第8話 彼氏と彼女と彼氏のキス。
ー春馬くんの方が、すごいと思う。
てっきり、眠っていると思い込んでいた明日菜が、そう泣きそうな、でも悔しそうな顔で、つぶやくように言ったかと思うと、
「あすー」
俺が明日菜の名前を呼ぶよりも先に、明日菜の華奢な両手が、どこにそんな力があるんだ?ってくらいの力強さで、俺の着ていたTシャツをつかんだかと思うと、
ー視界が、一転した。
明日菜が敷いていた布団のおかげで、フローリングの床に、頭をぶつけずにすんだけど、気づいたら俺の身体は、敷布団に押し倒されていた。
明日菜に両手の手首をつかまれて、馬乗りになられていた。
俺は驚いて、明日菜をみあげる。
ー暇も、なかった。
明日菜が俺に、噛みつくようなキスをしてきたから。
なにも言わせない、とでもいうように、力強く、でもまったく余裕を感じさせないキス。
「-痛っ」
明日菜の歯があたって、俺の下唇の傷から、血がでる。
13歳で、明日菜からされたファーストキスの時ですら、明日菜は余裕そうにみえて、歯なんか、いままであたんなかったのに。
明日菜の歯が、俺の下唇の傷を、えぐる。
ー俺じゃなく、明日菜の傷を、えぐる。
俺の顔に、ぽたぽたと雨のように、明日菜の涙が、落ちてきた。
ああ、馬鹿な俺は、またやってしまったんだ。
ー絶対に、泣かしたくないのに。
ー大切だから、傷つけたくないのに。
ー守りたくて、仕方ないのに。
ー誰よりも、俺が守りたくて。
いや、明日菜が笑ってくれるなら、俺じゃなくてもいいって、思ってしまうくらいに、
ー俺の明日菜、なのに。
いつも俺が、傷つけてしまうんだ。
いつだって、晴れた夜空を見上げたら、南九州の片田舎でも、福岡の海辺の街でも、簡単にみつけられるstar。
雲にかくれて、雨が降ったって、飛行機が雲をこえたら、そこで必ず見つけられるstar。
俺のたったひとりの、どんな時だって、心に輝き続けてきた、
ー神城明日菜。
俺にとっての、異世界代表。
たったひとりの、異星人。
いつだって、忘れられなくて、どんなに、後輩に慕われたって、大学の尊敬できる先輩に、いいよられたって、
柴原からも、
ーほんとうにキツイときは、言いなさいよ?明日菜も、わかってくれるから。
って、何度も心配されたんだ。
俺は、明日菜を忘れられなかったのに。
俺には、明日菜しか、いないのに。
あの真冬の屋上で、泣きそうな顔で、でも悔しそうに、泣くのを必死に、我慢していた明日菜を見つけた時から、俺の世界は、明日菜で染まっていたのに。
ー今日だけで、明日菜を泣かすの何回目だよ?
マシで、最悪だ。
中2の俺よ、バットで思いっきりぶん殴りにきてくれ。
ー頭はやばいから、尻限定で。
そこまで考えて、やっぱり俺は苦笑した。
どうやったって、俺の頭は、いつだって、冷静で。
そして、こういう時の明日菜の慰め方をしっている。
俺は、震える明日菜の背に、両腕をまわして、そっとその背をなでた。
明日菜は、それでいいんだ。
それだけ、いつも、たったひとりで、頑張ってきたんだから、さ。
あの真冬の屋上に閉め出された時も、大雨なのに手傘どころか、カバンにいれていた折り畳み傘ですら、焼却炉で燃やされて、上靴も毎日持って帰って、しかも教室にいる時だって、通学シューズをビニールにいれて、鞄にしまわなないと、すぐに盗まれて、いつだって、理不尽ないじめに、あっていた女の子。
ーそれが俺、いや、柴原もしっている、「明日菜」だ。
そんないじめにあうくらいなら、明日菜が笑って毎日を過ごせるのなら、
ーべつに相手は、俺じゃなくても、よかったんだ。
本当に、最初から、俺はそう思っていたんだ。
あの13歳の夏は特別で、俺にとっては、かけがえない思い出で、
ーそれだけで、よかった。
…よかった、はずなんだけどなあ。
ゆっくり背を撫でているうちに、明日菜が落ち着いたのか、唇がはなれる。
俺の下唇の血が、明日菜の唇についていて、
「…バカだなあ?血がついてる」
俺は明日菜の小さな頭を引き寄せると、血をぬぐうように、優しくキスをした。
ー俺から、明日菜に、キスをした。
明日菜のきれいな黒い瞳が大きく見開いて、驚いて俺をみてる。
俺は笑って、しまった。
「ー泣き止んだか?」
右手でやわらかな頬にふれたら、明日菜はまだ涙目で俺を見下ろして、
「・・・もういっかい、は?」
「ーまた、こんどな」
「…いじわる」
「そろそろどいてくれ、重くて腰が痛い」
ー好きな子に押し倒されたら、俺だって、ちょっとブレーキが怪しくなってくる。
積載量オーバーのトラックが、坂道下る感覚がある。
無言で明日菜に、頭をはたかれた。
「-痛って!」
「…痛いのは、私の手です」
そう言いながらも、明日菜が俺の身体からどいてくれて、けどベットによりかかるように座る俺の首に、両手をまわして、抱きついてきた。
そして、また身体を震わして、
ー明日菜は、ほんとうに静かに泣いた。
明日菜が、南九州の片田舎から、東京に行った日のように。
誰も知り合いもいない大都会の、それもまわりは、ライバルばかりのような寮で、たったひとり心細さで泣いていた13歳の明日菜のように。
俺だけが知っている明日菜の泣き顔で、泣いていた。
あの時は、スマホの画面ごしで、俺はただ、明日菜の名前を呼ぶことしかできなくて。
必死で調べた菜の花の花言葉の知識を、アブラムシでごまかして、どうにか明日菜を笑わせたけど。
ーそんなに辛いなら、帰ってこいよ?
そう言われたって、帰れないよ、もう。
ーだって、私が決めたんだから。
そう言いながらも、寂しさに泣いていた13歳の女の子。
東京から遠く離れた南九州の片田舎では、輝きがまぶしくて、浮いてしまった女の子。
そして、いまは人工のあかりにすら、負けない輝きを宿して、明るく笑顔になった、
ー俺の大切な、異世界代表の神城明日菜。
いつからだろうなあ?
俺は、明日菜の背を優しくなでる。
凛ちゃんを、優しくあやして寝かせる軍曹みたいに。
「大丈夫だよ?明日菜。俺はちゃんと、わかってるから」
俺は日本一の大学は、無理だったけれど、九州でいちばんの大学に、現役で入ったくらい頭は、いいんだ。
ー柴原には、負けるけど。
あいつの場合、世界一の大学だって、余裕だから、この場合は、たっかーい棚の上に、あげておく。
まあ、俺と明日菜を心配してくれて、だろうけど、さ。
それくらい俺たちのことを、よく知っていてくれるんだろうけど、さ。
下手したら、明日菜より、俺のことをわかってくれる存在だろうけど、さ。
ー俺は、柴原よりも、明日菜をみている自信は、あるんだ。
こんな、俺だけどな。
「明日菜が俺の前で泣かなくなったのが、明日菜がはじめて他のヤツとキスシーンを演じた18歳の俺の誕生日からだってくらい、俺にもわかってる」
ーわかっていたのにな。
明日菜が俺の胸に顔をうずめて、俺を見ていないことをいいことに、俺は明日菜にバレないように、前歯で下唇を噛みしめた。
ー痛む傷と血の味が、まるで明日菜がずっと言えずにいた、俺に対する贖罪のような気がした。
俺が、
ー明日菜から、涙を奪ったんだ。
そう強く後悔しながら。