想い出の人
見ず知らずの人に心配してもらう程のことでもないと、八重はぱたぱたと顔の前で手を振る。しかし、もともと通りすがりで終わっていてもおかしくなかった人と、こうやってまた会えて、話が出来ただけでも奇跡だと思うのに、これきりになってしまうのが寂しい、と八重は思った。彼の人好きする笑みが、そう思わせたのかもしれない。口ごもっていると、青年は微笑んで、君、名前は? と聞いてきた。
「……って、名を聞く前に名乗らないのは筋が通らないか。僕は宮森浅黄という。君は?」
浅黄……。その名は八重が大切な大切な宝物として、脳裏に刻んでいた名だった。幼い頃の、まだ苦労を知らなかった時の思い出。今も大事にとってある、黄緑色の桜の栞。しかし、宮森と言えばここら一帯の中でも高位の華族だ。先の大戦での息子の軍功も高く、天皇陛下からのお声がけもあったとのこと。そんな身分になってしまった幼い頃の彼と、今の自分が同じ思い出を共有できるわけがなかった。
「……八重、……と、申します……。斎藤男爵家で、働いております……」
「ほう、斎藤殿のところで」
「ご、ご存じですか?」
「そうだな、貰っている縁談のうちのひとつだ。令嬢が居るのだろう? しかし斎藤家は道楽のし過ぎで家が傾きかけていると聞く。娘を差し出そうというのも、その金策の為だろうな」
あやめとの縁談……。八重は目の前が真っ暗になった。幼い頃から心のよりどころにして来た桜の主が、あやめと結婚するのを見届けなければならない現実があるかもしれないことに、八重は落胆した。
「まあ、そういう縁談は多いのだけど、しかし本心で言うと、そういう縁談は好かない」
浅黄の言葉を聞いて、八重は少し安堵した。しかし個人の意見が通るほど、身分のあるものの結婚は自由ではない。浅黄も、あやめではないかもしれないが、家の為に結婚をするのだろう。そう考えると気持ちが沈んでしまいそうになったので、話題を変えようと試みる。
「と、ところで、先程読んでいらっしゃったご本は、どんなご本なのですか?」
「本? ああ、これかい?」
浅黄はそう言って傍らに置いた本を取り上げると、八重に渡してくれた。タイトルからして、恋愛小説のようだった
「まあ、これは恋愛小説ですか? 男の方でも読まれるのですね。どんなお話なのですか?」
「はは。それなら読んでみると良いよ。貸してあげよう。僕はもう一度読んでいるからね」
「えっ……、良いのですか……?」
給金がない八重は、あやめが古本として物置小屋に積んだ本しか読めない。新しい本が読める喜びに、八重は素直に微笑んだ。
「はは。君は春の青空に誇る桜のように笑う人だね。君の笑った顔を見て、実に気持ちがよくなった。いいよ。読めたら感想を聞かせてくれ。僕も本の感想を語らうのは好きだから」
「はい、是非!」
笑みを湛えて返事とすると、やっと笑ってくれてよかったよ、と浅黄が言った。
「女性に饅頭を持ってきて、喜んでもらえないとは思っていなかったからね。本で良ければいくらでも貸そう。それを返してくれる時に、次に読みたい本の話の種類を聞かせてくれ。僕が選んで持って来よう」
「い、良いのですか……?」
「勿論、返してくれる時に感想を聞かせて欲しい。それが条件だ。どう?」
そんなことで本を読ませてもらえるなんて……! 八重はコクコクと頷いた。
「じゃあ、決まりだ。そうだな、一週間後の今日なんて、どうだろう?」
「はい。必ず参ります」
「よし。それじゃあ、約束だ」
浅黄がそう言って、右手の小指を差し出した。子供の頃に戻ったみたいで、八重も小指を差し出す。絡めた指の温度を、いつまでも忘れたくないと思った。
「八重! 仕事をさぼってどこに行っていたの!」
帰るなり、八重は叔母に見つかって頬を叩かれた。廊下に倒れ伏したはずみで袂から饅頭が飛び出て、更に叔母の疑心を買った。
「なんです、この饅頭は。まさかお前、物乞いでもしたんじゃないでしょうね!? 我が家の品位を落とすつもりですか!」