第6話
ピピって春馬くんの空色の腕時計が、春馬くんの出勤時間をつげる。
春馬くんが残念そうな顔をしたけど、さびしいなあ、は、私も一緒だよ?
ただ、私は甘やかしちゃうから、真央から
ー新プロジェクトが忙しいから、うちのゴリラは休むから、村上はちゃんと出勤させなさいよ?
かなり言われた。
ーうちのゴリラって。
前までは、先輩呼びだったような?赤ちゃん産まれたら、私も春馬くんの呼び名が、かわるのかな?
ーあの魚?
ありえないか。
私はクスクス笑いながら、残りのサラダを食べる。
先に食べ終わった春馬くんが、
「ごめん。皿洗いをお願いしていい?」
ネクタイをしめながら、言った。
私は、その姿にドキッと、心臓が鳴る。
そして、ふいに、胸に切なさがあふれだした。
「えっ?明日菜?」
春馬くんが戸惑うけど、私の瞳から、ポロポロと涙があふれてくる。
私はそのまま、涙でぼやける春馬くんをみつめた。
だって、あの日、遠目にみた春馬くんのスーツ姿。
南九州の片田舎。
たくさんのフラッシュに、真央すら、怯えてすくんだ。
ううん。もともと真央は光に敏感なのに、私と春馬くんのために、頑張ってくれた。
なのに、私のために怯えて、
ーいいよ?真央は逃げれるよ?
そう思ってしまったんだ。
真央は私とは、違うよ?自由だよ?逃げれるよ?
優しい嘘で、悲劇のヒロインぶったあの日。
たくさんのフラッシュの中でにげる真央のらしくない背中。
そのむこうに、遠くにみたスーツ姿の春馬くん。
二十歳の成人式。
あの日は、また春になったら、すぐに逢えると信じていた。
ー今度こそ、私たちのはじまりの福岡に、きっと。逢いにいく。
18歳の時には、行けなかったけど。たくさん傷つけたけど。
ー春になったら、また。
きっと、逢いにいける。
ーそう、信じていたのに。
きっと、あの年の成人式で、地元をはなれた子たちが、たくさん笑って、同じ約束をしたはずなんだよ?
なのに、
ーコロナが、私たちの時をとめた。
誰も、悪くないよ?
ほんとうに、悪くないよ?
だって、未知のウィルスなんだ。
ただ、たくさんの歴史のひとつになっていくんだよ?
けど、
ー私には、ながいんだ、
ながい歴史の、いつかは、教科書の1ページになるコロナ。
その時代を、いま、生きている。
みんなが、生きてる。
みんなが、がまんした。
だけど、さ。
でも、さ。
「明日菜?」
戸惑いながら、春馬くんが頭を撫でてくれる。
あの日、ふれたくても、ふれるどころか、たくさんのフラッシュに、見えなくて。
いまも、涙でゆらぐんだ。
ーダメだよ?
泣いちゃ、ダメだ。
春馬くんは、会社なんだよ?
そう思うのに。
私は顔をおおって、泣いてしまう。
春馬くんが手をはなした。
ー会社に、行っちゃう。
私の耳に、きっと、
またー。
「あっ、村上です。すいません、今日、遅刻します。ーはい。すみません」
そう声がした。
ーえっ?
驚いて、春馬くんをみてしまう。
春馬くんが少し茶色がかった瞳で、優しく笑った。
「だいじょうぶだよ?明日菜。ちゃんと、俺は、そばにいるよ?」
抱きしめようと手が伸びてきたけど、私はつい一歩さがった。
「明日菜?」
戸惑う春馬くんの首に、自分から腕をまわして、キスをする。
頬からつたった涙がしょっぱい。
けど。
その塩辛さに、私は笑った。
あの日、東京に帰る飛行機で、ぎゅっと口をひきむすんだ。
ー泣いちゃダメだ。私に、泣く権利なんてないよ?
だって、18歳で、福岡に行かない選択をしたのは、私なんだ。
優菜の夢を、私が守る。
そう身勝手に、自惚れた、幼い正義感が私を責めつづけて、
ーただ、悲劇のヒロインを、演じていたんだ。
ね?
春馬くん。
ーだいじょうぶだよ?
いまは、ちゃんと、目覚めたよ?
たくさんのひとが、優しい眼差しで私を見守ってくれたんだ。
また、ちゃんと、
ーであえたんだ。
ね?
私は涙をぬぐって、春馬くんのスーツ姿をしっかり目に、やきつける。
あれ?ネガがないいまも、そう言うのかなあ?
目にSDいれる?
ーなんか、いやだ。
フラッシュメモリーも、違う意味で目が痛い。
って、
私は、クスクス笑う。
すっかり、春馬くんに毒されてる。
あまい毒だね?
「明日菜?」
「ありがとう。だいじょうぶだから、春馬くんは会社に行って?」
「えー?せっかく、遅刻報告したのに?」
「真央から怒られるよ?」
…私もだけど。
けど、私には、
ーしかたないなあ?明日菜は。
って、笑うよ?真央は、私には、あまいんだよ?
そして。
「それは嫌だな。じゃあ、行くけど。なんかあったら、俺は電車に乗るから、でれないから、加納さんか軍曹よべよ?」
「うん。ありがとう。いってらっしゃい」
「うん。行ってきます」
もう一度、こんどは、かるく額にキスして、春馬くんが会社に行った。
ーちゃんと、マスクして。
そういえば、あの成人式は、みんなマスクなしで、笑ってたなあ。
また、いつか、
ーそういう時代が、あったんだよ?
きっと、笑える。
はやく、そうなれば、いいなあ。
たくさんの過去があって、私は春馬くんがマンションから、出ていく姿をそっと見守る。
外は、まぶしい九州の初夏の陽射しが、あふれていた。
ーきっと、光は、もうすぐくるよ?
ゆっくり、やすんだら。
たくさんのひとか、見守ってくれてるよ?
気づくまで、は、キツイけど。
ちゃんと、
ね?
春馬くん。
私は、まぶしい陽射しに、目を細めたんだ。
あの日の飛行機も晴れていて、
「あっ、飛行機」
福岡は都心に空港がある珍しい場所で、飛行機か真上を低空飛行していくんだよ?
おかえりなさい?
いってらっしゃい?
どちらにしても、
ね?
空は青くて、同じ青でも、
ー海じゃない。
泳いでいるのは、鯉のぼり。
あの魚じゃないんだよ?
夕飯、お魚にしようかなあ。
私はお魚嫌いじゃない。
ー春馬くんが釣る魚が、苦手なだけ。
ね?
春馬くん。
森はしばらく、やめてあげるね?
私はクスクス笑ったんだよ?
生きているから、笑うんだ。
また、笑えるんだ、
ーよ?




