春馬 母
ー予定より遅くなってしまった。
ついつい春馬の好物や竜生の好みや、夫の肴や、忘れずに入れ物が変わった形のお菓子なんかをさがししまい、買い物が遅くなった。
ーおかえり。
そう言いたかったのに、車を車庫にとめたら、わかった。いつも、ワン!と吠えて、尻尾をブンブンふりながら、おかえりと言ってくれるラッシーがいない。
ー遅かった。
らしい。
できれば、親父に、ただいま、と、おかえり、を、言ってやりたいんだ。
昔私に義父との同居をつたえてきたときに、夫からそういわれた。
あのひょうきんで穏やかな義父が、老いて、認知能力が衰えるまで我慢していた、ひとには言わないはずだった苦しみを、
ーもう自分の世代だけで、終わらせたい。
そう願って、ただまえをむく姿だけを見せてくれた義父が、
いつも笑ってた義父が…。
70年以上経ったいまも苦しみが、かなしみが、
ー敗戦国だから。
そう言い聞かせながら、恨み言すら、いわずに、言ったらダメな空気すらあるなかで、
ー悔しくて、ただ、悔しくて、
悔しかった。
ただ時代の中で、だけど、老いた義父は、いつも穏やかに竜生や春馬を可愛がってくれた。
年子の子育ては、わりと大変で、バタバタしているなかで、とくに春馬は目が離せず大変で、離れた家から、通いながら義父がみてくれることもふえた。
義父との関係も良好だし、まだまわりは、同居も多い。義父が嫌がってだけど、私たちが義父の家に移ることになった。
ただ不安が私にも、なかったわけじゃない。家族がひとりふえる。しかも義父だ。
幸い一人暮らしが長い義父は、ひととおりの家事をこなし、積極的に春馬と遊んでくれた。
あとから知ったが、義母が春馬とにていたらしい。
ーいつか春馬に、また義父のような存在がみつかるのだろうか?
義父がとても義母を大切に愛していたように、春馬を愛してくれる人に恵まれるだろうか?
それなら、もう私は、その相手が男女どちらでも構わない。
あの子が寂しくないなら、どちらでも構わない。
私はきっとあの子にいずれ、
ーおかえり。
そう言えなくなるのだから。
私も夫もあの子より先に老いていく。
義父のように、突然にあの子の、
ーただいま。
をきけなくなるより、おかえりと言えなくなる方がいい。
とっさにそうも思うけど。
ずーっと、おかえりを言いたい。
ただいま、を待ちたい。
夢ですら、待ちたい。
だから、おかえりと、ただいまだけは、言いたいんだ。親父に。
そう夫が私に言った。他には、なにも望まないとも。
だから、私は春馬と竜生に、ただいまと言うように根気強く教えた。
私にというより、義父に言ってあげてほしかった。
ただ、ただいま。
それだけを言ってた。そしておかえりをできる範囲で言うつもりだけど、
ーラッシーに負けたわね。
鍵を開けて玄関にはいると、あの子にしてはまともにお土産が買ってきてる。
ー大宰府天満宮の学業お守りは、あの子から竜生に渡したらいいのに?
とも思うけど、奇妙な竜生のプライドが素直にうけとるともい思えないし?
ー年子のライバル心って不思議よね?
そう思いながら、私はたくさん買った食材から、何を作るか迷ってた。