10 異界へ続く扉
ゆっくりと覚醒する。温かい布団に身を包まれていた。一瞬、ここがどこか分からなかったが、すぐに思い出した。
これまでの人生で味わったことのない寝心地の良いベッドの感触を味わい、惰眠を貪りそうになる。
惚けた頭で部屋を見渡す。一人部屋と思えない程に広い部屋に、ソファーやテーブル、暖炉が見える。
グレーの高品質そうなカーテンの隙間からは日差しが覗いている。
「朝か……夢じゃなかったんだな」
長い夢を見ていた。そうだったら良かったが、現実は非情だった。
若干の肌寒さと布団の柔らかさ。足元の温もり。
すべてがリアルだ。
「はぁ……」
ため息が出る。
どうしようもない現実に春人は諦めるほかない。
今日は朝から出発だとジョージから聞いていた。この心地良さから抜け出して外に出なければならない。
葛藤しながら春人は布団から出た。
億劫さと戦いながら扉を開ける。
冷んやりとした空気が肌を撫でる。思わず呻くように声を上げて体を震わす。
部屋を出て、廊下へと足を踏み出して、扉の近くの壁に寄り添うように立っている存在に気づいた。
「……あ」
思わず声が出る。そんな春人の声に気づいたのか、その人物は顔を上げる。
赤と白を基調とした若干派手な民族衣装。春人の世界では違和感しか覚えない服装だが、彼女の赤髪にはよく似合っていた。
「おはようございます」
少女は微笑みを浮かべて挨拶をしてくる。
寝起きの春人とは対照的に明るい顔だった。昨日の事を引き摺っている様子は無かった。
「おはよう」
春人はそう返事をする。若干低い陰鬱な声が出てしまったが寝起きなので仕方がない。声を整えるように咳払いをする。
「よく寝られました?」
少女ーーフレアはそんな春人を気にした様子もなくそう尋ねてくる。
「まぁ、それなりに。フレアは?」
熟睡した程ではないが、眠れなかったわけではない。
「少し緊張して寝つきは悪かったですけど、ベッドが良かったから寝てからはぐっすりと」
晴れやかな表情から眠気を残している様子は伺えない。ベッドの寝心地が良かったのは春人も同意見だ。しかし、それでも状況が状況なのだからなかなか眠れなかったのも本当だろう。これから長く過酷な旅が始まる。
「そうか。まぁ、今日から……だもんな」
自身で呟いて実感する。今日、いや、この後すぐに旅が始まる。
正直、ここに来て未だに頭が追いついていない。
ここが異世界であること。そして、炎の勇者ーーフレアと共に氷の神殿と呼ばる場所へ行き封印をすること。
ゲームの設定のような言葉の羅列に実感が湧かない。
恐怖はある。しかし、現実的な恐怖は未だに感じられない。
「はい」
春人のしみじみとした言葉にフレアの表情に影が差す。
春人よりずっとこの世界の現実を知っている彼女にとって、春人には計り知れない憂懼に襲われていることだろう。
「荷物……持っていった方がいいのかな。朝食とか出ると思う?」
彼女の気を反らすように春人はそう問いかける。
自分で言って腹具合を確認する。寝起きの所為かそこまで空腹ではない。
「わかりませんが、わたしは荷物持って行こうかなと」
フレアはそう答えた。ふと、彼女の足元近くに荷物が置かれている事に気づいた。既に出発する支度も整えているようだ。そうなると彼女はずっと早くから起きていたということになる。そして、こうして春人の扉の近くで春人が起きてくるのを待っていたのかもしれない。起こしてくれればいいのにという気持ちはあったが、春人に気を使って起こさなかったのかもしれない。
「そうだな、持って行くことにしよう」
春人はそう言って、自分の荷物を纏める為に一時部屋に戻る事にした。
荷物をまとめて支度を整えた後、フレアと共にフロントロビーへ向かう。
階段を降りて、だだっ広い赤を基調としたフロントロビーに着く。明らかに庶民の生涯年収を超えてそうな絵画が出迎える。また割ってしまったら洒落にならなそうな陶芸品が装飾として置かれていた。
ロビーには従業員以外に既にバーグやエレクトラ、ディアのの三人の姿があった。
バーグはホテルの支配人のクリフ・モリスと話をしている。クリフはあの後、フレアと春人の部屋に挨拶に来た。
エレクトラはロビーの緑色の高級ソファーに座りつまらなさそうな顔をしていた。
ディアは相変わらず他人の挙動にビクついて不審であった。
そんな三人も近くに荷物が置かれており、服装もゆったりしたものではなく、謁見の間で纏っていた服装だった。既に旅の支度は出来ているようだった。春人は荷物を持ってきて良かったと安堵する。
その主要の三人の他に支配人のクリフ・モリスを始めホテルの従業員、フレアと春人がお世話になったジョージ・モリス。宮廷の玉座で会ったバレット宰相、エドガー・アダムス卿の姿があった。
「おはようございます、フレア様、春人様」
こちらの存在に気づいたジョージが寄ってきてにこかやに挨拶をしてくる。
「おはようございます」
フレアは返事をする。春人も合わせるように挨拶を返した。
「すみません、お待たせしてしまったようで」
フレアはそう言って謝罪する。春人たちが来た時には既に皆が集まっている感じではあった。
明確な時間は言われなかったが、確かにゆっくりし過ぎたかもしれない。主に春人の寝坊の所為なので罪悪感が沸いてくる。
「いえ、とんでもございません」
ジョージは恐縮したようにそう言う。ジョージがなにか言おうとした時、
「昨日ぶりですな、勇者殿」
いつの間にか寄ってきたのかバレット宰相がすぐ近くに居た。好意的な笑みでフレアに声をかける。
「あ、はい、えっと」
フレアは唐突に声を掛けられた事に動揺した様子だったがすぐに頷くが、バレット宰相の名前をどう呼べばいいのか迷って言い淀んでいる。
「バレットでよろしいですよ」
察したバレットはそう言った。
「バレットさん」
フレアはそう名前を呼んだ。バレット宰相は名前を呼ばれ微笑みながら頷いた。
「よく寝られましたか? フレア様」
バレット宰相と共に来たであろう金髪の癖っ毛の男がそうフレアに微笑みかける。
「アダムスさん……はい、よく寝られました」
フレアはアダムスのことは覚えていたようだ。彼の名を呼んだ後、そう晴れやかな笑顔で答える。
一瞬、春人は視線を感じた。ふと、離れた場所で佇んでいたディアが目に入る。先ほどまで人と視線を合わないように俯いていたのに今は顔を上げていた。そして、こっちを観察するようにジッと見ている。春人は怪訝に思いつつ、その視線は今しがたフレアに声をかけた男に向けられているように感じた。
「それはなによりです」
アダムスはそれに気付いた様子もなくフレアに顔を向けたままだった。
「光栄です」
ジョージは嬉しそうにフレアの言葉にそう返す。フレアも微笑み返していた。
アダムスはその光景を微笑ましそうに見た後、バレット宰相に近づく。
「バレット宰相、説明は私がしましょうか?」
そう問いかけていた。
「いや、私がやろう」
しかし、バレット宰相は手を上げてアダムスの提案を断る。
「了解しました」
アダムスはすぐに引き下がり、近くにいた従業員になにやら言付ける。従業員は頷くと、バーグと話をしていた支配人の元へ行く。クリフは従業員の話をきいた後、バーグ、エレクトラ、ディアに何かを伝える。三人はこちらへやってきた。どうやら、ここに集まるようにアダムスが指示したようだ。
皆がバレット宰相の周りに集まると、
「ふむ、丁度良い時間だ。勇者、またその同行者は集まったな。では、今からこの旅の趣旨の確認、そして、旅の概要を説明したいと思う。よろしいか?」
バレット宰相はそうフレアの顔を見た後、この場に集まった四人の旅の仲間の顔を一瞥する。
視線を向けられた春人たちはそれぞれに意思を固めて頷き返した。
バレット宰相はそれを確認すると、話し始める。
「では、趣旨の方だが、昨日玉座の前でも陛下がおっしゃったようにお前たちには氷の神殿の封印をお願いしたい。過去の言い伝え、そして、それぞれの勇者の証言により、氷の神殿を封印できるのは氷の弱みである炎だけであることが分かった。氷の神殿の封印が解かれ被害が拡散する中、先代炎の勇者の死に対応が大きく遅れた。そして、炎の勇者の死後、氷結の魔女により凍てつく大地はさらに脅威を増し大地の神殿跡地を飲み込んだ。今では凍てつく大地の被害は風の神殿跡地まで及びつつあり、いつ帝国をも飲み込むかわかったものではない。絶望的な状況であった。帝国もただ手を拱いていたわけではないが対応できなかったのは事実だ。そんな時、炎の勇者が新たに選ばれたのだ」
バレット宰相はそこまで話すと、フレアの方を見つめる。
バレット宰相の視線に釣られるように皆の視線がフレアに集まった。
フレアは表情は固いものの臆することなく、バレット宰相の視線を受け止めていた。
「フレア・カナスタシア。貴女こそがその炎の勇者であり我々の希望である。どうか帝国を救ってほしい」
バレット宰相はそうフレアに懇願する。
「……はい」
フレアは一瞬葛藤して頷いた。その葛藤になにを思ったのか春人にはわからない。
フレアの頷きにバレット宰相は納得したように頷くと、
「そして、その勇者に同行を決意してくれた四人の勇敢な仲間たち。あなたがたにも大いに期待している。どうか勇者殿を支えてほしい」
春人たちを見てそう告げた。
「……はい」
バーグたちそれぞれが頭を垂れていたので慌てて春人もその真似をした。
「では、概要の方へと移ろうか。まず、氷の神殿へ向かうには、ここから風の神殿跡地へ行き、そして、大地の神殿跡地を通らなければならない」
バレット宰相はその光景を見て頷くと、概要を話し始める。
「風の神殿跡地までは、この彼が馬車を引いてくれる」
バレット宰相は集まった従業員たちの他に居た大柄の髭面の男を示す。
見た目は少し野暮ったい行商人に見えるので一瞬大丈夫だろうかと思ったが、帝国が用意した行商人なので技術は確かなのかもしれないと思い直した。
大柄の髭面男は人懐っこそうな笑顔でこちらに手をあげる。
フレアは小さくお辞儀し、エレクトラは嫌そうな顔をしていた。バーグ、ディアはあまり関心無さそうな顔だった。
「そして、風の神殿からだが、徒歩となる」
バレット宰相の言葉にバーグとエレクトラは反応する。
「徒歩ですか?」
エレクトラは戸惑いつつ問いかける。
これまで質問等はしてこなかったが、流石に思うことがあるのかエレクトラは初めて質問を投げかけた。
「不満か?」
バレットは無表情にそう返す。
「い、いえ……」
エレクトラは戸惑いつつもそう返した。内心は不満であるが、流石に宰相に対して文句は言えないのだろう。
一瞬、張り詰めたような沈黙が流れたが、それはバレット宰相の漏らす笑い声で破られた。
「ふふ、意地悪だったな。別にこちらも嫌がらせで言っているわけではない。風の神殿からは馬が通れるような道がないのだ。雪が積もりとてもじゃないが馬車を引ける状況ではない。苦しいが、徒歩で行くほかない。代わりといってはなんだが、雪道にも強く寒さにも強いケイブを一頭用意している。あまり多くても食料等の負担になるだろうからな。馬みたいに機動力はないが、荷運びには最適だ」
この街までは人が行き来していたので雪が降っていても道が出来ていたが、ここから先は道は存在しない。その為、馬車が引くことができないのだろう。
「雪道になると言ったように風の神殿跡地からはかなり凍てつく大地の影響を受けている。風の神殿跡地では雪が積もっている程度だが、先へと進むと徐々に風も強くなり吹雪になってくる。当然、寒さも増す。そして、ここからが問題だが、この先には境界線と呼ばれるものがある。境界線とは我々が凍てつく大地と呼んでいる場所との間の事だ」
凍てつく大地。何度か耳にする言葉。それがどんなものか春人には想像がつかない。皆の顔つきなどからただの吹雪が吹くような場所とは違うのかもしれない。
「凍てつく大地は氷の神殿の影響で地面が氷に覆われている。その場所は寒さが桁違いに違う。人が踏み込むことがほぼ不可能と言われている場所だ」
人が踏み入れることが不可能といえるくらいの寒さ。元の世界で映画などで見たことあるが一瞬に氷結化するような場所なのだろうか。だとしたら一つの疑問が湧いてくる。フレアもそれに気づいたのか困惑したように春人の方を見てくる。
どうやって春人たちは凍てつく大地へと踏み入るというのか。
当然、バレット宰相もその疑問について答えを用意しているのか続きを話し出した。
「そんな場所へ行く方法がたった一つだけある。それは精霊だ。精霊の力によって通常なら凍えて死んでしまう場所も通ることができる。精霊によって加護を施してもらうことで極寒の地も進むことができるようになる」
春人は納得する。精霊というものがどんなものなのか分からないが、サブカル知識からしてそういう不思議な存在がいるということは受け入れることが出来た。
バレット宰相の視線がディアの方へと向いた。自然と皆の視線も釣られていく。
「もうわかっただろうが、凍てつく大地へ踏み込むには彼女の力が必要となる。最上位炎の精霊であるサラマンダーを扱える彼女の」
精霊術師と呼ばれる彼女の力が必要となるということだ。
皆の視線がディアに集まり、ディアはそれに恐縮した様子だった。そのビクビクした姿に春人は若干の同情を覚える。
「更に凍てつく大地を進むと大地の神殿跡地に着く」
話を続けるバレット宰相。皆の視線がまたバレット宰相に戻り、ディアが安堵しているのが見えた。
大地の神殿跡地という単語が出た時、反応を示す人物が居た。バーグだ。
「大地の神殿跡地付近には魔物がいるという噂もある。その時は彼らの力が必要となるだろう」
バレット宰相はそうエレクトラとバーグに視線を向けた。
「そして、大地の神殿の先、そこが氷の神殿になる」
誰かが息を呑む。
氷の神殿。この旅の最終目的地。フレアは緊張した面持ちをしていた。エレクトラ、バーグも真剣な顔をしている。
「神殿には氷結の魔女がいる。魔女はルド国を支配し神殿の異界へ続く扉を使って凍てつく大地を創り上げこの世界を支配しようとしている」
春人は耳を疑った。バレット宰相は今なんと言ったのか。
神殿の異界へと続く扉と言ってなかったか。いや、確かに異界という単語を放った。
春人はバレット宰相に釘付けになり、動揺する。
「それを阻止するために、異界へ続く扉を封印してもらう。炎の勇者殿、あなたに」
バレット宰相はフレアを見つめた。フレアはその視線を真っ向から受け止めていた。
バレット宰相の言葉にフレアは静まり返っていた。
しかし、春人に余裕は無かった。確かに再度バレット宰相は口にした。異界という言葉を。
この旅の先にあるというのか。異界へと続く扉が。
春人は焦点が合わない目を床に落とした。心臓が激しく鼓動しているのがわかる。
戻れる。もしかしたら戻れるかもしれない。元の世界に。
ずっと探していた。ただ流されるままにここまできたが、春人は諦めず探していたのだ。
帝都に来て、もしかしたら空港があるのではないかと期待をしていた。日本や地球のことを誰か知っているのではないかとどこかで期待していたのだ。しかし、現実は非情だった。春人が求めるものは欠片も存在はしなかった。
だから、目が覚めた時、春人は絶望していた。自分の部屋のベッドの上でないことに。夢ではなく現実だったことに。
自分は元の世界へと戻ることが出来ないのでは無いかと諦めていた。
しかし、可能性が出てきた。異界という言葉。ここではない世界。それは希望だった。春人の居た世界へ繋がっているのでは無いか。地球に、日本に戻れるのではないか。