を思い出して、くすりと肩が揺れる。
裏で手を回してくれていたことが丸わかりだった。フェリノスの気持ちがとても嬉しい。
(私、本当にフェリノスの正式な妻になったんだ……)
妹の身代わりに嫁がされた先で、王命違反で通報されるかと思いきやフェリノスに求婚されたあの日の記憶が蘇ってきた。
彼は当たり前のように隣に寝転んでいて、何を言い出すかと思えば、私に「正式に妻にする」と言ったのだ。あの時は、いろんなことがいっぺんに起こりすぎていて、何がなんだかわかっていなくてろくに返事もできなかったけれど。
でも、あの時私を守る為だと言ってくれた理由が、今なら理解できる。
フェリノスは常に私に寄り添ってくれていたのだ。私を死なせないように、いろいろ考えてくれて、動こうとしてくれた。
最初から私の味方でいてくれたから、今、とてつもない幸せを感じられている。
「――アリア」
「フェリノス」
背後から声を掛けられて、どきりと心臓が跳ねた。噂をすればなんとやら。
急いで振り返ると、フェリノスが簡易テントから顔を出して手招きをしている。その様子に、胸に押し当てた手をぎゅっと握りこんで、静かに空気を飲み込んだ。
彼が顔を出しているのは湯浴み用のテントだ。少し前に、寝付けない私を気遣って、湯を沸かしてくれていた。
準備をしてくれると言った時から、言おうか言うまいか、迷っていることがある。
(……遠慮するかしら。嫌だと言うかな)
考えうる限りの返答を頭の中で繰り広げながら、座っていた丸太から腰を上げて、ゆっくりとフェリノスの元へ歩み寄った。
「湯が沸いたから、身体を温めるといい」
「うん」
そう返事をして、テントに入っていかない私を訝しんだフェリノスが顔を覗き込んでくる。
「どうした?」
テントの裾を開いて待ってくれている彼の背後をちらりと見やった。中は薄暗く、照明は魔法で出されたのであろう光源が頭上で淡い光を放っている。
――これなら。
私は意を決して顔を上げた。
「あのね、い……一緒に、入らない……?」
言い切って、顔にじんわりと赤みが増していくのがわかる。
フェリノスは身体を硬直させて、微動だにしない。
(やっぱり、傷が気持ち悪いかな)
リュシェルに治してもらったとはいえ、一生消えない傷痕になる。虐げられていた人間の身体なんか、興味がわかなくて当然だ。
「――……変なことを言ってごめんなさい。忘れて、」
「いいのか?」
「え?」
見上げた先に見えた表情は、相変わらず喜怒哀楽を表していない。フェリノスの目がきらきらと輝いているような気はしないでもないが。
フェリノスがテントの中に私を招いて、後ろ手でテントの裾をきちっと締める。
「前は拒絶されたから」
リナリアからでさえ傷を見られたくなくて、風呂の補助はつけなかった。
フェリノスが近づいてきて、着ていた私のローブに手をかける。
「傷を……見せる勇気が出なかったの……。でも、これからはもう、隠せないと思って。フェリノスも見たでしょう……? 私の傷跡を」
「ああ。見た」
留め具が外されて、ぱさりと床に落ちたローブが視界に隅に映った。
デコルテ側にボタンのあるシュミーズが、勝手知ったる手つきで外されていく。心臓の音がうるさくてたまらない。
やがて、件の傷跡がフェリノスの眼前に曝け出された。
葉脈状のそれを、ゆっくりと指先でなぞられる。
なんともいえない感覚に思わず身をよじった。
「気持ち悪くない……?」
フェリノスの手に、自分の手を重ねる。
「気持ち悪いわけがない。綺麗だよ」
どくんと、大きく心臓が跳ねた。
深い湖面の色をした目を細めて、大きな腕の中に閉じ込められる。傷ごと包み込んでくれたような温かい抱擁に、胸がときめいた。
私のつむじにキスを落としたフェリノスの唇が、だんだんと下に降りてくるのがわかった。
こめかみに、目頭に、鼻さきに、頬に、キスが降ってくる。
「君の身体がどんな状態でも、俺には関係ない。俺が好きになったのはアリアストラで、君の身体じゃないから」
「――うん。ありがとう、フェリノス」
フェリノスの言葉が不安をかき消していく。重たかった心が軽くなって、救われたような気がした。
密着していた身体を離して、フェリノスのシャツの裾をくいと上に引っ張った。
それだけで察してくれたのか、彼がてきぱきと衣類をその辺に放り投げて、裸の私を横抱きにした。そのまま湯舟に身を沈める。
少しだけ熱いぐらいの湯が、じんわりと全身を包み込んだ。
(幸せ過ぎて、このまま溶けてしまいそう)
湯の中で揺れる私の髪で遊んでいるフェリノスが、頭上で楽しそうな雰囲気を醸し出している。表情は動いていない。
「フェリノスの表情筋って、生きてるの?」
生きていることは知っているが、つい問いかけてしまった。
「? 俺はいつも表情豊かだぞ」
にこりと口角を上げるフェリノス。きっかり2秒後にそれは無表情へと戻っていった。
「私、あなたのそれ、好きだな」
「それって?」
「2秒で表情が無に帰すところ」
「2秒……」
どうやら無自覚のようだ。だが、そこがいい。
「直さないでね」
「なんのことかわからないが、直ることはないと思うから安心してくれ」
「うん」
お互いに顔を寄せて、キスを交わした。
何度か繰り返してから、フェリノスが少しだけ顔を離す。
「……俺の身体を見るのはもう抵抗がなさそうだな」
「はっ……」
自分のことで精いっぱいで、すっかり忘れていた。
突如として自覚させられた恥ずかしさに、全身が真っ赤に染まっていく。
「もう遅いぞ、アリアストラ」
「……わ、わかってますぅ……」
心底楽しそうな笑い声が、簡易テントに2秒間だけ響きわたった。