軍服の君
暫く寒い空の下待っていると、あやめが友人二人と共に門を出てきた。半結びをした髪の毛を大きなリボンで縛り、薄桃地に椿の文様をあしらった着物に赤色の袴を着たあやめは、どうやらこの三人でこれからカフェーに行くらしく、おしゃべりが途切れない。黒々と重く空を覆っている雲をちらと見て、八重はあやめに声をかけた。
「あやめさん」
呼びかけた声に、あやめが振り向く。友達と話していた時の名残の笑顔が、八重を見て一変、見下す目つきに変わる。
「なに? 八重に用などないのだけど」
「あ、あの。奥さまが、あやめさんが傘をお持ちじゃないとおっしゃって……。雨も降りそうですし、風邪をお召しになるといけないとおっしゃって」
そう言って八重があやめの傘を差し出すと、八重はその、自分の傘を持つ八重の手を見て、まなじりを吊り上げた。
「その汚れた手で、わたくしの傘を持って来たの? わたくしの傘が汚れてしまうじゃない」
「も、申し訳ありません……」
身を縮めて俯くと、あやめの友達が口を開いた。
「あやめさん、この人は?」
「ああ、家で使っている小間使いなの」
あやめの言葉に彼女の友人二人がじろじろと八重のことを観察する。ぶしつけな視線が痛かったが、なんとか奥歯を噛んで耐えた。
「まあ。わたくしたちと同じくらいの年頃なのに、垢ぬけないのね」
「仕方ないのよ。素地も教養もない子だもの」
両親が健在だったら、こんな風には言われなかったのに。そう思うが、死んだ人は生き返らない。未成年の身で路頭に迷わなくて良かったのだと、八重は考え直した。
「あやめさん。では確かに傘をお渡ししましたので、私は帰りますね」
「でも、降ってもいないのに傘を持ち歩くのは面倒だわ。……そうだ。八重、この傘、お前が持って帰りなさい。わたくし、道中で雨に降られたら、新しい傘を買うわ。その方が、お買い物も出来るし、お前が触った傘を持たなくても済むし、わたくし、その方が良いわ」
贅沢好きの叔父一家は、八重の実家の財産を自分の家に湧いた湯水のように使っていた。決して享楽のためにお金を使わなかった父母を思うと、八重はやるせなくなるが、それも口には出せない。はい、と首肯すると、もう八重には目もくれないあやめたちと別れて、来た道を戻る。お遣いを言いつかっているから、叔母ごひいきの店まで行かねばならない。天気がもってくれれば、と思いながら、八重は急ぎ足でその場を去った。
「毎度あり。いつもごひいきにありがとうね」
「こちらこそ、ありがとうございます」
和菓子屋の店主にそう言われて店を出る。軒の上の空はどんより重たく垂れこめて、今にも雨が落ちて来そうである。立ち並ぶ商店に集う人々も、足早に駅や家へと向かって歩いている。
(早く帰らないと、降ってきてしまうわね……)
八重は饅頭の包みをしっかり持って、帰りを急いだ。商店の通りを抜け、家の近くの公園まで戻って来ると、とうとう空からぽつぽつと雨粒が落ちてきた。
(大変。あやめさんはちゃんと傘を買えたかしら……)
八重も、自分用のみすぼらしい和傘を開いて、饅頭を守る。そのまま近くの公園の脇を通り過ぎようとした時、公園の大きな桜の木の下の三人用の腰掛に座っている男性を見つけた。男性は帝国海軍の軍服を着ており、トランクケースを傍に置いたまま、雨が落ち来る空を見つめていた。
(濡れて、風邪をひかないかしら)
そう思ったら、足が男性の方へ向いた。
「もし。濡れるとお風邪をお召しになりますよ」
八重が声を掛けると、男性は八重を振り返った。
美しい人だった。切れ長の双眸にスッと通った鼻梁。薄く、端が持ち上がった唇に、絹糸のようにサラサラの髪の毛。背広の皴から見て均整の取れた体躯であることも分かった。八重は落ちる雨から彼を助けようと、自分の傘を彼に差しかけた。
「やあ、ありがとう、お嬢さん」