ちょっとした後日談
リィーリム皇国の若き皇帝エルクウェッド・リィーリムは、『賢帝』として大陸中にその名を広く知られていた。
二十三歳という若さでありながら、大陸で最も古い歴史を持つ最も広大な皇国を治めており、そこで暮らす民たちは彼が自国の皇帝であることに一切の不満を持っていなかった。
何故なら彼は、どのような状況であっても常に正しい選択を行うことが出来る極めて有能な人物であったからだ。
──彼が成した偉業は数知れず。たとえリィーリム皇国の歴史をすべて紐解いても、彼ほどの傑物は存在しないだろう。
そう多くの人々から称されるほどの皇帝が彼であった。
しかし、幼少期の彼は他者と比べて優秀ではあれど、歴史上類を見ないほどの傑物になるとは到底思えなかったと語る者もいる。
いわく、彼がその才を発揮するようになったのは、十二歳の時からであり、その時から彼はまるで未来を見通すことが出来るようになったかのようだった、と。
彼が有する『祝福』と『呪い』は、決してそのような代物ではないはずなのに──
その一点が、彼のことをよく知る者にとって長年の大きな謎となっていた。
そして、そんな『賢帝』である彼が、ある日突然、後宮に集めた五十人の妃の中から『最愛』を決めることになる。
選ばれたのは、齢十六になる一人の少女。
──最も格の低い五十番目の妃であるソーニャであった。
それを知った人々は大いに困惑することになる。
なぜよりによって、五十番目の妃なのか、と。
基本的に歴代の皇帝は、上位十人の妃の中から、『最愛』を決めていた。
時折、二十番代や三十番代の妃を選ぶ皇帝もいたが……しかし、それでも五十番目の妃を――ほぼ平民も同然の少女を『最愛』に選んだ皇帝は史上初である。
ゆえに人々は、より一層、彼に注目することになる。
それは国内外問わずだ。
皆は心の底から期待していた。
彼は常に正しい選択を行う。
彼が間違うことなど、今まで一度も無かった。
故に、
──今度は、どんな偉業を成し遂げてくれるだろうか、と。
そして一方、『賢帝』エルクウェッドは、難儀していた。……これまた非常に難儀していた。
これほどまで気を張り詰めたのはこれが生まれて初めてだと言わんばかりに、真剣な表情で彼は身構えていたのだった。
彼は説得する。
正式な皇妃専用の部屋の中で座り込む、つい先日に自身の『最愛』と決めた少女を──
「──だからッ、危ないからその小刀をこちらに寄越せと言っているだろうがッ! 貴様が前に言っていた死は、こうしてどれも私の助力で回避出来たというのに、なのになぜ刃物を手離さない!? しかも何故抜き身!? いいか、これ以上死ぬのはこの私が許さんぞ!!」
「もちろん皇帝陛下には、助けていただき心より感謝しております!! しかし、大変申し訳ございませんが、これは今までずっと私の役に立ってきた自慢の愛刀なのです! なので、たとえ皇帝陛下のご命令であっても手放すことなど出来ません! 大切な護身用なのでございます!!」
「おい、貴様ァ! 先日にその小刀は自刃用だと言っていただろうが!! しかも、どうせそのご自慢の愛刀とやらは、貴様自身の血しか吸っていないのだろう!? なら、そんな呪われた刃物、さっさと捨ててしまえ!!」
「いいえ! 全てが無かったことになっている以上、まだ使ってはいません!! 新品も同然です!!」
「屁理屈を言うな屁理屈をッ!!」
エルクウェッドが声を荒らげて叫び、ソーニャも負けじと大声を上げる。
正直、ここ最近は、その繰り返しばかりであった。
二人は、真剣な表情で言い争う。
何しろ現状は、両者共に文字通りの死活問題であったからだ。
――片や、なんとしてでも死ぬことを止めさせたいエルクウェッド。
――片や、なんとしてでも好きな時に死にたいソーニャ。
ソーニャがエルクウェッドの『最愛』として決まった直後から、このような二人の攻防戦が何度も繰り広げられているのだった。
「ああ、くそっ! 埒があかん! ――おい、衛兵! 正皇妃が乱心した! さっさと取り押さえろ!!」
自分だけでは骨が折れると判断したエルクウェッドが、即座に廊下に待機させていた衛兵を呼びに行く。
そして、呼ばれて室内に入った衛兵たちは、ぎょっとしながらも迅速にソーニャを取り押さえ、抜き身の小刀を没収したのだった。
「そんな、殺生な! これでは舌を噛むか、手首を噛みちぎるくらいしか方法が無くなるではないですか!? お慈悲を! 皇帝陛下、どうかお慈悲をっっ!!」
「――あああアアッ!! だからッ、軽率に死ぬなと何度も言っているだろうがアアアアアアアアアアアア!!」
堪え切れなくなったと言わんばかりにエルクウェッドが、頭を抱えて床に膝を着き、悲鳴のような声を上げながらブチ切れた。
それを見て、ソーニャを取り押さえる衛兵たちは、さらにぎょっとすることになる。
――あの、常に冷静沈着であった皇帝が、恐ろしく取り乱している……!?
『賢帝』が選んだ妃だ。
絶対に、何かしらの特別があるとは予想していた。
……しかし。
何だこれは。何なのだ……。
一体、何と表現すれば良いのだろうか。度し難い……。
とにもかくにも、あの皇帝を翻弄するとは。なんという末恐ろしい少女なのだろう。
――おそらく、彼女もいずれ皇帝に並ぶ傑物になるに違いない。絶対にそうだ。
そのように、衛兵たちは、皆揃って戦慄することになるのだった。
次話からは、皇帝視点に入ります。