人生Ⅲ版
「だからさ、昔のゲームがリメイクされるときに、旧版にはいなかったキャラとか新要素が追加されたりするじゃん? 映像が綺麗になるだけじゃなくって、シナリオも増えて、新しいシステムも追加されて、ゲームのボリューム自体がアップするわけ」
よれよれのスウェットの上下を着て、寝癖を跳ねさせた、自宅でのくつろぎ度MAXの格好で男は言う。
「俺、よく考えるんだよね。もしゲームの主人公に旧版の頃の記憶が残っていたらどうだろうって。かわいいヒロインが一人増えている。以前はなかったサブクエストに挑戦できる。解像度の上がった世界を前の世界と比べて、主人公はなにを思うんだろう」
男――普段は働きもせずずっと家でゴロゴロしている、今のところは私の旦那という肩書きを持つそいつは、きょろきょろと視線を泳がせながら、舌だけは達者に回す。緊張しているわけでも、嫁の私を怖がっているわけでもない。一日中部屋に閉じこもってゲームばかりしているからか、身内であっても人と対面すると挙動不審になるだけだ。
私は自分の分だけ淹れたコーヒーに口をつけ、続きをうながす。
「――で?」
「自分の人生は前より充実している――主人公はシンプルにそう感じるんじゃないかな」
食卓テーブルにぐいと身を乗り出し、同意を求めるような顔。私は白けた気持ちで、黙ってコーヒーカップを傾ける。
ゲームをやる習慣のない私にはぴんとこないし、目の前のこいつが何を言いたいのかもわからない。
前のめりになったせいで、私たちの間に置かれたいわゆる緑の紙――離婚届が目に入ったのか、ヤツは慌てて視界に入れないようにあらぬほうを向く。
男が肘をついている食卓テーブルや、一日のほとんどを過ごすマンションのこの部屋の家賃、着ているスウェットの代金だって、すべて私の収入から出ている。
ときどきふらりと働きに出たかと思えばすぐ辞めて引きこもりに戻る、30手前にもなってほぼヒモと言っていい男に別れを切り出すのは当然のことだ。
そしてこの男の救いようのないところは、ちゃんと働いて生活するという、人生においてなにより大事なことをそっちのけでゲームばかりしていること。だからゲームの話をされると私が不機嫌になることを、いつまで経っても学ばないところだ。
「――もう、いいかな。書き方がわからなかったら教えるから。はい、ペン持って」
「待って待って! 話はまだ終わってないから、その恐ろしい紙を近づけるな!」
蒼白になったヒモはばっちいものにするように離婚届につまむと、部屋の隅のゴミ箱に向けて器用に放った。
私はあらかじめ用意していた、記入済みの予備の紙をテーブルの下から出して同じ位置に設置した。
「だからさあ、俺が言いたいのは、俺にとってはお前が『それ』だってこと!」
「それ、とは?」
ヤケクソになったような男の叫びに、私は首を傾げる。
「リメイク版で追加された要素、新キャラ! 前の俺の人生には、恋愛要素なんてなかったの! 結婚はおろか、恋人なんて夢のまた夢、そもそも母親以外に女キャラが存在しなかった! 仕事だってそうだ、今の俺は2、3ヶ月にいっぺんは外に出て、日払いのバイトとかしてる!」
「学生の小遣い並みの収入で誇られてもな……」
「働くなんて要素、前はなかったんだ。家から一歩も出ずに親からどうやって小遣いをもらうかだけが、旧版の俺の人生ゲームだった。狭い狭い部屋の中で、ひたすら歳を重ねていくクソゲーだったんだ。それに比べれば格段な進歩だ。俺にとっては、今がリメイク版なんだ。俺にはこれで十分なんだ。今、俺は充実してるのに、なんでそれがわからないんだよ……」
「さっきからなんの話をしてるの?」
力なくうなだれてしまった男を見下ろしながら、私は頭をひねっている。
私は思い出す――
恥ずべきことだけど、こんなダメ男と私は幼い頃からの付き合いだった。家が隣同士の幼馴染だったのだ。
同じ学校に通って、同じ青春を過ごした。長い付き合いだから知っている。ゲーム好きのインドア趣味は昔からだけど、今みたいにヒキニートになってしまったのは、卒業して私と結婚してからだ。
実家暮らしでニートをして、親から小遣いをもらって暮らしていたなんて時期、この男にはないはずだけど……?
――こいつ、前世の記憶でも持ってるのかしら?
脳内に浮かんだ馬鹿げた考えを笑って、私はテーブルを軽く叩いて旦那に顔を上げさせた。
「とにかく、あなたにとっては十分でも、私にとっては不十分なの、あなたの働きは。条件を出すわ。ゲームを少しは控えること、家の手伝いをもうちょっとすること。バイトじゃなくて職を探すこと。それが約束できるなら、この紙は下げてあげる」
私が聖母の寛容さで優しく諭すと、半泣きの情けない男は顔を上げ、渋々うなずいた。宣言通り、緑の最終兵器を見えないところにしまってやってから、私は立ち上がる。
「話し合ってたら、もうこんな時間。お腹空いたね。待ってて、夕食作るから」
私はニコニコとしたまま、夕食の支度のためにキッチンに向かった。
新婚のときに買ったふりふりのエプロンを服の上からつける。昔に比べて胴回りは太くなったけど、デザイン的にはまだまだいける、と私は思っている。
「別ゲーかってくらい、素敵な青春時代だったけど……アフターストーリーの追加だけは、改悪だよなあ」
食卓から旦那の小さなぼやきが聞こえたが、相変わらず意味はよくわからない。
◆
深夜。夕食を終えて、夫婦別々の寝室に下がってから。
私は役所で何枚ももらってきた離婚届を、ベッド脇の書類ケースに収納した。四段あるトレーの中には、予備のものがまだぎっちりと詰まっている。離婚を拒否した旦那に何枚捨てられるかわからないから、替えはいくらあってもいい。
ああは言ったし、今のヒモ状態にうんざりしているのも本当だが、本気で別れようと考えているわけじゃない。あの手の怠け者は、きつく尻を叩いてやらないといつまでも行動しない。離婚なんて、いわばただの脅しだった。
電気を消した寝室で、スタンドライトだけを点けて、枕元に飾った写真立てを手にとる。
「――懐かしいな」
学生時代に、あいつと撮った写真だ。目が隠れるほど前髪の長い、凡庸そうな学ランの男子生徒に、頭にでっかいリボンをつけた、派手な髪色の女子生徒が寄り添ってピースしている。楽しかった青春も、今では遠い夢のようだ。
私は姿見を見て、学生のときの自分と見比べる。大人になるにつれ、元気に跳ねていたアホ毛もなくなり、リボンも似合わなくなった。鏡に映るのは、どこにでもいる小太りのOL。あいつと違って、現実を生きている。
愛情がまだあるかと言われれば怪しいが、あいつは私がいないと駄目なのも事実。
幼馴染のあいつの周りには、女なんて母親以外に私しかいなくて――地味で、凡庸で、なんの取り柄もなくて――そう言えば、鬱陶しいと、あいつの前髪を切ってやったのは私だった――あいつの目を初めて見たとき、まるで初対面の相手みたいに感じて――どうして昔から、一途に恋していたのか、魔法が解けたみたいにわからなくなって……。
写真立ての中の光景が、急に現実味のないものに思えて、私は興味をなくした。枕元に戻しておく。思い出は思い出、過去は過去。私たちは生活しないとならない。
ヒモを養うために明日も健康に働かなければ。
寝る前に水を一杯飲もうと、廊下に出たときだった。家の中を風が横切ったのを感じた。
高層マンションといえど空き巣は警戒しないとならない。寝る前には窓を含め戸締まりをするようにしている。今夜は強風の予報だ。風があるということは、あいつが窓を開けっ放しにでもしているのだろう。
文句を言ってやろうと、旦那の寝室のドアを開ける。
私を迎えたのは月明かり。ベランダに面した大きな窓が全開になっている。内側でレースのカーテンが、風に煽られて激しく動いている。
ベランダにはぽつんと、室内履きのスリッパが揃えて置かれていた。青色のチェック模様。夫婦で色違いで買った、あいつのだ。
こんな強風なのに飛ばされなかったのが奇跡なくらい、ちっぽけなノートの切れ端が、その下に挟まっていた。
強風に髪を押さえながら、私は屈んで切れ端を手に取る。ベランダに半身を出したことで、柵の向こうの光景が目に入る。7階の高さから、マンションの入り口近くを見下ろす。見間違いようもない、よれよれのスウェットの上下が手足を広げて伸びている。糸の切れた人形のように――やけくそで投げつけたトマトみたいな、赤を下敷きにして。
震える手で切れ端を広げ、月明かりで読む。
こう書かれていた。
『 僕のヒロインへ
ハードモードをやり込む趣味はないので、ここらがやめどきかと思う。
次の人生Ⅲ版では、君よりかわいくて優しいサブヒロインと恋に落ちます。 』
読み終えると同時に、私は膝から崩れ落ち――まるでゲームの電源をブツリと切ったみたいに――世界が真っ暗になった。