第12話 彼女と彼氏の殺虫剤。
あの日、私にとって、セカンドキスの相手は、事務所の先輩で、人気俳優さんだった。
同じ事務所で、私のマネージャーがその俳優さんの新人時代に、マネージャーをしていた人だった。
「彼なら大丈夫よ?明日菜」
私のマネージャーは、たくさんのタレントを、育た人だから、人を見る目はあった。
そのマネージャーに、
「明日菜は、ほんとうに、いい子に巡り会えたね」
そう言わせる春馬くん。
ー私の大好きな、
村上春馬くん。
とは、ちがうよ?
ちがうのに、
ー私は、いまから、目の前にいる人と、キスをするんだね?
「マネージャーから、いろいろときいているよ?でも、これが僕たちの仕事だからね?」
優しく、でも少し厳しく、私を見た先輩のことは、いまでも尊敬している。
セカンドキスが、この先輩でよかったと感謝しているけど…。
ーキスなんか、握手と同じだよ?明日菜。
真央には、春馬くんの18歳の誕生日に、カモフラージュしてもらう予定だった。
だから、仕事で、帰省できなくなったことは、伝えていたんだ。
ーいつも鋭い真央は、私のメッセージと流出事件との関係を、簡単に見抜いて、
「ただ、ふれあう場所が、手じゃなくて、唇に変わるだけだよ?」
そう言って、励ましてくれた。
ー誰としても、一緒だよって。
「経験」豊富な、真央が言った。
ーそうなのかな?
私は、じっと、先輩を見上げる。
先輩は人気俳優で、甘いマスクで、背も高くて、とてもさわやかな、いい匂いがしていた。
ね?
春馬くん。
ー汗のにおいなんか、全然、しないんだよ?
ね?
春馬くん。
13歳のあの夏と、まったく違う環境で。
まったく違う、さわやかなにおいで。
ームカデなんか、どこにも、いないよ?
…いないんだよ。
どうして、ここには、蟻さえもいないのかな?
アブラムシも、アオムシも、ヨウドムシも、いないよ?
あのカメムシ様も、きれいなセットの中には、いないんだよ?
春馬くんが、はじめてプレゼントしてくれた凍らすタイプの殺虫剤は、まだ私の寮の部屋に、そのままの状態であるんだよ?
春馬くんがきれいに、ラッピングしてくれたままだよ?
ーどうせなら、透明なビニール袋に空色のリボンじゃなくて、中身が見えないようにしてくれたら、私はわくわくして、プレゼントをあけたのに。
寮のみんなに、春馬くんを知られなくて、すんだのに。
私だけの、プレゼント、なのに、
ー春馬くんが、春馬くん、だから。
私だけのプレゼントは、なくなっちゃったんだよ?
だって、春馬くんが、プレゼントしてくれるものは、みんなを笑顔にさせてくれるから。
あの不思議な色のお菓子だって、後輩や寮母さんに、大人気なんだよ?
私の口には、一口も残らないんだよ?
ー食べないけど。
そこまで思い出して、ああ、そっかあって、納得しちゃったんだよ?
ー納得できちゃったんだ。
私は、じっと先輩の顔をみあげる。
ー春馬くんとは、違う人、だ。
「明日菜、彼氏と思ったら、いいだけだよ?」
そうマネージャーは、言ったけど。
ね?
春馬くん。
ー春馬くんは、春馬くんしか、いないんだよ?
私の記憶に存在する春馬くんは、こんなに背も高くないし、こんなにイケメンでもない。
ーなによりも、あの南九州の片田舎とは、においが違うよ?
13歳の夏に残った、ほこりっぽいグランドと、野球部の部室と、なによりも春馬くんの汗の匂いが、切ないくらいに愛おしくて、たまらなくて、すごく寂しくて。
でも、それだけを、私の記憶に、残したいんだよ?
ー本当なら、いまごろ私は、春馬くんといたのに。
私、なんで、ここに、いるんだろ?
「大丈夫か?神城?」
私が、じっと見上げるから、先輩が少し耳をあかくして、でも戸惑うように、私をみていた。
優しいけど、
ー春馬くん、じゃない。
かっこいいけど、
ー春馬くん、じゃない。
声も、
ー春馬くん、じゃない。
ああ、でも、それで、いいのか。
先輩は、私を、いま神城って、呼んだから。
ー明日菜って、呼ぶのは、春馬くんと、真央だけで、いい。
私の大切な人たちだけ、でいい。
ー神城明日菜。
そうフルネームで、呼ばれるような存在に、なったらいいよね?
神城明日菜、で私は、いい。
ー明日菜。
陽太と朝陽と一緒に、明日も元気に、毎年、ずっと菜の花が見られますように。
太陽のように輝く私の大事な陽太と朝陽が、優しく明日菜をまもってくれるように。
ーあなたの名前は、明日菜だよ?
優しいお母さんの声と、
明日は元気いっぱいに、色々な競争に勝って、財産に恵まれて、そして、いつかは、小さな幸せを手に入れる。
ー明日菜って、いい名前だよな?
春馬くんのつつみこむような、やさしい静かな眼差しと、声だけで、いい。
害虫になんか、モテたくない。
カメムシなんか、もっと嫌だ。
ーいやなら、
春馬くんからの初めてのプレゼントは、いまも私の部屋に、大切に置いてあるんだ。
ー凍らすタイプの殺虫剤。
私は、ふっと、笑ってしまった。
ほら、ね?
春馬くんの奇妙なプレゼントは、本当に変なんだけど、
ーでも、私をいつも助けてくれるんだ。
私の名前は、神城明日菜。
ー「明日菜」は、あの殺虫スプレーで、凍らせちゃえばいい。
そうすれば、春馬くんだけしか寄り付かない。
ー春馬くんだけ、私の氷を解かせるんだよ?
ね?
春馬くん。
ーやっぱり、私はナニかが、おかしいんだ。
スタートの声がかかると同時に、私の記憶がおぼろげになった。