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奇跡的生還


「いやあ、連絡がきたときは驚いたよ。一週間も行方知れずだったのに奇跡の発見なんて。怪我も大したことなくて、もう退院してもいいんだって?」


 運転席から、バックミラー越しに兄の姿を確認して、次郎は今日何度めかの感心の声をあげる。後部座席の一郎は、頭に包帯、首にギプス、全身のすり傷に絆創膏と、満身創痍の体だったが、顔色は元気そうだ。家に帰れることがよほど嬉しいのだろう、柔和な顔立ちに笑みを浮かべている。


「大したことない……のかな、まだ全身痛いけど」

「パラグライダーで谷底に落ちたのに、手足が繋がってるだけでも強運だよ。離陸地点から見ていた麻子さんによれば、ものすごい勢いで落下したらしいからな。これは助からないって絶望したって」

「麻子にも心配かけたな。あとで謝らなきゃ。入院中は家の用事があるからって、ろくに見舞いにも来てくれなかったけど。まああいつ、恥ずかしがりだから」


 妻の麻子の話をするときは、ただでさえ緩んだ顔がますます緩む。兄のノロケを軽く受け流しつつ、次郎は別のことに気を取られていた。前方に迫ってきた交差点を睨む。

 弟の様子には気づかず、一郎はにこにこと楽しみを口にする。


「そうだ。家に帰ったら、レコードの整理をしないと。事故に遭う前にコレクションが大量に増えたんだ」

「へえ、そうなんだ」

「サーフボードも新調したんだぞ。次郎、お前にも見せてやるよ」


 それは楽しみだね、と次郎は上の空で返事をした。


「にしても、救助隊の人たちには本当に感謝だよ。意識がなかったから記憶にはないんだけど、谷底に落ちて、そのまま何百メートルも下流に流されてたなんて。よく諦めずに探してくれたよ」

「ああ、家族の命を救ってくれたんだ、僕にとっても彼らは恩人だ」


 ――本当に……余計なことをしやがって。

 次郎は内心の舌打ちを隠しながらハンドルを切った。知らず、運転が荒くなったのか、背後で一郎の恰幅のいい体が大きく傾く。たった今曲がった交差点を振り向き、兄が慌てる。


「おい、また道を間違えてるぞ、今のところは右に曲がるんだ」

「そうだったっけ。兄さんの新居、まだよく場所を覚えてないんだ。ごめん、遠回りになるかもしれない」

「……まあ、仕方ないか。運転してもらってることだし、文句は言わないよ。次はよく確認してくれよ」


 早く帰りたい一郎は残念そうに座り直す。次郎はスマホで地図を確認するふりをしながら、妹からの連絡が来ていないかチェックした。

 妹の三実(みつみ)からのメッセージは一件。


『まだ無理。全然メドがついてない。もう少し時間稼ぎして』


 道を間違えるのも、休憩と称して寄り道するのももう限界だ。なんとかしてくれよ、と次郎は祈る気持ちになったが、どこかで観念もしていた。自分はこのまま、兄夫婦が暮らす新居へ一郎を送り届けるしかないのだろう……。


「おいよく見りゃこの車、カーナビがついてるじゃないか。それを使おう」

「運転中は目的地の設定ができないようになってるんだ。どこかで一旦止まらないと」

「そりゃそうか、操作しながら運転したら危ないもんな……あれ、じゃあ出発前に設定しておいたらよかったんじゃ」

「手頃なコンビニでも探すよ。見つけたら教えて」


 すぐそばにあったコンビニをわざとスルーしつつ、次郎は最後のあがきを試みた。




「おかえりなさい、お兄ちゃん!」

「おかえりなさい、あなた」


 一郎の家にたどり着くと、玄関で妹の三実と一郎の妻の麻子が出迎えた。成人してもなお少女のような子供っぽさを持つ三実と、控えめな和風美人の麻子。それぞれタイプの違う二人に笑顔で迎えられて、包帯まみれの一郎はご満悦だ。

 車庫入れを済ませた次郎は、一郎の建てた立派な一軒家をあらためて見上げた。周囲の高級住宅にも劣らない。次郎とそう変わらない若さでこれほどの家を持つ一郎は、間違いなく成功者といえるだろう。


「お兄ちゃん、さあ上がって上がって! 一郎お兄ちゃんのために、麻子さんと一緒に、腕によりをかけて、こーんなにご馳走を作ったんだから」


 はじけるような笑顔で三実が食卓へと一郎を招く。ダイニングテーブルには、確かに豪勢な食事が並べられていた。湯気が立っていて、出来立てのようだ。


「麻子と一緒に、だって? 三実がどれだけ邪魔をしたんだか」

「お兄ちゃん、ひどーい! わたしだって、ちゃんと手伝ったんだから」

「ほう、味見以外で?」

「お皿並べたりとか……」


 気まずげに目を逸らす妹に、苦笑する長男。麻子が微笑ましそうにやり取りを見つめる。和やかな食卓で、次郎は抜け目なくリビングの様子に目を走らせた。天井の高い、ひろびろとした一室だ。家具には埃よけのような布がかけられている……。


「ところで麻子、リビングの模様替えでもしたか?」


 一郎が麻子に尋ね、次郎はぎくりとした。麻子はおっとりと、


「さあ。一郎さんが帰ってくるので準備をしたり、料理をしたりと忙しかったから……」

「そうか。まあ、久しぶりの我が家だから雰囲気が違って見えるのかもな」


 一郎は首をひねりつつも、それ以上追求しなかった。

 夫婦と三実と一緒に食事をしながら、次郎は気もそぞろだった。一郎が入院中の体験談などを語り、三実が大げさに合いの手を入れ、麻子は穏やかにうなずいている。次郎は何度か三実にアイコンタクトを送ったが、すべて無視された。わざとかと思うくらい目が合わない。

 トイレに立つふりでもして二人きりになれるタイミングを窺おうと思っている間に、食事が終わってしまった。


「さてと。久々に自分の部屋でゆっくりするか。そうだ次郎、コレクションを見せてやるって約束だったな」


 満足そうな兄が包帯まみれの手で二階を示す。「そうだったね、是非見せてよ」全然乗り気でない次郎は重い腰をあげた。

 二階へ向かおうとすると、麻子と食器の片付けをはじめていた三実が慌ててあとについてくる。一郎が気づいて笑いかける。


「どうした三実、お前も見たいのか? 男の趣味だから楽しくないと思うが」

「う、うん! お兄ちゃんの好きなもの、わたしも見たいなーって」


 えへへ、と麻子はぎこちなく笑う。次郎は嫌な予感を覚えつつ、兄が自室に入るのに続いた。


「な、なんだこれはーー!!」


 数秒後、一郎の叫びが家中に響き渡った。




 黒を基調とした、よく整頓されたコレクションルームがそこにあるはずだった。過去に次郎も家に招かれたとき、一郎に自慢げに見せてもらった。

 天井まで届く棚には、レコードがぎっしりと詰まっていて、机上には希少なソフビフィギュア、多趣味な一郎のアウトドアグッズまでが一室に収められている――はずが、棚にはレコードの代わりに平べったい箱が押し込まれ、机上のフィギュア置き場にはぬいぐるみ、サーフボードの飾られていた場所には、謎の発泡スチロールでできた物体が設置されている。

 その他、こまごました私物もあったはずが、全体的に空っぽになっている。空白をごまかすように各所にガラクタが押し込められている、というひどい有様だ。

 変わり果てた自室の様子にわなわなと震えている兄の横で、次郎はレコード棚に入った平たい箱を引き出した。海外製のフリスビーの空き箱だった。


「三実……」

「だってだって、ジャンクショップで似たようなの探したら、これしかなかったんだもん」


 次郎が小声で呼びかけると、三実の泣きそうな返答があった。


「このぬいぐるみは」

「家から持ってきたの。動物なんだから一緒でしょ」

「ソフビとは素材からして……まあいいや。この発泡スチロールでできたおゆうぎ会の小道具みたいなのは」

「さーふぼーど? の売ってる場所なんてわからなかったから、作ったの、わたしが」


 自信作、と胸を張る。時間稼ぎしてと俺に頼んでおいて、これか……次郎は脱力した。


「次郎、三実、お前らまさか……」


 魂が戻ってきたらしい一郎がゆっくりと振り向く。そこで、なにかに気づいたようにはっとして、転げるように部屋を出ていく。次郎は三実と顔を見合わせる。


「他の部屋は?」

「手つかずだよ。リビングは布かけただけ」


 バタバタとした足音が廊下や階段から聞こえてきた。合間に一郎のあげる悲痛な声が届く。「そんなにあわててどうしたの、一郎さん?」とおっとりした麻子の声も。最後にリビングから一際悲しげな叫びがしたあと、一郎がとぼとぼと戻ってきた。


「デンマークから直輸入した北欧家具が……針金の骨組みだけに……」


 布のかかった家具の下は針金細工になっていたらしい。一郎はがくりと膝をつくと、そのまま床に座り込み、目の前を指して次郎と三実にも座るよううながした。ソファも部屋からはなくなっていたから、二人は素直に床に腰を下ろした。


「一体、どういうことだ。家からあらゆる物がなくなってるんだが」

「一週間も行方不明だったから、てっきり」


 次郎は三実を見た。三実も次郎を見て、互いにうなずいた。事故の状況からしてまず助からないだろうと警察から聞いて、次郎も三実もそうだろうと思ったのだ。口を揃えて言う。


「死んじゃったかと」

「だからって、家中のもんすぐに処分することないだろ!? 麻子がぼんやりしてるからって、やっていいことと悪いことが……」


 一郎は家の惨状を思い出したのか、頭を抱える。正確に言えば、処分したのではなく売り払ったのだった。一郎のコレクションは高価なものや希少なものも多く、買い手には困らなかった。

 まさか生還するなんて。しかもこんなに早く帰ってくるとは。次郎は連絡を受けたときの絶望感を思い出した。大急ぎでごまかすべく、三実に処分した物の代用品を揃えるよう頼んだはずが、まったく間に合っていなかった。


「仕方ないじゃん! お兄ちゃん、もう帰ってこないって思ったんだもん」

「あのなあ三実、家族なら信じて待っててくれよ。そんな死ぬのを望まれてるみたいな言い方されると傷つくぞ」

「違うよ。わたし、悲しかったんだもん。家にお兄ちゃんの物がいっぱいあると、帰ってこないんだって思って、辛くて、それで……」


 三実が顔を伏せて、さめざめと泣き出す。一郎はさすがにうろたえた。


「全部捨てちゃえば、お兄ちゃんのこと思い出して辛くならずに済むって思ったの、ごめんなさい……」

「三実……。いやでも、お前はこの家に住んでるわけじゃないから、理由としてはおかしいが……別にここに来なければ見なくて済むし」

「わたしってひどい妹だよね、ごめんなさい!」


 強引に遮って、三実は顔を覆ったまま部屋を飛び出していった。

 私物を売り払って得た金はしっかり三実の懐にも入っているので、ひどい妹というのは間違ってないな、と次郎は思いつつ、遠慮がちに一郎に声をかけた。


「兄さん。三実の悲しみは本当だよ。これを見てくれ」

「なんだ。動画?」


 一郎に見せたスマホ画面では、三実が一郎の寝室でしくしくと泣いている様子が映っていた。ベッドにすがりつくその様子は、兄の死を嘆く妹のものだった。シーツを濡らしている涙はまぎれもなく本物だ。

 これには一郎も心を打たれたようだ。画面を見つめ、言葉を失っている。


「三実は兄さんの事故の知らせを聞いてから、三日三晩泣き続けたんだ。こんなにも悲しんでいる妹の言葉を、兄さんは疑うの?」

「次郎……。そうだな、俺がどうかしていたよ。コレクションは失ったが、命は戻ってきたわけだし、許してやるか」

「ありがとう、兄さん。さすが、心が広い!」


 一郎はまんざらでもなさそうにして、三実にも同じ言葉を伝えるべく探しにいった。残された次郎はスマホ画面に目を落とした。

 三実の嘆きは本物だ。動画を撮ったのは、一郎が生きて見つかったと知らせを受けたあと。一郎が帰ってくると知って、この新築の家も手に入れるつもりだった妹は、悲しみのあまり三日三晩泣き続けたのだった。

 動画を撮っておいてよかった、と次郎は胸を撫で下ろした。次郎も三実と同じ気持ちだった。成功者である兄の財産が手に入ると思ったのに、その機会はおあずけされてしまった。

 ()()()()兄が事故に遭うという、天から降って湧いたような幸運だったのに……。




 次郎と三実が帰ったあと、夫婦はリビングでくつろいでいた。麻子の淹れたコーヒーを飲みつつ、一郎はお茶菓子に手を伸ばす。


「さっきは話さなかったけど、入院中、何度も警察がやってきたんだ」

「そうなの」


 麻子は普段通り、おっとりと相槌を打つ。小さな両手で自分のコーヒーカップを包んでいる。


「僕の使ってたパラグライダーの道具に、細工の跡があったって。事故は故意に引き起こされたものじゃないかと疑ってるみたいだった」

「そうなの」

「で、離陸地点で居合わせた人たちに聞き込みして、細工ができた人物を探ったらしい。僕らの顔見知りも何人かいたからね。他人の荷物に触れている人がいたら目立つだろう、ってみんな関与を否定したんだって。もし細工ができたとしたら、荷物を代わりに持ったりできる同行者だけだろう、って」

「ふうん」

「君に話を聞きたい、と警察が言ってきた。だから僕は、道具についていたという傷について聞いた。ああそれは、前回使ったときに自分でつけた傷ですと言っておいた。メンテナンスを怠った自分の過失が原因の事故です、と。それを聞いて警察は帰っていった」

「よかったわね」

「ああ、よかった」


 一郎はぱさついたお茶菓子を口にし、コーヒーを飲んだ。もう一口。口の中がいやに乾く。きっとお茶菓子のせいだ。コーヒーを飲み干した。

 麻子は両手でカップを持ったまま動かない。無表情で黒い水面を見つめている。


「よかったわ」


 もう一度ぽつりと口にする。カップが軋んだ。麻子の両手に力が込められているのがわかる。カップに罅が入り、割れた破片が麻子の指を傷つけた。

 一郎は麻子の隣に行くと、指を一本一本カップから剥がし、ひび割れたそれを取り上げる。血のにじんだ指先ごと、優しく麻子の両手を包む。


「麻子」


 いたわるように、落ち着かせるように、ゆっくりと呼びかける。返ってきたのは、冷たく殺意のこめられた視線だけで、一郎は途方に暮れた。






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