入れ替わった相手は、大嫌いな婚約者
朝、エルドレットが目覚めると、身体が動かなかった。
意識はあるのに、自分の意思で指先ひとつ動かせず、声を発して助けを呼ぶことさえ出来なかった。
異変に気が付き、騒然とする侍従たちの様子も、診察をした宮廷医が原因不明の病であると首を横に振る気配も、エルドレットにはちゃんと伝わっているのに、誰の目にも彼が昏睡状態に陥っているように見えていた。
なので、覚醒しているとは気づかずに彼の枕元で交わされる「エルドレット第一王子がこのまま目覚めなければ、立太子するのはコンラッド第二王子だ」とか「こんなことなら愚鈍だと分かっていても、側妃が産んだ第二王子側に付くべきだった」という密やかな会話も、全部エルドレットの耳は拾っていた。
まるで、自分が既に死んでしまったかのようなやり取りに、エルドレットは怒りを激らせていたが、その感情を周りに伝える術は無く、世界から隔離された孤独と焦燥は、彼に永遠とも思える時間を体感させる。
(くそっ、このままでは衰弱して、本当に死んでしまう!)
気管に入らぬよう口内を湿らす程度の水分では、そう長くは持たないだろう。
(死にたくない。俺はまだ死にたくない。
王となって国を繁栄させる夢も、愛する人を幸せにする夢も、叶えられないまま人生を終えるのか。
誰でもいいから俺を助けろ! この状態の俺を救ってくれるのなら、金でも地位でも好きなものをくれてやる!)
血を吐くような必死の叫びは、しかし誰の耳にも届かない。
絶望で気が狂うのが先か、命が尽きるのが先か。
気力が底を尽きそうになった頃、「ドナフィー侯爵令嬢のお見舞いです」と告げる声がして、寝室に誰かが入って来る足音が聞こえた。
(……ああ、カトレアが心配して王宮に駆けつけてくれたのか)
カトレアは、エルドレットの婚約者であるライラ・ドナフィー侯爵令嬢の異母妹だ。ライラの母が亡くなった後に、後妻として家に入ったドナフィー侯爵の愛人の連れ子で、実はエルドレットは、ライラよりも妹のカトレアの方に心を寄せていた。
原因不明の病が感染る可能性があるから、余程のことがなければこの部屋を訪れる人はいない。エルドレットが王族でなければ、世話をされることも無いまま放置されて死んでいただろう。
でも、病に罹患する危険を冒してまで、カトレアは自分に会いに来てくれたのだ。エルドレットの心は歓喜に打ち震えた。
(大好きなカトレア。君を残して逝く俺をどうか許してほしい……だが、俺がいなくなったら、冷酷な姉に虐められている君を誰が守ってくれるのだろうか)
ベッドの傍に置かれた椅子が微かに軋み、腰掛ける気配がして、エルドレットの手が華奢な掌に包み込まれた。
柔らかくて、温かい。
強く握り返したいのに、微塵も力が入らないのがもどかしい。
「エルドレット殿下……」
聞こえてきた声にハッとする。
(この声はカトレアじゃない。まさか……)
カトレア以外のドナフィー侯爵令嬢はひとりしかいない。
驚きで呆然としていると、握られた手にパタパタと温かな雫が落ちてきた。
「……私を置いていかないで……」
間違いない。
これはカトレアを日常的に虐めていた、彼女の姉ライラ──大嫌いな婚約者の声だ。
突然、ぐるりと世界が回転したかのような、めまいにも似た感覚。
次の瞬間、エルドレットはベッドに横たわる自分自身の姿を見下ろしていた。
(な……何が起こったんだ)
ベッドに横たわる死んだように動かない自分を見下ろしながら、エルドレットは混乱の極みにあった。
今の今まで、目も開かぬ暗闇の世界にいたはずなのに、椅子に腰掛けて自分自身の手を握りしめているのだから。
(俺が……ライラになっている?)
慌てて握ったままの両手を離し、頬に伝う涙を手の甲で拭うと、逃げるように部屋を出る。
そのまま現実感のないふらついた足取りで馬車に乗り込み、侍女に伴われてドナフィー侯爵家の邸宅まで帰って来てしまった。
ライラのものとおぼしき部屋の、大きな鏡の前で、エルドレットは髪をかきむしる。
(一体これは何なんだ! 俺はどうしてしまったんだ!)
鏡に映っているのは、見慣れない濃い金色の髪。新緑の瞳。困惑顔のライラ。
どうにも理解が追いつかず、途方に暮れている表情だ。
「そういえば、昔同じようなことがあったな」
エルドレットは忘れかけていた8年前──自分が10歳の時の出来事を思い出した。
あの日、両親である両陛下と共に食事をしている最中にぐらりと世界が揺れて、気づけば知らない部屋に閉じ込められていた。
ドアには鍵が掛けられていて外に出る事が出来ず、鏡に映った自分の姿は何故か成人した金髪の女性だった。
大声で助けを呼んでドアを叩いても誰も来てはくれなかったが、30分程で何事も無かったかのように全てが元に戻っていた。
自分の身に何が起こったのか分からずに辺りを見回していると、興奮気味の両親に「たった今、入れ替わりが起こった」と説明された。
王家の伝承によると、この国の王は神から幾度となく『運命の伴侶』が与えられたのだという。
王と『運命の伴侶』は特別な絆を持つが故に、魂が入れ替わることが度々あり、その王と『運命の伴侶』の治める世は、国民に安寧と繁栄をもたらしてきたのだそうだ。
長い歴史の中でそれは御伽話の類かと思われていたが、入れ替わった相手はライラ・ドナフィー侯爵令嬢と名乗り、実際エルドレットと同い年のその令嬢は実在していたため、伝承は誠であったのかと急遽婚約が決まったのだった。
(……ああ、そういえば8歳の俺が閉じ込められたのはこの部屋じゃあなかったか? 大量の本と、女性の部屋にしてはシンプルな内装は確かに見覚えがある。よく見れば、鏡に映る姿もあの時と同じだ。昔の出来事のはずなのに不思議なこともあるものだ)
部屋の一面に並んだ本棚にぎっしりと本が収納されており、そのほとんどがライラの母の生国──ニッカナルイ国の本のようだった。
ライラの母マーシャは、両国間の親善の為にドナフィー侯爵家に嫁いできた王女で、昔火事で亡くなったと聞いている。
(こんな姿では俺がエルドレットだと説明したとしても、誰にも信じてもらえないだろう。……どうしたものか)
今頃、ベッドから動けなくなったライラは、身に降りかかった災難をどう受け止めているのだろうか。
気まぐれに見舞いになど行かなければ良かったと、気も狂わんばかりに後悔していることだろう。
ふいにエルドレットの心の奥底で、好都合じゃないかと囁く声がする。
(どういうわけか数日以内に死んでしまう俺の運命を、ライラは都合良く肩代わりしてくれたのだ。
彼女は俺の身体に囚われたまま死に、これからの俺はライラとしての人生を、妹のカトレアを守り慈しみながら生きてゆく。何の問題も無い)
ただ少し気になるのは、エルドレットの手に落ちたライラの涙の意味だ。
あれは一体どういうことだったのか、いくら考えても分からなかった。
エルドレットの知るライラは、エルドレットを嫌っており、王子妃教育のため王宮に訪れたライラと顔を合わせても忙しさを理由に碌に話をすることが出来ず、それならばとこちらが侯爵家に赴いて面会を求めても、具合が悪いと自室から出ても来ない。明らかに避けられていた。
代わりにエルドレットをもてなしてくれるのは、ライラの妹のカトレアだ。
いつも優しい笑顔でエルドレットを歓待し、姉の非礼を詫びてお茶を振る舞ってくれ、時々庭の花で作った押し花の栞や洗練された刺繍の入ったハンカチーフ、心の籠った手紙をプレゼントしてくれる。
そんなことが何年も続き、次第に婚約者に会いにドナフィー侯爵家に行くという建前で、カトレアに会って話をするのが楽しみになっていた。
その際、カトレアからは涙ながらに、ライラに怒鳴られたり叩かれたりして虐められていることを打ち明けられていた。
「ライラ!! アンタどういうつもりなの!?」
唐突に部屋のドアが開き、ものすごい剣幕で怒鳴り散らしながら女が部屋に入って来た。
「聞いたわよ! さっき王宮で、エルドレットを見舞って来たそうじゃない!」
「…………カトレアなの……か?」
最初、それが誰だか分からずに反応が遅れたが、髪を振り乱したカトレアだと気づいて息を呑む。
「何の病気かも分からないのに、勝手に会いに行くなんて! アンタ経由で私たち家族に変な病気が感染したらどうするのよ!!」
「あっ……!」
パァーン!!!
呆気に取られて立ち尽くしていたら、カトレアの平手打ちが破裂音とともに左頬に炸裂した。
踏みとどまれず、よろけて床に膝を突いてしまったライラの──もといエルドレットの目から、痛みのあまりポロリと涙の雫が落ちる。
「名ばかりの婚約者のくせにエルドレットを追って殉死するつもり!? そんなに死にたいのなら勝手に死ねばいい! 私たちを巻き込んだら承知しないわ! ほんっと馬鹿で役立たずのグズなんだから!」
怒り狂って床を踏み鳴らし、カトレアは嵐のように部屋から去って行った。
(アレは、こんなに気性の激しい女だったのか……?)
エルドレットの記憶にあるカトレアは、あんなに唾を飛ばしてヒステリックに叫ぶ、凄まじい形相の女では無かったはずだ。どう見ても、日常的にライラに大人しく虐められているような弱々しい令嬢とは思えない。
ここに来てやっとエルドレットは、無様にも自分がカトレアに騙されていたことに気づいた。
しかも、カトレアを追い掛けて部屋から出ようと掴んだドアノブが、ドアに外側から鍵が掛けられているのか全く動かなかった。
再度エルドレットの見舞いに行かせないための処置だろう。苦々しさに彼は強く舌打ちをする。
(外から鍵が掛かる部屋をあてがわれているなんて。……もしかするとライラは、頻繁にこの部屋に閉じ込められていたのかもしれないな)
カトレアに不信感を持ち始めたら、彼女の今までの言動や行動全てに懐疑的になる。
何度もドナフィー侯爵家に訪れてもライラが姿を見せなかったのは、部屋から出られなかったり、エルドレットの来訪を知らされなかったのではないか?
それにカトレアから、今までドナフィー侯爵家に届けた贈り物は全てライラによって捨てられたと聞かされていたが、カトレアのあの態度を見るに、ライラの手元に1つも渡ることなくかすめ取られていたのではないか?
(確かめなければ……!)
10歳の頃ならいざ知らず、素直に部屋に閉じ込められているつもりはさらさら無かった。
エルドレットは、今現在の自分の見た目が淑やかな貴族令嬢であることもお構いなしに、2階部屋のベランダ越しにひらりと跳躍して隣の窓に飛び移ると、隣室を通って廊下に出た。
階下に降りて身を隠しつつ慎重に歩を進めていると、カトレアの素っ頓狂な声が聞こえてきた。
「ええっ?! じゃあエルドレットの病気って、お父さまが仕組んだことでしたの?」
居間からは、もう1人分の低い笑い声が響いてきた。彼女の父親のドナフィー侯爵だ。
「ああ、そうだとも。我が家はコンラッド第二王子側に付くことにした。お前をとても気に入って、是非とも妃にしたいと申し入れてきたのだ。コンラッドは絵に描いたようなぼんくら王子だが、無能な男を王に据えた方が外戚としては御し易いからな」
「それで、エルドレットに毒を?」
「うむ。先日ヤツが我が家で飲んだお茶に、ニッカナルイ国から持ち込んだ植物から抽出した、遅効性の麻痺毒を入れておいた。コンラッドよりも優秀で障害になりそうな人間は、予め取り除いておくに限る」
(……麻痺毒?!)
身体が動かなくなった前日に、確かにエルドレットはドナフィー侯爵家でお茶を飲んでいた。
(じゃあ、あれは病気などではなく、人為的に引き起こされた麻痺だったのか……!)
「流石ですわ、お父さま! でも、ずっとエルドレットを誘惑しようと媚びを売ってきたのにこのまま死なせてしまうのなら、私の貴重な時間を無駄にしましたわ」
「まあ、そう言うな。どうせお前が自分で刺したと言っていた刺繍も、花の栞も手紙も、全部ライラの手によるものだろう?」
「うふふっ、ご存じでしたのね。ねえお父さま、私が王妃になった後にライラをコンラッドの形だけの側妃にして下さらないかしら。王妃の仕事なんて面倒くさくて全然興味ありませんの。やりたくない事を全部押し付ける人間が必要でしょ?」
「問題ない。お前の良いようにするよ」
(ふざけるな! そんな下らない企みのせいで、俺は地獄の苦しみを味わい、今もライラが俺の代わりに生死の境に立たされているというのか! ドナフィー侯爵、絶対に許さんぞ!!)
沸々と、腹の底から怒りが湧いてくる。
(だが、軽蔑すべきは自分も同じだ)
こんな最低な奴らを、今まで疑いもせずに信用しただけではなく、エルドレットのために涙を流してくれたライラを悪人だと思い込んでいた。
そればかりか、入れ替わったライラのことを都合良く捨て置くつもりだった。
エルドレットは自分の事が酷く恥ずかしく、許せなかった。
(くそっ! 俺の身代わりになっているライラを、何としてでも助けなければ……!)
身を翻して鍵の掛かったライラの部屋に戻ると、ニッカナルイ国の植物関係の本を片っ端から本棚から抜き出して、麻痺毒の解毒について探し始める。
だが、いくらもしないうちに周囲の世界が回り始め、身に覚えのある感覚に背筋が凍りつく。
(まさか、また入れ替わりが起こるのか……?!)
気がつくと、エルドレットは手足を後ろに縛られ、床に転がっていた。
ここは、どこかの屋敷の部屋の一室だ。
辺りには煙が立ち込めていて、刺激臭で涙と咳が止まらない。建物内で火災が発生しているようだった。
「……もうすぐ縄が切れるわ……ライラ、お願いだから私の言うことを聞いて……ここから早く逃げるのよ……!」
(……ライラだって?)
見下ろした自分の身体はワンピースを着た子供のもので、エルドレットは過去の──子供の頃のライラと入れ替わったのだと瞬時に理解した。
予想外の連続で、普段では受け入れ難い状況だが、今は迅速な把握が必要だと注意深く周囲を観察する。
背中側で、縛られている縄を懸命に切ろうとしている女性は、呼吸が苦しいのか息も絶え絶えだ。
「……もしかして、ライラの母君のドナフィー侯爵夫人ですか?」
エルドレットの記憶では、ライラの生母はライラの子供の頃に別荘の火事で逃げ遅れて亡くなっている。
ここはきっと、ライラの母マーシャが命を落とす、過去の現場なのだ。
「……あなたは誰?」
「エルドレット第一王子──ライラの婚約者です……未来の、ですが」
マーシャは意外にもエルドレットの言葉をすぐに信じた。彼女の生国ニッカナルイ国の王家にも、同じような入れ替わりの伝承があるのだそうだ。
エルドレットは咳き込みながらも、未来の自分に起こったことをかいつまんで説明する。麻痺毒の解毒について、マーシャなら何か知っているかもしれないからだ。
「……それはきっと、ザヴァランというニッカナルイ国固有の植物の根から抽出したもので、鎮静や鎮痛剤として使われるものよ。多量に摂取すると麻痺を引き起こすわ」
「ザヴァラン? 聞いたことがありません。解毒方法はあるのですか?」
「ザヴァランの薄紫の花のめしべに、解除効果の成分が含まれているの。……水溶性だから煎じて飲ませるのよ」
マーシャが嫁いで来た時に、この国の王妃であるエルドレットの母に友好の花として贈ったから、きっと未来の王宮の温室でも花を咲かせているだろうと彼女は言う。
「……縄が切れたわ。……早く逃げて」
「侯爵夫人、貴女も一緒に行きましょう。さあ」
振り返って手を差し伸べたところで、マーシャの腹部から出血していることに気が付いた。床におびただしい量の真紅が広がっている。
「……私は、もう動けない……お願いよ、ライラをここから逃して。……あの子は私を置いて行けないと……ここに残ると駄々をこねて泣き続けていたの……」
「何でこんな事に……!」
「夫に刺されたのよ。ライラの事も縛り上げて、屋敷に付け火をして逃げたわ。……あの人は異国人を嫌悪していたから……王命で娶った私を忌み嫌っていた……」
(だからって、妻と実の娘を殺そうとするなんて……!)
改めてドナフィー侯爵の所業に腑が煮えくり返る。
マーシャは出血量が多くなることも厭わず、自分の腹部に刺さっていた刃物を抜いて、それでライラの縄を切っていたのだ。
「このタイミングで……あなたとライラが入れ替わってくれて良かった。さあ、早く行って下さい。
……ライラをよろしくお願いします。心から愛していると……ライラに伝えて……」
目を閉じて動かなくなったマーシャに敬愛と感謝を込めて深く一礼すると、燃え盛る屋敷の中を走り出した。
火の粉が舞い踊り、黒煙に行く手を阻まれるなか必死に出口を探す。熱波を吸い込んだ肺の中が信じられないほど熱い。
(これまでのことを考えると『運命の伴侶』は、どちらかの身が危うくなった時に、もう片方の魂を呼ぶんだ。それで入れ替わりが起こる……間違いない)
麻痺で動けなくなったエルドレットはライラの魂を呼び、火事から抜け出せなくなったライラはエルドレットの魂を呼んだ。
但し、まだ8歳でしかないエルドレットを火災の只中に呼んでも、助かる可能性は少ない。だから、ライラと入れ替わった未来のエルドレットを無意識に呼び寄せたのだ。
(かつて、8歳の俺の魂が入っていたのは、先程まで俺が入れ替わっていた未来のライラだった。そして30分後には元に戻った。──ならば、今の俺も30分で未来に戻るはずだ。……屋敷の外に脱出しても、まだ少し時間が残されているはず。考えろ、今の俺に何が出来る?!)
このままライラが火事から逃れて生き残ったとしても、ドナフィー侯爵の所に戻れば殺されてしまうだろう。
何とか彼女を生かさなければならない。
(……くそっ! このまま脱出しただけでは駄目なんだ!)
エルドレットは意を決して、自ら炎の中に飛び込んで行った。
***
その悪夢のような日を、後にライラは何度も思い返した。
ライラの父親のドナフィー侯爵が突然の凶行に及び、妻をナイフで刺し、ライラを縛り上げて別荘の建物に火を付けた。
煙に巻かれて、いよいよ死を覚悟したその時、彼女は優雅な装飾が施された王宮の一室で我に返った。後ろ手で縛られていたはずの両手は、なぜかナイフとフォークを握り締め、豪華な料理を並べたテーブルの前に座っていた。
彼女は直前に刺された母親の姿を見てしまったこともあって、パニックを起こし過呼吸に陥った。
両陛下や王宮使用人たちの介抱を受け、ようやく呼吸を整えて「私はライラ・ドナフィーです」と名乗ったところで目眩に似た感覚を覚え、次の瞬間には信じられない光景が目に飛び込んで来た。
先程までライラが居たはずの別荘が夜の闇のなか、赤い炎に包まれて黒煙と火の粉を巻き上げていた。ガラガラと轟音を響かせて建物が崩れ落ちていく。
「うわぁぁーっ!!! 離して! 中にお母さまが!」
「行っては駄目だ! こんな状態で生きているわけがない!」
「嫌ぁっ!! お母さま! お母さまー!!」
取り乱して狂ったように暴れる小さな身体を、別荘裏手の森に延焼した火事を消火しようと集まってきた大人たちが数人がかりで押さえ付け、診療所に運び込んだ。
(……刺されたお母さまの隣で縛られていたはずなのに、私はどうしちゃったの? 大好きなお母さまを一人ぼっちにしちゃった……)
医師の診察を待つ間、悲しみに打ちのめされてガックリと肩を落としていたライラが、ふと違和感を感じてポケットに手を入れると、小さく折り畳まれた紙片が出てきた。
『ライラ。
これを読んでいる君は今、全ての希望を無くして失意の底にいることだろう。
でも、頼むから生きる事を諦めないでくれ。
君の身の安全を確保するために、これから俺が書くことを心に留めて行動して欲しい。
俺はエルドレット第一王子。この後、君と婚約することになる男だ。
そしてこの手紙を書いている俺は、18歳の未来の俺だ────』
(これは……なんだろう?)
ざっと目を通したその手紙は、ライラに記憶を失ったフリを指示する内容だった。
けれども、最愛の母親を失ったばかりの彼女には、自分の身の安全を気に掛ける余裕は無かったし、その手紙をタチの悪い悪戯だと思った。
何もかもがどうでもよくて、医師の問いに「わからない」「覚えてない」と投げやりに返していたら、手紙の差出人の意図した通りに記憶喪失という診断が下されていた。
一度は現場を立ち去ったドナフィー侯爵が、娘が死なずに火災から生還したと連絡を受けて慌てて診療所に駆けつけ、呆然と横たわるライラの全身を探るような目で睨め付ける。
火傷は軽度のものばかりだったものの、顔や身体中が煤で真っ黒に汚れ、服は元の意匠が分からない襤褸切れの状態になり、見る影も無かった。母親から受け継いだ美しい金髪も大部分が焼け焦げ、炭化してポキポキと折れ落ちた髪がベッドの上に散乱していた。
手紙によるとそのどれもが、エルドレットが火事から脱出する前に、ライラがあたかも精神的苦痛を受けたかのように策を施したものだった。
後からこの時のことを思い出す度に、ライラは背筋に冷たい物を押し当てられたような心地がしたものだ。
何の細工もしていなかったら、自身の犯行の発覚を恐れたドナフィー侯爵からライラは直ぐに殺されていただろう。
ドナフィー侯爵は娘の悲惨な姿を見て、医師の言う通り記憶喪失というのは確かな事だろうと判断し、世間から怪しまれないようにある程度の期間を空けてから娘を殺そうと思い直したようだった。
だが、数日後には王命で、第一王子エルドレットとライラの婚約が結ばれる事になり、ドナフィー侯爵はライラを殺す事が出来なくなってしまった。
王族の婚約者が死亡すれば、その調査は徹底的に行われるだろう。下手をすれば放火や妻を刺殺したことまで芋蔓式に暴かれるかもしれない。
入れ替わりの事は王家の秘密なのか、ドナフィー侯爵には知らされていないようだった。『何でコイツが王族の婚約者に選ばれたのだ』とでも言いたげな苛立ちと猜疑心の入り混じった視線を、ライラは日に何度も感じた。
しばらくしてドナフィー侯爵は、ライラの記憶が戻る兆候が無いと確信を持ったのか、愛人を侯爵家の正式な夫人とし、彼女との間に生まれていた婚外子のカトレアを侯爵令嬢として迎え入れた。
(……手紙の通りにエルドレット殿下が私の婚約者になっただけじゃなく、カトレアが私の妹になったわ。結局、私もお父さまに殺されずに済んでいるし…………この手紙はイタズラなんかじゃなくって、本当に未来の人が書いたものなのかもしれない)
婚約式の日に初めて会ったエルドレットは、赤い瞳と黒髪の、精悍な顔つきをした少年だった。
(この人がエルドレット殿下。私の命を救って生きろと言ってくれた、私の将来の結婚相手……)
ライラはやっと顔合わせが叶ったエルドレットに、ぐいぐいと心が引き寄せられるのを感じた。
母に死なれ、実の父からの危害に怯え、新しい家族に虐げられ、愛してくれる人間が誰もいなくなってしまったライラにとって、自分の身を案じてくれたエルドレットの存在は、たったひとつ残された心の拠り所であった。
ライラは何度も、母の最期の言葉を伝えてくれた彼に、お礼を言おうとした。
でも、実際にはそうする事が出来ず、ため息と共に言葉を呑み込んだ。例の手紙でエルドレット自身に止められていたからだ。
『────俺は8年間、ドナフィー侯爵や君の妹のカトレアに騙されて、ライラのことを酷い悪女だと思わされていた。
勿論この手紙を書いている今の俺は、それが誤解だったと分かっている。時間が無いので詳しくは書けないが、8年後に命が危険に晒された俺を、ライラが身をもって救ってくれた。
ライラ、君に頼みがある。
過去の俺と極力関わらず、俺に君のことを誤解させたままにしてくれないか。
過去を変えてしまったら、未来の俺が、今日起こった火事からライラを救えなくなる可能性があるからだ。
君は家族からも婚約者の俺からも、長い間疎まれて辛い思いをすることになるだろう。
残酷なことだと分かってはいるが、8年後の俺が必ず君を助けると誓おう。どうか俺を信じて待っていて欲しい。
最後に、
母君は立派にライラを守り、俺に君のことを託した。
【心から愛している】
これが彼女の、君に向けた最期の言葉だ』
ライラは手紙を読み返す度に、自分がこの世界でたった独りではないのだと思えた。
火事からライラを救い、手紙を書いたのは、未来のエルドレットだ。
ライラはその未来が訪れる日まで、彼に関わらないようにして酷い女だと思わせなければならないらしい。
そうしなければ、ライラが火事から生還する事が出来ないかもしれない。
(それだけじゃない。この手紙によれば、将来、私がエルドレット殿下の命を救う事になるらしいわ。過去を変えてしまったら、エルドレット殿下を助けられない。仲良くできないのは淋しいけど、それくらい我慢しなくっちゃ)
手紙は他の人の目に触れないように、何度も繰り返し読み込んで、暗記した後に処分した。
ライラはエルドレットを助けたい一心で、王宮内で彼と偶然顔を合わせてもニコリともせず、多忙を言い訳にして逃げるように立ち去った。さぞや無愛想な嫌な女に見えたことだろう。
エルドレットはカトレアからライラに関する悪口を吹き込まれているのか、顔を合わせる毎に眼差しに冷たさが増してゆく。
ライラの部屋の窓からは屋敷の庭園を一望する事が出来るので、見たくもないのにエルドレットとカトレアが楽し気に笑いながら散歩しているのを何度も見てしまう。
どちらともなく繋がれた手に、ライラの胸の痛みが止まらない。
王宮から帰宅した際に、エルドレットと鉢合わせして「君は最低な女だな!」と非難の言葉を向けられた事もあった。
「……一体何のことでしょう」
「惚ける気か。全部カトレアから聞いているんだぞ!」
エルドレット殿下の赤い瞳が憎々しげに揺れて、あの夜の燃え上がる炎のように見えた。
「日常的にカトレアに手を上げているそうだな。実の妹に暴力を振るう行為を恥ずかしいとは思わないのか! それに、俺が贈ったドレスやアクセサリーを見もしないで全部捨てていると聞いたぞ!」
「え…………?」
贈り物を貰った覚えが、ライラには全く無かった。ましてや暴力なんて。
言葉を失って立ち尽くすライラが、不貞腐れているように見えたのか「釈明のひとつもないとは、俺も舐められたものだな!」とエルドレットは吐き捨て、カトレアがそんな彼を潤んだ目で見上げる。
「エルドレット殿下、良いのです。ちょっとぐらい叩かれたって、慣れているので私は大丈夫ですわ。ドレスやアクセサリーの事だって、一度も身に付けること無く捨てられているのが余りにも可哀想なので、殿下の誠実なお心ごと私が拾い上げておきました」
「そうか。ではカトレア、それはそのまま君が使って欲しい。人の気持ちを大切に出来ない冷酷な女より、優しい君が身に付けた方がよっぽど似合っているだろうよ」
「まあっ、殿下ったら!」
「よく聞け。この次カトレアに暴力を振るったら、死ぬほど後悔させてやるから覚えておけ」
エルドレットと、彼の腕にしがみついたカトレアが仲良さげに笑いながら去って行くのを、ライラは黙って見送ることしか出来なかった。
そんな誤解を何度も繰り返し、切ない気持ちの置き所がないまま、夜毎ベッドの中で声を殺して泣くのが日課になってしまった。
(大好きな人に自分の本当の気持ちを伝えられないのが、こんなにも辛いなんて思わなかった。でも、いつかきっとエルドレット殿下の私に対する疑いが晴れて、一緒に笑い合える日が来るはずだわ……!)
その未来だけを夢見て、ライラは8年という長い月日を耐え忍んだのだった。
「ねえ、エルドレットが昏睡状態なんですって」
気軽な世間話でもするように、カトレアがライラに向けて切り出した。
「……嘘」
「嘘じゃないわよ、原因不明の病気で意識が無いって王宮で働く知り合いから聞いたんだから。あらっ、もしかして危篤って言ってたかしら? 残念だったわねライラ、せっかく我が家の邪魔者のアンタが、玉の輿に乗れるチャンスだったのにねぇ」
半ば楽しむようなカトレアの声は、ライラの反応を窺い、嘲る響きを含んでいる。
「そもそも、アンタなんかが王族の婚約者に選ばれたのが間違ってたのよ。お父さまも何でアンタが選ばれたのか理由がサッパリ分からないって仰ってたけど、まさかこんなオチがつくとはね〜。原因不明の病気で死んじゃう王子の婚約者とか、めちゃくちゃ運が悪すぎて笑えるぅ〜〜」
ケラケラとお腹を抱えて笑うカトレアの暴言に、ライラの目の前は真っ暗になる。
(嘘よ! あの方が、エルドレット殿下が死んでしまうなんて……!!)
いつか誤解が解けて心をを通わせる日が来ると信じていたから、辛い気持ちを押し殺して、今まで何とか頑張ってきたというのに。
取るものも取り敢えず、王宮へ向かうためにライラは馬車に飛び乗った。
「エルドレット殿下……」
無防備にベッドに横たわるエルドレットを見た時、カトレアの言っていた事は本当なのかもしれないとライラは震えた。
感染を危惧してか、世話する人間が最小限の人数しかおらず、その表情に諦観の色が濃く浮かんでいる。
(本当に死んでしまうというの? 今度こそ私は独りきりになるの? 彼にまだ感謝の気持ちだって伝えてないのに)
もう二度とこの唇がライラの名前を形作る事も無ければ、燃えるような赤い瞳がライラを映す事も無い。そんなのは嫌だ。
「……私を置いていかないで……」
その瞬間、ライラは真っ暗な世界に引き摺り込まれた。
(……身体が動かない! エルドレット殿下と身体が入れ替わってしまったのだわ!)
助けを求めたくても声が出せず、鉛のように重い瞼は持ち上がらない。
ライラの身体に入ったであろうエルドレットが、自分を置きざりにして帰って行く物音を、彼女は信じられない思いで聞いていた。
ライラはようやく理解した。
手紙に書かれていた、エルドレットの命をライラが身を以て救うというのは、この事だったのだと。
自分がエルドレットの代わりに死に、エルドレットはライラとして生きて行くのだと。
(私は、エルドレット殿下に見捨てられたんだわ……!!)
危険に身を晒しながら火事から助けてくれたのは、ライラの身体が8年後の未来で、エルドレット自身の魂が入る器だから。
エルドレットと関わらせず、ライラに対する誤解を解かせなかったのは、自分の代わりに死ぬ人間と親しくなる必要が無いから。
母の最期の言葉を手紙で伝えてくれたのは、エルドレットを信用させて、彼にとっての都合の良い行動をライラに取らせるため。
時間の経過とともにライラの心に沢山の疑念が浮かび、信じていたエルドレットの裏切りを思う度に頭がおかしくなりそうだった。
絶望で気が狂うのが先か、命が尽きるのが先か。
どのくらい、そうしていたのだろう。
深い暗闇に沈み込んでいくような、虚無に引き込まれるような。
抗うことの出来ない死に向かう時、人はこんなにも空っぽな気持ちになるのか。
時間の感覚が無くなって、ライラはもう自分が生きているのか死んでいるのか解らなくなっていた。
「……──イラ! ライラ!」
誰かが自分の名前を必死に呼ぶ声を聞いた。
それが自分自身の声だと気づいた彼女は、とうとう自分は気が触れてしまったんだわと、可笑しくなった。
「ライラ! 俺だ! エルドレットだ!」
(…………エルドレット……殿下?)
「ライラ……君の心はまだここにいるのか。恐怖と絶望で消えてしまってはいないだろうか……」
(まだ私はここにいるわ。エルドレット殿下、戻ってきてくれたのね……!!)
自分はエルドレットに見捨てられたのではなかった。
ライラの心は喜びで満たされ、生きたいという強い思いが、確かな光となって彼女の世界を隅々まで照らすのを感じる。
エルドレットは入れ替わった後に自分の身に起こった事を、ライラに全て説明した。
この麻痺はドナフィー侯爵が引き起こしたもので、過去のライラと入れ替わった際にライラの母から教えて貰った薬を、今、王宮の人間が総出で準備しているという。
「もう大丈夫だ」
ライラを励ますようにしっかりと握られた両手が頼もしく、とても温かい。
薬は少しずつ何度も与えられて、解除効果が現れるまでの長い時間、エルドレットは付きっきりで自分自身のことを沢山話してくれた。
剣の稽古が好きなこと。
負けず嫌いで、好き嫌いが激しいこと。
王宮で飼っている犬を甘やかし過ぎて、どうやら下に見られていること。
両親を尊敬していて、将来の目標にしていること。
馬を駆って仰ぐ空が好きなこと。
睨まれているような気がして、実は魚料理が苦手なこと。
ライラの母から勇気をもらったこと────。
ライラの心が折れるのを恐れるように、消えてしまうのを留めるように。
そして、8年にも及ぶふたりの空白の時間を埋めるように。
話は途切れることなく続けられた。
やがて目を開いたライラは、自分の姿をしたエルドレットが泣き笑いする顔を認めて、うっすらと微笑んだのだった。
***
数週間後、エルドレットから王宮の執務室に呼び出されたドナフィー侯爵は、快気祝いの挨拶と立太子する事が決定したお祝いを述べるなり、自分が何故呼び出されたのか疑いもせずにソファーセットの向かい側にふんぞり返って座った。
死ぬと思っていたエルドレットが、どこにも不具合の無い健康な状態でいる事実に、彼は不思議そうな視線をエルドレットに向けていた。
「恥ずかしながら、先日より娘のライラが行方不明になっておりまして、心配で血眼になって捜索しております」
全く心配そうではない口調で彼は言い、出されたお茶を飲み干した。
「実をいいますと、あれは男出入りの激しい娘でして、きっとどこぞかの碌でもない男と駆け落ちしたのでございましょう。この際ですからライラではなく、妹のカトレアを婚約者に据えて頂けないかと……」
「黙れ! ライラを侮辱するのは許さん!」
突然、目の前の王子に怒鳴りつけられ、更には入室した騎士たちに拘束されて、ドナフィー侯爵は顔色を変えた。
「こっ、これはどういうことですか殿下!」
「白々しいな」
今までの柔らかい笑みを、底冷えするほどの冷酷な表情に豹変させたエルドレットは、腰から抜いた剣の切先を、驚愕に見開かれたドナフィー侯爵の目の先に向ける。
「王族に毒を盛っておいて、楽に死ねると思うなよ」
「ひいぃぃっっ!! 違います! あれは、その……コンラッド第二王子殿下に脅されて……し、仕方がなかったのですっ!」
引き攣った顔で後退ろうとして退路がないと知ると、卑怯にもこの場に居ないコンラッドに罪をなすりつけ始めた。
「前侯爵夫人を殺害して火を放ち、ライラを危険に晒した罪、今すぐここで息の根を止められても文句は言えまい」
「なっ、何故それを?!」
「──だが、情けを掛けてやる。優しい俺がお前に、自分自身の行いを十分に反省する時間を与えてやろう。お前が今し方美味そうに飲んだそのお茶は、先日お前が俺に振る舞ったものと同じ物だ」
「ぐえぇぇっっ! おぅえぇーっっ!!」
慌てて喉に手を突っ込んだドナフィー侯爵は、涙を浮かべて必死に飲んだ物を吐き出そうとするが、直ぐに騎士に手枷を嵌められてしまった。
彼は青ざめて表情が抜け落ちたまま、部屋から連行されて行く。その小さくなった背に向けてエルドレットは冷たく言い放った。
「お前が入るのは牢獄ではなく肉体の檻だ。どんなに泣こうが喚こうが、永遠とも思える地獄の時間が続くだろう。──ああ、言っておくが、居住性はすこぶる快適だ。経験者の俺が保証してやる」
3日経過した時点でドナフィー侯爵に解除薬を与えて、覚醒後は貴族用の牢獄に移送するようにと部下に指示を出し、執務室を出る。
父親とはいえライラを長年苦しめた男だ、心情的には麻痺させたまま放置して絶命させてやりたかったが、将来国を統べる者として私的制裁は許されない。
現ドナフィー侯爵夫人やカトレアの関与も合わせて調査させ、然るべき裁判を受けさせなければならない。
心身共に疲れ果てたエルドレットが向かったのは、ライラが滞在している王宮内の部屋だ。今回の入れ替わりの後も、ずっと彼女は王宮で保護されていた。
「ライラ、今日の王太子妃教育の勉強は終わったかい?」
「はい、明日の予習まで全部終わらせました」
ライラの傍に近づくと、彼女は白桃のような瑞々しい頬を色づかせ、嬉しそうに見上げてくる。
(ああ……今日もライラは可愛い!)
エルドレットは全神経を集中させて、緩みそうになる口元を引き締めた。
その日の執務を全て終わらせた後は、ふたりで庭園を散歩するのが日課だ。ライラとのデート時間を確保する為に、エルドレットは毎日怒涛の勢いで山積みされた仕事をこなしている。
「ライラ、庭園に出る前に、またお願いしたいんだが」
「……えっと……また、ですか?」
絡めた指を少し引くと、ぽすんとライラが腕の中に収まる。
甘い香りのする、華奢で柔らかい身体を抱き締めながら、先程のドナフィー侯爵とのやり取りでささくれ立った心が、みるみる癒されていくのを感じる。
実は、ライラが目覚めた後も入れ替わった魂がなかなか元に戻らなかったので、急遽、王宮内に設置された『入れ替わり対策本部』の面々がニマニマしながら考えた方法を、ふたりは片っ端から試していた。
手を繋いで小高い所から飛び降りてみたり、廊下の曲がり角で軽くぶつかってみたり、神殿前の坂道を抱き合ったままコロコロ転がってみたり。
「口づけ、なんてどうかしら? 愛の力で奇跡が起こって、抱えている問題が全て解決するの。そんなお芝居を観たことがあるわ」
母である王妃までもが楽しそうに言い出したその案に、エルドレットは一も二もなく飛びついた。
恥ずかしそうにモジモジするライラに、元に戻る重要性を強調した説得で、唇を重ねたものの、興味本位に薄目を開けてしまったエルドレットが、自分のキス顔を見てしまうというトラウマ級の事故が発生した。
「頼むよライラ。元に戻った今でも、およそ生涯見るはずのないものを見た心の傷が深すぎて、執務が進まないんだ」
嘘である。
心の傷は存在するものの、ライラ会いたさに仕事は即行で終わらせている。
「……でも、あれから、もう何回も上書きするためのキスをしましたよね?」
「1日1回は上書きしないと、悪夢にうなされるんだ」
もちろん、これも嘘だ。
最近はライラと親密になる、ちょっと口に出すのが憚られるような幸せな夢ばかりを見ている。
「そうなのですね。……わ、私でお役に立てるのならば…………頑張ります」
「君にしか出来ないことだ」
観念してぎゅっと目を瞑って上向くライラに口づけながら、しばらくはこの手で行こうと、エルドレットは拳をグッと握りしめるのだった。
この時のエルドレットには知る由もなかった。
この先も入れ替わりは頻繁に行われ、自分が人とはちょっと違う、変わった人生を経験するという事を。
ライラを連れ去ろうとした他国の間者を、逆に、入れ替わったエルドレットが殴り倒して捕縛するとか。
遠方の戦地にいながらにして、王城にいるライラとの入れ替わりで情報を共有化して、圧倒的に不利な戦局を逆転勝利に導くとか。
出産を待つ間、廊下に漏れてくるライラの陣痛の呻き声に耐えられず『代わってあげたい!』と念じたばかりに、エルドレットが産みの苦しみを味わう事になるとか。
──そして、出来が良く育った息子に向かって、王であるエルドレットが「さすがは俺が腹を痛めて産んだ息子だ」と親馬鹿のベタ褒めを発揮して、その場にいた人々を思いっきり引かせてしまう────そんな、愉快な未来が待っているとは。