お下がり2
「だからごめんなさい。この人だけは……カズオさんだけは、ユウコにあげられない」
「ユウコも、私からもらったものじゃなく、自分のものを見つけるのよ」
自室に戻った私は、お姉ちゃんに会う前よりも重たい無気力に襲われて、床で大の字になっていた。
子供の頃から優しかった、みっつ年上のあかねお姉ちゃん。お姉ちゃんはなんでも物をくれた。服に小物に、恋人だって。そんなお姉ちゃんがたった今残した、決別の台詞。
頭の中では、お姉ちゃんから告げられた言葉が何度も繰り返される。――ユウコにはあげられない――自分のものを見つけるの――
どういう意味? その意味がわかった次の瞬間にすぐわからなくなる。もう一度反復してショックを受け、またわからなくなり――私は終わりなく襲いくる衝撃に打ちのめされていた。
頭を抱えようとした手が、床に積んでいた本の山を倒した。壁際に放置してあった置物や雑貨類が、連鎖して倒れていく。変な模様の入ったでかい壺が高所から落ちて、ドンと階下にまで響く音を立てた。
罅が入ってしまったようだ。これはお姉ちゃんにいつもらった物だったっけ。もう思い出せない。
暗い部屋に光。音に驚いたのか母親が二階に上がってきてドアを開けたらしい。廊下の光が差し込む中、影になった母親が部屋の惨状に驚く。
「いい加減にしなさい! こんなに物を溜め込んで。さっさと処分しちゃいなさい」
叱責が飛び、荒々しい足音が階段を下りていく。私はのろのろと身を起こし、電灯を点けて部屋の様子を確認した。物の多い、雑然とした眺めだった。お姉ちゃんからもらって、飽きて今はもう使ってないものばかりだ。母親がたまに処分してくれたらしいが、まだこんなに残っている。
片付けるか。私は重い腰を上げて取り掛かることにする。もう使えないような消耗品は捨てるが、まだ使えそうなものの行き先は決まっている。
小一時間後、物のいっぱい詰まった荷車を引いて、私は隣家のチャイムを鳴らした。古びた庭付きの一軒家は、あかねお姉ちゃんの家とは反対側のお隣さんになる。
「ユウコお姉ちゃん! 久しぶり、待ってたよ!」
玄関扉を勢いよく開けて、少女の笑顔が私を迎えた。
「久しぶり、ひまり。今日はひまりにあげたい物があって」
長く引きこもっていたせいでぎこちない声と表情で私は笑みを返す。荷車のガラクタを見つけたひまりは、年齢不詳の童顔をさらに輝かせた。
「うわあ! こんなにたくさん! いいの? お姉ちゃん、全部ひまりにくれるの?」
「うん、あげる。私はもういらないから……」
「嬉しい! ユウコお姉ちゃん、大好き!」
小さな子供みたいに大はしゃぎして、小柄なひまりがぎゅうと抱きついてくる。私はいつものように年下の幼馴染の頭を撫でた。
隣に住んでるひまりは、私が小学生の頃からの幼馴染だ。歳はみっつ下になる。あかねお姉ちゃんが中学に上がって遊び相手のいなくなった私が、気まぐれに面倒を見たことで仲良くなった。以来、中学、高校、大人になってからと付き合いは続いている。
年下のひまりは無邪気に私に懐いてきた。背が伸びて着られなくなった、元はお姉ちゃんからもらったワンピースをあげたら喜んだ。興味のなくなったドールハウスをあげた相手もひまりだ。私は昔から、いらなくなった物を全部ひまりにあげていた。
「ひまりの家、また物が増えたんじゃない? 足の踏み場もないよ」
ガレージへ荷車ごとガラクタを運び込んだあと、家の中に招かれた私は、相変わらずの散らかりように思わずこぼした。
外観も古びているが、一歩中に入ればひどい有様だった。廊下、部屋を問わず家具が置かれ、その上に服やら鞄やら日用品やらが乱雑に積み上げられている。さっきまでの私の部屋が綺麗に思えるくらい。ほとんどゴミ屋敷だ。
「お下がりをもらってるの、ユウコお姉ちゃんだけじゃないからね。ひまりは町中のお兄ちゃん、お姉ちゃんからお下がりをもらってるの。それがぜーんぶ、この家にはあるんだよ」
ひまりは誇らしげに、山と積まれたガラクタを示す。確かに、あげた覚えのあるものもあれば、見たことないものもあった。
傾いた半開きのクローゼットの中に、屍みたいに生気のなくなった男が収まっていた。これまた見覚えがある。廊下に雑に配置されたソファの上にも、何人か男が横たわっていた。あかねお姉ちゃんの、私の、今はひまりの歴代の恋人たちだ。どうやら捨てずにとっておいているらしい。
「ひまりって、物を捨てたり、人にあげたりしないんだね。私があげたもの全部、この家に残ってるみたい」
リビングと思しき場所で勧められたソファにかけ、クッションがわりに置いてある丸まった男をどけつつ、私は独り言のようにつぶやいた。
ひび割れたティーセットで何らかの茶を用意しながら、ひまりは上機嫌の笑みのまま答える。
「そうだよ。いろんなお姉ちゃん、お兄ちゃんに物をもらうけど、ユウコお姉ちゃんのは特別大事にしてるの。だって、お姉ちゃんのセンスは大人っぽくて、ひまりが自分で選ぶより趣味がいいんだもん」
私があかねお姉ちゃんからのお下がりに感じていたのと、同じことをひまりも思っていたようだ。当然か。私のあげたものは元はあかねお姉ちゃんのものだ。
「今日荷車一台分もらったものも、素敵なものばかり! ありがたい教えが載った本に、よく眠れるおくすりに、罅の入ったでっかい壺に……お姉ちゃんからもらったもの、ずっと大切にするね。次はなにをもらえるんだろう、楽しみ!」
「あのね、ひまり。そのことなんだけど……」
うきうきとしたひまりと対照に、私は浮かない顔で、今日起きた出来事を告げた。今までお下がりをもらっていたお姉ちゃんが、もう物をくれなくなったこと。
ユウコにはあげられない――お姉ちゃんの台詞がフラッシュバックして、胸が痛む。私が感じた喪失感を、きっとこの子も味わうだろう。
「だからね、もう今までみたい物をあげることはできないんだ。ごめんね」
そう締めくくった私の前で、ひまりは動じた様子もなくティーカップに口をつけていた。いつの間にか、私の前のカップにも湯気を立てる濁った液体が入っている。――何の茶葉だか知らないが、賞味期限は大丈夫だろうか……。
ひまりの返事はあっさりしたものだった。
「ふうん、そうなんだ」
「そうなんだ、って……さっき、私からもらう物を楽しみにしてるって言ってたじゃない。もうあげられないんだよ? ひまりは残念じゃないの」
「関係ないもん。ひまりはもらえれば何だっていいの。人の物を欲しがるのをやめたりなんかしないよ。だって、ユウコお姉ちゃんみたいにすぐに飽きて捨てたりしないで、大切にするもん」
私は昔から知る幼馴染の顔をまじまじと見つめた。子供っぽい口調に、歳を取ってないみたいな童顔。着ている服だって昔の子供服だ。私の視線と鏡写しのように、ひまりも私の服を見ていた。
「今着てる『それ』も、あかねちゃんからもらったの?」
「そうだけど……」
私は自分の服を見下ろす。外に出るときにさすがに部屋着は脱いで、今は胸元にリボンのついた、大きな襟付きのブラウスを着ていた。ガーリーな雰囲気がおしゃれで気に入っている。
と、胸のリボンを、身を乗り出したひまりがむんずと掴んだ。
「じゃあこれ、ちょうだい」
私は耳を疑った。
「え? 駄目だよ……」
「なんで?」
「なんでって、今着てるし。まだ使ってるから」
「じゃあいつまで待てばくれる? 一週間後? 一ヶ月後? 一年後? そのうち飽きたらユウコお姉ちゃんはくれるんだよね。これまでだってそうだもんね。どうせユウコお姉ちゃんは何も大切になんてしないんだから、もらってもいいよね」
そんなことない、と言い返しかけて、私は止まった。ひまりが次に口にした言葉のせいで。
「お姉ちゃんには、どうしてもあげたくない自分のものなんてないもんね」
――自分のものを見つけるのよ――あかねお姉ちゃんの声が耳に蘇る。
私はかっとなって立ち上がる。胸元のリボンがするりとほどけてひまりの手に握りしめられた。幼馴染は大事そうにリボンを広げ、自分の襟元に結びつけた。
いい。欲しいならリボンくらいくれてやる。私はボタンも外さずブラウスを脱いでひまりの頭にかぶせてやった。ついでだ、服もくれてやる。
「あげる!」
私は乱暴に叫ぶと、茶に口もつけずに大急ぎでひまりの家を出た。キャミソール一枚なので肌寒い。隣の自宅へ戻り、まっすぐに自分の部屋へ。少しばかり物の片付いた部屋のタンスや引き出しを片っ端から開ける。
ひまりにあげたくないものなんていっぱいあるに決まってる。探せば、自分のものだって
――
――これは、あかねお姉ちゃんからもらった服。これも、これもそうだ。カバンに靴、髪飾り。大量の本に漫画、本棚までお姉ちゃんの家から運び入れたものだ。ああ、ベッドだってお下がりじゃないか! 今更気がついたが、服だけじゃない、今着てるキャミソール、下着までもらい物だ!
「あるはずだ、あるはずだ……!」
私は下着を脱ぎ捨て、血眼になって私のものを探した。あるはずだ。こんなに物があるんだから、ひとつくらい……
どれほどの時間が経っただろうか。
空き巣に入られたみたいに物の散乱した部屋で、私は全裸になって呆然としていた。私のものなんて見つからなかった。私が持っているものは全部、お姉ちゃんにもらったものだった。
見つけないとならないのに。あかねお姉ちゃんもこんな気持ちだったのだろうか。
私からは完璧に見えていたお姉ちゃん。精神的に弱くて不安定だと自称したお姉ちゃん。婚約者の支えがなくては生きていけないほど弱いお姉ちゃんが、顔を覆って悲鳴を上げている。
早く、早く。私だけのものを見つけないと――全部あの子にとられてしまう。