男は名無し
「――――。」
何処からか声が聞こえてきた。
ここがどこで自分か誰なのかもわからない中、
「どうか…彼を助けてあげて。」
その声は囁くように僕に語りかけた。
気が付いた時にはそこにいた。
目を開き飛び込んでくる青空に目をくらませる。
広げた両手には草の感触。
どうやら自分は地べたに寝転がっているらしい。
だとしたらこの光景は実に奇妙だ。
どうしてこんなところで寝転がっているのかもわからないが、自分の頭上にそびえたつ黒い靄の壁。
この光景が普通ではないことだけは理解できた。
――それにしてもここはどこだろうか?
「おい!聞いてんのか!」
――自分がどうしてここにいるのかわからない。
「おめぇなにもんだ…って、聞いてんのかよ!」
――何者か、なんてそんなこと。
「おい!無視してんじゃねぇ!」
鈍い音がして額に痛みが走る。
驚き飛び起きた男の視線の先には一人の少女がいた。
真っ白なショートヘア、その小さな背の後ろからは結われた髪が風に揺られている。
真紅の瞳は突き刺すように男を睨みつけた。
少女は男にまたがり押さえつけるように男の手を踏みつける。
これは……どういう状況なのか。
わからないことだらけで頭の整理が追い付かない。
目覚めたばかりだから頭が混乱しているのか。
……いいや、きっとそういうわけではない。
「――――わからない?自分は……誰だ?」
自分が誰なのかと問われてから思い起こさせるが自分自身のことについて何も思い浮かばない。
男は自分のことが誰であるかわからなかった。
男の発言に少女は猜疑の目を向ける。
少女はどういうわけか手に短剣を持っている。
先ほどの鈍痛はあの短剣の柄で殴られたのだろう。
何はともあれ、これがまずい状況なのは現状を何も理解できていない男であって理解できた。
こころなしか少女の短剣を持った手には一層の力が増したような気がした。
「待て!落ち着け!自分は不審な人物ではない!」
「……何言ってやがる。自分が誰かわからないとか言う奴が、裸でこんな場所に寝転がってる。これを不審に思わないで何を不審に思えばいいってんだ」
「はだ……か?」
恐る恐る視線を下に向けると自分は衣服を何も身に着けていない。
そんな状態で男は少女に股がられていた。
「……うおぁっ!」
勢いよく起き上がり少女を放り投げる。
地面を転がった処女はすぐに体勢を立て直し、目にもとまらぬ速さで男に再びとびかかる。
少女の目の前に手を広げなんとか少女を制止する。
今にも手で持った短剣で切りかかろうとする少女の気迫に押されて尻もちをついた。
「なんか言い残してぇことはあるかよ。」
「なぜ裸なのかも追加、だな。」
「はぁ?何言ってやがる。」
「いや、どうして自分がここにいるかもわからなくてな。名前も、どうして裸なのかも……何もわからなくてな。」
ここがどこなのか、自分が誰なのか、どうしてこんなことになっているか。
男には何もわからなかった。
――――これはもう……
「お前……何笑ってやがる。」
「さぁ、どうしてだろう。」
少女は何か思いつめたような表情をしてじっと動かない。
険しい表情をしているが少女の顔はやはりとても整っている。
赤く輝く瞳に短く整えられた銀髪、一つ束ねた長髪が風に揺られて少女の背後になびいている。
美人という言葉だけでは形容できないその風貌に、少女に似つかわしくない勇ましい姿も相まって。
つい――――
「――――綺麗だ」
「ああ!?」
思わず口から洩れた誉め言葉に気を悪くしたのか少女はさらに険相を悪くする。
「あ、いや…すまない。気を悪くしたのなら謝る。」
「……いいや別に。はぁ、なんか俺だけ気張ってて馬鹿みてぇだ。」
「なにか考え事でもしていたのか?」
「あー……お前のことこれからどうしようかと思ってよ。」
「そうだな、たしかに服のないこの状態はまずいよな。もしかして服とか――――」
「お前のことをどう処理しようかと思ってよ。」
そのとき少女の持った短剣が日の光に当てられきらりと光る。
「……申し開きさせてもらってもいいだろうか?」
「おお、言ってみ。それがてめぇの最後の言葉だぜ。」
「実は記憶がなくてだな。」
「それを信じろと?」
「できれば信じてもらいたい、君は躊躇が無さそうだ。」
疑り深く少女に問詰められるがどこか敵意のようなものは感じられない。
探りを入れられてはいるが口調が少し前までとは違い棘がない。
「――――」
少女は何かを考えているようでしばらく動かなかった。
時折男の顔を見ては何かを疑うような顔をしてすぐに伏せる。
何度かそれが繰り返され、少女が口を開いたと思えば一言だけ。
「お前、ちょっとかがんでみろ」
それだけを言って少女の口から続く言葉は出てこない。
意図はわからないが疑われている中、歯向かうと今度こそ何をされるかわからないと思い男は少女の指示に従った。
少女は男の髪をかき上げたりまとめたり、くしゃくしゃにしたりした。
かがめという指示は顔を見せろという意味だったのか。
顔を見られているだけ、それでも少女の手に未だ短剣が握られていることが気になって気が気でない。
このまま首でもはねられるのではないだろうか。
「まぁ、んなわけねぇよな」
少女は男の頭から手を放し短剣を腰の鞘にしまった。
「もういいのか?今のは何だったんだ?」
「気にすんな。知ってるやつに似てるかもって思ったんだけどよ。んなわけねぇんだよな。」
「そうか。で、少しは信用してもらえたのか?」
顔を見られて以降、少女の顔からは険が取れたように見える。
勝手に疑われて勝手に一人で納得されたことに納得はいかないが少しずつでも柔らかくなっていく少女の態度を見て安心する。
少女の口調は変わらずきついままだが短剣を押さえつけられていたときと比べる関係は大きく前進している、と思いたい。
「なに生易しい目で見てやがる。言っておくがお前のことなんてミリも信用してねぇよ」
「みっ、みり!?みりとはどういう意味だ?」
信用していないという言葉を聞いて慌てて聞きなれない言葉について少女に聞き返した。
「気にするな。もう今後聞くことはねぇだろうからよ。」
「……それは、今からお前を殺すという意味だろうか?」
「はぁ?お前を殺して俺に何の得があるよ。」
どうやら少女は自分をどうこうする気はもうないらしい。
信用されているのかどうかわからないがとりあえずは安心か。
安心して落ち着いてみてもどうして自分はどうしてこんなとこにいるのだろうか。
こんな何もない草原に……何も……。
真後ろに不思議の塊のようなものがあることを思い出す。
黒い靄の壁は揺らめきながらそびえたつ。
少女は別段これに気を留めている様子はない。
話を進める少女に合わせ触れることはなかったが落ち着いてみるとやはりこの靄はあまりに不自然に存在している。
草原の終わりを知らせるように立つ靄は目の届く平面の彼方まで、空に向かって際限なくここにある。
「これは……。」
「触るんじゃねぇぞ。まぁ、死にてぇなら止めやしねぇけどよ。」
少女の忠告に男は伸ばした手を引っ込める。
「どういう意味だ?これがなんだというんだ。」
男の問いかけに少女はしかめた顔をして答える。
「お前、本当になんも知らねぇのか?もしくは相当な田舎者か……。」
「それすらもわからない。その口ぶりからするとここは田舎ではない…ようには見えないな。」
辺りは一面の草原地帯。
あるものといえば謎の黒い靄の壁。
「ここがどこかの大都市にでも見えるのかよ。ここは…そうだな。ここは東の果ての土地。」
「東の果て?そうか。で、まさかこの靄の先には何もないみたいなおちか?」
「そのまさかだぜ。この黒壁でこの大地は終わりだ。触れたら最後、それが生物問う問わずすべてを飲み込んじまう。この世界にいるやつなら誰だって知っていることだ。噂じゃこいつは大陸の西の果てからでも見えるってことみてぇだが…本当に黒壁のことを知らねぇってんのならお前はこの世界の人間じゃなかったりしてな。」
「人間だと思うので記憶がないという方向で信じてもらいたい。」
「なぁ、聞きてぇんだけどよ。お前はなんで俺に信用してもらいたがってるんだ?お前をどうにかする気はもうないって言ったはずだが?」
「それは……。」
記憶も行き場もない男は目の前にいる少女以外に頼れるものがいない。
しかしそれを口にできずにいた。
今、であったばかりの少女に助けを乞うのはいかがなものかと。
それでも現状誰も頼りにできるものがいないのは確か。
体面がどうとか気にしている場合ではない。
「行き場もないのでな、君に助けてもらいたくて。」
「安心しろって、お前の面倒ならここらの盗賊やらが見てくれるって。」
笑顔でそう言い放ちその場を去ろうとする少女の腕をつかむ。
「待ってくれ!この状況で置いていくのは少し冷たいんじゃなかろうか!?」
「別にお前のことを助けにここに来たわけじゃねぇんだから冷たいなんて言われる筋合いはねぇよ!」
「そう言わずに!知り合ったのも何かの縁だ!せめて肌着をなにか貸してくれないか!?さすがにそろそろ恥ずかしくなってきた」
「人にすがってるやつが恥とか今更だろ!適当にそこらの葉でも巻いとけ!」
逃がすまいと掴んだ少女の腕は力強く抵抗した。
男の腕を振り払おうとする少女の力は尋常じゃないほど強い。
人並外れた美貌の少女は人並外れた怪力少女でもあった。
とはいえこのままおいそれと逃げられるわけにもいかない。
わがままな話であるのは承知していても危険を回避するために目の前の少女に懇願するしかなかった。
「自分を助けることに意義を感じないというのなら自分にできることなら何でもする。だから――――」
「なんでも?本気で言ってるのか?」
真剣な表情で聞き返してくる少女に一瞬ひるむが決意は変わらない。
「あっ、ああ!何でもだ…でもできればそれをするときは理由を教えてほしいな」
「なんでもとか簡単に言うなよな。…だがそうか。何でも、ね。そうかそうか。…いいぜ、助けてやるよ。とりあえずお前の食と住は保証してやる」
不敵に笑う少女に恐怖する。
いったいどんな要求をしてくるつもりなのかは知らないが助けてもらえることに安堵する。
そういえば職と住は保証してもらえたが衣はなかった。
ふと見ると差し伸べられた少女の手には何かの葉っぱが握られている。
「できれば衣服の方もどうにかしてもらいたい。」
「まぁ、そのうちな。」
渡された葉を腰に巻き仮の衣服とした。
黒壁を背に歩き出す少女の背について歩く。
「そういえば君はどうしてこんなところにいたんだ?」
「日課の見回り。つーかその君とかいうのやめろよな。俺にも名前が……って、そういやお前の名前はなんていうんだ?」
「もちろん覚えていないぞ?」
「そんな威張って言われてもな。でも名前がねぇのは不便だし……よし!俺が考えといてやるよ。」
不安だ。
この少女は見た目は育ちのいいお嬢様のように見えるが行動の随所に野性味がある。
おかしな名前でも付けられるのではないだろうか。
「お前顔に出すぎ。まぁ、任せろっていい名前つけてやるよ。」
「……参考までに君の名前を聞いていいだろうか?」
「俺か?俺の名前は……そういいものでもねぇよ。思い付きで決められたものだし。」
名前を言うのを渋る少女は少し間をおいてから答えた。
「俺の名前はテルだ。」
「なんだ、いい名前じゃないか。」
「はぁ?本気で言ってるのか?」
「もちろん。テル…テル。うん、やはり呼びやすいいい名前だ。」
少女は呆れたような顔をして立ち止まる。
「呼びやすさ、ねぇ。だったらお前の名前も飛び切り呼びやすいものにしてやる。」
「お手柔らかに頼むよ。」
「でも、あれだな。この世界の知識を教えて、名づけまでしたらいよいよ母親みてぇだな。」
「……もしかしてお義母様とでも呼んでほしいのか?」
冗談交じりに少女に聞き返す。
それでも確信はなかった。
少女の勝気な性格に腕力の強さ、大人びた雰囲気が年上なのではないか、という疑問を抱かせた。
「保護者なのには違いねぇな。まぁ好きなように呼べよ。」
「いや、流石に人前でお義母様なんて呼べない。なんというか、その…対外的にまずいだろ。」
「なんだ、言いづらそうにして?……あー、まさか俺のこと見た目で判断してんじゃねぇだろうな?言っておくが俺は絶対お前よりも歳は上だぞ。」
自身ありげに語るテルは嘘をついている様子はない。
記憶がないので自身の年齢ははっきりとはわからないが、やはり自分の方が年下であるとは考えにくい。
もしかして背伸びをしたい年ごろという奴だろうか。
「ほぉ、では年齢がいくつか聞かせてもらおうではないか。」
「それはにっ――――」
テルは何かを言いかけて歩みを止めた。
「二十くらいだ。」
「……いや、盛ってないか?」
あっても十五やそこらだと思っていたが、予想外に高い年齢に疑いがぬぐえない。
口ごもったところも怪しいものだ。
「年齢のことはもういいだろ。もうすぐ村に着くしよ。」
「村か。今はそこに向かっているのか。」
「そういや言ってなかったな。今向かってるのはリウ村。さっきも言ったが大陸東端最後の村だ。まぁ公式には違うけどな。」
「どういう意味だ?」
「地図に載ってねぇからよ。まぁ新しくできた村だし――――」
「ああ、なるほどな。」
「――――だからこそ変な連中が他のとこより多いんだけどよ。」
「ちょっと待て、どういう意味だ!?」
テルの耳を疑うような発言に一瞬硬直するが、歩みを止めないテルに必死についていく。
心なしかテルの歩く速度が速くなっているような気がした。
「ちょ……テル!」
声をかけるとテルの歩く速さはより速くなり、少し小走りしないと追いつけないほどだった。
思えば最初から盗賊がいるような発言があった。
もしかして今から向かおうとしている村はそういった者たちが集まった場所なのではないか?
そう考えるとテルの荒っぽい言動にも納得がいく。
「テル、悪いが自分は盗賊やそれに類する者たちと仲良くできる自信はないぞ。」
「あぶれ者ってのが盗賊連中のことだってのは否定しねぇ。でも村にそんな奴一人もいねぇよ。まぁ、気難しいやつは多少はいるがよ。お前の身の安全だけは、保障するぜ」
「……それを聞いて安心するのは自分には難易度が高い」
すでに村の中に入っていたらしく、今の騒ぎを聞きつけてか目の前に複数の灯りが灯る。
どうしてテルが強行してまでこの村に来るのを急いだかはわからないが、ここまで来たのならテルの言葉を信じるほかなかった。
人攫いか、盗賊でないならあぶれ者に他に何があり得るだろうか。
――あまり想像はつかないが、少し厳ついくらいの傭兵団とかだったらいいな。
しかし、理想はいつだって想像を超えてくるもので――――
灯りが近づいてくるにつれ松明を持ったその者たちの姿があらわになっていく。
盗賊、傭兵……そんなものがどこにいただろうか。
松明を持った異形のそれらの中には人の姿はないのだから。
「まぁ、とりあえずようこそ。取り残された獣人の村へ。」
鳥の羽をもつ人型の者、上半身は人であっても下半身が蛇のようになっている者、人の姿で獣のような体毛に覆われたもの。
姿、形はそれぞれでも、それらは皆同様に男をただじっと見つめ、その周りを囲んだ。
「ああ、そうだ。お前の名前な、考えたんだがよ。やっぱりこれが一番しっくりくると思うんだよ。」
立ち尽くす男の様子にテルは我知らずと考えた名前を告げる。
「これからお前の名前はナナシだ。どれくらいの間になるかは知らねぇが、これからよろしくな、ナナシ」