終末
寝起きから体がだるかった。昨夜食べたケーキのせいだ。枕元には食べ散らかした銀紙がそのままで、いくつ食べたのか数える気にもならない。
体重とか美容とか、もう気にする必要がないと思ったら、深夜にだってケーキを食べられた。逆に言えば、私にとって我慢せずにやりたいことなんて、そのくらいだってこと。
頭が痛い。欲望を満たしたところで気分は晴れず、残ったのは翌朝の倦怠感のみとは。いや、朝でもない。時計を見ると午前十時を過ぎていた。
平日のこんな時間に起きただけで調子が狂う。毎朝のルーティンが思い出せない。トイレに行く、顔を洗う、着替えてメイクをして……ご飯が先だっけ? 歯磨きはその前か、後か。
――もうなんだっていいや。
顔を洗う前に冷蔵庫から出した余りのケーキを口に突っ込みつつ、テレビのリモコンを手に取る。
ニュースをつけようとして、やめる。どうせ昨夜から進展はない。見ても絶望を加速させるだけだろう。
代わりに、恋人に連絡をとることにした。さすがに今日は会えるだろうか。電話をかけると、数回の呼び出し音のあと、繋がった。
「もしもし崇史くん? おはよう」
「おはよう、ってもう十時だよ」
「今起きたの。何してた? 今どこ?」
「今……会社だよ」
「え、こんな日に出社してるの? 信じらんない」
「みんな仕事きてるよ。結構、通勤中の人ともすれ違ったし。そっちは?」
恋人の問いかけに、私は昨日の地獄絵図を思い出す。夕方のニュース。騒然とした店内。そして巻き起こるパニック。
「店長が発狂して、店の中の機材、あらかたハンマーで叩き壊しちゃったの。相当ストレス溜まってたみたい。仕事になんないから、急遽休み」
「そっか。そういうこともあるか」
「多数派だと思うよ。何事もないほうがおかしいんだから」
「おかしいのかな、うちの会社」
「ねえ、今から会える?」
電話をしつつ居間に移動して、カレンダーを見る。そういえば今日から12月だ。カレンダーをめくる。やぶく。裏が白いからメモ紙にしようかな。ハサミを探そうとして、我に返る。
――何してるんだろう、私。もう予定なんて意味がないのに。だって、明日は来ないんだから。
「今すぐにはちょっと、仕事中だしな……」
電話口の向こうで恋人がまだ渋っている。私はカレンダーの紙を放りだして、強い口調で言った。
「いつまでそんなこと言ってるの。仕事なんかさぼってよ。二時間後、駅前でね。わかった?」
「ううん……」
もにょもにょとした返事を了承ととって、電話を切る。顔を洗って、服を選び、入念なメイクをする。意味がないとは思わない。最後の日に恋人に会う、そのためのおめかしだ。
駅前の雑踏は普段と変わらない賑わいだった。意外にも、時間通りに崇史は現れた。会社に行っていたのは本当のようで、いつものビジネススーツ姿。すこしよれた印象はある。手を振って近づくと、鼻をつく匂いがあった。
「……酒臭い」
「会議室で一度酒盛りをしてみたかったんだ、って部長がさ。僕は飲んでないよ。君と会う予定があったし、普段から飲まないし。ただ、尋常でないはしゃぎっぷりで、ビールかけはやるわ、シャンパンタワーは作るわで」
「会社でシャンパンタワー? ワイングラスなんてあるの」
「給湯室にあった湯呑みで代用したんだ。安定悪くて倒壊したし、おかげで」
崇史はスーツの上着にできた染みを示した。嗅いでみると、確かに高級シャンパンのような匂いがする。飲んでないのに酒臭いわけだ。
「うちの会社も多数派だったみたいだね。ちゃんとおかしくなってる。いや、君に言わせるとおかしくないのかな」
「どっちだっていいよ。それより、これからどうする?」
「君の行きたいところがあれば、付き合うよ」
じゃあ、と私は提案した。
水族館にしましょう。私たちの初デートの場所。
「電車が動いてるのが不思議だね」
「この国の人って、変に真面目だから。こんな日に仕事に行ってる誰かさんもいたし」
私の嫌味を聞いていないのか、崇史は電車内の乗客を興味深そうに眺めている。平日の昼間として、多くもなく少なくもない人数が、車両に揺られている。つまり、平常通り。
視線は乗客のほうに向けたまま、思いの外真剣なトーンで崇史が口にした。
「思うんだけど、あんなことを聞かされたあとでも仕事とか学校に行くのは、真面目だからってだけじゃなくて、単に信じていない人もいるんじゃないかな」
「現実を受け入れられない?」
「当然でしょ。今日で世界が終わるって言われたって、本当かと疑うよ」
「でも、感覚でわかるよ。もう終わりなんだって」
「それは、まあ」
私の断定口調に、崇史は語尾を濁した。こうなってみてわかるけど、巷にあふれる陰謀論と、本当の終わりとは、大きな違いがある。どんな一般市民にだって、生命としての危機感は備わっている。本当はみんなわかっているのだ。
向かいに座る大学生風の若者も、優先席の年寄りも、赤ん坊を抱えて立つ母親も、平気な顔をしているけれど、いずれ自分に訪れる未来には気づいているはずだ。
今は、同じ車両の中で仲良く揺られているけれど――
「今日はやけに揺れるな」
通勤でもこの路線を使っている崇史がぽつりと言った。確かに、普通の電車より揺れが激しい気がする。窓の外の風景もものすごい勢いで過ぎ去っているし……。
「というか、スピード出しすぎじゃない?」
「え」
私の発言に、崇史がこっちを向いた。その瞬間、カーブに入った電車が大きく傾いた。座席がテーマパークのアトラクションくらいの急角度になる。異常に気づいた乗客が窓に張り付いて、必死で運転席のほうを見ようとする。
「止めろー!!」
「降ろしてくれー!!」
スピードは弱まるどころかますます速くなり、一瞬で電車内はパニックになった。窓をバンバンと叩いたり、前方車両のほうへ走ったり。阿鼻叫喚の騒ぎの中で、私は崇史と手を取り合って硬直するしかなかった。
時刻表の予定の半分くらいの時間で次の駅のついた。耳障りな急ブレーキ音が鳴り響き、私は自分が生きていることに奇跡を感じた。ドアが開くと同時に、乗客は雪崩をうって外に出た。私たちもあとに続いた。
前方車両を見ると、運転席の窓から運転士が顔を出していた。だらんと舌が出ていて、両目は上を向いている。
「俺たちはもう、おしまいだ~! 地獄に行きたいやつは乗れ!! この俺が連れてってやるぞー」
運転士が狂った調子で叫びながら、自分の乗る電車を親指でビッと指す。他の車両も含めて全員が降りていた。空っぽになった電車が発車メロディを待たずに急発進する。一緒に降りた車掌が、涙ながらに同僚を見送っていた。
「目的地がこの駅でよかったね」
今の出来事から唯一よかったことを崇史が口にし、私たちは九死に一生を得た客の流れに任せて歩き出した。
「うわ」
べちゃ、という音がして見ると、誰かが水たまりのようなものを踏んづけていた。油か、シャボン玉のような、七色の水面の。幅が1メートルくらいある大きな水たまりだ。
ごくりと、隣で崇史が唾を飲んだ。
「死体だ」
小声で、私にだけ聞こえるように囁く。周りにいる者もみんな、それを見ないようにして避けて歩いていた。私も崇史の手を引いて、足早にその場を去った。
水族館に到着すると、初デートの思い出が蘇ってきた。
あの日、準備に時間がかかって、私が待ち合わせに五分遅れたら、あの人も同じタイミングで走ってきたっけ。場所を間違えていたとか言って。お互いに言い訳していたら開館時間を過ぎていて、すっかり人の増えた館内にようやく入れたんだった。
あの頃は水族館もオープンしたてで大人気だったけれど、今は落ち着いていた。今日が終末だからかもしれないけれど、青く仄暗い館内を余裕を持って見て回ることができた。
広間の大水槽では、何も知らない魚が群れを作って泳いでいた。休憩用のベンチに腰掛け、私は崇史と並んで魚の影を見上げた。
「ここは変わらないね」
「魚には、終末なんて関係ないもの。おかしくなってるのは私たちだけ」
しっとりとした空気が二人の間に流れた。なかなかいい雰囲気じゃない。私は水族館を選んだ自分の判断を褒めた。
「ん、なんか騒がしいな……」
と、崇史が広間にいる他の客たちのほうを見た。大人が数人集まって、手に手にバットや鉄パイプを持ち寄っている。
「いくぞー」
リーダーらしい者の掛け声とともに、集団が武器を目の前の大水槽に叩きつけはじめた。鈍い音が広間に響き渡る。渾身の力を込めてバットや鉄パイプで殴るが、罅さえ入らない。この人たち、水槽を割ろうとしてるのかしら……追い詰められると、生き物って破壊衝動が湧くものなのかも。
水族館のアクリルガラスはパネルを何枚も重ねてあって、厚さ60センチくらいあるというから、あの程度の衝撃じゃ無理だろう。
諦めずにガンガンと水槽にアタックする集団を見ていると、崇史が自販機で飲み物を買ってきてくれる。ベンチで休憩中の他の客も、水槽の魚より集団の動向を見守っていた。
「持ってきましたよー」
集団の一員らしき若者が、どこで用意したのか、巨大な丸太を抱えてくる。「よーし」と集団は腕まくりし、破城槌よろしく数人がかりで丸太を担ぎ、水槽に突進しようとした。
「こらー!! お魚がかわいそうでしょ!!」
怒ったスタッフが駆けつけてきて、破壊集団は散り散りに逃げていった。お開きの雰囲気が広間を包む。私たちは空になった飲み物を手に席を立った。
夜になった。どこかで外食でもと思ったが、いよいよどの店もまともにやっていなかった。店の人も、仕事より家族や親しい相手と過ごすことを選んだのだろう。明かりの灯っている店舗さえ稀だった。
「食材がないんですよ」
やっとのことで開いている店に入っても、厨房から返ってきたのはそんな返事だった。きっと、最後くらい好きな食べ物を食べたい、という人たちが強奪していったのだろう。
私は崇史と顔を見合わせ、店を出ようとしたところで気付いた。
厨房にいる人物……バイトで店番を任されているのだろうか。うなだれた背を起こし、訝しげにこちらを見る一人の人間。
瞳が黒い。七色ではなく。
「なあ、あんたたち……」
呼び止めるように手を伸ばす。私と崇史はあわてて店を出た。
結局、人気のない郊外のコンビニまで歩いて、やっと食料が手に入った。最後の晩餐がコンビニ飯とは味気ないが、肉もデザートもある。家にあるワインでも開ければ上出来だろう。
家までの道のりは遠かった。夜道を歩きながら、でもこんな夜も悪くないか、という気分になった。
私は先を歩きながら、崇史に向かって呟いた。
「下戸でも今日くらいは付き合ってよね。二日酔いなんか気にしたって仕方がないんだし」
「あれろろ」
「なあに、もう酔っ払ってるの」
私は笑って、崇史のほうを見た。
崇史は溺れていた。自分の中から溢れ出る大量の液体に。七色の両目から七色の液体を流し、口からも同じものがこぼれ落ちる。「ろろろろろ」喉を詰まらせるほどの量と勢いに、妙な調子の声が出続けている。
動けない私の前で、崇史の足元に七色の水たまりができていった。虹の模様を描く水面から目が離せない。私を襲っていたのは圧倒的な恐怖だった。
恋人は――私の恋人だった人は、液体を流し終わると意識を取り戻した。うずくまった態勢から身を起こし、不思議そうに自分の手を見つめ、辺りを見回す。
「ここは……? 俺は今まで、なにをして……」
聞き馴染みのある声が、私の知らない口調で喋る。私は水たまりを見つめていた。ああ、変わり果てた私の恋人。
「た、崇史くん……」
「君、なんで俺の名前を知って……。君は誰だ? なにか知ってるのか」
私は後ずさろうとしたが、すがるような手に引き止められた。真っ黒な目が私を射抜く。触られた部分にぞっと鳥肌が立つ。私の恋人の顔をした人は額を押さえ、記憶をたどるようにする。
「なにも覚えていない……最後の記憶は……そうだ、空に巨大な乗り物が現れて、世界中がパニックになって。七色に光る液状の化け物が襲ってきて……俺も、周りの人も、襲われて」
私はそいつの手を外そうとした。離して、と叫びたかったが、恐怖で声が出なかった。黒い目に見つめられると、怖くて全身に力が入らない。
「どうして泣いてるんだ」
驚いたようにそいつは言った。私は泣いてなんかいなかった。七色の目から液体が流れ出ているだけだ。恐慌で息が上がり、開いた口からも液体が溢れ出した。
「うわ、どうしたんだ。なにかの病気か!? 病院に行かないと」
「はなして……」
私は液体を吐き出す合間に訴えた。全身ががたがたと震えていた。目の前のそいつは戸惑っていた。
「なんで、そんなに怯えてるんだ……。危害を加えるつもりはないよ。知りたいだけなんだ。君が病気なら助けたいし」
なにもわかっていない。私は恐怖の中で怒りを覚えた。私は一般市民に過ぎない。得体のしれない異星人を怖がらない市民なんているものか。
すべて侵略計画の見込みの甘さのせいだ。侵略軍は先住民をひとりも逃してはならなかった! 地下に逃げた生き残りを放置していたから……地球上で我々から体を取り戻す方法を見つけ出したのだ。
昨日のニュースは我々にタイムリミットを告げた。全世界でその対抗策は完了していて、気付いたときには手遅れだったと。
「ああ……崇史、くん……」
七色の水たまりを見下ろす。変わり果てた死体。私たちの本体。
寄生する体を追い出された私たちは、環境に適応できなくて死ぬ。みんな死ぬ。私もまた、この女の体から吐き出されて、死を迎える。人類に成り代わった私たちは、また成り代わられる。体も、名前も、生活も、文化も。奴らが取り戻す。そして私たちには終末が訪れる。