とある夫婦⑦ 消え去った夫婦の記憶
夫が事故にあった。
とある侯爵家で開かれた園遊会で、階段から転げ落ちて来た老夫人を助けようとして、その転落に巻き込まれたのだ。
夫は老夫人を庇い、頭を強く打ったらしい。
そして……過去二年間の記憶を失った。
どうして二年間なの?
夫と私にとって、この二年間は人生を変えるほどの出来事が沢山起きた時期だったのに。
現在の私を一人取り残して……
夫は二年前の彼に戻ってしまった。
私の家との婚約を結ぶか結ばないかを決めかねていた時の彼に。
幼馴染だった私達。
二年前まで、私と夫は良好な関係とは言えなかった。
むしろ最悪だったと思う。
私は子どもの頃からの気の強さを引き摺っていたし、夫は夫で私を毛嫌いしていたから。
それでもやはり家格の釣り合いや、両家の発展の為には是非姻戚となりたいという双方の父親が、この縁談を纏めてしまったのだ。
当初は私も夫も反発した。
どうして人生を共にしてゆく相手を最初から仲の悪い者同士にするのか理解出来ないと。
もう少し本人の意向を聞いてくれても良いのではないかと。
そうやって互いになんとか父親達にこの婚約を撤回させようと、協力し合っているウチに、何故か逆に距離が縮まっていったのだ。
そしていつの間にか……結婚式の直前頃には、まぁこの人となら気心も知れてるし、気取らず自分らしく自然に生きていけるのではないかと思い、結婚を受け入れていた。
というかいつの間にか好きになってしまっていたのだ……。
どうしてこうなった?と思いながらも満更ではないと、私達は思い合っていた……はず。
それが半年前の事だ。
その後すぐに式を挙げ、初夜を迎え、私達は時間を掛けて少しずつ夫婦になっていったのだ。
それなのに……夫はその日々を全て忘れてしまっているという。
病院のベッドで目が覚めた夫に、彼の父親と共に事故の状況とこれまでの事を軽く話す。
すると夫は信じられない、といった顔で私を凝視した。
それはそうだろう、毛嫌いしていた女と婚約して結婚して、あまつさえ子どもまで作ってるんだから。
そう。わたしは只今妊娠五ヶ月。
安定期に入ったばかりであった。
夫は気持ちの整理が付かないと混乱した。
私は彼を刺激しない方がいいと考え、しばらくは接触を避けた。
それから二週間程が過ぎ、夫は退院して自宅の伯爵邸へと戻った。
住み慣れた家で療養する方が早く記憶が戻るかもしれないという希望的判断だ。
病院から自宅に着き、馬車を降りて来た夫を出迎える。
夫は私を見るなり、なんだか気まずそうな如何にもどう接してよいのか分からないといった表情をした。
その後も私が嫁いだ事により変わってしまった自室や寝室を見て、彼は更に狼狽えた。
そして私に言う。
「今回の事でキミには申し訳ないと思うが、俺にはとても信じられないんだ。俺とキミが……夫婦?こ、こ、子ども…まで成した夫婦……だなんて言われても気持ちの整理が追い付かないんだ……」
「そう、でしょうね……」
「キミは良かったのか?今、本当に望んでこの家で俺の妻として過ごしているのか?だってキミは……俺の事を本当に嫌っていたじゃないか」
「嫌っていたんじゃないわ。気に入らなかっただけよ」
「ホラみろ」
「でもこの二年間……あなたがどこかに置いて来たその二年間は、私にとってあなたを好きになった大切な時間だったわ。とくに結婚してからのこの半年は、私にとってかけがえのない日々だった……」
「っ……!」
私のその言葉に、夫の目は大きく見開かれた。
信じたくないけど、認めたくないけど、今目の前にいるこの人は私が愛した夫ではない。
本人である筈なのに別人、そう感じた。
そしてその事実は私の中で静かに、まるで湖に落ちた大きな石が沈んでいくように重くのし掛かった。
「……あなたにとっては私が妻だなんてとんでもない話で、本当なら今すぐにでも離縁したいところでしょうけど、子どもの事もあるし少しだけ待って頂戴。私なりに考えて答えを出すから」
「答えって……?」
「このまま婚姻を継続させるか、それとも……」
夫は呆然としていた。
そんな顔を見るのは初めてだった。
私は胸が苦しくなって夫婦で使っていた部屋を出た。
義父母は私に申し訳ないと謝ってきた。
でも義父母にはなんの咎もないし、謝って貰っても仕方ない。
それに……政略結婚であるならば、夫婦間に愛情がなくても結婚生活は維持出来る。
皆、そうやって家の為に妥協して生きているのだ。
そう、愛されなくても暮らしてゆける……
このまま婚家で子どもを産み、後継として大切に育ててゆく。
例え父親には形だけ受け入れて貰っているような関係だとしても、よくある話だ。
後継として正妻が産んだ子を大切にはするが、愛情は妾や愛人が産んだ子の方にあるというのもよく聞く話だ。
貴族の家としては……普通の事、だ……。
私もそれを受け入れればいい。
それだけの事だ。
そこまで思って、自分の頬を濡らす何かがあるのに気付いた。
それは涙だった。
私は泣いていた。
いつの間にか涙が溢れて、頬を、胸元を濡らしてゆく。
私はそっとお腹に手を当てた。
「そうね……私は知ってしまったんだものね……」
夫の温かさを。
ぶっきらぼうな態度の中に隠れた優しさを。
誠実で、こうと決めた事は貫き通す強い信念を。
そして逞しい腕も厚い胸板も、私よりも高いその体温を。
そして愛する者にだけ発する、甘く穏やかな声を。
それらを私はこの二年間で知ってしまった。
愛される喜びを知ってしまったから……
知ってしまったからこそ、私は耐えられない。
以前のように他人行儀な態度や私に対して発する温度のない声に、とてもじゃないけど耐えられないと思った。
私はお腹を優しく撫でて我が子に語り掛ける。
「大丈夫よ。お母さまが二人分、いえそれ以上の愛をあなたに注ぎますからね」
離縁しよう。
この子を連れて実家に帰ろう。
婚家には生まれてくる子どもは渡さないつもりだ。
後継を奪って申し訳ないが、この子を手放せる訳がない。
私の生家の方が家格が上なのを利用して申し訳ないが、親権は私が取る。
それに……夫は、彼はまだ若い。
これから彼が望む女性と婚姻を結び直して人生をやり直す、幾らでも可能だ。
その新しい妻がこの家の後継を産んでくれるだろう。
だから私はこの子と共にここを去る。
私はそう、決めた。
それなのに涙が止まらないのは何故?
これからの事を決めて、前に進んでゆくだけなのに、どうしてこんなにいつまでも涙が流れ続けるの……
その時、部屋の扉がそっと開いた。
そこにはたった今別れると決めた彼が立っていた。
彼は私の涙を見て固まっている。
まるで信じられないものを見ているような、そんな目で凝視している。
そういえば彼の前で泣くのはこれが初めてね。
泣き止みたい。
こんなに弱った泣き顔をこの人には見られたくない。
私は顔を背けて必死に泣き止もうと涙を拭うけど、それでも涙は次から次へと溢れ出て止まらなかった。
彼が少しずつ私に近付いて来る。
まるでどこまでなら許されるのかという距離感を測っているかのように。
そしてゆっくりと私の前に来て、目の前に跪いた。
私にはもうすっかり慣れた近さだが、彼にとっては初めての距離だろう。
彼は私の顔を見つめている。
少し困った顔をしながら。
「……どうして、泣いてるんだ……?」
「気にしないで、大丈夫だから」
「でも、とても辛そうだ……」
誰の所為でこんなに泣いてると思っているんだと言いたくなったが、それを言っても仕方ない。
「あなたが気にする事じゃないわ」
「だけど……キミの涙を見ていると、俺の胸が抉られるように痛いんだ」
「……え?」
「申し訳ないが、過去二年間の事は本当に覚えてない。だけど何故か、キミの涙を拭うのは俺でなくてはならないと思うし、泣いているキミを抱きしめるのも俺の使命のような気がするんだ」
「な、何よそれ……」
「分からない。でも多分、この感情こそが変わらない俺の真実なんだと思う」
「変わらない……?真実?」
彼が何を言いたいのか分からず、私はついきょとんとした顔を向けてしまう。
いつの間にか涙は止まっていた。
「俺には婚約して結婚を決意するまでの経緯と、その後キミにどう接して来たのかの記憶がない。記憶がないからこそ……幼い頃からキミに抱いていた感情のままで、これからと向き合っていこうと思うんだ」
「昔からのあなたの感情?」
それだと喧嘩ばかりの日々になるのでは?
だって彼は私と接する時はいつもぶっきらぼうで不機嫌だったから。
彼は少し、気まずそうに言う。
「本当は……子どもの時からキミの事が好きだったんだ。多分、一目惚れで初恋だったんだと思う……」
「え……」
今の言葉が私の耳に届き、咀嚼して理解するまでにかなりの時間を要した。
その間の彼はそっぽを向き、耳や首まで真っ赤にしていた。
「だ、だってあなた、いつも私にだけ意地悪で冷たくて話もしてくれなくてっ……」
「それはホントにガキだったからでっ……アレだよ、好きな子の前では素直になれなくて恥ずかしさを誤魔化す為にわざとつっけんどんな態度を取ってしまったんだよっ……そのうち段々とキミが俺の事を毛嫌いするようになって……後悔しても時すでに遅しだったんだよ!嫌われてるのが分かったから、これ以上好きにならないようにさらに嫌な態度を取ってしまって……」
彼は矢継ぎ早に一気に捲し立てるように言った。
だけど最後の方の言葉はゴニョゴニョと消え入るように尻窄みになった。
「そ、そんなの全く知らなかったわ……」
「知られないように必死だったからな」
「……じゃあ……つまり、ずっと私の事を好きだったって事?」
「ああ……」
「じゃあどうして婚約の話が出た時にあんなに嫌がったの?」
「その時の事は覚えてないけど、多分アレだ、きっとキミが俺との婚約を嫌がるのが分かってたから、俺もそれに合わせて同じ態度を取ったんだよ。キミの為になんとか婚約話をナシにしようと……」
それなら……その話が本当なら、私の方が彼に対しての感情が変わったから、それならばと私との結婚を受け入れたという事……?
彼も二年の内に段々と私の事を好きになったのではなく、元々恋情を抱いていてくれたという事……?
想像もしなかった事実を聞かされて、私は驚き過ぎて目を白黒させた。
そんな私の手を、彼は跪いたまま握ってくる。
「突然こんな事になってしまって申し訳ないし、俺自身まだ信じられないという気持ちが勝ってる。でも好きだったキミと結婚していて可愛い子どもも授かっているなんて、こんな幸福を逃したくはない」
「幸福……」
「記憶がない分、キミがこの結婚に対してどう思っているのか自信がなかったけど、さっきの涙は俺の為に流していた涙だと思ってもいいか?」
彼が真剣な眼差しで見つめてくる。
その瞳の奥には、仄かな熱を帯びていた。
この瞳を、私は知っている。
今目の前にいるのは記憶を失くした彼だけど、間違いなく彼は私の夫だ。
夫が私に向けていた眼差し、もう決して見る事は叶わないと諦めかけた眼差しだった。
私は夫に縋るように抱きついた。
記憶は戻っていないが夫が帰って来た、そう思った。
いや、違う。
夫は何も変わっていなかったのだ。
この二年の記憶はなくても昔からの変わらぬ想いで私を見ていてくれたのだ。
私は夫の腕の中でまた涙を流した。
夫が辿々しくも、そっと優しく抱きしめてくれる。
今の夫にとっては初めての抱擁だ。
それも仕方ないだろう。
そうね、またここから始めましょう。
あなたの中に、幼くとも恋心があるのなら、きっと私は…私達は大丈夫。
そう思えた。
その後は二人でゆっくりと、新しい日々を歩んで行った。
第一子となる息子が生まれ、抱き上げた夫の表情は間違いなく父親のそれだった。
今後、夫の記憶が戻るのかどうかは分からない。
でも、もういいのだ。
失った記憶は、新しい幸せな記憶で補えばいい。
互いを想い合う、その気持ちさえあれば大丈夫だ。
私は息子に添い寝しながらそのまま眠ってしまった夫の頬に、そっとキスを落とした。