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紫水晶とバースデイ


 麻奈美の素肌が白いシャツで隠される。肩から覗いていたブラの紐も、胸元のボタンを留めることで見えなくなった。痩せた鎖骨だけがちらと覗き、あの首に飾るなら何色の宝石がいいだろうと考える。

 緑……エメラルド。

 5月は麻奈美の誕生月だし、贈り物にちょうどいいかもしれない。

 衣擦れの音は、いつの間にか止まっていた。


「なあに、人の着替えをじっと見て」


 ベッドに浅く腰掛けたまま、麻奈美が小さく笑ってこっちを見ている。シャツを着て、パンツスーツのズボンを手にとった状態。すらりと伸びた生足は、まだ素肌を晒している。

 僕はだらしなくも半裸のまま、ベッドの中から返事する。


「いや。来週の誕生日、麻奈美は何が欲しいかと思って」

「プレゼント?」


 一瞬、嬉しそうな顔を見せたが、すぐに顔をしかめる。


「いいよそんなの、無理しないで。……誕生日も、二人で会えるかわからないし」


 わざと興味のない素振りで、忙しげにズボンを穿く。魅惑の素肌は隠されてしまう。下ろしていた髪を一つにまとめれば、つんと張り詰めた雰囲気の美人が完成する。ベッドサイドから眼鏡を取ってかけると、僕を見る目つきからさえ、甘さが消えてしまったようだ。

 スーツのジャケットを羽織る後ろ姿に僕は聞く。


「もう夕方なのに、また出かけるの」

「今日は一旦帰っただけ。これから不登校の子の家に行かないと」


 教師の仕事が忙しいのは知っている。行事がある月はもちろん、普段の授業に試験の準備と、暇な時期がないくらいだ、といつも愚痴っている。土日も部活動の引率をしないとならないから、こうして二人で会う時間を作るのも一苦労だ。


「今、家庭訪問の時期だっけ。それって時間外労働なんじゃないの」

「私がしたくてしてることだから。やっぱり自分のクラスの子には、学校に来てほしいしね」


 笑顔になると一転、優しい先生の表情になる。子供好きの麻奈美には、教師は向いていると僕も思う。だから仕事より恋人を優先してほしいと言うつもりはなかった。

 誕生日当日を一緒に過ごせなくても構わない。麻奈美は期待していないような口ぶりだったけれど、実際プレゼントを貰えば喜ぶのは目に見えてるから、用意はしておくこととしよう。

 普段の服装でもよく見えるネックレス……宝石はなにがいいだろう……


「エメラルドって好き?」

「藪から棒になによ。そうねえ、あんまり好きじゃないかも。なんだかおばさん臭くて」


 好きじゃないらしい。僕は想像の中の緑の宝石に×印をつける。


「石だったら、アメジストのほうが好き。綺麗よ、紫色をしてて」

「アメジストかあ……」


 麻奈美のシャツの隙間から見える首元に、紫の石を抱いたネックレスを想像する。うん、これはこれで。

 意味深な質問にそわそわした様子の麻奈美だったが、時計を見てあわてて立ち上がると、


「もう行かなきゃ。冷蔵庫のもの、勝手に食べていいよ。出るなら戸締まりしてね。あ、合鍵持ってるよね。お風呂は沸いてないけど、入りたいなら沸かしていいよ。あと、部屋のものはあんまり触らないでね。ええと、それから――」

「はいはい。急いでるんでしょ。僕はしばらくゴロゴロしてるから気にしないで。いってらっしゃい」

「……せっかく来てくれたのにごめんね」


 僕が手を振って送り出すと、麻奈美は申し訳無さそうな顔をして、急ぎ足で玄関へ消えていった。麻奈美がいなくなってガランとした部屋に、僕はひとり残される。寝室にまだ漂う、恋人との甘い時間の余韻。来週の誕生日を祝うときのことを考えると、今から胸が弾む。


「――麻奈美、普通……だったよな」


 無意識に、言葉が漏れていた。今日、仕事終わりの麻奈美の家に来て、恋人同士の時間を過ごす間、プレゼントのこと以外に頭を占めていたことがもう一つあった。

 付き合いはじめてそう経たないうちに、合鍵は渡されている。麻奈美からの信頼ゆえだろうし、他に男なんていないはずだ。でも、麻奈美の日々の言動、あまり触れてほしくないと言う部屋の中……その端々に男の影のようなものを感じるのは何故だろう――

 それに、麻奈美からは時折、なにかを隠している気配がする。思い詰めたような顔でスマホを見ていることもある。

 一方で、麻奈美が僕を好きだという言葉に嘘はないと思うし、愛情を感じてもいる。それなのに付きまとう、得体の知れない男の気配……。


「まさか、ストーカーに悩まされてるとか? 僕に相談できないでいるだけで」


 僕は不安に駆られて、寝そべっていたベッドから起き上がった。



  ◆



 自宅の門を出たところで、麻奈美は夕日のまぶしさに目を細めた。傾いた日差しが住宅街に差し込み、道路に家々の影を落としている。昼間は初夏の陽気を感じても、日が暮れると急に冷える。暗くなりはじめた辺りはところどころ深い闇が落ちているようで、麻奈美は寒気を感じたのか、身を震わせた。

 足早に歩き出そうとした足が止まる。

 行く手に、誰かが立っていた。

 フードを目深に被った男で、顔は見えない。近くに店もない住宅地で立っているのは不自然で、明らかに麻奈美を待っていたようだ。フードの奥から、麻奈美に強い視線が向けられる。


「誰……」


 麻奈美は怯えてつぶやいた。


  ◆



 ――先生。

 先生をずっと見てきた。家族よりも、誰よりも、この目に映っていた時間が一番長いのは先生だ。先生が見られていることに気づいていないときも見てきた。先生に会えないときは、こっそり隠し撮りした写真を舐めるように見た。眠るときは写真を抱き、朝起きてすぐにその笑顔にキスをした。先生を見ていると、幸せになれた。

 ――最初は、他の大人と同じだと思っていた……。

 鬱陶しいだけ。世間体や仕事としての義務感から自分に構うのだと。ノルマのように自分に会いにきているだけだと。

 でも、先生は優しかった。厳しそうな見た目だから、きっと、自分にだけ優しいのだと思った。自分のことが好きなのだと思った。人に好かれたことなんてなかったから、嬉しかった。

 だから先生を見ていることにした。ずっとずっと。できるなら、片時も目を離したくない。自分は先生のすべてを知るべきだと思った。だから、仕事中も、プライベートも、全部全部見ていた。

 そのうち、先生には恋人がいるのがわかった。

 それでもよかった。先生を見るのはやめなかった。恋人とはいずれ別れるかもしれない。恋人は先生を嫌いになるかもしれないが、自分は先生をずっと好きでいる。先生を一番愛しているのは自分だ。だから、いつまでも見守り続ける。

 ――今日も、先生が家を出てきたところを物陰から見ていた。

 夕暮れ。外出するには遅い時間。おそらく、自分に会いに来るためだ。

 自分を馬鹿にするクラスメイトのいる学校に行く気は起きないが、先生は諦めずに月に一度は会いに来てくれる。先生の目的地は自分の家……なら、会うために先回りして家に戻っていないとならないが、夕日に照らされる先生の姿が美しくて、つい見惚れてしまう。

 仮眠でもとっていたのか、すこし気だるげに見える。眉を寄せた様子は、なにかに悩んでいるようにも。

 と、そのとき、先生に近づく怪しい人影があった。

 物陰に隠れながら思わず身構える。だが、フードを外して話しはじめた様子から、二人は知り合いだとわかる。切れ切れに聞こえる会話から、揉めているような気配がする。知り合いよりもっと親密な……。


(恋人……)


 先生を観察していて、その姿をはっきり目撃したことはないが、存在だけは感じていた。胸に、刺さるような痛みを感じた。


(恋人……あいつが……)


 先生を一番愛しているのは自分。先生の幸せを一番願っているのは自分。自分は見守っているだけでいい――

 ――本当に?

 気づけば、いつも持ち歩いているナイフを、ポケットの中で握りしめていた。先生にもし危険が及ぶときがあれば使おうと思っていた。先生を守るために。でも今は、自分の欲望のために使おうとしている……。



  ◆



 最近、麻奈美の様子がおかしい。

 以前は頻繁に自宅に呼んでくれたのに、この頃は何かと理由をつけて家に寄りつかせない。猫を飼いはじめただの部屋が散らかってるだの、見え透いた嘘をついて。二人で会う約束も反故にされてばかりだ。

 いい加減耐えかねて合鍵で入ろうとしたら、鍵を変えられていた。

 間違いない――俺以外に男ができたのだ。

 散々高級な店に連れていって、食事をしたり、物を買ってやったりしたのに。お前にいくらつぎ込んだと思ってる。ひどい女だ。こっちは結婚する気でいたというのに……。

 今日こそ問い詰めてやるつもりで会いにきた。麻奈美の返答次第では許すつもりはない。

 家の前で待っていると、やがて麻奈美が出てきた。合鍵はもう役に立たないし、インターホンを押しても来客が俺とわかれば出てこないに決まっている。麻奈美の出かけるタイミングで捕まえるしかなかった。大して待たずに会えたので運がいい。


「誰……」


 日暮れが近く、辺りはなかば薄暗くなっていたので、俺が誰だかわからない様子。怯えた顔……いい気味だ。フードを外して顔を見せると、安堵したようだ。

 その顔も、すぐに面倒くさそうな表情に変わる。


「いきなり押しかけてきて、なんのつもり? そんなところで待ってられるの、不気味なんだけど」


 連絡しても無視されるし、俺だとわかれば出ないだろう、と待っていた理由を説明する。麻奈美は聞いているのかいないのか、まとめた髪の団子をいじっている。几帳面な麻奈美にしては珍しく、数本の髪がほつれている。寝起きで急いでまとめたみたいな――こんな時間に?


「で、なんの用」


 麻奈美のそっけない態度。恋人だと思っていた相手からの冷たい対応に、心が傷つくのがわかる。それでも我慢強く、感情を殺した声で俺は言う。


「来週、誕生日だろ。一緒に過ごしたいんだ」

「仕事が忙しいから……」

「それはこっちだって同じだよ。それでも俺は、時間を作って会いに来てる」


 言いながら頭に血が昇ってきたのがわかる。


「麻奈美。どうして最近冷たいんだ。俺を避けてるのか」

「……悪いけど、またにしてくれない。疲れてるの」

「言い訳はもう聞きたくない。今、この場ではっきり言ってくれ。他に男ができたんだ、そうだろう? どういうつもりなんだ、俺とは別れるのか」


 問い詰めると、さすがの麻奈美もばつが悪そうに、


「……わかった。今度、ちゃんと話をしましょう」

「今度?」

「言ったでしょ、忙しいの。これから仕事があるし」


 次に会う具体的な日付と場所を決めて、その場をあとにすることになった。

 どっと疲れた。向こうも疲れた様子だった。


(これはもう、おしまいだな……)


 今までの恋愛経験からわかる。会話するだけでここまでの疲労感を感じるようになったら、関係性が改善する見込みはない。次の話し合いを待つまでもなく、破局は目に見えていた。

 ――でも、自分の側にはまだ未練があるのを感じる。

 付き合っているときの麻奈美は魅力的だった。麻奈美さえ、以前の態度に戻ってくれればやり直せる。向こうさえ変わってくれれば……。

 往生際悪く、そんなことを考えながら、麻奈美に背を向ける。

 こっちだって暇じゃない。麻奈美の家を訪ねたのはついでだった。俺は本来の目的地に足を向ける。


「もしかして、そっちも……」


 背後で麻奈美がなにかを言いかけた、その声が歪む。ぐう、と変なうめき声が出た。

 振り向くと麻奈美が倒れている。

 そばに、青白い顔をした少年が立っている。呆然と麻奈美を見下ろしている。うつ伏せに倒れた麻奈美の背には刺し傷があって、スーツに血が滲んでいて――


「お前がやったのか」


 俺は驚いて聞いた。少年は震えている。


「違う。僕じゃない。僕はただ麻奈美を……先生を、追ってきて。そしたら、女の子が」


 ――女の子?


「同じ高校の子だ。たぶん、クラスメイトの」


 嫌な予感がした……少年の着るブレザーは、俺もよく知っている物だ。少年の顔にも見覚えがある気がする。麻奈美と、自分の勤務先である高校に通う生徒だろう。

 この近所に住んでいる、女子生徒と言えば。担任である麻奈美もだが、学年主任の自分が足繁く通っていた、不登校の――



  ◆



(――なんであいつが!)


 ……血に濡れたナイフを手に、わたしは走っている。


(なんであいつが。あいつがこんなところに)


 混乱している。いつものように、先生の姿を追っていたんだ。家を出て、どこかに向かうのを尾行ていた。そうしたら、怪しい女が先生に近づいて、何やら揉めていた。そいつは何度か、自分の家に来たことのある女な気がするが、わたしは先生以外に興味がない。そいつは、先生の恋人みたいな間柄に見えた。

 気になって、もう少し近くで様子を窺った。ナイフは持っていたけれど、脅かすだけのつもりだった。あの女が先生に変なことしないように。恋人同士のやり取りなんて、これ以上見たくなかったから。

 ――でも、あいつが。あいつがどこからか現れて、女を刺せと言ったんだ。

 クラスでわたしにしていたように、逆らわせない口調で。人殺しみたいな、恐ろしい目をして。

 わたしはあいつに逆らえない。気づけば、この手で刺していた。


(人殺しはわたし? でも、刺したのは、わたしがずっとずっと憎かった、先生の恋人で。じゃあ、わたしはわたしのしたいことをしたの?)


 ――わからない。


「――!!」


 ああ、先生の声がする。わたしの名前を呼んでいる。逃げるわたしを見つけて、追いかけてきたんだ。わけがわからなくなったわたしは、最愛の人から逃げる。ナイフを手放したいけれど、乾きかけた血でくっついたみたいに、手を開くことさえできない……。

 わたしは、踏切の中にいる。

 遮断機は下りていて、うるさいくらいに音が鳴っている。全力で走って、ばくばくと跳ねる心臓の音に重なって聞こえる。バーの向こうから、先生が手を伸ばす。線路内のわたしを引き戻そうとする。

 と――誰かに押されたみたいに、先生がつんのめった。遮断機のバーを越えて、線路の上へ。わたしの腕の中へ。先生を抱きしめる。先生に抱きしめられる。

 わたしは悟る。――あ、これが求めてた幸せなんだ。

 そしてすべてを引き裂く音がして、わたしの視界はばらばらになった……。



  ◆



 バイトして頑張って貯めた金でネックレスを買った。アメジストの銀細工。本物の宝石だ。――もう贈る相手はいないけれど。

 銀鎖にぶら下がる、透き通る紫色の水晶を僕は見つめる。

 アメジストに込められた意味は、誠実、心の平和。

 麻奈美が僕に誠実であれば、こんなことにはならなかった。でも、麻奈美がいなくなった今、心の平和が僕には訪れている――

 麻奈美は恋人として魅力的な女性ではあったけれど、教師と生徒という立場だ。僕と付き合っていることが公になると、当然、まずいことになる。そのリスクを楽しんでいた部分も麻奈美にはあったようだが。

 週末行われた麻奈美の葬式には、クラスメイトに混じって参加した。せっかくならネックレスを棺桶に入れたかったが、人目もあってできなかった。死人の白い首筋には、さぞ映えただろうに。

 麻奈美を刺した不登校児が自死を計ったのを止めようとして、『事故死』した学年主任の葬式も別に大々的に行われたようだけど、そっちは参列していないので様相は知らない。

 ――あのとき、麻奈美が心配になって家を出たら、不登校児の女子がいた。僕がからかっていたら学校に来なくなったクラスメイトだ。彼女が麻奈美をすごい目で睨んでいたから、ちょっと焚き付けたら殺してしまった。

 もうあの白い素肌を抱くことがないと思うと、惜しい。


「でも、当然の報いだよなあ」


 僕だけだと言ったのに、他に恋人がいることを隠していたんだから。僕は純粋に麻奈美が好きだったのに、ひどい裏切り行為だ。

 放課後の誰もいない職員室に忍び込んで、麻奈美の席に勝手に座る。デスクの上には、まだ片付けられていない荷物がいくつか。それと、花瓶に生けた花が供えられている。教室でも見た光景。生徒でも先生でも、死んだら同じように花を飾るらしい。

 週が明けて、今日は、麻奈美の誕生日。

 僕はネックレスをぽちゃんと花瓶の中へと沈め、一人、静かにお祝いした。




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