疽
「早くなんとかしてください。お金ならいくらでも出しますから」
薄暗い事務所の一室で、中年女が焦燥していた。まだ昼間であるのにカーテンを閉めているのは女の要望だ。万が一にも、窓から覗かれるわけにはいかないから、と。
あんまり暗いし、電灯でもつけようかしら、と少女助手メリーは思った。でも先生は節約主義だし、トイレの電気を点けっぱなしにしたくらいで目くじら立てるほどケチだし。
こんなに暗くては来客の顔もよく見えない。二人連れだ。疲れてうろたえた様子の、スーツ姿の中年女性。それから、ほっそりと背の高い、若い男性……マスクをしていて、半分しか顔が見えないけれど、あれ? もしかして。
メリーはそわそわと男性のほうへ近づいた。
「このままでは困るんです。スケジュールを延期してもらうのももう限界。雑誌の撮影も、テレビの出演の予定だって……このまま仕事ができなかったら」
爪を噛まんばかりの女が言い募るのをよそに、メリーは確信した。
――撮影? それにテレビだって? 間違いない。
「やっぱり。あなたモデルのナギじゃない!?」
長髪の男性の前に飛び出して、メリーは歓喜の声をあげた。
背後の椅子で先生が苦笑する気配。あっけにとられる来客二人の前で、メリーは跳ね上がって喜んだ。目元だけしか見えなくても、顔立ちの綺麗さ、立ち姿のスマートさは隠しようがなかった。
「きゃあ、本物!? かっこいい、背も高い!! 有名モデルでテレビ出演もこなす、今若者人気ナンバーワンタレントのナギがどうしてこんなところに!? あ、写真撮ってもらってもいいですか?」
「こら、メリー。やめなさい。初見のお客さんにミーハーなところを見せるんじゃない」
さすがに見かねた先生がたしなめる。メリーはきっと振り向いて、ゲーミングチェアに深々と腰掛けた黒縁眼鏡の男を見た。
華やかなオーラを放つモデルのナギとのギャップに、ため息も出る。
「先生は黙っててください。おじさんなんだから」
「まだ29歳だから、おじさんじゃない。断じて」
ムキになって反論する先生に、今度はナギのほうが苦笑した。顔面を覆ったマスクに細い指をかける。
「悪いけど、写真は無理かな。――こんな状態だから」
この部屋に入ってはじめて口をきいたナギの顔からマスクが取り払われる。室内に息を飲む音が落ちた。メリーは驚き、中年女は目をそむけ、先生は興味深そうに身を乗り出した。
「おやまあ、商売道具にこんな」
先生はナギの顔をしげしげと見つめた。モデルらしく綺麗に整った顔面の右頬のあたりに、黄みがかった大きな痣があった。それもただの痣でなく、醜く引き攣れ、人の顔のようにも見える。
あの細い切り傷のような部分が目で……ニキビ跡のようなぼこついた穴が鼻で……しわだらけの捻じくれた部分が唇のようで……いや、実際に唇のように歪み、隙間から見えたのは――歯だ。痣の中に歯がある!
メリーが戦慄していると、室内にくぐもった声がした。
「……ナ……ギ……」
「えっ。今誰か喋りました?」
部屋にいる誰とも違う声に、メリーが尋ねる。声は続けて、
「ボク……ガ、……ナギ……」
メリーはナギの顔面を見た。ナギの唇は閉じられている。喋ったのは、頬を無惨に歪ませる痣に開いた口だ。メリーの視線に気づくと、目や口と見える箇所が、ニイ、と釣り上がって、笑みのようなものを形作った。
少女助手メリーは無言で下がると、先生の椅子の背を掴んで後ろに隠れた。
「人面疽……」
先生がぽつりと呟いた。思案するように下唇に指を当てる。
「人体に突如現れる、人の顔のような痣。目鼻や口があり、体の主の意思に反して喋ることもある」
先生が確認するように中年女に目をやると、女は詰めていた息を大きく吐き出した。おそろしげにナギのほうをチラチラと見つつ、
「ナギの顔に異常が起きてから……マネージャーの私はあらゆる手を尽くしました」
女は追い詰められた様子で語った。
「病院に連れて行っても治らなかった。普通の薬や治療では効果がなかったんです。痣はますます大きく広がり、ついには口をききはじめました。
匙を投げた医者に、これは呪いの一種だと言われました。
だから、寺や神社や、怪しげな祈祷師や霊媒師にまで頼って――結果は同じです。一目見ただけでお手上げで、そういう本物はうちでは扱ってない、と。たらい回しの挙げ句、最後に紹介されたのがここです」
「まあ、あの手の人たちは大半がインチキですから。そもそもの話、怪奇現象自体がトリックのことが多いから、詐欺師でも十分間に合うんです」
マネージャーは疑わしそうなまなざしを先生に向けた。自分は違うとでも、と言いたげな視線だったが、結局黙ったままだった。藁にも縋る気持ちなのだろう、とメリーは思った。確かに先生は藁一本分くらいの頼りがいだし。
「痣が現れたのは、いつからですか」
「つい最近です。三週間ほど前でしょうか」
先生の質問に、マネージャーが答えた。
「はじめは小さなできものだったのが、段々と大きくなって、今や人前で顔をさらせないほどにまで……」
マネージャーは辛そうにナギの顔を見つめた。メリーは神妙に口を開いた。
「先生。わたしも怪談話で聞いたことがあります。人面疽は放っておくとどんどん存在感を増して、最終的にはその人の体を乗っ取るって」
「乗っ取る、ですって?」
驚くマネージャーに、メリーは聞きかじりの知識を教える。
「はい。喋る人面疽の人格が、ナギさんに成り代わるってことです。怪談話では、かわりに自分が人面疽になってしまって、嘆いた途端、ぷちっと潰されてしまうんです。ニキビみたいに」
ですよね先生、とメリーが確認すると、「まあ、大体そんなところだ」と適当なうなずきが返ってきた。真に受けたマネージャーは言葉を失って青くなっている。
ナギの顔にできた人面疽もまた、同じ運命を辿ろうとしているのか。「……、……」またなにか喋りかけた痣の口を塞ごうとナギが手をやった途端、
「いて」
「ナギ! 大丈夫!?」
指先を押さえたナギに、マネージャーが駆け寄る。歯を持つ人面疽に噛みつかれたらしい、血の滲んだ指先に、マネージャーが絆創膏を巻いてやる。
「ありがとう、マネージャー。大した傷じゃないよ」
ナギが微笑み、中年女はほっと息をつく。随分過保護なやり取りだ。
頬杖をついて二人の会話を眺めていた先生が、メリーの補足をした。
「本物の人面疽は下手に切除しないほうがいいと言われている。一生消えない傷になるし、別の場所に復活したり、最悪本人が死に至ったりする。切り口を他人につければ移すことができるという説もあるが……」
「私が代われるものなら代わってやりたいです」
マネージャーは希望を見出したような顔をした。ナギが首を振り、マネージャーの肩に触れて止めた。
「僕のために、叔母さんを同じ目に遭わせるわけにはいかないよ」
「ナギ。あなたのためなら私は」
「僕が嫌なんだ。自分のために誰かを犠牲にするなんて」
ナギの真摯な目に、マネージャーは感動したように口元を手で覆う。メリーは首をひねった。
「叔母さん?」
「ナギは私の甥っ子なんです。ナギが芸能活動をはじめるにあたって、私が働いている芸能事務所なら融通もききやすいだろうと。私はこの子の母親――姉から、この子を任されているんです。ナギの芸能界での進退は、すべて私に責任があります」
生真面目そうな顔つきで、女は胸を張った。
「なるほど。事情はわかりました。ところでマネージャーさん、ナギさんからちょっと伺いたいことがあるので、少しの間席を外してもらえますか」
「はい? ですから、ナギの今後について、私には責任があります。お話なら私も同席して……」
「メリー。別室でもてなしてあげて」
「はーい、先生」
メリーは元気よく返事をして、まだ渋っているマネージャーの背を押して部屋を退室させた。廊下をどんどん押していき、別室へ。片付いていないが、テーブルと椅子はとりあえず揃っているし、応接間ということにしてもいいだろう。
「あの、私も話を……」
「お茶でも淹れてきますね。ちょっと待っててください」
無理やり座らせた椅子を立とうとするマネージャーを押し戻し、メリーは笑顔で告げて部屋を出た。キッチンは一階だが、階段を降りずに、まっすぐ先生の部屋へ戻る。閉じられたドアの前でしゃがみこむ。ポケットから出した聞き耳用コップを当てる。
――先生ったら、どさくさに紛れてわたしまで追い出して。何を話してるのか、気になるじゃない。
メリーは部屋の中の物音に集中した。会話が聞こえてきた。
「――で、ナギさん。マネージャーさんはああ言っていましたが。それ、本当はいつからできたものなんですか」
「……やはり、あなたは他の方とは違うようですね」
いつもののんびりした先生の声に、ナギの落ち着いた声。なんだか、テレビで見るときや、さっきまでの控えめな調子とは違うようにも聞こえる。芯のある、強い印象……。
「マネージャーが親類ということなら、身近な人の前では話しづらいこともあるでしょう」
「……昔の話になります。ナギが、まだ凪沙という少年だった頃の話です――」
ナギは静かに語りはじめた。
◆
とある小学校のあるクラスに、見目麗しい少年がいました。凪沙という少年は、美しいだけでなく、聡明で、誰にでも優しくて、みんなに好かれていました。クラスは凪沙くんを中心に回っていました。直接は親しくなかったとしても、彼を嫌っていた子などいなかったに違いありません。
あるとき、凪沙くんは不幸な事故に遭いました。体育の時間の最中、飛んできた野球ボールが頭に当たったのです。打ちどころが悪くて、凪沙くんは病院に運ばれ、入院することになりました。
見舞いに来たクラスメイトたちは、凪沙くんの意識がいつ戻るかわからないと告げられました。
彼らは待ちました。毎日、かわるがわる病室を訪ね、凪沙くんが目を覚ますのを期待しました。けれど、凪沙くんは、ずっと意識不明のままでした。
――元のように動いたり、喋ったりする凪沙くんに、なんとかして戻せないか。
クラスのみんなは考えました。凪沙くんが大好きでしたから、どんな手を使ってでも、彼に元気になってほしかった。凪沙くんはクラスの中心でした。これまでもそうだったから、これからもそうであるべきでした。
神に願ったり徳を積んでみたり。占いに頼ったりおまじないを試したり。いろんな方法で彼の意識を呼び戻そうとしましたが、どれも上手くいきませんでした。次第に、試みはオカルトに傾倒していきました。
当時、校内で流行っていた怪談がありました。発端は図書室にあった怪談本だと思います。読んだ子が友達に内容を話し、本を読まない子にまでその話が広まりました。
とつぜん体にできた人面疽に、自分を乗っ取られるという話でした。
本では、人面疽は死んだ人間の呪いであったと明かされます。呪いたい相手の体に傷をつけ、自らは命を絶つ。そうすると、死後、傷は人面疽となり、やがて成長して対象の人格に成り代わる――
待っていても、凪沙くんは目を覚まさない。クラスのみんなは元気な彼の帰りを望んでいる。
人面疽の呪いを利用して、凪沙くんを復活させようと思いついた子がいました。凪沙くんの体に傷をつけ、自ら死に、人面疽となって彼の体の主となる……。
今思えば、その子は、凪沙くんを目覚めさせたかったんじゃなくて、凪沙くんになりたかったのかもしれません。凪沙くんが人気だったのは、外見が特別美しかったからです。みんな彼に憧れた。彼が大事だった。彼が羨ましかったのです――
◆
「え、ということは、今喋ってるナギさんは、そのとき体を乗っ取った人面疽の人格――なの?」
少女助手メリーは驚いて、思わずドアを押し開け尋ねていた。立ったままのナギが振り向き、椅子にかけた先生が呆れ顔を向ける。
「君にも席を外してほしいと言ったつもりだったんだけど。……まあ、聞いてしまったものは仕方ないか」
まだ話の途中だよ、と先生はナギに向き直った。
「ナギさん――今の君がその当時自死して体を乗っ取ったクラスメイトだとして、君の体にはまだ人面疽がある。つまり、同じ行動に出たのは一人じゃなかった」
「ええ。何人もが、昼間、見舞いに来るみたいに……代わりばんこに深夜の病院に忍び込んで、凪沙くんの体に傷をつけ、それぞれ死んだみたいです。クラスメイトだった僕たちは凪沙くんの体の中で再会しました」
最初は争いがあった、とナギは語った。
凪沙の体はひとつで、体の主導権を獲得できるのはひとつの人格のみだった。
意思の強いものが主導権を握り、他の者たちが結託してそこから引きずり下ろしたり、その結束を裏切って他の者が、とキリがなかった。
「人面疽は切り落とすと傷跡が残るし、呪いで死ぬ場合もある、と本には書いてありました。僕以外の人面疽を力技で排除するわけにはいかなかった。凪沙くんの体が何より大事でしたから」
他の者も同じ思いだったようで、そのうち、彼らの間で話し合いが持たれるようになったという。人面疽と化したのは、凪沙という少年を心から愛していたものばかりだった。彼らは人間だったときも凪沙を中心とした仲間だった。凪沙のためなら協力することができた。
凪沙は見た目にふさわしい振る舞いをするべきだ。彼らはそう結論づけた。かつての、人気者だった凪沙を再現するように。
「僕たちは交代で凪沙として行動し、もっともふさわしく振る舞った者が主導権を持つ、と取り決めました。試行を繰り返した結果、自分に決まったのです。だから現在は僕が体の主導権を得ています」
凪沙は自身の美しい外見を生かせるよう、叔母を頼ってモデルという職業についた。それは凪沙の体に棲む人面疽たちの合意でもあった。
「僕がナギから逸脱した振る舞いをしたと見なされればまた交代のときが来ます。自分がやり遂げているうちは、人面疽は大人しくしています。こんなふうに」
ナギはシャツの裾をまくりあげて、ズボンのベルトを外した。色白の腹が現れ、そのまま下着をわずかに下にずらす。メリーはきゃっと目を手で覆いながら、指の間から凝視した。雑誌に載っているようなサービスショットが生で見られる機会はそうない。
下着で隠れていた鼠径部の近くに、目立たないまだらの痣があった。よく見ればいくつもの顔のような痣が密集したもののようだ。
「普段は仕事の邪魔にならないよう、衣服で隠しやすい位置にいます。子供のときから今までの付き合いで、僕たちには仲間意識が生まれました。例え無傷で引き剥がす方法があるとしても、誰かに押し付けようとは思えません」
だから、自分が引き受けるというマネージャーの申し出を断ったらしい。メリーは合点がいった。叔母への優しさではなかったわけだ。
「自分も、ナギ以外の体では生きたくないし……ナギは、全員で相談して作り上げているものですから」
「君たちは目的を同じにして協力している。そのはずが、顔面で堂々と存在を主張しているということは、人面疽のうちの一人が協力を拒否して、強引に乗っ取ろうとしてきている?」
「いや、考えられません」
先生の推測を、ナギは首を振って即座に否定した。
「人間をやめて、他人の体で呪いの痣として過ごすうち、生きていた頃の記憶は薄れ、元の顔も忘れました。みんながそうだった。何度もナギの主導権を奪い合う間に、人相は原型をとどめなくなり、誰が誰かの判別もつかなくなりました。それでも、人数だけは覚えている」
一人多いんです、とナギは顔の痣に手をやった。
「この、顔の痣を入れると……最初の人数より増えている。マネージャーが言ったように、三週間くらい前に、とつぜん新しい痣ができたんです。それも、呪いの人面疽が」
ふむ、と先生は考え込んだ。ナギの指にまた噛みつこうと歯を鳴らす人面疽を見つめる。
「最近、体に傷をつけられたような覚えは」
「心当たりはないです。職業柄、危険なファンとの接触を避けるためにもセキュリティには気をつけていますから。それでも、もしかしたら気づかないうちに……寝ているときとか……」
なんとか記憶を探ろうとするナギに、先生はあっさり言った。
「君にもマネージャーにも気づかれずに体に傷をつけた、なんて説よりも、もっと自然にたどり着ける正解があるよ」
「なんですか」
「顔のそれは、元の凪沙くんの人格なんじゃないかな」
ナギは目をまたたいた。顔面で、人面疽が口を開いた。
「……ナ、ギ……」
口を押さえようと上げた手をナギは途中で止め、下ろす。人面疽は続けた。「ボク、ガ……ナギ、サ……」
「凪沙くんは事故に遭って、長い間意識不明だった。いつ意識が戻るかわからない、と言われたんだったね。今になって目を覚ましたってことだよ。証拠に、その人面疽はずっと名乗ってるじゃないか。凪沙くんの名前を」
先生は微笑んで、歪んだ声をあげる人面疽を指さした。ナギは額に手をやり、うつむいた。
「そんな。凪沙くんが……僕はどうしたら」
「――ナギ」
ガチャリ、とドアの開く音がした。メリーが振り向くと、別室にいるはずのマネージャーが呆然として立っていた。メリーが廊下にほうり出してきた聞き耳用のコップが、女の手から落ちて転がる。
「ナギ。いえ……凪沙。姉から聞いていたわ。子供の頃の事故のあと、意識が戻ったのはよかったけど、しばらく様子がおかしかったって。錯乱してるみたいで……そのうち落ち着いたけど、一つのわがままも言わないいい子になってしまったって。親の前では子供らしいところもあったのに――性格が変わったみたいだったって」
マネージャーは目を見開き、震えながら一歩踏み出した。ナギのほうへ手を伸ばす。
「今の話が本当なら……ずっと、別人だったの? 私の知る、かわいい凪沙は……あなたなの?」
彼女が呼びかけたのは、ナギではなく、顔面の痣へだった。マネージャーではなく、凪沙の叔母としての問いかけだった。人面疽は目を歪め、弱々しく声を絞り出した。「オバ……サ……」明確に、人面疽の両目は叔母を捉えていた。女は今にも泣き出しそうな顔をした。
「…………」
そのやり取りを間近で見ていたナギは、目を閉じた。少しの時間が経った。目を開けたとき、ナギは決意したようだった。
「今、話し合いをして、結論が出ました。この体は凪沙くんに返すことにします」
「いいのかい? ナギという理想像を、せっかく君たちで作り上げたのに」
先生が尋ねると、ナギは心外そうにした。
「何を言ってるんですか。本当の凪沙くんが戻ってくる。それが、僕たちの何よりの願いだったんですから。それに……凪沙くんなら、きっと誰が演じるよりも、理想のナギをやってくれるはず」
――ありのままの凪沙くんが、僕たちが好きだった凪沙くんだから。
最後に笑ってそう残すと、次の瞬間、顔面の痣は大きく膨れ上がり、頭部まで飲み込んだ。マネージャーが悲鳴をあげた。伸縮するマスクを被せたように、醜く伸びた目鼻が顔面を覆う。
――瞬きのあとには、元の麗しい顔に戻っていた。悪夢のような光景が嘘だったかのように。
唯一、うっすらとした痣が頬に残っていた。人の顔のような目鼻が見えるその痣は、安らかに目を閉じていた。見ている間にも、小さく縮んでいっているようで、いずれは消えるのだろうと思われた。
ナギの顔をした青年は、微笑みを浮かべていた。穏やかな目でマネージャーを見る。
「僕が、凪沙」
「――おかえりなさい、凪沙」
叔母は駆け寄り、青年を抱きしめた。
マネージャーとナギ――凪沙は、礼を言って退室した。再会の涙をぬぐったマネージャーは、さっそくスマホで予定を確認しはじめた。痣の問題が解決した次は、溜まった仕事の問題をなんとかしないとならないらしい。
「急ぐので見送りは結構です。謝礼の話はまた後日。行くわよ、ナギ。外に車を待たせているから」
凪沙を急かして部屋を出ていく。あっという間の出来事だった。気が抜けてぼんやりしていたメリーははっと気づいた。
「あ! 写真撮ってもらうの忘れた。痣治ったんだし、いいはずだよね」
「どっちにしろ無理じゃないかなあ。プロなんだから、一般人と軽々しく撮ってくれるわけ……」
「一応頼んでみる!」
「おい、メリー……」
先生の呼び止める声を無視して、メリーはあわてて二人のあとを追った。廊下を走り、階段を駆け下りる。事務所は二階建てだから、急げば外に出る前に追いつけるはず……。
「――――!!!!」
女の悲鳴が聞こえた。尋常でないことが起きたとわかる、絶叫だ。
玄関のほうではなかった。メリーは方向転換した。一階にある、キッチンからだった。
急いで飛び込むと、真っ赤な光景がメリーの目の前にあった。
青年が、血に染まった包丁を持っている。自分の頬を切りつけたらしい。端正な顔の片側が、丸ごと削がれたように赤く染まっていた。刃先には、皮膚の表面らしき肉片がへばりついている。うっすらと、断末魔の表情を浮かべた痣が見える。まだ消える前の人面疽を、無理やり剥いだものらしい……。
「ナギ……なんてことを……」
マネージャーはわなわなと震えていた。信じられないように青年を見つめている。返り血が女のスーツを汚していた。
「話を聞いていたでしょう、無理に剥がしたら、一生消えない痕が残る、って。こんな、こんなことをしたら、モデルの仕事ができなくなるじゃない……」
「誰がそんな仕事やりたいって言った?」
冷たい声色に、マネージャーの顔がこわばった。凪沙は血まみれの頬に冷笑を浮かべていた。
「モデル? タレント? 美しい外見を生かした職業? そんなの僕の意思じゃない。周りが勝手に押し付けた理想だろ。僕の意思はね」
凪沙はマネージャーに顔を近づけ、囁いた。
「ずっと、この顔が、この体が、嫌いで仕方なかったんだよ」
「凪沙、やめなさ――」
マネージャーは止めようとしたが、恐怖で体が動かないようだった。メリーも同じだった。凪沙の行動をただ見ていることしかできなかった。
ズボンの上から、包丁が凪沙の鼠径部に突き立てられた。悲鳴が何重にも重なって聞こえた。マネージャーのものだけではない、小さな、人間の上げる悲鳴――赤黒い染みが布地に広がる。包丁はそのまま、一文字に横に引かれた。
ボトリ、と何かが床に落ちる音がした。まあまあ重量のある、肉の塊を落としたみたいな。メリーは背筋が寒くなった。あっ、あっ、今落ちたのって――
マネージャーはショックのあまり卒倒していた。凪沙は、床に倒れる女を一瞥もせず包丁を流しに置いた。血溜まりを踏んでキッチンを出ようとして、入口に立つメリーに気づく。放心した少女の手に持ったスマホに目を落とす。
「写真? いいよ。これが最後だし」
青年は笑顔でスマホを受け取ると、メリーの肩を抱いて一緒に写真を撮った。
――まったく、うちの助手は全然言うことを聞かない。
一人残された事務所の一室で、先生は天井を仰いだ。ゲーミングチェアの背もたれがギイ、と音を立てる。メリーが自由なのは、今にはじまったことではないけれど。
静かになった部屋で、ふと思いついたことがあった。
ナギの顔面に新しく生まれた人面疽。本来の凪沙だと推測したが、そういえば、ひとつ忘れていたことがあった。
凪沙が事故に遭ったときにできた傷のことだ。野球ボールをぶつけたという相手は、今どうしているのだろう。
人面疽の呪いは死後にはじめて効果を発動する。なんらかの理由で、事故の加害者が長い間昏睡状態で、最近死んだとしたら――三週間前、はじめて人面疽は現れた。ボールが当たった……髪で隠れた後頭部などに傷があったとしたら。他の人面疽もまた、ずっと治らない傷があることに気づかなかったかもしれない。
加害者はどうして昏睡状態だったのか。他の人面疽と同じように自殺を試みて、死にきれなかった? いや、それなら他の人面疽と同志なわけだから、協調するはずだ。話も通じないわけはない。ナギのためなら、なんでもする仲間たち――ナギを傷つけた者は敵と見なされる?
事故が故意でなかったとしても、加害者は復讐されたのかもしれない。ナギのためなら自分の命も捨てられる者たちは、人間をやめる前に加害者に報いを受けさせた。そいつは長いこと死の淵を彷徨って、その末に死んだ。自分をそんな目に合わせた復讐者を呪った先には、かつて傷をつけたナギの体があった。
だとすると、あの人面疽は本物の凪沙ではなく、ただナギに恨みをつのらせ、殺意を持つだけの……。
「……ま、考えても詮無いか。終わったことだし」
先生は後日もらえるはずの報酬に思いを馳せた。ナギという人気モデルは相当稼いでるみたいだし、マネージャーからも感謝された。お金が入ったら、屋根の雨漏りを直そうかな。それとも調子の悪いシャワーの修理をするか。
うきうきと銭勘定をはじめようとしたとき、階下から「先生~~~!」とメリーの泣き声が聞こえた。