はやる心
そう微笑まれて、思わずどきりとする。今の家に引き取られてから、知らない男性に微笑まれたのは初めてだったからだ。おおよその世の人は、八重の綻んだ粗末な身なりを笑ったり同情したりした。屋敷の使用人たちのように給金が出るわけでもない八重は、どの使用人よりもボロの着物を着ている。こんな風に正面切って微笑まれたのなんて、もう十年以上経験がない。
「か、傘もお持ちにならず、なにをされていたのですか? お風邪を召されます」
軍服を身に着けていることからも、青年が華族なのだということが分かる。そんな人が、傘も持たずに何をしているのだろう、という素直な疑問だった。青年は人懐こい笑みを浮かべてこう言った。
「今日、欧州から帰ったばかりでね。傘の持ち合わせなど、無かったんだよ」
欧州……。やはり八重とは住む世界の違う人だ。
「お宅はこのあたりですか? 宜しければこの傘をお使いください。ぼろ傘ですが、無いより雨をしのげます」
八重はそう言って自分の傘を差しだした。青年は驚いたように、それは申し訳ないよ、と手を横に振った。
「いえ、私はこちらの従姉妹の洋傘も持っておりますし、家も近くです。もし私のことを気にされているのでしたら、ご心配には及びません」
八重がそう言うと、青年は、君は親切な子だね、と言って頷いた。
「ではお心遣い、ありがたく頂戴しようかな」
「はい」
傘を受け取ってもらって安心すると、八重は青年に頭を下げて公園を去ろうとした。すると。
「明日、傘を返しにこの公園に来るよ。待っている」
そんなことを言われて、言いつけのあった時にしか家から出られないのだが、八重は了承してしまった。
家に帰ると叔母に、饅頭の包みが濡れていることを叱られた。あやめの洋傘は、青年にああいった手前、公園から見える範囲では差しておらねばならず、青年から死角に入ったところで閉じはしたのだが、濡れてしまった。角を曲がってあやめの傘を閉じてからは雨の中を濡れて帰って来ており、結果、饅頭の包みは濡れてしまった。おまけに夕方帰って来たあやめは、女学校の帰りに八重と会わなかったと叔母に愚痴をこぼした。
「雨が降ってきて仕方なく傘を買ったのよ。わたくしだって、八重が傘を持ってきてくれれば、傘を新調するなんて考えないわ」
あやめの言葉に叔母が八重を叩いた。
「お前は言いつけられたことも満足に出来ないの!?」
叩かれた勢いで廊下に倒れ伏したが、あやめの言うことは違う、と八重は言いつのった。
「あやめさまが、新しい傘を買いたいからとおっしゃったのです。本当です……」
しかし叔母は八重の言葉を言い訳だと理解した。
「あやめに無駄遣いの罪を擦り付けようというの!? おまけに自分の傘を忘れて行ったからと言って、下働きのお前があやめの傘を使うなんて、お前は本当に根性が曲がっている! 今日は夕飯抜きです! 反省しなさい!」
最後にもう一度八重の頬を叩いて、叔母は部屋へと帰って行く。八重の隣であやめがくすりと笑った。
「お前が汚い手でわたくしの傘を持ったからいけないのよ」
ふふふ、と機嫌よく奥に行くあやめの背中を、八重は項垂れながら見送った。
翌日八重は、叔母に文句を言われないように家じゅうをピカピカに磨き上げると、裏戸から家を抜け出して公園へ向かった。必要な時以外、八重を閉じ込めていた屋敷を無断で出ると、心臓がどきどきした。
(奥さまに知られたら、きっと酷く折檻される)
でも。
(傘を返してもらいに行くだけだもの)
そう思って、春まだ早い風の中を公園へ急ぐ。走るから、余計に心臓が跳ねた。体の底から水が沸騰するかのようになにかがざわめきたつのを、我慢できない。
(どうしちゃったのかしら、私。そもそもあんな古い傘を、わざわざ返しに来てくれる人がいるのかしら?)