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1億2千万の果て


 その夜、ミズハが見上げたのは素敵な星空でした。

 満天というほどではないにせよ、団地の屋上から見られる光景としては、最近で一番のものでした。いくつか名前のわかる春の星座を数え上げ、子供の頃見たプラネタリウムを思い出します。

 ひしゃくの形をした北斗七星から辿って、うしかい座、おとめ座、しし座の一部を結んで描く春の大三角。北斗七星を含むおおぐま座に、頭上を仰げば逆向きのひしゃくの形をしたこぐま座。こぐまの尻尾は、一年中同じ位置に見える北極星です。

 ベッドみたいに背の倒れる椅子にかけ、神話をもとにしたストーリーに耳を傾ける。実際の星空も、あんなふうに光の線で描かれた動物や英雄が見えるのだと、子供のミズハは無邪気に信じていました。

 今、夜空を探しても、あるのは、ぽつぽつと離れて存在する点ばかり。肉眼では見えない星も山ほどあります。それでも、静かな屋上でひとり見上げる夜空は綺麗なものでした。

 ミズハはいい気分でした。夕食後に飲んだハーブティーの残り香を、まだ身にまとっているのを感じます。お風呂にも入って身体はさっぱりとし、たったひとりで美しい夜空の下にいます。

 死ぬならこんな夜だと、前々から考えていました。

 ミズハは夢見る足取りで、屋上の柵を乗り越えました。

 星明かりに照らされながら、宙に投げ出されたワンピースの裾が翻ります。ミズハは空中で祈るように手を組み合わせ、ゆっくりと目を瞑りました。


 …………。


 もう一度目を開けたとき、ミズハは草むらの中に横たわっていました。真上を向いた視界に映るのは、遠く感じられる夜空。風雨で黒ずんだ団地の壁に切り取られ、空が小さく見えるのです。一等星のアークトゥルスとスピカ、夫婦星のオレンジと白の輝きが、静かにミズハを見下ろします。ミズハは無傷で団地の足元に落っこちていました。

 組んでいた両手をほどき、身を起こすと、パジャマがわりのワンピースが土で汚れていました。お尻の下には潰れた芋虫がいて、払った手にまで変な液体がつきました。


「お風呂に入らなきゃ」


 ミズハはがっかりして、自分の部屋へ帰ることにしました。こんな汚い格好で死ぬのはごめんです。染みだらけのコンクリートの壁も、雑草が伸び放題の空き地も、ミズハはちっとも気に入りません。例えば、星空の下で、いい香りをまとった清潔な身体で。美しい光景の中、かわいい少女のままの姿で死ぬことこそ、ミズハの理想でした。



  ◆



 ×日未明、○○市のマンションの玄関前で、住人の男性が倒れているとの通報がありました。救急で病院に搬送されましたが間もなく死亡が確認されました。男性はマンションのいずれかの階から転落したものと見られ――



  ◆



 翌日、ミズハは登校すると、すぐに机に突っ伏して寝始めました。授業を聞いたことなど一度もありません。退屈な教師の話も、くだらないクラスメイトのお喋りも、ミズハの関心を引きませんでした。あまりにうるさく言われたときだけ、ミズハは教科書を立てたその陰で、起きているフリをします。目を開けていても何も見ておらず、ひたすら夢想に耽るのですが。

 なんだか今日は静かでした。注意の声も叱責の声も、呆れた気配すらもミズハの夢想の邪魔をしません。教壇には誰も立っていなくて、生徒たちは抑えた声でヒソヒソと話しています。黒板には大きく『自習』と書かれていました。


「聞いた? 先生、死んだんだって」


 クラスメイトは勉強そっちのけで、噂話に夢中でした。教室全体がそんな様子で、誰かがなにか話せば誰かが聞き耳を立てる。小さなざわめきが常にあって、落ち着かない雰囲気でした。


「だから、急に自習になったんだ」

「もうニュースになってる。転落死だって」

「自殺?」

「あたしの親、先生の家族と知り合いだから聞いたんだけど……先生の家、マンションの2階なんだって。最後に家族が見たの、夜風に当たりにベランダに出た姿だったって」

「それっておかしくない? 2階から落ちて死ぬなんて」

「よっぽど打ちどころが悪かったのかな」

「ううん。死体の状態はひどかったみたいだよ。10階建てのマンションなんだけど、まるで最上階か、屋上からでも落ちたみたいだったって……」


 友達同士が囁き声で交わす会話が、ミズハの半分まどろんだ頭の中を通り抜けていきます。ミズハの中にには、昨日の夜浴びた星明かりの記憶がまだ残っています。誰もいない静寂、ハーブティーの香り、翻るワンピース。手にしたと思った瞬間、どこかに消えてしまった安らぎ――真珠のようなスピカの白さ。

 ミズハはぱっちりと目を開けました。

 今日はもう、帰ることにしました。そういう気分になったのです。ミズハは何も入っていない軽い鞄を持つと、教室をあとにしました。

 ミズハの住むマンションは、10階建てでした。




 帰り道に通りがかる商店街で、ミズハは金物屋に寄りました。いろんな種類の包丁が売っているので、学校帰りに見ていくことがたまにあります。

 鍋や調理器具、工具など、所狭しと並べられた金属の輝きが、店内に入ったミズハを出迎えます。棚に入り切らずに宙から吊っているものや、床に積み重ねられたものまで、店主でさえ把握しているか怪しい膨大な品物の数々。街中では見られない、星々の光のようでした。

 そんな中、一つの輝きがミズハの目を惹きました。


「なんて綺麗なナイフ……」


 ミズハはうっとりとその商品を手にとりました。全体に細長く、真ん中だけが楕円に膨らみ、美しい装飾が彫られています。刃先が二又に分かれた、変わった形をしています。装飾は甲殻類を模しているようでした。


「カニフォークだよ」


 店の奥から瓶底眼鏡の店主がぶっきらぼうに言います。


「こんなナイフ、見たことないわ」


 ミズハはそれを日光の当たる入り口付近に持っていき、ためつすがめつ眺めました。この店では包丁やナイフを何度も買ったことがありますが、今までで一番気に入りました。細身でシャープな輪郭のそれを、店主のところまで持っていきます。


「おじさん、このナイフください」

「カニフォークだよ。500円だよ」

「素敵な趣味ね。使うのが楽しみ……」

「カニ、食べるのかい? 使いやすいよ」


 代金を支払って紙袋に包んでもらい、大事に鞄に入れて持ち帰ります。足取りはウキウキと弾み、家につく頃には昨夜の失敗などすっかり忘れていました。

 自室のベッドで寝そべり、買ったばかりの“ナイフ”を握って、これを使うときを考えます。ミズハの部屋には他にも大量の刃物がありますが、コレクションとして飾ったり、手入れをしたりするばかりで、実際に使おうと思えたのは今回がはじめてです。頭の中で想像を膨らまし、明確にヴィジョンを描いてから眠りにつきます。

 明日は、遠出をすることにしました。




 最寄り駅の路線を終点まで行くと、海に面した丘に出ます。潮風に導かれて丘をのぼれば、海を水平線まで一望することができました。そこには白いチャペルが建っていて、休日になると華やかな衣装を身につけた新郎新婦を目にすることができます。幸せなカップルが永遠の愛を誓う場所。この上なく神聖で、美しく、ミズハの探す死に場所としては最高でした。

 やってきた電車に乗り込み、座席で揺られながら、ミズハの夢は膨らむばかりでした。大切に仕舞った“ナイフ”を膝に載せた鞄ごと両手で抱えます。チャペルには花々に彩られた庭園が併設されていて、挙式を終えたカップルは皆に祝福されながらその道を歩むのです。誰もいないチャペルに忍び込んで、十字架の前で“ナイフ”を首に突き立てるのでもいいし、花に囲まれた屋外で……というのも捨てがたい。

 今朝アイロンをかけたばかりの制服のブラウスに、きっと血の色が映えることでしょう。

 自分の死体の美しさを想像してミズハがうっとりと悦に入っていたときでした。


 ――目の前に座っていた乗客の首から、激しく血が噴き出しました。


 まるで噴水でした。窓を背にした横長の座席にいたミズハの向かいには、女性が一人座っていました。彼女はなんの前触れもなく、急にがくりと頭を傾け、首の片側から血を噴出させたのです。綺麗な弧を描いて車両の天井を染めた血は、そのままミズハの両脇の乗客に降りかかり、甲高い悲鳴を上げさせました。血の軌跡はミズハだけを避けたようで、真っ白なブラウスを一滴も汚しませんでした。

 車両の中は大騒ぎになり、女性を助けようと駆け寄る人々で、すぐにその姿は見えなくなりました。それでもミズハの目には、今見た光景が焼き付いていました。死ぬことなんて考えてもしないような、ぼーっとした女性の表情、その首に、虚空から現れ突然突き立った、“ナイフ”――


「――なんだこれ、カニフォーク?」


 女性の首を必死に押さえつけ、止血しようとしていた乗客の一人が、驚きの声を上げます。女性はすでに事切れたのか、周りを取り囲む人々からパニックの気配は去り、何が起きたのか把握しようという動きがありました。女性に突き立った凶器に気づいて、疑問を持ったようでした。


「カニスプーンじゃないの」

「いや、カニフォークでしょ」

「どっちでもいいらしいですね。スプーンもフォークも両方ついてるって」

「へえ~」


 ……ミズハは、黙って席を立つと、緊急停止した車両を隣へと移動しました。奇跡みたいに汚れひとつない制服のまま、床にできた血溜まりを避けていきます。電車を降り、線路上でまだ混乱している乗客たちの間を縫って進み、一人になります。

 大事に抱えていた鞄を開き、空っぽになった紙袋を掴みだします。袋の中にも、鞄のどこを探っても、ミズハの使うはずだった“ナイフ”は見つかりませんでした。触れもしていないのに、消えてしまったのです。

 今、どこにあるかはわかっています。見ず知らずの女性の首に埋まり、どうやってそこまで深々と突き刺さったのかと、大勢の疑問の視線に晒されているはずです。


「…………」


 電車が停止したのは、一番近い駅まで間もなくの距離でした。ミズハは歩いて駅まで行くと、反対のホームで待ち、来た方向に戻る電車がやってくると、それに乗り込みました。呆然としたまま、日常そのものの穏やかな車窓を眺め、列車に揺られました。



  ◆



 速報です。今日午前8時頃、〇〇線の△△―△△駅間の電車内で、乗客の女性が首に刃物を刺して死亡するという事件が発生しました。目撃者の証言から、自殺と見られています。警察は当時の状況を詳しく調べています。この影響で、同線は一時運転を見合わせましたが、現在は運転を再開しています――



  ◆



 町へ戻ってきてもまだ午前中だったので、ミズハはその足で遅れて登校しました。珍しく、起きて授業を聞き、小テストを受けました。その間も、ミズハはずっと、呆然とした心地でした。


「残念だったね。一個、答えがずれてたよ」


 答え合わせをした隣の生徒が、同情的に言いました。渡された0点のテストを、ミズハはゴミ箱に捨てました。

 昼休みになって、ミズハは理科室に向かいました。鍵のかかった棚には、さまざまな瓶入りの薬品が並べられています。技術室からくすねてきたトンカチで鍵を破壊します。勢い余ってガラス扉ごと割れてしまいましたが、開けることはできました。ミズハの目には、どれもジャムの瓶のように映りました。リボンをかけてラッピングしたいくらいです。

 ひとつを選び、机にランチョンマットを広げて、サンドイッチを食べはじめます。瓶を開けて中の液体を一気に飲み干しました。


「ぐぎゃあー」


 ……隣の準備室から、断末魔の叫びが聞こえました。なんの味も、液体の通った感触もない自分の喉を認識しながら、ミズハは隣に通じるドアの向こうを窺います。白衣を着た化学部員が倒れていて、大きく開いた口から煙を上げていました。硫酸でも直飲みしたのか、喉が焼けただれているようです。

 死んでいる部員を確認して、ミズハは黙って準備室を出ます。サンドイッチの残りを食べたあと、腑に落ちない思いを抱えながら、午後の授業には出ずに下校しました。




 片側三車線ある大通りでは、車が次々と目の前を走っていきます。どれも信号待ちをするミズハには目もくれず、自分の行き先に向かって急いでいます。カラフルな車体に地味な車体、サイレンを鳴らすパトカーに救急車、バスにタクシー。影が落ちたと思えば、巨大なキャリアカーが横切ったところでした。大小さまざま、いろいろな車種が走行音を響かせて飛ばしています。

 以前のミズハだったら、信号が何度も赤と青を繰り返すまで、車を吟味したことでしょう。自分の気に入る見た目の車がなかったら、その日は諦めて帰ったかもしれません。かわいくて、綺麗なものだけをミズハは好みました。それ以外は嫌いでした。

 でも、そのときのミズハは、左から迫ってくる車がどんなものか見もしませんでした。赤信号を無視して横断歩道に飛び出したミズハが次に見たのは――無事に向こう側に着地した自分の、ローファーを履いた足でした。

 背後で耳をつんざくブレーキ音。通行人の悲鳴。

 振り返ると、ミズハが通ったはずの場所で無関係の他人が血の帯を引いて倒れています。一緒に信号待ちをしていた人のどれかでしょう。誰かを轢き殺した車は、すこしも美しくない無骨なトラックでしたが、奪ったのはミズハの命ではないのでどうでもいいことでした。

 ミズハはまるで、羽が生えて大きなジャンプをしたかのように、車の行き交う大通りを飛び越していました。地面に着地した感触は、ふわりとしていて、身体はどこも痛くありません。

 周りの人間がみんな注目している事故現場から、ミズハだけが背を向け、立ち去りました。



  ◆



 続いて地域のニュースです。今日昼頃、市内の高校で生徒が誤って硫酸を飲むという事故が――


 ……〇〇町の道路で大型トラックと歩行者が衝突する事故が発生しました。歩行者は死亡が確認されており、赤信号を無視して道路を渡ろうとしたとの情報が――



  ◆



 帰り道、ミズハは辺りを見回しました。背の高いビル、猛スピードで走る車、マンホール、電柱と電線、深い底が見える用水路――そこにはさまざまなものがありました。

 家に帰ってからも、いろいろなものがありました。包丁やはさみ、カッターナイフ、コンセント、水に満ちた浴槽、カセットコンロにバーナー。

 いくらでも、死因を選ぶことができました。



  ◆



 続いて、事故のニュースです――という事件が発生し……が原因と見られる火災が――この事故で一人が死亡しました。――死亡が確認され――焼け跡から遺体が――死亡しました――死亡しました――死亡しました――



  ◆



「死が奪われている」


 夜。閉鎖中の学校のプールで座り込み、ミズハは考えていました。いかに鈍いミズハでも、気づかずにはいられませんでした。数日前、綺麗な星空を屋上で見たあの日から、ミズハの試みは失敗してばかりでした。ミズハが迎えるはずだった死は、別の関係ない誰かのところにいってしまい、求めていた安らぎはミズハの手をすり抜けていきました。

 プールの真っ暗な水面が、月をぷかぷかと浮かべていました。プール開きはまだ行われていないので、見えない底は藻で汚れていることでしょう。夏の授業で、生徒が芋洗い状態になっているときより、アメンボだけがすいすい泳いでいる今のほうが、静かでミズハは落ち着きました。


「水はまだきっと冷たいだろうけど」


 ミズハは学校指定でない、ワンピースタイプの水着を着たまま、足先からそっとプールに入りました。ミズハを中心として、緑がかった水面に波紋が広がっていきます。アメンボが波の山を越え、ゆらゆらと揺れるのを見ながら、ミズハは一息に頭まで身体を沈めました。

 不思議と寒さは感じませんでした。それも当然のことだったのかもしれません。ミズハの考えが正しければ――寒ささえ、ミズハを殺すことはできないのですから。

 最初は何も見えませんでした。淀んだ水中に、自分の吐き出した泡が見えはじめた頃、水の揺れを感じました。すぐ近く、ミズハしかいないはずのプールの中に、誰かが沈んでいました。見覚えのあるセーラー服は、おそらくこの学校の女子生徒でしょう。目を剥いた溺死体の顔は、見知らぬ相手のものでしたが。

 息苦しさをすこしも感じないまま、ミズハが身体を沈めたままでいると、次の死体が現れました。今度は学ランの男子生徒。何年生だかはわからないし、興味もないことです。藻に絡まって浮かび上がることもなく、最初の死体と一緒に揺れています。間もなく、次の死体がどこからともなく現れ、また次の次の死体が――

 プールの死体はどんどん増えていき、身動きがとれなくなる前にミズハは上がることにしました。身体は冷え切っているはずでしたが、死体と一緒に水に浸かっていたのですから、シャワーを浴びないわけにはいきません。春先の夜風の中、吹きさらしのシャワーを浴びていると、突然ごろりと足元に誰かの死体が転がりました。凍死でしょうか、唇が青紫になっていました。

 持参の巻きタオルで髪を拭きながら戻ると、プールは死体で芋洗い状態になっていました。学校の男子や女子だけでなく、教師や用務員、全然関係のなさそうな近くの住民と思しき人まで。こぞって時期外れのプールの中に押し込められています。


「死が奪われ――いや、順番が飛ばされたのかしら」


 飛び込み台に膝を抱えて座り込みながら、ミズハは思案しました。ここ数日の体験、そして目の前の光景からミズハが抱いた考えはこうでした。



  例えば。

  この世界の死を管理する、死神のような存在がいたとして――

  その存在は、死者の名簿を持っているとする。そこには、これから死ぬ者たちの名が記されている。人間は、名簿に記された通りの順番で死んでいく。そう運命づけられている。


  もし、なにかの手違いで、ミズハの死の順番が飛ばされてしまったとしたら?

  ミズハに訪れるはずだった死は、別の、まだ死ぬ番じゃなかった人のところへ行ってしまう。

  死ななかったミズハは、また自分で死のうとする。すると、死はまた他の人のところへ――

  それはまるで、答案用紙に答えを一個ずつずらして書いてしまったように。そうすると、すべての答えが間違ってしまう。間違った死が、人間にもたらされ続けてしまう。



「間違いに、誰も気づいてないのかな」


 ミズハは言って、気づいていないから、目の前みたいな事態になっているのだと思い直します。

 神の実在について議論していた昔の人は言いました。


『確かに、この世に神様はいるかもしれない。その存在が世界を作ったのかもしれない。でも、その存在はちっぽけな人間ひとりの事情に介入する力はないのだろう。あったとしても、興味がない』


 困ったときに神頼みするのは人の性ですが、どうして、人間ごときの幸不幸に神様が手助けしてくれると信じられるのでしょう。この世には、こんなにもたくさんの人がいるのに。それよりもっと多くの、人間ではない生命がいるのに。願いに応じて助けてくれる、都合のいい神なんて存在は、人が作り上げた妄想でしかないのでしょう。

 だから、ミズハが自分の望みを遂げたければ、自分でなんとかするしかないのです。

 そのために、今夜はプールに来て、実験をしたのでした。


「海……海かな。広いところがいいわ」


 ミズハはつぶやき、立ち上がりました。



  ◆



 それから。

 ミズハは水面に浮かんでいました。プールではなく、もっと広い、そこは海面でした。空はよく晴れ、頭上にカモメが飛んでいます。遠くに船が見えましたが、黒煙を上げているようにも見えます。ありふれた、些細なことでした。ミズハの周囲には、いくつも人の身体が浮かんだり、沈んだりしていましたが、大きめの浮き輪に両手両足を預けて優雅に漂うミズハの気を惹くことはありませんでした。

 今は浮かんでいますが、ときには海底を歩くこともありました。奇妙な姿かたちをした深海魚と一緒に泳いでいると、ぺちゃんこにひしゃげた人の死体がこつ然と現れます。いくつもいくつも、潰れたアルミ缶みたいになって転がります。ゴミ捨て場みたいになった深海からミズハは浮上し、また別の場所へ向かうのでした。

 あるときは火山へ――あるときは雪山へ――

 とにかく広くてたくさん死ねる場所へ足を向け、そこに死体の山を築くのでした。


「順番が飛ばされたなら、また巡ってくるまで。1億2千万回死ねばいいんだわ」


 それでも駄目なら世界人口78億回。全人類の順番を先に終わらせて、ミズハは今度こそ本当の安らぎを手に入れようと決めたのでした。





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