第20話 彼女と彼氏のドアシチュエーション
春馬くんが、なにを考えているのか、わからない。
ーほんとうに、わからない。
ついさっきまでの私は、彼が、なにを考えているのか、ほぼ100%の確率で、わかると思っていたのに。
どうして?
トイレの中から、ドア越しでも、胸が痛くなる哀しい泣き声が、きこえてくる。
子供がわんわん泣いているのも、つらいけれど、まったく違う、大人の男の人の低い押し殺すような声で、春馬くんが、泣いている。
そして、私には、理由がまるで、わからない。
たったひとつわかるのは、春馬くんが、いま私を拒絶していること、だけ。
ーそう、拒絶だ。
私の背中を、嫌な汗がつたう。
これは、本当に、大ピンチじゃないだろうか?
さっき、お風呂で考えてしまったことが、現実になるかもしない。
私は春馬くんとわかれて、他の誰かを愛することができるんだろうか?
ー絶対に、嫌だ。
私はなりふり構わずに、ドンドンと近所迷惑なほど、トイレのドアをたたいたり、ガチャガチャと、ノブをまわしたりするけれど、全然あかない。
「春馬くん?ねぇ?きいているんでしょ!お願いっ、ここ開けて!ちゃんと、話をしよう?」
中から、ちいさな震える声が、嫌だと、つげてきた。
その声に、ドアをたたいていた私の手が、とまってしまう。
それは、ちいさな声だったけど、私には、はっきり、きこえた。
ーいやだ。
私も、
ーいやだ。
なんで?どうして?
わけがわからないよ?春馬くん。
いつものふざけた理由じゃないの
ねぇ、おこらないから、教えてよ。
この黒いトレーナが、実は、あの例の魚釣りようだったとしても、いまなら、笑ってゆるせるよ?
ねぇ、どうして「いやだ」しか言ってくれないの?
ねぇ、
「春馬くんは、本当は、私のことが嫌いなの?」
ようやくでてきた私の声も、涙に震えてしまっていた。
春馬くんの泣き声だけが、きこえていたトイレのドアの前で、私は膝から、崩れ落ちるように、ぺたんと、床に両膝をついて、トイレのドアにすがるように、両手をついた。
ああ、そういえば、余命一年を宣告されたヒロインが、彼のためを思って、ほかのひとを好きになったと嘘をついて、別れたあと、彼がでて行ってしまったドアに、すがりついて泣くシーンが、あったなあ。
演じたのは、私だったけど、なんで、そんな風に泣くのか、私には、理解できなかったけど。
ああ、いまなら、理解できるよ。
本当に、膝から、力が抜けちゃうんだね?
ドア1枚しか隔ていのに、こんなに遠くに、行ってしまうんだ。
悲しいけど、確かに、ヒロインの泣く姿は、絵になってた。
でも、あの時とは、まったく違う。
こんなふうに、トイレのドアを相手に、おなじシチュエーションになるなんて、思わなかったし、そんなシーンがあるなら、コメディドラマかな?
私には、まだ未体験の役ところ。
そこまで考えて、私は、つい小さく、笑ってしまう。
こんな時なのに、トイレのドアが、やつぱり春馬くんらしいな、と思ってしまう。
泣いてる私を、必ず笑顔にさせてくれる、大切な私だけの魔法使い。
やっぱり、私は、春馬くんがいい。
春馬くんがどう思っていようとも、私には、春馬くんしかいない。
この10年の間、あんなキラキラした、でも嫉妬や憎悪の渦中で、ぼーっと、生きてきたわけじゃない。
私は私なりに、この10年を、頑張ってきたんだから。
それを支えてくれていたのは、いつだって、とぼけた返事の春馬くんだ。
ねぇ?
知ってる?
春馬くんは、いつもまっすぐに、私のことを見てくるのに、ラブシーンなんかでは、ほんの一瞬だけ、それもかすかに、目をそらすんだよ?
そして、つぎに口をひらくと、いつもとぼけた感想だけど、言葉にだす前に、小さく唇をひきむすぶように、前歯で噛んだ下唇を舌でなめるんだよね?
いつも、いいたいことを、飲み込んでくれたんだよね?
恋愛ものにでたあとは、メッセージが、なかなか既読に、ならないよね?
完成記念とか言って、必ず、福岡名物おくってくるようになったのは、初めて、春馬くん以外の人とキスをした時からだよね?
うん、だいじょうぶ。
ー私は、知ってる。
ううん、しっていた。
春馬くんの嫉妬も、我慢も、ぜんぶ。
そして、甘えすぎたんだ。
甘えさせて、くれたから。
あのギラギラした世界で、息ができたのは、春馬くんのおかげだ。
春馬くんがくれた、あの魚のように、岩陰でじっとして、コケみたいのがついても、じっとして、目の前に餌がきたら、簡単に、ぱくんと、食べちゃって、釣られる。
そんな、チョロインな私が、あの世界で、ずっと、やってこれたのは、春馬くんが、いつもそばにいてくれたからだ。
外道のフグを、もう釣れないようにって、理由で、陸地に放置する人に、怒ってたって真央がいっていた。
相手はガラの悪い人たちだったって、きいて、とても心配したんだよ。
小さな魚は、かならず海にかえすんだよね。
最初にいってた海釣り公園の豆アジだって、百匹以上、全部南蛮にして、何日かひたすら、食べ続けているんだよね?
知ってるよ。
小さな生命も、大切にしている春馬くんを。
私は、たしかに、
ー知っている。
春馬くんが連絡くれないときは、真央にずっと、気にかけてもらっていたから。
うん、私は春馬くんのリモートストカーかもしれない。
そうだ。
さっきだって、使えそうな情報もらったじゃないか。
他ならぬ、春馬くん自身に。
私は立ち上がる。
夜だけど、いいかな?
ううん、こんな恰好じゃダメか。
マスクは、あたり前として、メガネはいいかなあ。
私はトイレの前から、立ち上がると、失礼にならず、華美にもならない、清楚なカジュアルワンピースに着替えると、そっと気づかれないように、春馬くんの家をでた。