第1話 彼女と彼氏の寝顔。
「じゃあ、遅くまで、悪かったね」
話がひとくぎりつくと、壱さんが立ち上がった。
私も立ち上がって、深く頭をさげる。
「こちらこそありがとうございました。とても貴重なお話を、ありがとうございました。純子さん、大丈夫ですか?」
壱さんの腕に支えられるように、純子さんがいる。
春馬くんとおなじように、途中で眠ってしまっていた。
お酒に強いイメージあるのに。
私の疑問が、顔にでてしまったのか、壱さんが優しく笑った。
「ああ。彼女はお酒を、滅多にのまないんだよ。だから、久しぶりのお酒に酔ってしまったみたいだね?」
「えっ?」
「もと戦闘機乗りだからね。アルコールは、口にしないんだ。それに、いつ僕も緊急招集があるかわからないし、萌たちを守るためにも、酒は口にしない」
「じゃあ今日は」
私の問いに壱さんは、苦笑した。
「はじめに言ってたように、やけ酒だろうね」
確かに、そうは言っていたけど。
あれはやけ酒というより、春馬くんを心配する彼女の優しさでー。
私へのアドバイスで。
私は純子さんや壱さんにであえて、本当に、よかったと心底思っている。
「まあ、純子さんや萌は、僕に任せて、きみは村上君についててあげたらいい」
「はい。ほんとうに、ありがとうございました」
私はもう一度、深く頭をさげて轟木ご夫妻を見送った。
玄関をそぉぉっと、音をたてないように、意識してとじる。
もう日付が変わる時間。
小さな子が中心のファミリーマンションは、ひっそりとしずまりかえっている。
となりの部屋からも、扉を閉める音が聞こえて、ようやく私は玄関のカギをかけた。
そうして、ふりむいたリビングには、小さな座卓で眠る春馬くんがいる。
真央の言う通り、あまり手入れのされていない前髪が、組んだ腕から数本おちて、机についてしまっている。
涙のあとが、つよく残る寝顔。
2年前より、ずっと男らしく成長した顔やしっかりとした首。
肩だって、細いけど筋肉がついていることが、しっかりわかる。
ー男の人の身体だ。
なのに、涙の残るその顔は、あどけなくて。
どうしようもなく、愛しい。
切なくて胸が痛いなんて、はじめて知った。
だから、よく胸をおさえる演技があるんだね?
今日一日で、たくさんの演じてきた行動の意味を、私はしった。
いまさら?だけど。
ーあなたから襲うしか。
さっき、きいたばかりの純子さんの言葉を思い出す。
ーだって、しょうがないじゃない?絶対に、この人じゃなきゃ嫌だって、こっちは、思ってるのにさ?まったく手をだしてくれないんだもの。
純子さんの言葉が、頭の中から、はなれない。
私だって、絶対に、春馬くんじゃなきゃ嫌だ。
でも、私は純子さんと違って、未経験だし、正直少し怖い。
ーはじめては、痛いってきくし。
私は眠っている春馬くんの顔を、もっとよく見たくて、顔にかかる前髪にふれようと手をのばして、やめる。
10年かけて、ようやく口にしてくれた彼の本心。
でも私はいくら春馬くんが泣いても、傷ついても、仕事をやめる気はない。
純子さんとは、違う。
そんな私が、春馬くんのそばにいていいんだろうか?
もし、結婚して子供が生まれて、私は春馬くんと違う人とキスしている姿をこどもにみせるの?
そして、きっと春馬くんは、その場面を見ている。
そこまで考えて、ため息が出た。
考えるだけ、むだな話だと思う。
だって、それでも私は春馬くんがいい。
春馬くんと、一緒にいたい。
春馬くん以外のひとの子供は、いらない。
自分勝手なわがままが、やっぱり、春馬くんより、私の想いを優先させていまう。
10年たっても変わらない、私のわがままな心。
下唇を血がにじむまで噛みながら、私に心配させないように、こっそり舌で血をなめとる春馬くんを、何度見てきたんだろう?
私の演じてきた純真なヒロインなら、彼のことを思って、別れを告げるんだろうな。
さっきのトイレのドアのとこころで、思いしたシチュエーションなら。
そのことを思い出して、私の唇に微笑みが自然と浮かぶ。
ほらね?
やっぱり春馬くんは、私を笑顔にしてくれる。
私は余命宣告なんかされても、春馬くんのそばを、はなれない。
死ぬ瞬間まで、そばにいてほしいし、最後にみる顔は、彼がいい。
こんなふう涙を流して、ぐしゃぐしゃの顔だって、春馬くんがいい。
でも逆は、絶対にいやだ。
春馬くんが私より先に死ぬことは、許せない。
ー本当に、ひどい彼女だなあ。
中学時代より、ずっと大人びた春馬くんの顔。
うん、真央が言うように、顔立ちもけっこう整っている。
キリッと男らしくはないけれど、すこしたれ目の眉も、アーモンド型の好奇心にみちた瞳も、ちょっとだけ低い鼻も、
ー何度も噛みしめるから、傷だらけの唇も。
そのすべてが、私だけのものだ。
真央にも、萌ちゃんにも、渡さない。
私のたったひとりの大切な恋人。
私に送ってきたご当地マグカップを、自分でももっている人。
私はおかしくて、クスクス笑ってしまう。
だって、こんなマグカップだって、二個買ったら、立派なペアカップだよね?
寮で置き場にこまるマグカップも、そう思うとなんだか愛おしくて、切なくなる。
このマグカップを選んだ時の春馬くんは、どんな気持ちだったんだろう?
「ちゃんと、私のことを考えてくれていたんだね?」
愛おしくてたまらない。
また無意識に手が伸びそうになって、慌てて、とめる。
だって、いま春馬くんに触れたら、自分がなにをするかわからない。
私は純子さんと違う。
そういうことは、春馬くんと一緒に、春馬くんから、してほしい。
ーしてくれるかなあ?
ファーストキスは、東京に転校が決まった夏休み。
私は、いろいろな荷物整理や転校手続きのため、夏休みなのに、学校を訪れていた。