シミュレーション・アイデンティティ
幼少期に初めて口にしたパンプキンパイのように、湘南のサンセットは香ばしく染まっていた。
海がつくる引き潮の中から取り出され、忘れ去られたように設けられたビーチパラソルと砂浜。
潮風で錆び付いたステンレステーブルとポケットラジオ。
安物のラジオスピーカーからはFMヨコハマのDJが達者なトークを寂しげに連ねていた。
傘下の僕はといえば、村上春樹の『ノルウェイの森』をまるでひけらかすようにして開き、文庫本の2ミリする文字を捉え、目で追っていた。
オレンジの海を前にして読書をすると、どのシーンを読み進めていても退屈なほど神秘的になってしまうのは、僕がこの場所を相当気に入っているからだ。
幼い少女がどこへ行くにも同じ顔のフェイバリットドールを連れ回すように、僕もこのサンセットビーチを遥かな『ノルウェイの森』に引きずり込んでいた。
念の為に補足するが、題名の『ノルウェイの森』は曲名であり物語の舞台ではないので、サンセットビーチがそこまで作品の景観を傷つけるようなことはない。
ちなみに、言ってしまうと僕はパンプキンパイが嫌いだ。
初めて口にしたあの日を境にして、僕はパンプキンパイを食物としてみていない。
僕はそんな、夏の最後の日の、夕焼けに焼かれたい。