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シュガースポット


 僕の妹には昔から自分の手足を噛む癖があった。指先をくわえる、二の腕に歯形をつける、足は届きにくいので膝ばかり噛んでいたが、妹の身体から唾液と噛み跡が消えることはなかった。

 当然、母親は叱った。妹は自分を噛む以外は普通の素直な幼児だったから、怒られたらやめた。ただし、母親の前でだけ。

 僕といるときには気にせず続けていた。噛むと跡が残ってバレるので、舐めるようになった。指先、二の腕、膝へと、妹の幼い舌が這わされる。


「なんか楽しいの、それ」


 歳の近い妹に注意とかするほど僕も大人ではなかったし、単純な興味で聞いた。

 妹はとろけるような笑みを浮かべて、


「甘いの」


 自分の舐めた跡を指した。


「こことか、ここ。場所によって甘い味がするの」




 妹も成長して、小学校に上がる頃には変な癖もなくなるかと思いきや、一向にその気配はなかった。むしろますます度を越した。人前では舐めない分別は身につけたようで、僕と二人きりになった途端、解放されたようにべろべろと身体中を舐めはじめる。


「どんどん甘い場所が増えてるの。前はここ、味がしなかったのに今は……ほら」


 妹は嬉しそうに自分の手の甲を舐めた。僕のほうにも差し出すが、首を振っておく。


「甘いの、苦手?」


 妹は残念そうだ。

 考えてみれば、妹は子供というのを差し引いても、甘いもの好きだったように思う。

 いつだったか、親戚の大人に連れられて、知らない町の駄菓子屋に兄妹で入ったことがあった。普段両親がくれるよりも多めのお小遣いをもらって、好きなものを買っていいと言われた。

 妹は大喜びで、子供用の小さなカゴに、山程の甘い駄菓子を詰め込んだ。いちご飴にさくらんぼ餅、チロルチョコ、ヤングドーナツ……見るだけで甘ったるい顔ぶれだった。


「お兄ちゃんは、それだけでいいの?」


 イカ串を一本だけ買って会計を終えた僕に、妹が聞いた。僕は残りの小遣いを妹にあげた。

 妹は、菓子を食べているとき以上に至福の表情で、自分の身体を舐めている。




 最近の妹は浮かない顔だった。背も伸びて、少女らしい柔らかなラインになった両肩を、不満げな顔で抱きしめている。


「苦くなってきたの。苦い場所が、だんだん増えてるの」


 前はあんなに嬉しそうに舐めていたのに、今は舌を触れるたび、悲しげに眉をひそめる。手足を舐め、確認するようにもう一度舐め、無念そうに首を振る。


「ここ、ここだけは、まだ甘いの。鎖骨の、右側あたり」


 妹は襟元をはだけて、薄っすらと浮いた鎖骨を僕に見せつけた。僕の手を取り、首元に持っていき、触れて確認させる。白く、なめらかな首筋だった。


「いい? お兄ちゃん、ここ。この場所だからね」


 見たことないほど真剣な様子で、妹は僕に言い聞かせた。僕は戸惑いながらもうなずいた。




 妹が死んだ。最後に二人きりで会話してから、一週間も経たないうちに。信号無視して道路に飛び出し、トラックに轢かれてぐちゃぐちゃになったらしい。

 葬儀は地元で行われた。親戚が集まり、学校の友達が何人か来た。棺桶の中に花やら思い出の品やらが入れられるのを、僕は現実感なく眺めていた。


「ナーナちゃんの身体、ほとんど残ってなかったっすね」


 気づけば、一人の女の子が僕の隣にいて、独り言のように呟いていた。妹と同じ年頃らしいその子を、僕は見下ろした。葬儀だというのに制服は着ていない。でも、年齢的に妹の友達だろう。

 親戚は気を遣って僕に寄り付かず、その子も学校の友達グループには遠巻きにされているようで、結果的に僕のそばにくる形になったようだ。

 その子は携帯ゲーム機に目を落としたままで、僕は話しかけられたのかどうか迷った。


「……ナーナちゃん?」

「あの子のことっす。あだ名みたいなもんっす、私しか呼んでないけど」


 おずおずと聞いてみると、視線はゲーム機に向けたままで、返事があった。妹の名前にはかすりもしていないから、すぐにはわからなかった。

 僕の位置から見えるゲーム機の画面が暗くなり、真っ黒になる。充電が切れたようだ。彼女は厚手のパーカーのポケットにゲーム機をしまい、別の機種のゲーム機を取り出しプレイしはじめた。


「気にしないでくださいっす。ゲーム依存症っす」


 妹の友達は全く画面から目を離さずに呟いて、


「お兄さんも、甘いの好きなんすか」


 聞かれて、僕は彼女が棺桶にキャンディーを入れていた子だと思い出した。駄菓子屋で売っているような、甘そうなペロペロキャンディー。手紙とか、ぬいぐるみとかを他の子は入れていて、お菓子を入れていたのは彼女だけだった。

 同時に、僕は気づいた。彼女しか呼ばない妹のあだ名。今の質問。妹は、この子の前でも自分の身体を舐めていたのだ――僕は、少しがっかりした気持ちを自分の中に感じた。なんだ、僕だけじゃなかったのか……。

 彼女は、ゲームの手を止めないままに、妹の死を悼んでいるようだった。彼女との間に降りた沈黙から、そんな感じがした。


「……私のお母さんの話なんすけど」


 妹の友達が、不意に口を開いた。


「うちの母親、野菜とか、果物とか、少しでも傷むとすぐ捨てちゃうんですよね。黒くなった場所が耐えられないとか言って。……ナーナちゃんも、同じだった」


 僕は彼女を見た。そのとき、葬儀屋のスタッフが参列者の退席を促して、ぞろぞろと人が移動しはじめた。妹の友達はその流れに従って出ていき、僕は姿を見失った。




 妹が入った棺桶が出棺し、火葬場の待合室で焼かれるのを待つ間、僕は空気に甘い匂いを感じる気がしていた。

 そういえば、妹はお菓子作りが趣味だった。オーブンでマフィンやらケーキが焼き上がるの待っているとき、妙にそわそわしてキッチンをうろついていた。家中に甘い匂いが立ち込めるから、僕も気になって様子を見にきた。エプロン姿の妹と一緒になって、オーブンの小窓から中を覗いた。

 待合室から炉の様子は見えない。……見えたところで、オーブンと違ってちょっと開けてもらうことなんてできないだろうけど。

 それにしても、甘ったるい匂いだ……火葬場のよその家族まで訝しがって、覗きにくるんじゃないだろうか……。




 火葬が済めば、次はお骨上げだった。収骨室に案内され、台に載せられた妹だった骨と対面する。妹の場合ろくな骨が残っていなかったようで、かろうじて頭のある方向がわかるくらいだ。灰色の砂場に、点々と細長い石が落ちているような光景。

 焼き上がった妹が運ばれてきたときから、部屋には甘い匂いが充満していた。


「こちらが頭になります。まずは喪主の方が足から……」


 骨壺を用意した職員が箸を配り、手順の説明をしている。長い箸を使って、二人一組で骨を拾っていき、骨壺に収めていくという。下半身から、上半身へと順番に。

 僕は甘い匂いに包まれながら、妹の言葉を思い出していた。


『ここ、ここだけは、まだ甘いの。鎖骨の、右側あたり』


 僕は視線を動かし、砂場から鎖骨の位置を探した。砕けた頭蓋骨がここで、あれが腕の骨ということは……。


「お次はこちらですよ」


 僕の番が来ていた。迷う箸先を見て取って、職員が声をかける。僕は順番なんか無視して、鎖骨を探したかった。鎖骨の、右側あたりを……箸で取って、そのまま。


「…………」


 ――僕は迷った末に、言われた通りの箇所を取って、骨壺に運んだ。儀式はつつがなく進み、いろんな人の手で妹の骨は運ばれていき、生きていた頃に比べればひどく小さな壺の中に収まった。




 あといくつかの法要が済むまで、骨壺は家に置かれることになった。親戚が訪ねてきて会食が開かれた夜、僕は家の奥の暗い部屋でひとり、妹の骨壺を抱えていた。


『いい? お兄ちゃん、ここ。この場所だからね』


 妹の遺した言葉が何度も頭で繰り返される。冷えきった廊下の向こうからは、会食の話し声が膜を通したように聞こえる。妹がいなくなってから、ずっとそんな風だった。現実はベールの向こうのように遠く、妹の幻聴だけが近い。

 僕は骨壺を包んでいた覆いを外し、蓋を開けた。小さく収められたせいで、もうどこがどの骨だったかわからない。せっかく妹が教えてくれたのに。


『甘いの、苦手?』


 自分で舐めた手の甲を差し出し、残念そうにした妹の顔が蘇る。僕は首を振る。


「違う。違うんだ……僕は、子供っぽいと思われたくなくて。気取って、お菓子なんかいらないふりをして。かっこつけていたんだ。つまらないことばかり気にしていた。人の目とか、自分がどう思われるかとか。本当は……」


 好きだよ、と呟いた。甘いものは好きだ。


「お前の焼いたケーキとか、一度は食べればよかったな」


 僕は言いながら、骨壺をひっくり返した。妹の骨はもろく、いくつかは底の方で割れていた。もうほとんど苦くなったと妹は言っていた。鎖骨の右側あたり。僕の手をとり触れさせた、白く、なめらかな首筋。そこだけはまだ甘いはずだ。






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