第26話 彼女と彼氏と、轟木夫婦の秘密事項
「-えっ?」
乱暴なしぐさで、マグカップの日本酒をのんで、でも眠っている春馬くんを気遣ってだろう。
静かに、またマグカップが、テーブルに置かれる。
「ほんとうに、彼はいい男よね?あなたには、もったいないくらい」
純子さんの雰囲気が、ガラリと変わった。
口調だけでなく、しぐさのひとつひとつが、大人の落ち着いた女性を醸し出している。
「ーえっ?」
驚く私の前で純子さんは、バカにしたように、私を蔑視した。
「なにを驚いているの?あなたは、その道のプロでしょう?こんないい男を、泣かせてまで選んだ職業じゃないの?いらないなら、萌にもらうわよ」
「春馬くんは、誰にもあげません」
反射的に、私もつい言い返す。
すると、純子さんは、小さく笑った。
今度は、慈愛にみちた優しい目で、私をみつめる。
その瞬時にかわった笑みに、私は悔しいことに、混乱していた。
演じるプロなのに。
「きみじゃあ、純子さんには、勝てないよ。母親として、萌に演じてきた年数も、覚悟もちがう」
壱さんが、苦笑している。
「なにせ萌が1歳の頃から、彼女は僕の兄で萌の実の父親である轟木零一を、演じているからね」
ーえっ?
「萌ちゃんの実の父親?壱さんのお兄さん?じゃあ、春馬くんが言っていた一尉って」
「萌の父親は、航空自衛隊の戦闘機の整備士で、純子さんは、元戦闘機乗りだ。女性としては、異例のスピードで、戦闘機乗りになった。僕なんか及びもしないエリートだ」
「子供の頃にみたブルーに憧れて、パイロットをめざしたの。幸いにも私は身体能力は高ったし、頭も悪くなかった。それにね、すごく負けず嫌いなの」
そこだけは、彼を演じきれないのと、純子さんは、自嘲した。
「春馬くんに、似ているってー」
「顔はまったく似てないけど、全体的な雰囲気かな?空気感が、似ているのよ。私が演じている轟木零一にね。階級は一等空尉。春馬くんのいう一尉よ。享年37歳。年齢差は、いまの私と壱と同じよ。零さんが長男で、下に妹が4人いて、末っ子の壱とは、16歳差なの。萌が1歳の頃に、基地で倒れて、私が萌をつれて病院についた時には、冷たくなっていたわ」
脳出血だったのと、寂しそうに純子さんは言った。
「私は身内をはやく亡くしていて、零さんの妹たちも、もう家族をもっていたわ。壱だけが、独身で私や萌を助けてくれたの」
「とは言っても、僕は兄や純子さんに憧れて自衛隊に入隊していたから、自由な時間に限りは、あったんだ。萌さんは、負けず嫌いだったけど、萌が生まれた時に、兄と話しあって自衛隊を辞めていたし、自衛隊は我慢さえすれば、僕でも少しくらいは、金銭的なサポートはできた。でも最愛の兄を失って、戦闘機乗りの夢も失って、幼い萌を抱えて、なによりも萌がいまの凛みたいに片言で、零一をうまく発音できずに「いちい」って呼んでいたんだ。兄はとても子煩悩な人だったからね。娘と将来恋人みたいな関係になりたいって言って、萌に零一って呼ばせようと頑張っていた」
「それで萌ちゃんが、一尉って…」
春馬くんが言っていた「私のお父さんは一尉」は本当だったんだ。
そういえば、さっきはじめて出会ったときに、萌ちゃんは純子さんのことを「お母さん」と呼んだのに、壱さんのことは「パパ」って呼んでいた。
純子さんが懐かしそうに、切なく笑う。
「とても優しい人で、明るくて、でもどこかでいつも我慢をしていた人。本当は身体を動かすことより、大好きな史学博士になりたかった人。でも下に5人もいるでしょう?高校卒業後は衣食住の心配がなくて、少しでも仕送りができる自衛隊に入ったのよ。彼が我がままを言ったのは、萌を妊娠した時、私はまだ空を飛ぶ気でいたし、飛べなくても、自衛隊を辞める気はなかったの」
そこで純子さんは、言葉を句切ると、まだ涙のあとがのこる春馬くんを、愛おしそうにみつめた。
きっと春馬くんを通じて、零一さんをみているんだ。
「いまの村上くんみたいに、泣きながら自衛隊をやめてほしいって、言われたわ。私達は有事のときに、家族をおいて任務をこなさないといけない。その義務と責任がある。でも子供に寂しい思いをさせたくないって。本当は、いままでだって、一歩間違えれば、死ぬかもしれない空に、飛んでいくのなんか、見たくなかったって。もしも私が、このままかえって来なかったら、自分の整備した機体で、私が死んでしまったら、と思うと気が狂いそうだったって」
―結局、残されたのは、私と萌だったけど、と苦笑する。
私は、なにも言えなかった。
もし私が純子さんの立場に、なったら?
春馬くんが、突然、私の前からー、ううん、この世界から、消えてしまったら?
さっき春馬くんに、拒絶された時とは、まったく違う恐怖が、私をおそう。
もしも別れたら?と想像したことは、あったけれど、春馬くんの死を、想像したことは、なかった。
だって、天と地がひっくりかえったって、春馬くんは、死なないって、なんの確証もなく思っていた。
冷たくなった私の手を、温かい純子さんの手がつつみこむ。
水仕事で少し荒れた手は、でも確かに、3児の母を感じさせるたくましい手。
「私もね?そんなに深く考えたことは、なかったの。だって私にとって空は、子供の頃からの夢で、国を守ることの義務も、責任も、学生時代から、嫌っていうほどきいていたし、理解していたつもりだった。でも、私は私が失敗しても、自分が死ぬだけで、そりゃあ機体は、税金だけど、その分、命で払うんだからって、一度も真剣に考えたこともなかったの。萌を妊娠した時だって、トレーニングしていたから」
だって、妊娠初期なんて胎動もないし、悪阻できついし、病院でエコーをしても、ただの丸い卵に点があるだけでしょう?
って笑うけれど、私は妊娠どころか、そういう行為さえ未経験なのだから、わかるはずがない。
あれ?でも、もともとは、子供を授かるためのものだよね?
100%確実な避妊方法はない、ってことを、さんざん保健の授業で、習った気もするのに。
ううん、実際に、習うのに。
あれ?
まわりも私の演じるヒロインも、なんなら私自身も、ふかく考えたことがない。
だって、私も春馬くんも、もう社会人で、お互いの行動に、責任を負える立場になっててー。
「その顔は、私と一緒みたいね」
クスクスと純子さんは、楽しそうに笑うと、もう一度、春馬くんに目をおとした。
「でも彼は、どう思ってるのかしら?少なくても零さんは、自分からそういう行動を起こすことはなかった。私は、軽いファッション感覚で、それなりに遊んでいたし、自衛隊って男だらけで、いい男も選び放題だし、幹部候補生なら定年も60歳くらいだし、なによりやりたい盛りの時期に、きつい訓練にあけくれるわけでしょ?そりゃあ、女って、だけでモテはやされたわ」
「モテそうですもんね、純子さん」
「あなたもね」
「私の場合は、モテるって言えません。外見でよってくる人ばかりだし、初恋は春馬くんで、つきあった人も彼だけですし」
「あら?じゃあ、まだ?」
「…純子さん、ここには、僕もいるんだ。セクハラ発言は、やめてくれ」
「あなたこそ、村上くんにセクハラしたじゃない?」
軽く睨まれて、壱さんが目をそらす。
「いや、だって、あまりにも兄さんと似ているから、心配になって。このままじゃ兄さんみたいに、彼女に押し倒されて、アレに細工されて、なに崩し的にーみたいな?」
ーそうだったんだ。
でも、私もやりかねないかも。
「だって、しょうがないじゃない?絶対にこの人じゃなきゃ嫌だって、こっちは、思ってるのにさ?まったく手をだしてくれないんだもの。で、生まれたのが萌よ?私の大事な世界でみっつの宝物」
いきなり話が飛ぶところは、純子さんも春馬くんに似てる。私があきれていたら、壱さんが苦笑した。
「だいぶ、はしょったね。そこに、兄さんや僕はいないと言い切るところが、またすごい」
「だって、本当に出産は命懸けだし?胎動があってからも、生まれてからも、14歳になったいまでも、ずっと生きていることを、朝一番に確認するわ。特に萌は、一番最初の子だし、私にとっても、あなたにとっても、特別な存在でしょう?」
「もちろん、大切な姪っ子で、大好きな人たちの娘で、僕の大切な子供だよ。ーできれば初恋を、叶えてあげたかったけどね」
壱さんが私をみて、意味深に笑う。
「女の子は、父親に似た人を選ぶっていうでしょう?まさか壱とこうなるなんて、思わなかったし、壱には悪いけど、私にとって、一番いい男は、いまでも零さんだし。せめて零さんの性格だけでも、萌に伝えたいって、思ってたら、いつまにか、ああなったのよねー」
私も不思議なのよね、と明るく純子さんが笑う。
「だから、村上くんが隣にひっこしてきたときは、本当にびっくりしたわ。そういえば、村上くんの家によく来ている子がいるけどー」
「私の親友です。春馬くん、私が撮影に入ったり、映画やドラマがはじまると、連絡がとれなくなっちゃうから、彼女に私が頼んでいます」
「ああ。そういえば、そう言ってわね。こういう子に、自信をつけさせるには、やっぱりあなたから、襲うしかないんじゃない?」
「ーっ!?」
「極論すぎるよ、純子さん」
壱さんが溜息をついた。
結局、純子さんのもともとの性格でもストッパーは壱さんなんだ。
こほんと仕切りなおすように、壱さんが咳ばらいをする。
「こんなに遅くまで、わるかったね。つまり、僕らは、村上くんのことが大切なんだ。彼は優しすぎるからね。春先に凜の夜泣きがひどくて、純子さんが珍しく体調をくずしてた時があってね。僕はどうしても、外せない派遣が入って、萌に負担がかかっていたんだ。そんな時に、春馬くんが萌と空を預かってくれたんだよ。最終的には、凜までね。おかげで純子さんは、休むことができて、萌にも僕以外に頼れる人が現れた」
ああ、春先に春馬くんがやつれていたのは、実際になれない子守りをしていたからか。
私も春馬くんも、上に兄や姉はいるけど、下にはいない。
事務所の寮には、後輩たちがいるけど、一番下の子でも高校生だ。
いくら萌ちゃんがしっかりしているとはいえ、春馬くんには、相当な負担だったんだろうな。
でも屋上に閉め出された私を、放っておけなかった人だ。
さりげなく、いろんな人を、無意識に助けちゃう人だ。
私の気持ちを、10年も優先してくれた人だ。
―私の大切なたった一人の特別な人。
「きょう私たちは、あなたに出会えてよかった。萌の初恋を、きれいな思い出にしてくれて、ありがとう」
純子さんがもう一度、私の手を、きゅっと握ってくれた。