身分差の壁(1)
「と、とんでもございません。これは昨日、傘をお貸しした方から、傘のお礼に頂いたので……」
です、まで言い切れない。言い訳だとして腹を蹴られた。
「お前のぼろ傘に千疋屋の菓子を返そうなどと思う人が居ますか! 昨日食事を抜いた私への嫌味ですか! ええい、自分の非を認めずに他人様の所為にしようというその根性が曲がっている! お義兄さんの遺産もさしてなかったお前がそのような行いをするから、我が家はよそから笑われるのよ!」
廊下に倒れ伏したままの八重を足で踏みつけ、木の棒で殴る叔母に、八重は抵抗も出来ない。父の遺産は子爵の家に相応しく有ったと思うが、そんなことも言い出せなかった。養ってもらっていることは事実だし、みすぼらしい格好で世間の嘲笑の的になっているのも知っているからだ。
「申し訳ございません、申し訳ございません……」
そんな中、浅黄は八重の身なりに頓着することなく、本まで貸してくれて、次の約束もくれた。彼がくれたやさしさがあれば、実らぬ淡い思いとは言え、何でも耐えられると思った。ぎゅっと胸の所で手を握り、叔母の暴力に必死で耐える。気が済むまで八重に暴力をふるい終わると、叔母は全く勝手な娘で困る、と愚痴を言いながら奥へ消えて行った。袂に隠した本の存在を気取られなくて良かったと、八重は安堵の息を漏らした。
(夜、寝る前に少しずつ読もう……)
読んだ暁には浅黄と感想を共有できる楽しみがある。今ならどんな仕打ちも耐えられそうだと思った。
一週間の間、八重は毎夜寝る前の楽しみとして、借りた文庫を読みふけった。身分差のある主人公たちの恋の行方に心をきしませながらも、限りある逢瀬に幸せを感じるヒロインたちに、自分を重ねた。
(こんな都合のいいことがあるわけはないけれど)
眠る前に、浅黄に貰った桜で作った栞を文庫に挟む。
(夢を見ることくらいは、きっと自由の筈)
目をつむると、浅黄の朗らかな笑顔を思い出す。彼と話をしていた時、八重は確かに、少女だった。
「やあ、八重さん」
公園へ行くと、浅黄は既にそこに居た。長椅子に座ったまま手を上げてこちらを見る浅黄に、やはり鼓動が弾むのをこらえきれない。せめて普通の顔で居ようと、八重はお辞儀をして公園に入った。
「これ、ありがとうございました。とても面白くて、一週間に分けて読むのに苦労しました」
「はははっ、そんなに喜んでもらえると、貸した僕も嬉しいよ。彼らの恋について、八重さんはどう思った?」
正面に見る笑顔が眩しい。八重は手元に視線を落として、かなり身につまされました、と告白した。
「ほう? 八重さんも、主人公みたいに恋をしている?」
「い、いえ! そういうわけではございませんが、身分というものは、人の何もかもを縛るのだな、と改めて思ったのです。自由でありたいと思う心までをも縛る身分というものが、私は巨大な蛇のように感じられました」
なんとか浅黄の問いを誤魔化して、本の感想を述べた。浅黄は無制限に与えられたものよりも、有限の中での経験こそが輝くことは、古来よりの人間の生活の中で知られてきたことだよ、と反論した。
「つまり僕は、彼らが身分違いでなければ、ここに書かれている話は成立しなかったのではないかと考えている」
「では、浅黄さまは二人の恋がまやかしだったと……?」
伺うような八重の問いに、浅黄は裏のない笑みで応えた。
「いや、まやかしとは思っていないよ。ただ、その状況でしか得られなかった感情なのではないか、と思ったんだ。政太郎と清子は、政太郎の婚約が決まっていて、清子がそれに異議を唱えられない奉公人である、という状況ででしか描かれていないからね。もし二人の間に身分の差が無かったら逆にどうだろう? 政太郎には清子以上の身分の令嬢からの縁談が来て、お家はそちらの令嬢と結婚するようにおぜん立てするかもしれない。そうなったら、二人は違う家に離れ離れになって、もっと不幸なのではないかな。この話の政太郎は、少なくとも目の端に清子を捕らえ続けられることが約束されているだろう? だからこそ政太郎は最後まで清子を諦めなかったんだと、僕は思うんだ」
政太郎と清子、とは話の中の登場人物だ。浅黄は清子と政太郎が平民だったら、という発想にはならなかったようだった。自分が、家に対して責のある身分であるからかもしれない。
「私では思いもよらない見方で、興味深いです」
「僕も、身分差が心までをも縛るという感想は初めて聞いたよ。読後談義がこんなに楽しいとはね」
にこにこと機嫌の良さそうな浅黄と本の話をしていると、時間を忘れそうだ。でも、もうそろそろ行かなければならない。
「申し訳ございません、浅黄さま。このあと、買い物に行かなければならないので、今日は失礼しますね」
八重がそう言うと、浅黄は残念そうな顔をしてくれた。