第17話 彼女と彼氏と彼氏の時計。
優しい、春馬くんの陽だまりのような温もりに、つつまれて、私は涙がとまらなくて、まるで、小さな子供みたいに、泣いた。
あの春馬くんの18歳の誕生日に、凍りついていた私の涙腺を。
ね?
春馬くん。
雪解けをつげてくれるのは、やさしい春の、
ー陽光で、
ー朝陽で、
ー太陽のように輝く私の大事な陽太と朝陽が、優しく明日菜を守ってくれるように。
あなたの名前は、明日菜だよ。
そう優しくいってくれた、お母さんの言葉どおりに、お兄ちゃんとお姉ちゃんは、私を守ってくれていたけど、
ー13歳でたったひとりで、南九州の片田舎から上京した私には、
大丈夫だよ?明日菜。ちゃんとおなじ空の下にいるんだから。私やみんなも見守っているよ。
そう言った、大好きなお姉ちゃんの言葉ですら、優しさですら、遠くて。
ーだって、東京じゃ、空を見上げても、ビルでみえないよ?
って、スマホの強化ガラス越しに、あの夜、春馬くんだけに、私は涙を見せたんだ。
春馬くんの前でだけ、素直に、泣けたんだ。
春馬くんだけ、が、いつだって、
「明日菜」をみていてくれたから。
お姉ちゃんやお母さん、家族や真央には、涙を見せたくなくて。
ーだって、私が決めちゃったんだ。
でも、私に東京行きを薦めたのは、春馬くんで。
ーそれなら、責任をとってって。
やっぱり、私は自分勝手にそう思って。
でも、
ね?
春馬くん。
明日は元気いっぱいに、色々な競争にかって、財産に恵まれて、そして、いつかは小さな幸せを手に入れる。「明日菜」っていい名前だよな?
そう言って、私をなぐさめてくれたんだよね?
いつも、変な虫にたとえるのは、
ーいい加減に、やめてほしいんだけど。
そこまで、考えて、
ーあっ、やっと、私、いまにもどった。
ぼんやりとした頭が、すっきりとしてくる。
「あっ、起きたか?」
13歳のあのスマホをとおした声より、低い大人になった春馬くんの、でも優しい声が、きこえた。
私はもぞもぞと布団から顔を上げると、春馬くんは、部屋着から、ジーンズにTシャツにパーカーという、カジュアルな外着に着替えていた。
「どこか行くの?」
春馬くんの顔を直接見るのは、なんだか罰が悪くてみれなかった。
というか、単純に、こんな涙ではれたボロボロな顔の。しかも寝起きを、見られたくないって思いもあるし。
ーなのに。
目線をそらしたら、春馬くんは笑って、手をのばしてきた。
「明日菜って、けっこう髪が、ぐしゃぐしゃになるタイプなんだな」
大きな手かがためらいもなく、私の髪をやさしく指ですいてきて、私の鼓動がすこしはやくなる。
けど、
「…いま誰とくらべたの?真央?」
「なんで?俺が柴原の寝顔なんかしってー、いるな?」
「はっ?!」
「歯磨きくらいしろって、思うよな?」
「はっ?」
「吐くなら、洗面器にしろって、思うよな?」
「はっ?」
「吐くくらいなら、飲むなって、思うよな?」
「はっ?」
「吐かれた服は、どうすんだって、おもうよな?
「はっ?」
「吐いたら、すっきり、人の部屋でねる女って、どうよ?」
「…何をしているの、真央?」
私は、なんだかどっと疲れてしまう。
でも、
「春馬くんは、私の彼氏だよ?」
「まあ、そこは柴原だから、なんもない」
「なんもなくても、これからは、絶対にダメだよ?」
「ーわかった」
春馬くんが手をのばして、私をかるく腕に抱きよせると、背中を、ぽんぽんとあやすように、優しくたたく。
新米パパが、はじめて赤ちゃんを抱っこしたときのように、まだ、ぎこちないれけど、春馬くんが意識して、私にちゃんと触れてくれることがわかった。
いつもみたいに、「はいっ」って体育会系のノリでごまかしたりしないで、かるい会話の中に、いくつもの入り混じった私たちの、お互いの弱音をごまかさないで、うけとめてくれる。
でも、春馬くんは、やっぱり春馬くんで。
「相手がイケメン先輩でも、俺、慰謝料とられるのかな?」
「えっ?」
「映画に行くのは、セーフか?」
「えっ?」
「エッチな映画は、アウトだよな?」
「えっ?」
「演劇鑑賞は、セーフなのか?」
「えっ?」
「エッチケットブラシを借りるのは、セーフだよな?」
「えっ?」
「エクステリア見学は、アウトなのか?」
「えっ?」
「英国料理をふたりてで食べに行くのは、セーフ?」
「…イケメン先輩と話し合おうか?春馬くん」
私がすこしあきれていうと、春馬くんが少し茶色がかった瞳を、きょとんとして、
「明日菜もだろ?」
「えっ?」
「映画にいくのは、セーフか?」
「そこから、またはじめるの?!」
「いや、だって、明日菜も当事者じゃないか?イケメン先輩は、柴原の旦那で、明日菜は、俺の彼女だろ?」
「…春馬くん、そんなに私のことー」
「じゃないと柴原に、怒られるし?」
「えっ?そこっ?!」
「えっ?どこっ?!」
私をはなして、慌てて、背後をふりかえる春馬くん。
…もちろん、春馬くんにとっては、見慣れたお部屋があるだけだよ?
「…明日菜って、霊感マジでないよな?」
「ありません!」
「…超能力ー」
「テストなんかしないからね?」
「なんで?!」
「こっちがなんで?!なんだけど?!」
「…俺の彼女がつめたい」
「ほんとに、そう思う?」
って、ちょっと上目遣いで、春馬くんをじっとみつめたら、
「世界一可愛いに、きまっているだろ?」
って、額にキスしてくれた。
そして、照れくさそうに、私から離れてたちあがる。
その左手首に、
「・・・あっ、その時計・・・」
18歳のあの日に、本当なら春馬くんに直接会って渡すはずだった、空色の腕時計。
春馬くんの大好きな空色で、かっこいいデザインで、人気ブランドの、いまでは廃盤になってしまったモデルの、
ーずっと、開けないまま、飾られていた、時計。
私だけが、身に着けていて、ペアウォッチの意味がなかった時計が、
ー春馬くんの左手首で、時を刻んでる。
春馬くんが私の視線に気づいて、ちょっと申し訳なさそうに。
でも、てれくさそうに。
うれしそうに。
ー春馬くんが、笑う。
「いい時計だよな。ありがとうな、明日菜」
「うん」
ダメだ。
一度、決壊しちゃった涙腺は、こんな些細なことでも、泣きそうになってしまうけど。
「…どっか行くの?」
「朝ごはん買いに、コンビニに行ってくる。さすがに、明日菜つれて外食はまずいし。家の中、ろくなもんないし。おにぎりとサンドイッチどっちがいい?」
「ーサラダとヨーグルトだけで、いいよ?」
ダイエットもかねて、っていうのもあるけど、私は、あんまり朝から食欲がわく方じゃない。
小学校低学年まで、お母さんがなだめながら、スプーンで口に運んでくれないと、自分では、朝ご飯を食べない子だった。
べつに食べなくてもいいのにって、思っちゃうタイプだったんだ。
さすがに高学年になったら、自分でたべれる量を把握して、ほんの少しだけ、自分でたべるように、なったけど。
いまもマネージャーと寮母さんから注意されて、サラダとヨークグルトだけでも口にするようにしている。
「明日菜より、凜ちゃんの方が食べそうだな」
「むしろ、そうじゃないとこまるよ?春馬くん」
「ーだな」
「だよ?」
「だ行いく?」
「朝からは、やめてほしいな?春馬くん」
「だよねー?」
「だから、やんないからね?!」
なんで、そんなにすっごく、残念そうなの?
私はちいさく息をはくと、呆れて、でもいつもどおりに笑って、春馬くんをみあげる。
「気をつけて、いってきてね?」
両手をのばしたら、
「いってきます」
春馬くんがかるく抱きしめかえして、こんどは唇にキスしてくれた。
歯磨きもしたみたいで、ミントの香りがする。
…私は、寝起きのままで。
「ほら、早く!春馬くん、コンビニがしまっちゃうよ?」
コンビニは24時間だって、春馬くんが言い返したけど、私は春馬くんを、
ー春馬くんの家から、追い出した。
だって、寝起きなんだもん。
私にも、乙女心は、残ってたみたいだ。
それに、
ーちょっと、いきなり変わりすぎじゃない?
春馬くん。
あまりに急な態度の変化に、ドキドキがとまらなくて、春馬を追い出した玄関にうずくまって、胸をおさえてしまった。
いつも、演じる少女漫画のヒロインみたいに。