序章 彼氏と彼女と、憧れのヒーロー。
抱きしめた、明日菜の身体から、そっと、身をはなした時に、明日菜のスマホが、振動した。
「あっ・・・」
明日菜が、それに気づいて、スマホを手にしようとする前に、俺は、明日菜のキャップをもう一度、深くかぶらせると、無言で手をひいてデミオにもどる。
「・・・春馬くん?」
明日菜は、不思議そうに俺をみていたけれど、俺は、無言で運転用のサングラスをかけた。
また、ちいさくきこえるシャッター音。
Mazdaの防音システムの上をいくのかよ?
それとも俺がピリピリしすぎてるだけか?
ーたんに、明日菜が、車酔いしないように、窓を開けてるせいだな。
内心、そう突っ込みながらも、俺はホッとした。
だって、まだ、大丈夫だ。
落ち着けよ。
まだ、そういうことに、気づく余裕がある。
俺は、明日菜にバレないように、下唇を噛まずに、ただ、ちょっとだけ、乾いた口を舌でなめた。
・・・これ、バレるとめちゃくちゃ恥ずかしい癖になるから、はやめにやめよう。
でも、10年も習慣づいてしまったクセを、急やめられますか?って話だし、意識してても、無意識にしてしまうものが癖だしなあ。
そもそも、他人に指摘されてから、気づく癖の方が多いんじゃないか?
自分から癖にしようって思ってするのは、自分のルールや決まり事みたいなものじゃね?
自分ルール。
ーいいな。それ。
そういえば、子供の頃に、憧れた空想のヒーローは、自分ルールのかたまりだったよな?
頭がよくて、スポーツも万能で、空飛んで、飛びすぎて、太陽までいって、なぜかもってたAランクの宮崎牛を焼いて、でも、太陽の熱で一瞬で墨化する・・・。
ーまて?!俺のヒーローおかしくね?!
けっきょく、食えないじゃん⁉︎A5ランクの宮崎牛。
現実でも、夢でも食えねーの⁈
「春馬くん?」
「明日菜の子供の頃、憧れていた夢ってなんだ?」
クラッチを踏み込み、エンジンをかけて、明日菜には、悪いけれど、開けていた窓を完全にしめる。
ディーゼル特有の音も、瞬時になくなる防音機能。
ちなみに、俺のデミオは、ディーゼルターボー。
車に詳しい人ならわかるように、デミオの中では、一番いいクラスに位置する。
内装もなにもかもデミオの中では、最高級。
ーの、中古車
そもそも、最近は、ディーゼルターボーを選ぶ人は少ない。
ガソリンと経由のコスパを考えたら、軽油だけど、メンテナンス料を、考えたらガソリンがいい。
近距離だと、デミオはあまり燃費もよくないし、ガソリンにくらべると、やっぱり音がうるさい。
街中を走るデミオに、ガソリンが多いのはそのせいだ。
なんで見た目で、わかるのかって?
そりゃあ、書いてあるからだ。
純正のいじってない車なら、俺のタイプはskyactive D ってロゴが入ってる。
このDがディーゼルの証だ。
しかも、赤文字で目立つし、ロードスター以外なら全車わかる。
いまは、MAZDAはMAZDA1みたいにナンバーで車種が違う。
デミオはいまなら、MAZDA 2だ。
ちなみに、MAZDA1は、ロードスターらしい。
ロードスターは、2人しか乗れないし、釣具もつめなさそうだし、スポーツカーのクラッチとか、独特だから、詳しくないけど。
MAZDAの担当者にロードスターのマニュアルに乗ったら、感覚がくるって、他のマニュアルに乗れなくなるって、説明されたし。
ロードスターじゃないけど、トヨタのGRヤリスでその言葉の意味わかったし。
本当に、感覚が狂う。
先輩に誘われて、行った試乗後、マジでデミオのクラッチ感覚狂った。
たぶん、ロードスターもそうなんだろうな。
まあ、完全にアウトドアや俺には、手の届かない車だな。
値段も、なにもかも。
で、俺のデミオは、ディーゼルなわけだ。
給油口にも、しっかり「軽油」って書いてある。
よくあるのが、セルフのスタンドでも、店員さんが気をきかせてガソリンを手に取って、
「あっ、軽油なんですね」
って、慌てることがある。
コンパクトカーで、ハイオクとレギュラーならともかく、軽油とレギュラーに分かれるのって、珍しいよなと俺でも思う。
まさしくMazda独自の進化だけど。
ーたぶん、もうすぐ、マツダもマニュアルは、作らなくなるんだろうな・・・。
ってか、10年後はマニュアル車自体、もう高級車になりそうだ。
いまだって、スカイラインやRX7めっちゃ高いぞ?
高級車が、本気で負けるぞ?俺が生まれる前の車に。
若い頃に憧れていた車こそ、遠ざかる。
俺の親父の名言だ。
「ちいさいころの夢?」
助手席で、明日菜がらきちんとシートベルトを着けるのを確認してから、アクセルを踏み込み、やわらかく、クラッチをつなぐ。
スタートが、いつも肝心なマニュアル車。
たまに、いつもの調子でも、あんまり考えてないと、いきなり「がくっ」って、現実にもどしてくれる、マニュアル車。
俺みたいに、いつも頭が、ごちやごちゃしている人間には、ちょうどいい車。
「・・・おねえちゃん?」
明日菜は、考え込んだあと、そう口にした。
「妹か弟がほしかったのか?」
明日菜は、3兄妹の末っ子だ。
ちなみに俺には、年子の兄がいる。
ついでに、言えば、5人いるいとこも全員男というつわものぞろいで、そんなガキどもの母は、めちゃくちゃパワフルだ。
柴原も別の次元でパワフルだけど。
ーあいつは、もう愛しのゴリラーじゃない、イケメン先輩と熱帯雨林生活だしな。
あれ?でも、ふつうの生活用品なら大文字Rなのか?
・・・ネットショッピングすら、わかんねー俺って、どうなの?
でも、釣り具も餌も、軽油も、その場で買わないと、生活できないし。
釣りは、三度の飯より、俺にとって、重要だし。いやマジで釣りしていると、飯食うのわすれるんだよなあ。
真夏の釣りとかで、水分補給わすれるとか、マジやばいのに。
じゃあ、夜釣りにしとけ?
そりゃあ、誰か付き合ってくれるなら、そうしたいけど。
ひとりで夜釣りなんて、リスキーすぎるし、真夏なら夜でも、水分採らないと、やっぱり危険だぞ?
そんなくだらない事を考えてたら、
「ううん。私の夢はおねえちゃん」
もう一度、明日菜が、くりかえした。
人前だった、さっきまでとは違って、明日菜の口調が、また少し幼いものにかわっていた。
俺は、やっぱり、明日菜にバレないように下唇を前歯でかるく噛んでしまう。
ーくそっ。手放したくないのに。
こんなにも、大切になのに。
「明日菜の、おねえちゃんってこと?」
ふたつ学年が上の明日菜の姉。
正直、俺と明日菜が付き合いだした中2の時には、高校生でまるで、俺とは接点がない。
俺の家族は、というか、俺の兄貴は年子だから、明日菜にふられた部類にはいる。
で、年子だったから、俺と明日菜の3か月だけの交際も知っている。
で、年子だったから、親にもあっさり、俺がふられたことを暴露した。
たった一歳差なのに、絶対に、勝てないやつが、俺の兄だ。
俺にとっては、天敵みたいなやつはいま、東京にいるけど。
なんで、あいつが東京で、俺は福岡なんだ?!
しかも、あいつは、地元の大学だったのに。
地方優先枠?
なんだ、それ。
でも、明日菜のところは、確か仲が良かったはずだ。
「いつも私を、やさしく守ってくれたから」
そういうと、ふわりと明日菜が、やさしく、なつかしそうに笑った。
それで、なんとなく、関係性がわかった。
ため息がでそうになる。
小さい子ほど、好きな子を悪気なくからかう。
そこは、もうしょうがないだろ?
おままごとが大好きな女子に、自分の大好きな戦隊ヒーローもので一緒に遊びたいなら、どうなるか、の問題だし。
あたりまえの行動だろうし。
そこには、純粋な好意しかないんだろうけどさ。
俺には、いとこやクソ兄貴がいたから、遊び相手は困らなかったけど。
「そういえば、明日菜、さっきのスマホ―」
「あっ、そうだった」
明日菜は、スマホをとりだして、顔を曇らせた。
「マネージャーさんから・・・」
「・・・だろうな」
「一時間後の飛行機を手配したって」
「そっか。じゃあ、家に荷物取り替える時間がないけど」
「・・・あとで送ってくれたらいいよ」
「・・・わかった」
明日菜がとなりでうつむくけと。
くそっ、なんで山道なんだよ?
この時ばかりは、マニュアルを呪った俺だった。