第1章 比類のない神々しいような瞬間?
この業界には、“ダイイング・メッセージ”という専門用語がある。被害者が、犯人の手にかかってから事切れるまでの僅かな間に、犯人の名前、ないしそれに通じる手がかりを残す、というものだ。そして、それらは“一見して意味不明なメッセージ”として残される場合がほとんどだ。理由はいくつかある。
それは、メッセージが残されるタイミングが犯行直後である、という事情から、現場にまだ犯人が留まっている場合があり、その犯人の目をくらます必要があるため、というものがひとつ。犯人が見ている前で、その犯人の名前をあからさまに書き残す――あるいは特定するような書き方をしては、間違いなくそれを見た犯人の手によって握りつぶされてしまう。よって被害者は、見ただけでは、それが犯人を名指しするものだ、とは分からない――何かしらのメッセージを残しているとすら悟られない――方法をとる必要があるというわけだ。
そして、もうひとつ。これは犯人が現場をあとにして、今から示すメッセージは犯人の目には付かない、と分かっていても、それでも暗号めいた胡乱なメッセージを残してしまう、というパターンもある。被害者が瀕死の状態で、とてもペンなどを手にして明確なメッセージを書き残せる状態にない。あるいは、手元に筆記具がない。そういった場合に被害者は、何とか自らが活動できる範囲で、身の回りにあるものを駆使し、死に至るまでの残された僅かな時間で、最後の知恵を振り絞り、警察に、あるいは探偵に、犯人を想起させる“メッセージ”を託そうとする。
実際、古今東西の事件において、そのような状況下で残された“ダイイング・メッセージ”の数々は、犯人に襲撃されてから事切れるまでの僅かな間に考えついたとは思えないほどに多種多様、複雑怪奇なもののオンパレードで、さながら“ダイイング・メッセージ博覧会”の様相を呈している。この、短時間で複雑な暗号メッセージを閃く、という人の脳の作用は、レジェンド探偵、ドルリー・レーンによって、“比類のない神々しいような瞬間”という名前が与えられている。人の脳は、死の直前になると瞬間的に限界を超えた思考が可能になるのだろう、というのだ。死亡して――さらに、ダイイング・メッセージを残したうえで――甦ってきた人間が存在しない以上、真相を確かめる術はないわけだが。
さて、現在、私の隣に立つ、新潟を拠点に活動する素人探偵、安堂理真の眼前にも、また新たな“ダイイング・メッセージ”が提示されていた。
場所は新潟ローカルテレビ局の一室――番組出演者にあてがわれる控え室の床に、黒の油性ペンで記されたそれは……。
「“ヒミツ”……」
理真は、角張った片仮名三文字で構成されている、そのメッセージを読み上げると、
「どういうこと?」
後ろに立つ、新潟県警捜査一課所属の丸柴栞刑事を振り向いた。
「それを解明してもらうために、理真を呼んだんじゃない」
ごもっとも。
事件が発覚したのは、本日午後三時二十分ごろのこと。
タレントの益田昇太は、この日、午後一時半から三時までの生放送情報番組への出演を終えると控え室へと戻り、そこで、自分のマネージャーである佐貝靖一の死体を発見した。佐貝は控え室の床にうつ伏せに倒れ、その首には細身のベルトが食い込んでいた。凶器に使われたベルトは益田の衣装のひとつで、控え室に置かれていたものだったと確認が取れている。拭き取られた形跡があり、指紋は出なかった。
益田があげた悲鳴は廊下にまで響き渡り、それを聞きつけた何名かが現場へと駆けつけた。110番通報は、その中にいた番組プロデューサーによって成された。通信指令センターへの着電時刻は、午後三時二十二分と記録されている。
絞殺の苦痛によるものなのだろう、顔を歪め、四肢を捻れさせた被害者の姿を目にし、現場にいた誰もが沈痛な面持ちを見せたが、視線が死体の右手の先に到達すると、その表情は、おや? というものに変わった。床には、三文字の片仮名が書かれていたためだ。“ヒミツ”。それを筆記したと思われるペン――極太の油性ペン――も、そのすぐそばに転がっていた。
「ペンからは被害者の指紋が検出されたし、このメッセージは被害者が書いたものと見て間違いないと思われるわ」
「ということは、犯人の告発、つまり、“ダイイング・メッセージ”ってことだね」
「でしょうね」
そのメッセージが、“ヒミツ”? それでは意味がないではないか。同じことを思ったのだろう、理真は私の顔を見てきて、はあ、と小さなため息をついた。
素人探偵、安堂理真は、新潟県新潟市のアパートに居を構える作家である。私、江嶋由宇は、理真とは高校時代からの親友であり、かつ、彼女が住むアパートの管理人であり、さらに、彼女が素人探偵として活動する際には、その助手も務めているのだ。日本全国、津々浦々、素人探偵はあまた存在するが、探偵とワトソンの両名ともが二十代の女性という組み合わせは珍しいのではないかと思う。新潟県警捜査一課所属の丸柴刑事も、理真とは彼女が探偵として活動する以前からの友人関係であるため、民間探偵への事件捜査協力依頼がスムーズに行われる背景となっている。
「今際の際にダイイング・メッセージを残してくれるのはいいけどさ、よりによって、これはないんじゃない?」
理真は、床に書き残された謎のメッセージを指さした。すでに遺体は搬出されているため、床に貼られた白いテープによって、被害者――佐貝靖一――が倒れていた状態は示されていた。そのテープによって象られた人型の伸ばした右手の先に、例のメッセージは記されている。
「まだ犯人が現場にいたから、あからさまに犯人の名前を書けなかったんじゃ」
丸柴刑事は言うが、
「だったら、犯人はこのメッセージを見たわけだよね。一見して名前が書かれていないとしたって、これが何かしら犯人――自分――を指し示すものなんだろうなって、察しを付けると思う。だったら、このまま放置しておくはずがない。絶対に何かしらの処置をするよ。これは油性ペンだから拭き取るのは無理だとしても、上からさらにペンで塗りつぶして読めなくするとか」
「だよね」
丸柴刑事は理真の意見に同意して、
「じゃあ、このメッセージは、犯人が現場をあとにしてから悠々と――今際の際なのでそんな状況ではないけれど――書いたってこと? だったら……」
「うん。素直に犯人の名前を書いてよ、って思っちゃうけど」
「これって、あれなんじゃない? ほら、比類なき神々しい何とか」
「“比類のない神々しいような瞬間”? でも、あれって、犯人を直接名指しする手段がないから、とりあえず手元にある材料でどうにかして犯人を示そう、っていう、いわば苦肉の策だからね。ペンと、それを書きつける床という手段が揃っているこの状況で、わざわざ“神々しいような瞬間”が去来して間接的に手がかりを残すとも思えないよ」
「そうか……」
「ところで、容疑者は浮かんでいるの? 聞いた話だと、被害者は芸能マネージャーだそうだけど」
「そういった地味な捜査は警察に任せて。もう、中野くんたちが聞き込みに廻っているから」
丸柴刑事が口にした「中野くん」とは、同じ県警捜査一課に所属する、中野勇蔵刑事のことだ。中野刑事も、丸柴刑事同様、民間探偵の捜査協力を歓迎する派の刑事で、理真も何かとお世話になっている。まあ、中野刑事の場合はあくまで、漠然と民間探偵全般というよりは、理真個人を歓迎しているという節があるのは確かだが。――と、そこにノックの音がして、「どうぞ」という丸柴刑事の声を受けてドアが開かれた。
「丸柴さん――あ、安堂さんと江嶋さんも到着されていたのですね」
姿を見せたのは、その中野刑事だった。聞き込みから引きずっていたものと思われる厳しい表情が、理真の顔を見た途端に弛緩する。理真と私は挨拶をし、中野刑事も――数々の格闘技で培った逞しい――長身を折って頭を下げた。
「いやあ、こうして現場でお会いするのも久しぶりな気がしますね――」
「中野くん、何か報告があるんでしょ」
そのまま理真との世間話に移行しかけた中野刑事だったが、丸柴刑事の鋭い声を浴びると、入室してきた直後のように背筋を伸ばして、
「あっ、はい。聞き込みの結果。何人か容疑者が浮かびました」手にしていた手帳を開き、「まず、死体第一発見者でもある、タレントの益田昇太。彼は、被害者であるマネージャーの佐貝さんとは何かと反りが合わず、事あるごとに言い合いをしていたそうです」
「そんな相性のよくないタレントとマネージャーを組ませていたってこと?」
丸柴刑事の疑問に、中野刑事は、
「その話は事務所も承知済みだったのですが、人手不足や人員のやりくりなんかの事情が重なって、もうしばらくは今の体制で続けることになっていたとのことです」
「そうなの。でも、それくらいのことで殺すか、と言われると素直に首肯はしかねるわね。まあ、小さな積み重ねが溜りに溜まり、何かのきっかけでついカッとなって、という場合もあり得るけれど」
「ところがですね、丸柴さん、それだけじゃないんですよ」
「どういうこと?」
「益田は、現在はバラエティが主な仕事で、本名で芸能活動をしていますが、デビューしたての頃は俳優業が中心で、芸名も持っていたそうなんです」
「へえ、知らなかった」
私も同感。益田昇太といえば、食レポやひな壇のガヤ役に定評のあるバラエティタレントという印象で、前身があるとしても芸人だったんだろうな、と勝手に思っていた。
「その芸名というのがですね……“氷見司”というんですよ。“氷を見る”に、“司る”の司と書きます」
「氷見司……あっ」
私も気付いた。当然、隣で、ううむ、と唸った理真もだろう。
「ふむ」と、ひと呼吸置いてから、丸柴刑事は、「ひみつかさ……芸名に“ヒミツ”が入っているってことね」
「そうなんです。となると、このメッセージは」と中野刑事は、床に記された三文字を見て、「犯人の芸名を途中まで書いたところで被害者が絶命してしまったため、それが偶然“ヒミツ”という謎めいた言葉として残ってしまっただけ。という可能性が出てきますよね」「でも、中野くん、そうなると、被害者の佐貝さんは、どうしてわざわざ、今は使っていない過去の芸名を書こうと思ったのか、っていう別の問題が出てくるわ」
「もっともですが、そこは、あれなんじゃないですか。薄れゆく意識の中、記憶が混濁してしまい、遠い過去のことが脳裏に浮かんできてしまって、とか」
「ちょっと無理があるような」
「はい。承知しています。ですが、浮かんできた容疑者はこれで終わりではありません。ええと」中野刑事は、さらに手帳をめくると、「二人目の容疑者です。野寺学。放送作家です。益田が出演していた番組のスタッフでもあります。この野寺も前身が芸能人で、漫才コンビとして活動していました。そのときに組んでいたコンビ名が、“秘密のラッコちゃん”というんですよ」
「何の何ちゃん?」
「秘密のラッコちゃん、です。ご存じなかったでしょ。僕もです。テレビに出演したことも数えるほどしかなかったとか。それはともかく、ここでも“ヒミツ”です」
「過去に組んでいたコンビ名に“ヒミツ”が入っていたというだけ?」
「いえ、もちろん動機もあります。野寺は、被害者の佐貝さんと個人的に付き合いがあったそうで。何年か前に、野寺が佐貝さんに対して十万単位のお金を貸したことがあり、それがまだ返却されていないそうなんですよ」
「借金ね……。動機や“ヒミツ”のメッセージの関わりはともかく、その二人のアリバイはどうなっているの?」
「そこなんですが……まず、被害者の死亡推定時刻からお話しします。佐貝さんが亡くなったのは、午後十二時半から一時半までの一時間のあいだと見られています」
「通報があったのが三時二十分だから、少なくとも死体発見の二時間近く前には殺されていたということね」
「はい。で、益田は、一時半から三時までの生放送情報番組に出演していました」
「死亡推定時刻とはかぶらないのね」
「ええ。益田は放送開始の三十分前――午後一時ですね――にスタジオ入りしていて、番組の最終打ち合わせなどを行っていたそうです」
「それ以前の、十二時半から一時までは?」
「喫煙所で煙草を吸ったり、局内をぶらぶらしていたと証言していますね。局に到着したのは十二時ちょうどで、いったん控え室に入って出演準備を終えて出ると、局内を散策して、そのまま一時にスタジオ入りしたそうです」
「事実上、アリバイなし、ということね」
「そうなりますね。もうひとりの容疑者、野寺も似たようなものでした。こちらは他の仕事があったので、局へは朝から入っていたそうですが、スタジオ入りしたのは益田よりずっと早くて、午前十一時のことだそうです。その番組の放送作家を務めていたので、番組の進行なんかの打ち合わせ事項が多かったためでしょうね」
「その間、ずっとスタジオに入りっぱなし?」
「いえ、喫煙やトイレのため、十分程度スタジオを出ることは何度かあったそうです。現場となった控え室までは、数分もあれば往復可能なため、どこか――十二時半から一時半――のタイミングでスタジオを抜け出して、佐貝さんを殺して、またスタジオに戻ることは十分可能だっただろうと思いますね」
「こちらも、アリバイはなし、ね」
「はい。今のところ、めぼしい容疑者というのは、この益田と野寺の二人以外には浮かんできていませんね。いちおう、その二人も含めた関係者全員には、スタジオに集まってもらって、警察官の監視を付けていますから、その中に犯人がいるのだとしたら、逃亡の心配だけはありません」
報告を終えた中野刑事は、閉じた手帳を懐にしまった。
「どう思う? 理真」
丸柴刑事から意見を求められた素人探偵は、
「アリバイのない二人の容疑者。そのどちらもが、“ヒミツ”のダイイング・メッセージに関連した過去の名前を持っている……。そう、これだよね」と理真は、床に記されたメッセージの横へ移動して、「これは、間違いなく被害者が書いたものなのかな?」
「犯人の工作の可能性もあるってこと? 捜査を攪乱するために?」
「被害者が書いたものなら、何を伝えようとしたものなのか……。何を伝えるって、決まってるよね。殺された人物が今際の際に、最後の力を振り絞って書き残そうとすることなんて、犯人の告発以外にはあり得ないと思う」
屈み込んだ理真は、指の先でメッセージを擦ってみて、
「これを書いたペンって、この控え室にあったもの?」
「そう」理真に見上げられた丸柴刑事は、「控え室でサインを書くタレントもいるから、局で用意していたものだそうよ。ちなみに……これ」
丸柴刑事は、スマートフォンを操作して一枚の画像を提示した。立ち上がった理真と一緒に私も覗き込む。ごくごく一般的に見る油性ペンだった。
「どこにでもある普通のペンだね。メッセージじゃなくて、それを書いたペンのほうに何か意味があるのかと思ったんだけど」
「そのペンを使うことが、すなわち犯人を示す、みたいな?」
「そう。でも、違ったみたい」
「調べたけれど、指紋も被害者のものしか出なかったわ」
「……被害者のものしか?」
「そうだけど?」
「変じゃない?」
「どうして?」
「だって、この控え室にずっと置かれていたものだったんでしょ。被害者がダイイング・メッセージを書いた以前にも、この控え室を使った誰かしらが使った可能性が高いのに」
「……言われてみれば。ということは……」
「何者かが一度拭ってから、被害者に持たせて指紋を付けた可能性が高い」
「その何者かって、もちろん、犯人よね。じゃあ、やっぱり、このメッセージは被害者が書いたのではなく、犯人の偽装工作?」
「だとしたって、何でまた“ヒミツ”なんて書いたの? それがどういう工作になるの?」
「氷見司、こと、益田さん。あるいは、過去に秘密のラッコちゃん、という漫才コンビを組んでいた野寺さんに罪を着せるため?」
「それにしても、胡乱すぎるよね」
「そうね。もっと効果的な工作があると思う」
「…………」