『皇帝』視点 26
──気が付けば、エルクウェッドは前日に巻き戻っていた。
何者かの時を巻き戻す『祝福』が発動したのだ。
ゆえに、先ほどの惨状は全てなかったことになったのだった。
自分の壺はパリンしていないし、五十番目の妃は床に倒れてはいない。
当然だ。それらは、巻き戻った現在の時間においてまだ起きていない出来事なのだから。
だが、しかし。
裏を返すならば、それは、
──何もしなければ明日、そっくりそのまま同じことが起きるということでもあった。
エルクウェッドは、思考を回転させることに全力で集中する。
彼は、先ほど自身が遭遇した出来事を思い返すのだった。
先ほど、倒れていた少女。
おそらくその首には、大きな傷を負っていたと思われる。
そして、絨毯の上に広がっていた彼女の血液。その量から察するに、間違いなく致命傷だったはずだ。
ならば、その傷を負わせた相手は一体誰なのか。
あの顔を蒼白にしていた四人の妃だろうか?
彼女たちには、見覚えがあった。
二十一番目の妃から二十四番目の妃の四人だ。
確か、互いに顔見知りであるらしく、後宮内ではよく揃って行動しているのだという報告を、彼は以前から侍女や女性兵士たちから聞いていた。
しかし、まさか四人がかりで一人の少女を殺害するなど──
そう思ったが、しかし彼は疑問を持つことになる。
四人の妃たちは、誰も刃物の類を所持していなかったのだ。
じっと彼女たちのことを観察したわけではないが、確かにそうであったと彼は記憶していた。
ならば、割れていた壺の破片を用いたのだろうか。
いや、それも多分違うだろう。それならば、血まみれとなった破片がどこかあったはず。
見た限りでは、何もなかった。
つまり壺は、あくまでもパリンしていただけだ。凶器にはなっていない。
……いや、そもそもの話、先ほどの光景は一体どのような状況だったのだろうか。
自分の壺を割ったのは、一体誰なのか。
四人の妃か。それとも五十番目の妃の少女か。
一番可能性として有り得るのは、四人の妃の方が、壺を割った罪を少女になすりつけようとしていたということだ。しかし、その場合、なぜ少女が倒れていたのかが釈然としない。
……まさか、自殺? なら、彼女はナイフのような鋭い刃物を常備していたことになるし、濡れ衣を着せられたとはいえ、自殺する意味も分からない。いきなりすぎるだろう。そんな潔い人間が果たしているものだろうか。
──ああ、くそっ、立ち位置が悪かったな。情報が全然足りない。
現場を確認することができた時間がほんのわずかだったことに加え、エルクウェッドの視点から凶器を発見出来なかった以上、先ほどの光景を詳細に分析することもできないのであった。
彼は、一旦、自身の推測を保留にする。
そして、目の前にいる二十九番目の妃にきちんと向き直るのだった。
「陛下、もしや降参でございますか?」
眼鏡をかけた彼女は、得意げな顔でそう言った。
現在、エルクウェッドと二十九番目の妃は後宮内の遊技場にて、複数の駒を用いたボードゲームを行っている最中であった。
そのようなときに巻き戻ったことを、エルクウェッドは好都合だと判断する。
「いや、私の勝ちだ」
彼はそう言って、駒を進めた。
エルクウェッドが彼女の相手をするのは、当然これが初めてではない。
ループによって、もう何度も相手してきているため、彼女の手の内は尽く看破していたのだった。
ゆえに、今まで有利を築いていた彼女の盤面を、自身の一手によって絶体絶命の危機に陥れることも可能である。
彼女は、一瞬にて形勢を覆されたことを理解して「え、そんな……」というような表情を浮かべて愕然とする。
そして、
「参りました……」
手の内を全て読まれていてはどうしようもない。
彼女は、即座に降参することになるのだった。
「まさか、この勢いのまま勝てると思ったのに、瞬殺されるなんて……」
「当然だ。貴様には悪いと思うがな」
──もう、何回目だと思っているのか。
口には出さないが、彼はそう心の中で呟くことになるのだった。
そして、エルクウェッドは、彼女に命令する。
「それで、確か負けた方が勝った方の言うことを聞くという約束だったな?」
「はい、陛下……」
落ち込む彼女に向かって、「これも悪いとは思っているが」と心の中で思いながら、エルクウェッドは告げる。
「――貴様に宿題を与える。なぜ私に負けたのか。それを次会う時までにしっかり考えておけ。もちろん、今もだ」
彼は、史上最悪な無理難題を二十九番目の妃に吹っ掛け、そして、その後独り遊技場を後にしたのだった。
♢♢♢
エルクウェッドは急ぎ足で後宮の廊下を進む。
彼が今向かっているのは、五十番目の妃の部屋だ。
当然ながら彼女が今、どこにいるのか分かっていない。
この時間、どこに一番彼女がいる可能性が高いのか知らない以上、彼は直接少女の部屋に向かうしかなかったのだった。
エルクウェッドは廊下で他人とすれ違うたびに、「五十番目の妃を見たか?」と尋ねながら、進む。
彼の『呪い』は、このようなときには非常に厄介な代物であった。
自力では、目的の相手をほとんど見つけることが出来ないのだ。
ただし、他人を介せば、その効力はある程度弱まってくれる。
そのため、彼は積極的に他人に声をかけながら、彼女の自室に向かうのだった。
彼が、五十番目の妃である少女の元に足を運ぶ理由は、忠告を行うためである。
明日、絶対にあの場所に行くなと伝えるのだ。
そうすれば、少女はあの惨劇に巻き込まれることはなくなる。
なぜあのような惨状となったのかは未だ明確ではないが、とにかく、彼としてはあの少女が傷つくことを回避出来れば、今はそれで十分なのだと考えていた。
彼は廊下を進みながら、思考する。
しかし、あの少女は運が良い。
いや、あのようなことになったのは不幸であるとは思うが……けれど、こうして一度なかったことになっているのだ。
とにもかくにも、彼女はちょうど何者なのかが発動させた『祝福』によって現状、一命を取り留めた。
過去に自分が暗殺されかけた時のように。
ゆえに、幸運と言えるだろう。
エルクウェッドが、そう思っている時だった。
突然、彼の中に大きな違和感が生まれたのだ。
──今、自分は何か思い違いをしているのではないか。
と。
突然、脳裏で警鐘がなる。
心臓が、大きく跳ねる。
呼吸が浅くなり、全身の血が引いていくような錯覚に陥る。
エルクウェッドは今、直感的な何かを強く感じて仕方がなかった。
自分は、今、何か大きな見落としをしているのではないか。
無性にそう感じて止まないのだった。
だが、しかし、いくら考えようと、それが一体何なのか、今の自分には──
彼がそう思っていた瞬間、
──その違和感の正体は、あろうことか、突如向こうからやってきたのだった。
彼の近くで、何かが、おそろしく鈍く大きな音を立てる。
彼がいたのは、階段より少し離れた場所。
ちょうど、エルクウェッドは階段近くを通りかかったのだった。
そして、音の先、そこに一人の人間があおむけに倒れていた。
否、背中を下にして上階から降ってきたのである。
その者は、強く床に後頭部をぶつけたのか、ぴくりとも動かない。
エルクウェッドは、その者の姿を見て、驚きに目を見開く。
──先ほどと同じ、五十番目の妃の少女であったのだ。
彼女は、またエルクウェッドの前で倒れているのであった。
エルクウェッドは、激しく困惑することになる。
時は巻き戻った。ゆえに彼女は今安全だ。なのになぜ……。
一体、これは何なのだ。何が起きている──
「──あはははっ!! ざまあないわね!」
エルクウェッドの頭上から、そのような笑い声が聞こえた。
そのため彼は、そちらに視線を向けることになる。
そこには、一人の妃がいた。
十三番目の妃だ。
彼女と一度行動を共にした際、あまり素行が良くなかったことを覚えている。
よってエルクウェッドは彼女に対してあまり良い印象を持っていなかった。
そしてその彼女がなぜ、階段の上階でそのように笑う理由があるのか。
それは簡単な至極答えだった。
たった今、少女を階段から突き落としたからである。
だが、そんなことは今、どうだっていい。
今は──
呆然としていたのはほんのわずかな時間であった。
彼は我に返った瞬間、すぐさま倒れている少女に駆け寄る。
そして、大声で呼びかけた。
「──おい、娘! 生きているのか!? おいっ!! 返事をしろ!!」
まずは意識の有無を確認する。
そして、すぐさま彼女に状態に見合った応急処置を施さなければならない。
「こ、皇帝陛下……!? 嘘っ、さっきまで下の階には誰も……!?」
上から、そのように驚く声が聞こえてくる。
だが、彼は無視した。
今は時間が惜しい。
構ってなどいられるものか。
倒れている少女は、今まさに瞳の光が薄れかかっている。
非常に危険な状態だ。
このままでは……。
前回はおそらく間に合わなかった。
けれど、今回こそは必ず──
「――おい!! 娘、聞こえているのか!! おい!!!」
エルクウェッドは、必死になって彼女に呼びかけながら、処置を行おうとして──
──同時に、少女の瞳が完全に輝きを失う。
彼は間に合わなかった。
そして、その瞬間、
──『祝福』が発動したのだった。
♢♢♢
気が付けば、エルクウェッドの時間は、前日に巻き戻っていた。
彼の前には、二十八番目の妃がいる。
現在、二人は談話室にてテーブルを挟んで談笑中であった。
彼は、おもむろに呟いた。
「……ああ、そうか」
そうか、そうだったのか。
「――貴様か……!!」
「えっ!? 急に何ですか、陛下!? 突然、大声出してどうかなさったのですか……?」
エルクウェッドの言葉に、一緒にいた二十八番目の妃がびっくりする。
しかし、彼は彼女を気にかけている余裕などなかった。
乱暴に椅子から立ち上がる。
そして、声をかけた。
「……悪いが、席を外す。一時間経っても帰ってこなかったら、部屋に戻って構わない。無論、埋め合わせは後でする」
「? はあ、承知いたしました……」
二十八番目の妃は、「何かよく分からないけどよく分かった」といった顔で頷くのだった。
「ちなみに、どのような御用事かお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「そうだな──」
彼は、言う。
「──復讐になるだろうな、一応は」
「えっ」
彼女は、「突然、何言ってるんだこの人???」といった顔で「そうですか……とにもかくにも、いってらっしゃいませ、陛下」と彼を送り出す。
彼女は、もうすでに思考を手放していた。
そして、快く送り出されたエルクウェッドは廊下を疾走する。
「──アアーッ!! 今行くから首を洗って待っていろよ、貴様ァーッ!!! アア! アアッ!? アアアアアアアアァァァッ!!!!!」
奇声に近い声を上げながら、そのまま五十番目の妃の部屋目掛けて彼は気でも狂ったかのような勢いで全力ダッシュするのであった。