白いドア
グラスが琥珀色の液体で満たされる。次から次に運ばれてくる揚げ物のジューシーな匂い。あちこちで大声での会話が交わされ、どっと笑い声が上がる。
男女十数人が集まった飲み会の盛り上がりは最高潮で、今日何度めかもわからない乾杯の音頭をとるべく、俺はビールジョッキを掲げた。
「えー。今年も無事に咲いた満開の桜に!」
「カンパーイ!」
「今宵も集まった仲間たちに……」
「カンパーイ!」
「十年後も変わらぬ関係でいられる未来に!」
「カンパーイ!」
「それからあと……教授の不揃いの口ひげに!」
「カンパーイ!」
「ウェーイ!」
酔っ払いは音頭がなんであっても構わないらしく、上機嫌で各々のグラスやジョッキをぶつけ合う。そろそろネタがなくなってきたがなんとかなった、と思いつつ席に戻る。同じテーブルについていたタツヤの赤ら顔が出迎える。
「盛り上げ役の幹事も大変だな」
「あいつら、道端の犬のフンでも乾杯しそうな勢いだから、大した苦労じゃないよ」
俺は笑って、親友の肩を叩く。
「それより、タツヤは楽しんでるか」
「もちろん。こんなに浮かれたのは生まれてはじめてだ」
「そりゃよかった。今日はみんなに大事な発表もあることだしな」
「そろそろか……」
飲み会の盛り上がりを見てとって、似合わない茶髪を照れくさそうに掻きながら、タツヤは俺と入れ違いに立ち上がる。隣に座っていた美人の手を恭しく引いて。艶のある黒髪に、白いノースリーブのワンピース。整った横顔は恥じらいつつ俯いている。控えめながらモデルか女優と見紛うほどの美貌は、今この場にいる女性の中でダントツの美女である証だ。
タツヤは彼女を連れてみんなの前に出ると、大きく咳払いをして注目を集めた。
「えー。親愛なる友人たち。君らのおかげで僕の大学生活は華々しく、毎日が楽しく……」
「いきなりなんだ! 挨拶が固えーぞ!」
「そうだそうだー!」
話しはじめてすぐに野次が入り、そうじゃなかった、と思い直したタツヤが恋人の肩を引き寄せて笑顔になった。
「今日はみんなにお知らせがあります。この僕、タツヤは卒業後、彼女と――ハルコさんと、結婚することが決まりました」
しんと静まり返るテーブル。酔いが覚めたかのような驚き顔。ハルコが頬を赤く染めながら小さくうなずいたのを皮切りに、驚愕の叫びが沸き起こる。
「まじかよ! ゼミイチの美女、あのハルコさんと!!」
「くっそ、羨ましすぎる! 俺と代われ!」
「末永く幸せにだコノヤロー!」
主に男共の怒号のような祝いの言葉がカップルに向かって降り注ぐ。女性陣からは拍手が起こり、ハルコが小さな笑みで応えている。彼女の薬指には銀色に輝く婚約指輪が。タツヤがその手をとって、みんなに見せるようにした。約束された未来の象徴だ。
タツヤは今、人生で最大の幸福を味わっているだろう。
会場を見回し、彼を祝う人々と、その中心にいるタツヤの幸せそうな顔を確認する。俺は満足し、ジョッキを傾けた。
「――以上で、上演は終了となります」
事務的な女の声に、夢見心地の表情だった男は、はっと目が覚めたようにした。実際、夢を見ていたようなものだ。
周囲では片付けがはじまっている。大学の友人役を与えられた演者たちは、空いた皿を自分で運び、飲み会風に設置されていたテーブルも、部屋の隅へ寄せていく。次の〈演劇〉では別の用途で使うかもしれないから、広い会場には椅子やテーブルがいくつも常備されている。
「では自分、次の現場があるので、これで失礼します」
「お疲れ様でしたー」
足早に出ていく演者に、残った演者が挨拶を返す。忙しげに退室していく者は他にも何人かいた。
「仕事、掛け持ちしてるんすよ。ここだけじゃ食ってけないんで」
中の一人が俺に言って、早めに上がることを詫びるように会釈した。世知辛いのは今更だ。片付けを終えた者から次々出ていくが、全員が早足だった。一刻も時間を無駄にできないという足取りだ。皆、次の仕事の予定が入っている。寝る間も惜しんで働かないと住む場所さえ失ってしまう時代では、当然のことだ。
室内に目を戻すと、ぽつんと取り残された二人がいる。事務的な顔つきの女と、それに向き合った、似合わない茶髪の男。
「〈タツヤ〉さんご希望の、人生最後に経験したい幸福な時間――満ち足りた青春時代を送り、多くの友人たちに囲まれ婚約者を紹介する。飲み会のスタートからの短い上演でしたが、我々は大学生活を〈タツヤ〉さんと過ごした仲のいい友人たち……という設定に基づくことで、ご希望に沿えられたと存じます。いかがでしたでしょうか」
男はぼうっとした目つきで、バインダーを携えた女の手を見つめている。指には銀の婚約指輪が嵌っている。長い黒髪に白いワンピースを着た美貌の女は、男に呼びかけた。
「〈タツヤ〉さん?」
「あ、ああ……聞こえている。希望通りだった。問題ない、どころか最高だ。まるで現実に体験したようで……」
〈タツヤ〉は、被りっぱなしだった茶髪のウィッグを雑に外す。下から現れたのは禿げ上がった頭の中年男だ。若者らしい派手な柄シャツがアンバランスだった。
中年男の顔がくしゃっと歪む。〈タツヤ〉は泣き出していた。太い指で顔面を覆い、お辞儀するみたいに頭を垂れる。
「ありがとう、本当にありがとう。友人もいない、恋人もいない、金も職もない……なんの魅力もない僕なんかに、こんな最高の体験をさせてくれて。友人になってくれて、恋人になってくれて、僕を祝ってくれて、本当に本当に、最高の時間だった……」
「喜んでいただけたようで何よりです」
婚約者役を演じていた〈ハルコ〉は、完璧な営業スマイルを浮かべると、片手を掲げて、嗚咽するクライアントを誘導した。
「では、こちらになります。この白いドアの向こうに行けば、あなたは安らかに眠りにつくことができます。同意書は事前にいただいておりますので、手続きは不要です。あなたはノブを回し、ドアをくぐるだけです」
二人が向かったのは、会場の奥、真っ白な壁にひとつだけあるドアだった。上から柔らかな照明が降っているため、病院のような無機質さはない。むしろ、天国へと続く階段を思わせる安らぎに満ちていた。
〈タツヤ〉は、涙をぬぐいもせずにドアを見つめていたが、ノブには手を伸ばさず、傍らの〈ハルコ〉を振り返った。女は反射的に微笑を浮かべる。
「なにか?」
「あの……〈ハルコ〉さん。最後にひとつだけ、お願いがあるのですが。……もう一度だけ、その手を握らせてもらってもいいでしょうか」
男の未練がましい眼差しが、指輪を嵌めた〈ハルコ〉の手に注がれていた。〈ハルコ〉の笑顔が見る間に引き攣る。
「お客様。〈演劇〉は先程終了しております。これ以上のサービスは契約書には……」
「まあまあ、いいじゃないの。手ぐらい握らせてあげたら」
〈ハルコ〉さん、と俺は気安く呼びかけながら、二人に近寄っていった。彼女の文句を言いたそうな視線がこちらに向けられる。俺は〈タツヤ〉に向けて勝手に許可を出す。
「どうぞ、構いませんよ、〈タツヤ〉さん」
「〈幹事〉さん……ありがとう」
「いえいえ。俺はあなたの親友役でもありましたから」
ありがとうありがとう、と何度も頭を下げながら、〈タツヤ〉は〈ハルコ〉の綺麗な手をそっと握った。割れ物に触れるような丁寧な手つきだった。余韻を噛みしめるように目を閉じると――〈ハルコ〉が警戒したそれ以上の行動を起こすことなく――〈タツヤ〉はあっさりと手を離す。俺たちに深く礼をしてドアに向かった。開かれたドアからの白い光が男を包んでいく。
「余計な口出しをしないでくれる?」
クライアントが見えなくなった途端、同僚の女は不機嫌をあらわにした。忌々しそうに俺を睨む。小道具の指輪をぽいとその辺のテーブルに放り出し、椅子を引き寄せて音を立てて座る。
「ああ嫌だ嫌だ。どうして童貞って、馬鹿の一つ覚えみたいに黒髪ロングで白いワンピースの女が好きなのかしら。ノースリーブって意外と脇汗かくのよねえ」
腕を上げてワキを気にしている。〈タツヤ〉が見たら心底ガッカリしそうな美女の醜態だ。今まで数々の〈演劇〉を共にしてきた同僚だが、そういえば本名はまだ知らない。そのときどきで演じる名前が違うから、今回も〈ハルコ〉と呼びかけたまでだ。
テーブル上に食べ切らなかった料理が残っていた。俺も近くの椅子を持ってきて座る。
「ちょっと、〈幹事〉さん? どうしてあんたも座るのよ。次の仕事は」
「今日はこれで最後なんだ。ほとんど一日かかって、大掛かりなセットが必要な劇の人員に駆り出されてて……さすがに巨大ロボの手足を人力で動かすのは手間がかかったなあ」
「老人ほど、子供っぽい夢を抱くんだから面倒よねえ。……じゃなくて」
不満げな〈ハルコ〉の視線をよそに、俺は皿に残ったからあげを口に放り込む。酒が欲しくなるが、厨房にもう人は残っていないだろうから、出してもらえないだろう。キッチンスタッフは仕事も早いが帰るのも早い。〈タツヤ〉以外全員の飲み物にはアルコールが入っていなかったので、俺も〈ハルコ〉もシラフだった。
「さっきのことなら、俺が正しいと思うよ、〈ハルコ〉さん。だって俺らの仕事はクライアントの最後を幸福に過ごしてもらうことなんだから。最後ってのは、劇の終演じゃなくて、あのドアをくぐるまでってことだろ」
「仕事はきっちりやるわよ。ただ、私にとって不快な行為をあんたが勝手に許すのはどういうつもり」
「そこは悪かった。このからあげ食べていいよ。帰らないってことは、君もこれで仕事上がりなんだろ」
別にあんたのじゃないでしょ、と言いつつ大皿を奪い取って手でつまみはじめる。腹が減っていたらしく、結構な勢いだった。
俺は別の皿のつまみを引き寄せながら、〈タツヤ〉の消えたドアのほうを見つめる。俺たちが演じた茶番を人生最高の時だったと言って泣いた男。
「〈ハルコ〉さんって、学生仲間と飲み会ってしたことある?」
「ないわ」
「俺も。世代的に学校なんてほとんどオンライン講習だったしなあ。友人すらろくにいない」
「もう何十年もこの国の若者はそんな感じでしょ。あの男のときはどうだったか知らないけど。ただの憧れなんだから、実際を知らない私たちが演じたまやかしでも構わないのよ」
テーブル上に放り出された小道具、低予算のため輝きばかりが強い安っぽい銀の指輪を、〈ハルコ〉が手に取る。感慨を込めずにつぶやく。
「例えまやかしでも、それが生きる希望になって、ドアをくぐるのを躊躇うきっかけになればそれもよし。あんたはまだ若いから知らないでしょうけど――本当にごく少ない例ではあるけれど――ドアの前で引き返すクライアントも中にはいるのよ」
「若い……って、〈ハルコ〉さんっていくつなの?」
「この施設が作られたのだって、安らかな眠りを提供する以外に、希望を見せて生への未練を取り戻させるって目的も、半分くらいはあったんだから……今のところその成果は、半分以下だけど。ここに来る人たちの絶望が大きすぎるのよ」
俺の質問は無視されたが、〈ハルコ〉なりにこの仕事をやっていく上での憂いも抱えているようだ。それならなおさら、サービスよく手くらい握らせてやればいいのに。
俺も〈ハルコ〉も、さっきまでここにいた他の演者たちも、日々労働ばかりで、自分たちがクライアントに提供するような楽しいひとときなんてめったにない。だとしても今は、それぞれの理由があるだろうが、まだ安らかな眠りを選択する気にはなっていない。
俺はドアに目を戻しながら、
「あの向こうって、本当にクライアントが想像するような安寧が待ってるのかな」
「あら、巷の陰謀論者が言う都市伝説? 政府が施設やサービスを無償提供できているのは、ドアの向こうで非人道的な生体実験に患者の身体が使われているからだ――というような」
「臓器提供くらいは同意書の範囲内だろ。死んだあとだったら何されててもクライアントも文句は言わないさ。俺が疑問を持ってるのは、どうしてみんな、死後が今より楽だって無邪気に信じてるのか」
「〈幹事〉、あんたは死後の世界を信じてないの? 無宗教なのね。天国も地獄もない、人は死んだら無に還るだけだ……みたいな」
「それもある意味、無になると信じてるってことだろ。まあ俺はそっちのほうがまだ恐怖はないかな。天国でも地獄でも、幽霊として現世に残るのでも、死後も意識が続いているって状態のほうが、俺は怖いかな」
日常がどんなに煩雑で面倒でも、すべてを終わらせてしまおうという気に俺がならないのは、本当にそこで終わる保証がどこにもないからだ。この施設を訪れる人々は、意識があるという状態、考えて悩むことに疲れたからここに来たのに。死んだ瞬間、それが安らかな心地であるにしろ、まだ考えることができたなら、生前より深い絶望に落とされるんじゃないだろうか。しかも、今度は死という逃げ場所すらないのだ。
「人にはさまざまな死因があるけど、どれも大抵は苦痛が伴うものだ。事故やらの突然死だとしても、本人以外の周りの人間が喪失の苦しみを味わう。悲しいけど、生物としてそれがあるべき姿なんだ。それを、心の準備を周囲にさせて、自分は最高の時間を過ごし、眠るように楽に死ぬって選択肢は、ある意味自分本位で勝手な行動で、死を冒涜している。どこかでその報いを受けるんじゃないかと、俺は考えてしまう」
「……この頃の若者は、神を信じなくなったというけれど、目に見えない大いなる存在への恐怖だけは、残るのね」
「? 死ぬのが怖いって話か」
「名前をつけてないだけで、それは神様への恐怖なのよ。報いを受けるって言うけど、その罰は誰が与えるの? あんたの感覚は、人間より偉大ななにかの存在を仮定してる。楽な手段を取ることへの後ろめたさは何に向けてのものなの? 逆に言えば、あまりにも辛すぎる生は、生を冒涜しているってことにならない? 自ら死を選ぶ選択肢は、自分や周囲を楽にする。辛いより楽なほうがいいでしょ。そこに後ろめたさなんて感じなくていいの」
〈ハルコ〉のあっけらかんとした口調に、俺は納得できなくて口をつぐむ。女はからあげを食べる手を止めて、じっと見てくる。
「あんたみたいな奴には、むしろ拠り所が必要ね。形のない恐怖に怯えて不安がってるくらいなら、なにかの宗教を信仰してはどうかしら」
「……最近は、新興宗教が増えたらしいな。古くからあるものが、結局人を救いはしないから、自分たちで新しく信仰対象を作ってるとか。カエルだかウサギだか……」
「丘の上のカメとウサギ教、雨上がりの水たまりに映った虹教、トースターの網の間を抜けて落ちたとろけるチーズ教」
寝る前の暇つぶしにベッドの中で考えたみたいな適当なネーミングに、訝しく〈ハルコ〉を見れば、にやりと笑って首元からいくつかのペンダントを取り出す。どれにも、今あげた怪しげな宗教の聖像がレリーフとして刻まれている。
「私は信者よ」
「……掛け持ちとかありなの」
「なにを信仰したって自由なんだから、いくつ信仰してもいいでしょ。まだまだあるわよ。子供の頃怖かった押入れの暗闇教、バスケットボールでした突き指の痛み教、画面が映らないときは三色ケーブルの黄をグリグリする教……」
もはや古代のあるあるネタと化して、白いワンピースの内側から次々出てくるレリーフは複雑怪奇な様相を呈している。テーブル上にいくつも並べて、〈ハルコ〉はそれぞれ説明していき、
「どれか入る?」
「今はいいかな……」
「そう。でも、あんたに宗教をオススメするのは純粋な厚意よ。この仕事に従事する同僚として、精神状態を心配してるの。信仰は死への恐怖を和らげるだけじゃない。宗教は自己の正当化のためにあるのよ。あんたの持つ恐怖が消え、もし安らかな終わりを信じることができたなら、日々も少しは楽しくなるでしょ。楽ってのは、楽しいってことなんだから」
仕事に文句を言いながらも、〈ハルコ〉からは暗さを感じたことがない。掛け持ちにしろ、信仰対象があるからなのか。かと言って、今勧められたような、教義もよくわからないなんちゃって宗教に入る気もしないが。
〈ハルコ〉は残念そうにペンダントを回収していたが、思いついたように顔をあげると、テーブルに身を乗り出した。
「――なんなら、私を信仰したっていいのよ」
「は?」
「信仰対象はなんだっていいんだから。あの男みたいに、幸福な心地にさせてあげるわよ」
吐息がかかるくらい間近で笑って、〈ハルコ〉は身を離した。固まっている俺をよそに、立ち上がって伸びをする。
「ああ今日もよく働いた。お腹もいっぱいになったし、私は帰るわね。じゃ、いつかまた仕事で一緒になるときがあったら」
簡潔に告げると、さっさと荷物を持って帰っていく。取り残された俺は、からあげの油でてらてらに光った〈ハルコ〉の唇を思い返していた。
「……残り香が油臭いなんて、最悪な女だ」
〈タツヤ〉は最後に理想の信仰対象に会えてそれは幸福だったのだろうが、俺はあんな女はごめんだった。
喉が乾いて、無性に酒が欲しかった。