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ひまわりと、海

噓でも、いい

作者: 小山らいか

 彼は、高校の教室の中でちょっと不思議な存在だった。

 授業中、いつもぼんやりと外を眺めていた。和気あいあいとしたクラスの中で一人、会話の輪に入ることもなく、空気のように静かにそこにいた。だからといって嫌われているとか、そういったことはなく、ただ彼のまわりだけ、時間の流れが少し違っていた。

「ねえ、なつみ。帰りにアイス食べに行こうよ」

 友人の声に振り返る。いつものメンバーだ。教室の外に出ようとして、ふと彼が自分の机で何かを描いているのが目に留まった。「先に行ってて。すぐ行く」友人が教室を出たあと、そっと彼に近づいた。こちらに気づく様子はない。一心不乱に手を動かしている。

「何、描いてるの?」

 私の声に、彼は驚いたように顔を上げた。目を見開いている。その反応に、思わずこちらもドキッとしてしまう。よほど集中していて、まわりが見えていなかったんだろう。

「……海」

 彼の手元のスケッチブックに目を落とす。色鉛筆で描かれた、海と砂浜。遠くに見える、抜けるような青空にうかぶ夏の雲。海の透き通るような淡い青には、いくつもの色が重ねられている。砂浜の白と、岩肌を覆う緑のコントラスト。「きれい」思わず息をのんだ。

「ありがとう」「絵、好きなの?」「うん」そのとき、初めてちゃんと言葉を交わした。

 気づくと、彼の姿を目で追っている自分がいた。彼はぼーっとしているかと思えば、思いついたように夢中になって何かを描いている。授業中に夢中になり過ぎて先生に怒られたりもしていた。そんな様子を見て、思わず顔がほころんでしまう。本当に絵が好きなんだな。なんだか、小さな子どもみたい。

 放課後、一人で絵を描いている彼のところへ行き、ときどき、声をかけた。休みの日には、祖父の住んでいる海の近くの小屋で絵を描いているという。この南の島の海は、夏の間、強い日差しを受けて、青というより透明に近い色になる。ごく淡い青。その色が好きで、いくつも描いているが、なかなか思うように描けないんだという。

「ハルは、画家になりたいの?」

 私がそう聞くと、彼はちょっと首を傾げて恥ずかしそうに微笑んだ。

 彼が東京の美大をめざしていると聞き、私も東京の大学へ行こうと決めた。でも大学での四年間、彼と東京で会うことはなかった。盆と正月、島に帰ったときに誰からともなくうわさは聞いていた。彼は休みには島に戻って、相変わらず海の絵を描いているらしい。

 私は卒業後も島には帰らず、東京でデザイン関係の仕事についた。

「あいつ、大丈夫かなあ」

 高校の同級生数人で集まったとき、一人が口を開いた。ハルのことだ。

「海の近くの小屋で、誰とも会わずに一人で仙人みたいな暮らししてるらしいよ。いや、あいつの場合、仙人っていうより、深海魚かな」深海魚。思わず、彼らしいと思った。

 夏休み。思い切って、彼を訪ねた。高校のときと全然変わっていなかった。彼の住んでいる小屋からは、青く澄んだ海が見渡せた。庭には数本のひまわり。ここで一人、絵を描いているという。「ハルは、幸せだね」そう言うと、なぜか少し遠い目をした。

 東京に来ないかと誘うと、彼は顔色を変えた。その反応に驚いた。相手にされないと思っていた。私の言葉にうなずいた彼には、東京に行かなければいけない理由があった。 

 しばらくして、東京で働き始めた彼に会うと、ひどく疲れた顔をしていた。お酒を飲みながら、話した。「絵、描いてる?」まったく描いていないという。心配になった。あんなに好きだった絵が描けないなんて。東京に誘ったことを少し後悔した。

 年末には、島へ帰ったと聞いた。ほっとした。きっと今ごろ大好きな海の絵を描いているんだろう。年明け、ちゃんと仕事に戻れているか連絡を取ってみた。ところが、何度かけてもつながらない。会社に電話すると、ずっと来ていないという。不安になって、すぐに島にある彼の小屋を訪れた。彼はひどくやつれた姿で、縁側に一人座って海を見ていた。

「ハル……どうしたの? 何かあったの?」問いつめると、彼はうつろな目で私を見た。

 しぼり出すように、彼は言った。「僕は人を……大切な人を、殺したんだ……」

 大切に思っていた女性を連れて、東京からこの島に来た。それが東京へ行った理由だった。そして彼女はこの海で、自ら命を絶った。小さな娘を残して。ハルは、それは自分のせいだと苦しそうにつぶやいた。私は横に座り、そっと背中に触れた。すると、彼は肩を震わせて泣いた。彼女を失ってから今日までずっと、泣くことができなかったんだろう。

 部屋の隅には何枚かの絵が置かれていた。見ると、それらはすべて赤の絵の具で乱雑に塗りつぶされている。「もう……描けない」私は彼の肩を抱いた。彼は私の腕の中で、ずっと声をあげて泣き続けていた。小さな子どものようだった。

 数年後。私と彼は、またこの島に帰ってきた。娘たちを連れて。ハルは私と暮らしたいと言った。愛していると。噓だ。彼の心にはあの女性がいる。それでも、私は彼と一緒にいることを選んだ。私と結婚したら、施設に預けられている彼女の娘を引き取りたいと彼は言った。私はそれも受け入れた。あの日、彼を東京に誘ったことへの償いとして。

 南の海が見渡せる庭には、今年も、ひまわりが気持ちよさそうに風に揺れている。 


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