恥じらいの紅い顔
第一章 健常人。細井満智夫
1 血圧という名の圧力
私は健常人の細井満智夫の血管の中にいた。健常人というのは医学用語だそうだが、要するに病気にかかっておらず健康な人の代表という意味だ。その健康な人の血管の中に私はいる。周囲には私以外にも赤血球、白血球、血小板といった細胞たちやアルブミン、グロブリンなどの蛋白質、ブドウ糖、アミノ酸、ビタミンなどの栄養分が血液の流れに身を任せて下流へと動いていた。その他にも酸素や二酸化炭素といった体の外にいれば気体になるものや、ナトリウム、カルシウム、カリウムなどプラスの電気を帯びた無機物や塩素や重炭酸といったマイナスの電気を帯びた無機物も溶け込んでいた。そして血液の主な成分は水だ。水に色々なものが浮遊したり溶け込んでいたりして血液となり体中を巡っている。とりわけ数の多い赤い色をした赤血球があるため血液の色は赤く染まっている。
血液の中には油分も含まれている。水と油は混じり合わないというのは一般常識だ。ところが血液の中では水と油が何故か混じり合っている。血液の中に浮遊している蛋白質のいくつかは特殊な構造をしていて油にくっつきやすい部分と水にくっつきやすい部分がある。水にくっつきやすい部分を蛋白質の外側に出しながら蛋白質の油にくっつきやすい部分が油分を取り込んで、油分を蛋白質で包み込んだ小さな粒にする。それが油が水に溶け込んでしまったような形になる理由だ。このような油と蛋白質の合体したものをリポ蛋白質と呼んでいる。
ともかく血液の中にはいろいろな物質が所せましと集まり、心臓の収縮に合わせて上流から下流へと流され再び心臓へと戻ってくる。その旅路の途中で、ある物質は途中の臓器や組織に取り込まれて人間が生きていくためのエネルギーとなり、ある物質は老廃物として血液の中に放り出され腎臓からは尿にまぎれて、もしくは肝臓からは胆汁にまぎれ込み大便となって体の外へ排泄されていくのである。
心臓というポンプの働きで押し出される血液の通り道が血管だ。心臓の動きに合わせて血液は一日中血管を拡げたり狭めたりする。血液が血管を外側に押し拡げる力を「血圧」という。血管内の水圧と考えればよいので、血液の水分量が多いほど血圧は高くなる。つまり心臓のポンプの力が強く、そして血液量が多いほど血圧は高くなる。
一方、血管は弾力性を持っているので血液を押し戻そうとする力が働く。「血管の抵抗力」と言ってよいだろう。さらに血液の中には「アルブミン」という蛋白質がたくさんある。この蛋白質は血管の外へ移動することができない。アルブミンが血液の中にたくさんあると濃くなったアルブミンを薄めようとして血管の外側にある水分が血管の中に入ってくる。このアルブミンのために起こる血管の中への力を「浸透圧」と呼んでいる。結局、血管を内側へ押し戻そうとする力は「血管の抵抗力」とアルブミンの「浸透圧」を足し合わせたものになる。血管の外への力と内への力は釣り合った状態になっているので簡単な式で現わすと「血圧」=「血管の抵抗力」+「アルブミンによる浸透圧力」の状態になっている。
2 心臓は一日に十万回も動く
血液は一定の間隔で早く動いたり、遅く動いたりしている。今、私は大静脈という血管にいるのだが、静脈にいると血液の流れに乗ってそのまま血液のポンプ役の心臓に到着する。心臓は四つの部屋に分かれている。自分からみて右上にあるのが「右心房」、その下にあるのが「右心室」、左上にあるのが「左心房」、その下にあるのが「左心室」だ。まず静脈から入るのは右心房だ。心臓は絶えず収縮と拡張を繰り返している。右心房が収縮している時は、血液が静脈から右心房へ入って行けない。私は右心房が拡張するのを待った。すぐに右心房は拡張して、私は吸い込まれるままに右心房の中に入った。この時はすぐ下にある右心室は収縮している。私のいる部屋が次第に狭まってきた。すると直ぐ下にある「三尖弁」という入口が開き、右心室へと強制的に移動させられた。右心室は拡がっていた。やがて右心室が狭まり始めると三尖弁が閉じて、先にあった「肺動脈弁」という入口が開き始めた。右心室が収縮すると私は血液にのって肺動脈弁の先にある肺動脈を通り肺の中へと移動した。
肺の中には鼻へとつながる気管支という空気の通り道があり、気管支の先端には「肺胞」という小さな袋がある。その袋の周りには細い血管がまとわりついている。心臓からでた肺動脈はこの肺胞の周りの細い血管につながっている。私は肺胞の傍にいて血液の様子を見守った。血液の中には赤血球という血球がある。赤血球の中には鉄を含んだヘモグロビンという蛋白質がある。肺胞の中には酸素が待機しており、その酸素がヘモグロビンの鉄の部分にぴょんと飛び移るのが見えた。その代わりに血液の中や赤血球の中に溶け込んでいた二酸化炭素が肺胞の中へと飛び出していくのも見えた。
肺胞では外にある新鮮な空気から酸素を体内に取り込み、体の中で発生した不要な二酸化炭素を吐き出すという「呼吸」をしているのだと理解できた。これも心臓の役割の一つと言えるだろう。
私は酸素と二酸化炭素の交換風景を見ながらさらに先を急ぐことにした。肺胞を過ぎると血管の名前は肺静脈に変り左心房につながる。私は左心房の拡張に伴ってその中へと吸い込まれた。次に左心房が収縮すると目の前にあった「僧房弁」という扉が開き、左心室へと移動する。そして左心室が収縮すると共に僧房弁は閉じ、前にある「大動脈弁」が開いて、私は一気に大動脈へと流された。
左心室の収縮は強烈である。何故なら全身へ血液を送り出さねばならないからだ。一回の収縮で約七十CCの血液が出て行く。収縮の回数は一分間におよそ六十から七十回だから心臓から出て行く血液量は一分間で四から五リットルになる。これを一日になおすと約十万回の収縮回数になり、心臓からでていく血液の量は一日で実に約七トンに及ぶ。人の握りこぶし程度の大きさの心臓だが、体のどの臓器よりも働き者なのである。変な話だがこの心臓の持ち主である細井満智夫よりも働き者と言ってよいだろう。
さて、心臓から出ていく血液の量は左心室が収縮した時に最も多くなり、血管に対する圧力も最大となる。この時の血圧を「収縮期血圧」と呼んでいる。よく「上の血圧」と呼んでいるものだ。また左心室が拡張して大動脈への血液の流れが止まる時は血管に対する圧力は最小になる。この時の血圧を「拡張期血圧」と呼び、「下の血圧」とも呼んでいる。
3 水銀が登る柱
健康な人の標準的な血圧とはどれくらいだろうか? 私は細井満智夫の腕の動脈の血管へと移動した。ちょうど、彼が血圧を測ってもらおうとしているところだった。今日は彼の勤務する会社の健康診断で、指定された病院を訪れていた。若い女性看護師を相手に軽口を言いながら左腕を差し出した。看護師の名前は私も知っていた。北由希という二十三歳のかわいいお嬢さんだ。この病院では人気ナンバーワンの看護師でもあった。
北由希嬢は水銀柱に管がつながったカフと呼ばれる布製の帯を細井満智夫の左上腕部に巻いた。そして聴診器の先をカフの中に滑り込ませた。この血圧計は電子血圧計が主流となった今では古風なタイプだ。布製の帯は空気を注入できるようになっている。彼女は一気にカフの中に空気を送り始めた。腕は次第に締め付けられて、私がいる動脈の先は圧迫されて閉じてしまい血液の流れも完全に止まった。周辺に静寂が訪れる。
すぐに北由希嬢はカフの空気を抜き始める。そして心臓の拍動に合わせて血液が徐々に流れ始めると共にトクッ、トクッと音が聞こえ始める。北由希嬢は聴診器でその音を聞き逃さない。その時の水銀柱の目盛を読み取る。さらにカフから空気が抜けていく。私は動脈が元の直径に戻るのを見た。動脈がカフからの圧迫から解放される瞬間だ。北由希嬢は聴診器からの音が消えたのを確認し、その時の水銀柱の目盛を読み取った。
「細井さん。上が一二四で、下が七六ね。ばっちりよ」明るい北由希嬢の声が血管の中にいる私の耳にも聞こえてきた。
「そりゃ良かった。ところで高血圧ってのはどこが境になるのかね」
「上が一四〇を超えるか、下が九〇を超えると高血圧になるわ。どちらかが低くても、もう片方が高ければ高血圧になるの」北由希嬢は血圧計をしまいながら答えた。
血圧の単位はmmHgと書く。「上が一二四」と北由希嬢が話していたが、正式には一二四mmHgだ。Hgとは水銀という液体金属の原子記号である。英語で水銀をマーキュリーと読む。だからmmHgは「ミリメートルマーキュリー」とか単に「ミリマーキュリー」とも呼ばれる。
血の圧力を水銀を何mm上昇させるかで現わしたものになり、高血圧とは上の血圧が液体水銀を一四〇ミリメートル以上上昇させる血の圧力という意味になる。
4 血液の流れる道、それは血管
私は腕の動脈の中を流れる血液に身を任せて、更に下流へと移動した。動脈は腕の先端に行くに従い細くなっていく。心臓を出た直後の直径が大きな太い動脈が大動脈、さらに中動脈と言われる血管に枝分かれする。最初、上が一二〇、下が八〇程度あった血圧も心臓から遠ざかるにしたがって減ってくる。更に枝分かれして細動脈に入ると一気に下がり、上下の血圧の差も無くなってくる。さらに枝分かれして毛細血管と呼ばれるくらいに細くなると血圧が一〇を切る位になり、周囲の細胞に酸素や栄養分を供給していく。代わりに細胞で作られた二酸化炭素や老廃物など体に不要なものが血液の中に戻される。老廃物を受け取った血液は静脈と呼ばれる血管に乗り換える。私も血液の流れに身をまかせ静脈の中を浮遊する。体のいろいろな場所から集まってくる静脈が合わさり次第に静脈も太くなる。
さて静脈に身を移すと心臓の血液を押し出すポンプの勢いが失われていることが実感できる。血圧はゼロに近くになり血液の流れが極端に遅くなる。だから静脈では血液はどうしても溜まり気味となり、血液の量は動脈内の四倍近くにもなり、ともすれば逆流しそうになる。しかし、静脈には押し戻し防止のための弁が付いている。血液が押し戻されようとすると弁が閉じて逆流を防いでくれる。
加えて血管は平滑筋という筋肉でできている。その筋肉が脳から延びる神経の命令を受けてうまい具合に収縮しては下流へと血液を押し出してくれている。また血管の周辺にある運動に利用される骨格筋も血管の収縮を後押ししてくれる。私は血管の中にいて血管の壁に触れてみた。意外と弾力性のある壁だ。血液が増えて壁に圧力が余計にかかっても壁が少しは外へ拡がって圧力を散らしてくれそうだった。
静脈内を流れる血液の速度は緩やかだが、やがて大きな大静脈に入ると心臓への引き込みの力も働き心臓の右心房へと移動していく。今回は腕の血管にいたが、足の血管にいたらどうだったろうか。足の先端から心臓までは結構な距離がある。ましてや立っている状態だと重力にも逆らいながら心臓へと登って行かねばならない。大変な重労働だ。血管がうまく収縮してくれないと血液が足の方にたまり気味になってしまう。血管の中の水分が多過ぎると血管の外へと漏れ出して足のむくみという症状を引き起こす。人間にとって足のむくみは成りやすい生理現象の一つと言っても良いかもしれない。
5 おしっこが流れる道、それは尿細管
健康な細井満智夫の体の中にいても面白くないので私は体の外に出ることにした。体の中から外に出るにはいくつかの方法があるが、主要なルートは腎臓に行って尿として外へ出るルートと肝臓へ行き、そこで作られる胆汁の中に潜り込み十二指腸へと放出されてから小腸、大腸へと移動して大便として外へ出るルートがある。その他のルートとしては肺へ移動して吐く息の中に混じって外へ出るルート、皮膚の表面に行き汗に混じって外へ出るルートなどのマイナールートもある。
今回はオーソドックスなルートである腎臓ルートを選んだ。腎臓へは心臓から動脈の中を伝わって行く。腎臓に入ると「輸入細動脈」という血管が「糸球体」という小部屋につながっている。糸球体の中に入ると前方に出口の穴が見えている。そこからは「輸出細動脈」という名前の血管になる。この糸球体という名の小部屋の床には網目状のものが張ってある。網目よりも大きいものは血液の流れに従って出口に向かい、網目よりも小さいものは下に落ちていく仕組みになっている。人体のろ過装置とか茶こし器といって良いだろう。
糸球体の入口の穴は少し大きめに、出口の穴は少し小さめに調整されているので、この小部屋には少し圧力がかかっている。この圧力も効率良く茶こし効果を発揮させてくれる。
赤血球や白血球などの血球や血液の中を流れるアルブミンといった蛋白質などはサイズが大きいので落ちて行かず、ナトリウム、カリウム、ブドウ糖、尿酸、尿素などサイズの小さなものが落ちていく。落ちた先にあるのが「尿細管」だ。この管を流れる液体が「尿」になる。尿細管の先には膀胱があり、さらに膀胱から先にトイレの便器があるという具合だ。
糸球体は血液から尿を取り出す装置ともいえる。血液の赤さは赤血球の色だ。赤血球は糸球体でろ過されないから尿細管を流れる尿は赤くない。薄い黄色みを帯びた色になる。
尿細管の構造はそう単純ではない。私は他の物質や大量の水と共に糸球体の網目から尿細管へと落ちていった。最初は「近位尿細管」と呼ばれる部分になる。ここにはブドウ糖とナトリウム専用の通路が開いている。行先は血管だ。つまり糸球体でろ過されたブドウ糖とナトリウムはここで血液に再び戻されてしまうのだ。これを「再吸収」と呼んでいる。また一緒に落ちてきた大量の水も六割から七割が近位尿細管で再吸収される。水にも専用の通路が用意されている。それはアクアポリンと呼ばれている。水専用の通路という意味だ。水は尿細管の要所要所で再吸収される。最初に糸球体からろ過される水の量は一日に一五〇リットルにもなる。これを原尿と呼んでいる。二リットルペットボトルで実に七十五本分にもなる尿を私たち人間はトイレで出していることになるが、もちろんそんなことはない。途中で九十九%もの水が再吸収されて、最終的に一.五リットル程度の尿を出しているのだ。
私は多くのブドウ糖たちや水分と近位尿細管で別れ、四割ほど残ったナトリウムたちや水分と共に先へと急いだ。近位尿細管から先へ行くと「ヘンレのループ」と呼ばれる場所がある。ループという以上、尿細管がUターンするような形をしている。まず下向き方向部分が現われそれを「下行脚」と呼んでいる。そこには再びアクアポリンが現われて、残された水のいくらかが再吸収されていく。私は周囲が何とも塩辛くなっているのに気が付いた。塩分を含む原尿のうち水分だけが抜き取られれば、塩辛くなるのも当然だ。
そして、ヘアピンカーブを曲がるようにしながら上向きに転じると「上行脚」と呼ばれる部分に着いた。上行脚部分には新たな装置が設置されていた。「ナトリウム・カリウム・クロル共輸送体」と呼ばれるものだ。それは原尿に含まれる残りのナトリウムやカリウムといったプラスの電気を帯びたもの以外にも別名塩素とも呼ばれるマイナスの電気を帯びたクロルも同時に尿細管側から血液側へと移動させるための装置になる。これはナトリウムの強力な再吸収装置と言ってもよい。
塩辛かったとは言え、別れは寂しいものである。ここで多くのナトリウムたちとも別れ、まだ残った他のナトリウムたちと一緒にさらに先に向かった。やがて尿細管は糸球体に接するところまで後戻りしてくる。その付近の尿細管内部には「マクラデンサ」と呼ばれる装置が組み込まれている。これは尿細管を流れるクロルの監視装置だとされている。クロルが少ないとマクラデンサが反応して尿細管の中にナトリウムを増やす方向に働く。先ほどの共輸送体ではナトリウムとクロルが共に再吸収されていた。つまりクロルの尿細管内での減少はナトリウムの尿細管での減少と同じ意味になる。マクラデンサが監視しているのはクロルだがナトリウムも同時に監視しているのに等しい。マクラデンサはこの後の話でも出てくるだろう。
私はマクラデンサを横目で見ながら通り過ぎ、次の尿細管部分である「遠位尿細管」部分に到達した。ここでは「ナトリウム・クロル共輸送体」が尿細管部分に埋め込まれている。先ほどのループの上行脚と同じような働きをするが、ここではナトリウムとクロルが同時に尿細管側から血管側へと再吸収されていく。ここでも私はナトリウムとお別れをすることになった。私の周囲からはナトリウムたちが、どんどんいなくなっていく。
尿細管をさらに進むと腎臓内に無数にある糸球体からくる尿細管が集合し始めた。集合して太くなった管を「集合管」と呼んで、再吸収された後の尿が集められる。そこにもアクアポリンが埋め込まれていて水の再吸収が進む。なんだか人間の体は徹底的に水を再利用するようだ。
集合管の壁をよく見ると二つの特徴的な穴が開いていた。一つは近くにいたナトリウムが吸い込まれていく穴だ。どうもナトリウム専用の穴のようで、他の者たちは決して入って行こうとはしなかった。私の周りからはまたナトリウムが減っていく。糸球体を出発したばかりの時にはナトリウムが百人いたとすると今私の周りにはたった一人しかいない計算になる。人間にとってナトリウムは水と共にいかに大切なものなのかが分かる。
もう一つの穴は内側から何者かがポコポコと尿細管側に出てくる穴だった。彼らはその姿からカリウムだと知れた。ナトリウムが再吸収される代わりにカリウムが血管側から尿へと出て行くようなのだ。旅は道連れとばかり、私は新たに出現した連れと共にさらに集合管を下った。
ここまでの旅の風景は血圧に関係していたので詳しく描写してみたが、その後の話は血圧に関係しないので簡単にしておく。集合管もさらに集合して一つの管となって膀胱に達する。腎臓は体に二個あるので、二つの管が膀胱へと達する。膀胱に一時的に蓄えられた尿は、糸井氏の排泄行為によって便器へと放出され、私は晴れて体外の世界へと戻ることができたのであった。
第二章 塩辛好きの塩田丸男
1 塩分、それは塩化ナトリウム
塩田丸男はイカの塩辛が大好きで、日本酒のアテとして必ず食べている。またご飯のお供にも欠かせない。白菜や大根の漬物も好きで、かつお節をふりかけて醤油をかけ回して食べるのが好きだ。
日本人の一日あたりの塩分摂取量は平均十グラム程度と言われているが、塩田丸男の場合は日によっては二十グラムに達しているかもしれない。一般に塩分とは食塩のことで正式名称は塩化ナトリウムである。つまりナトリウムとクロルが一対一で混じり合ったものだ。塩分のとり過ぎは水の補給を体が欲する。食事でも水分を補おうとしてついつい食事の量も多くなりがちになる。身長一七〇センチメートル、体重九十三キログラムは明らかに肥満体であった。
五月の心地よい風の吹く晴れた日だった。私は久しぶりに散歩のために近くの公園に出向いた。緑の若葉が眼に心地良い。その時、公園のベンチに巨漢で息をぜいぜいと言わせながら座っている男が眼に止まった。もしやと思って近づくと塩田丸男だった。
「久しぶり」私は軽く声をかけた。
塩田丸男はまぶしそうに顔を上げた。額からは汗が噴き出し、顔中に汗粒があり、Tシャツは汗で全体が汗で黒くにじんでいた。
「あんたか。久しぶりやね」息するのも辛そうに答える。
「大丈夫か、随分と辛そうだが」
「健康診断で血圧が高いと言われてね。すぐ医者に行けとも言われたが、自分でなんとかならんかと運動を始めたんやけど、ちょっと歩いただけでこの有り様や」
「一体、血圧はどれくらいだった?」
「上が一九八で、下が一二五だったかな」と塩田丸男は他人事のように答えた。
「それは、あんた、危険領域だよ。直ぐに血圧下げる薬を飲まないといけないレベルだ。運動なんてしたら脳出血を起こしかねないよ。直ぐに医者へ行くべきだよ」私は知る限りの知識を披露して彼に忠告した。
「まじでっか?あんたまでそう言うんやったら行くか」塩田丸男は急に不安そうな顔になって私を見つめた。
二 塩分と高血圧は好きもの同士
翌日、私は塩田丸男の上腕動脈の血管の中で待機していた。細井満智夫の時もそうだったが私には人の体の中に入り込める特技がある。今いるところは中動脈と言われる部分で、ここで血圧が測定される。腕の皮膚や筋肉を通して、私の馴染みのナース北由希嬢の明るい声が聞こえてきた。
「健診結果のとおりだわ。本当かどうかもう一回測るわね」どうやら血圧は高そうだ。
「きっと看護婦さんが別嬪さんやから血圧が上がったんやわ」塩田丸男の楽しそうな声も聞こえるが、どことなく緊張感の漂う声だ。
「う~ん、上が二〇三で、下が一二二ね。塩田さん、今、つらくないですか?」北由希は血圧計をしまいながら質問しているようだった。
「のぼせている感じはあるかな、それに後頭部も言われてみれば痛い気がするわ」
「そうね、顔は紅いわね。少し、そこの中待合室でお待ちくださいね。間もなく先生の診察になりますから」そう言って北由希は他の患者の相手をするために席を立ったようだ。
私は前日の塩田丸男の顔を思い浮かべていた。三重あごの上に乗ったふくよかな顔の頬は必要以上に紅かった。恥じらいの紅い顔というには壮年のおじさん過ぎるが、まさにそのような容貌をしている。しかし紅い顔をしているから高血圧とは限らない。肥満になったがために体のいろいろな部位に血液が行き届かなくなり、体が懸命に血液を各所に送り込もうとして血管が拡がるために、顔が紅くなっているに過ぎない。
迅速採血検査の結果も出て医師による診察が始まった。「体重を標準体重まで減らしましょう」、「そのために食事のカロリー制限をしましょう」、「特に塩分を一日十グラム以下になるようにしましょう」、「ある程度体重が下がるまで無理な運動は止めてください」・・・・そして、彼にとっては衝撃的な言葉が出る。「とにかく、二種類の血圧の薬を出しておきますから、毎日欠かさず飲んでください」
『いきなり薬かよ』という塩田丸男の心の声が私には聞こえてきた。『それは、昨日おれも言ったじゃないか』と私も彼の血管の中で叫んでいた。しかし最初から二種類の薬を出すというのはあまり聞いたことが無い。
塩田丸男の血液の中には塩分、正確にいうとプラスの電気を帯びたナトリウムとマイナスの電気を帯びたクロルの混合物だが、それらが確かに多く存在していた。人の体の中にはいろいろなシステムがあり、いろいろな物質がそのバランスを保っている。血液の中で特にナトリウムの量が増えてくると、それを薄めようとして血管の外にある水分を血管の中に取りこもうとする。その結果、血管の中の水分量が増えてしまい、周辺の血管の壁を押し広げる。この押し広げる力を血圧と言ったが、ナトリウム分を余計に取った分だけ血圧が上がってしまうのだ。
塩分の取り過ぎを止めるだけでも彼の血圧はある程度まで下がるはずだ。ちなみに一日一グラムの減塩で上の血圧が一mmHg下がるとも言われている。
「今日は薬をもらったら、食事に関係なく直ぐに飲んでください。明日からは朝食後に飲むようにしてください。ともかく直ぐに血圧を下げる必要があります。とりあえず最初なので一週間後にまた来てください」これは最後の医師からの言葉だった。
塩田丸男は病院の受付で処方箋を受け取った。「どこか希望される薬局はありますか?」病院の事務職員のマニュアル通りの声が聞こえてくる。自宅近くに薬を受け取れる薬局があることを知り、塩田丸男は予めその薬局に処方箋をファクスすることに同意して病院を出た。
『昼めしはラーメンにするか』塩田丸男の心の声が聞こえてきた。『野菜たっぷりであっさり系のラーメンにしてスープは飲むなよ』私は血管の中で叫んでいた。
塩田丸男は自宅近くにある薬局の薬剤師、安達丸幸三からこってりと高血圧に関する話を聞かされていた。かれこれ十五分になる。ここは安達丸氏と事務を担当する奥さんの二人で薬局を切り盛りしている個人経営の小さな薬局である。やっと薬の具体的な話に移ったようであった。よほどヒマな薬局なのだろうか。
「こちらの薬は、うん、血管を拡げて血液の通りを良くしてやることで血圧を下げる薬なんだな、うん」安達丸幸三は癖なのか言葉の合間に「うん」を入れてくる。自分で確認をしないと不安なせいかもしれないが、単なる癖なら止めた方がよい。なんだか聞きづらい。
「こっちはまた別の薬、うん、塩田さんはさっきも言ったように塩分の取り過ぎで血液の中の水分量が多くなっているから、それをおしっこにして余分な分を出すための薬、うん、僕たちの業界では利尿薬って呼んでるよ。この二つの薬を一緒に飲むとね、うん、すごく効果的なんだな」
結局何の薬が出たかと言うと血管を拡げるという説明があったアムロジピンという薬と利尿薬という説明があったインダパミドという薬だ。
「医者から直ぐに飲めと言われているから、悪いけど水くれない?」一通りの説明を聞いた後で、塩田丸男は奥さんの安達丸玲子に向って言った。
三 血管拡げるアムロジピン参上
やがて二種類の薬が血液の中に入ってきた。私はまずアムロジピンについて行くことにした。血液の中に入ってきた薬はほとんどと言ってよいほどアルブミンという蛋白質にくっついてしまう。アルブミンというのは肝臓と言う臓器で作られる蛋白質で血液の中にある蛋白質の多くを占めている。その大きさはアムロジピンの約一六〇倍にもなる。アルブミンは血管の中では浸透圧という圧力に関わっているが、薬を乗せて体中を巡回するバスとしての働きもある。血液の中に入ってきたアムロジピンの九十七%がアルブミンに乗車するので、残りわずか三%程度が単独で血液の流れに任せて漂うのだ。この乗車率は薬によって違っていて、薬と薬の座席取り争いの原因にもなっているがこの話は後に譲る。
一旦アルブミンに乗ったアムロジピンもそこから降りたり、再度乗車したりを繰り返しているのだが、薬の効き目はアルブミンから降りてアムロジピン単独で目的の場所に到達した時に発揮される。従ってアルブミンに乗車している限りアムロジピンの能力は発揮されない。
私はアムロジピンたちと一緒に次第に細くなる血管へと移動した。血管は平滑筋という筋肉細胞で出来ている。この細胞が全体的に縮まると血管の直径も狭まり、血液の血管に対する圧力が上がり血圧は高くなる。逆に細胞が縮まりから解放され血管が拡がると血管は血液の圧力を受け流せるようになり、血圧が下がる。この血管の細胞の縮まり具合は、ここから遠い場所にある脳の指令による。脳からの指令は交感神経という通路を通ってやってくる。私はいったん血管のすき間をかいくぐって血管の外に出てみた。出た先を見ると目の前には大きな浮遊体があった。浮遊体の後ろには細い管が延々と後方へと続いているのが見えた。この管は遠く脳へ続いているという。浮遊体の表面からは時折りお揃いの作業服を着た小さな作業員たちがばらばらと放出されていた。彼らの大きさはアムロジピンと大差はない。私の目の前に放出された作業員たちは血管の細胞の外側にある作業場のような所へと向かっていた。
その作業場の中央にはアルファ1と書かれていた。作業場へ向かう彼らの名前はノルアドレナリンと呼ばれている。ノルアドレナリンたちがアルファ1作業場に到着すると作業場の構造が少し変化したので、私は血管の細胞の内部に入って様子を見ることにした。作業場の真下にあたる部分には複雑な構造物があり、何人もの伝令係が忙しく働いていた。彼らの動きを追うのは大変だ。私は一人の男性の伝令係を追ってみた。
彼は近くにあるL型Caと書かれたゲートに近づいた。そしてゲートの傍にあるレバーに手をかけると重そうなゲートだったが直ぐに開いた。ゲートのすぐ外側には血液が流れていた。血液の中には色々なものたちが流れているが、その中でカルシウムという無機物質だけがそのゲートから流れ込んでくる。するとカルシウムは細胞の中にある比較的大きな建物へと近づいて行った。そこにはカルシウム専用の作業場がありカルシウムがそこに到着すると、その建物の別の場所の扉が開き、中で待機していた大量のカルシウムが細胞内に飛び出していった。
その建物は筋小胞体と呼ばれておりカルシウムの貯蔵庫になっているようだった。筋小胞体から出てきたカルシウムは複雑な行動をした後、アクチンやミオシンという二種類の蛋白質が引き合って血管の直径が狭まった。
私は開いたCaゲートを仰ぎ見た。すると先ほどまで一緒に行動をしていたアムロジピンが開いたゲートから血管細胞の中にいる私を覗いていた。何やら私を手招きしているようだ。私は彼のもとに向かい血液に戻った。血液側からCaゲートを見ると、傍らに別のタイプの作業場があった。DHPという記号が記載されているその作業場は実はアムロジピンが着地できる場所であった。彼は私がCaゲートの外に出たのを確認してから自分専用の作業場に着地した。するとなんとCaゲートが徐々に閉鎖しはじめたのである。それまではカルシウムが細胞の中に次々と入っていたが入れなくなったため他の目的地を探し求めて血液の下流に向かって漂流し始めた。
Caゲートが閉じてしまうと内部での作業が滞るため、血管細胞は緩んで血管の直径が拡がり血圧は下がり始める。これがアムロジピンという薬の血圧を下げる仕組みだ。彼はカルシウムの働きを抑えて血管を拡げて血圧を下げる薬だというので、業界用語で「カルシウム拮抗薬」と呼ばれている。またアムロジピンと同じ作用をする一連の薬たちを「ジヒドロピリジン系」の薬と呼び、DHPとはその略号になる。
カルシウム専用のゲートはカルシウムチャネルと呼ばれるが、このチャネルにもいくつか種類があって、ここにあるタイプはL型カルシウムチャネルと呼ばれている。
塩田丸男ののぼせ顔もこの薬で血圧が下がって治まるかもしれない。一方で、この薬で頬の血管が拡がると赤い色の血液が流れやすくなって薬の副作用として頬を紅色に染めるかもしれない。
満足げな顔をしたアムロジピンは専用の作業場を離れ、近くを流れていた巨大なアルブミンに用意された座席の一つに乗り、そのまま血液の下流にむかって漂流していった。
アムロジピンのこれから先の運命はどうなるのだろうか?私は次から次へと漂流してくるアムロジピンに徹底的に付き合うことにした。
四 薬は異物、体の外に出させる薬物代謝酵素
血液の流れに身を任せ、体内をぐるりと一周すると結局心臓に戻る。そして肝臓につながる動脈に入り、私はアムロジピンたちと一緒に肝臓という体内で一番大きな臓器に入った。心臓から出ている動脈は体のすべての場所につながっているので私は自由に目的地に行けるのである。
肝臓の細胞の中に入ってこられるアムロジピンはアルブミンというバスから下りたわずかな人数だけだ。そのアムロジピンは肝臓の細胞の中で、再び自分の体より一〇〇倍大きな巨大な船と遭遇することになる。その巨大船は薬物代謝酵素と呼ばれる蛋白質だ。CYP3A4という記号が船体の側面に印字されている。それをシップスリーエーフォーと呼ぶ。その記号以外の船もあるのだが数は少ない。しかしアムロジピンにとってCYP3A4は天敵だ。実は血圧を下げるという能力をはく奪されてしまうのだ。CYP3A4はアムロジピンに作業用のアームを伸ばしてアムロジピンの体の一部をいじくる。そして水酸基やカルボキシル基とよばれる部品をアムロジピンに結合させる。手や足に手かきや足かきを取り付けられたイメージで良いだろう。そういう作業工程を「薬物代謝」と呼んでいる。薬物代謝にはアムロジピンにしたように薬の効き目を失ってしまう場合もあるが、逆に薬としての効果が無かったものが代謝によって薬の効き目が出てくる場合もある。このような薬を「プロドラッグ」と呼んでいる。
私は代謝をうけたアムロジピンと共に肝臓細胞を出て血液中に出た。手かきや足かきを取り付けられたアムロジピンは血液の中をスムーズに泳げるようになっていた。水分に随分と馴染んでしまい近くにあるアルブミン・バスには乗車したがらなかった。私は彼らと共に血液の流れにのって腎臓へと向かった。先にも紹介したが腎臓の中には糸球体という小部屋がある。そこには網目状の床があり小さな物質はそこから落ちていき尿に混じって体の外へ出ていくのだった。代謝を受けていない段階のアムロジピンはアルブミンバスへの乗車率が高い。またアルブミンの車体は大きいため網目を通り抜けにくい。したがって代謝を受けていないアムロジピンの多くはアルブミン・バスに乗ったままなため体の外へ出て行きにくく、一方代謝を受けたアムロジピンはアルブミン・バスに乗車せず単独行動をしているのと体も小さいため網目をくぐり抜けて尿に混ざって体の外へ出て行ってしまう。
肝臓で行われている薬物代謝という作業は体の中に入ってきた薬を体の外に出しやすくする作業ともいえるのだ。薬はしょせん体にとっては異物なので早く外へ出してやるに越したことはない。私は代謝をうけたアムロジピンと糸球体で別れを告げた。そして再び静脈に入り心臓へ戻ってから小腸へと続く動脈への道をたどった。
たどり着いたところは小腸の細胞だ。そこは小腸から薬が吸収されて血管に入る場所である。私はその場所に肝臓にもいたCYP3A4という酵素がいるのを見た。肝臓と比べると数は少ないものの小腸から入ってきたアムロジピンのいくつかを直ぐに代謝した。そこでの代謝を免れたアムロジピンが更に血流にのって血管を拡げる働きをするのである。
塩田丸男はグレープフルーツジュースが好きで毎朝のトーストとハムエッグと共に飲んでいた。グレープフルーツの中に含まれているベルガモチンというぬぼーとした男たちが小腸細胞の中にひょっこりと顔を出した。何人ものベルガモチンが自分よりも百倍以上もの大きさのあるCYP3A4に飛びかかっていった。そして、ちょうどアムロジピンが乗車する場所を破壊した。その結果、食後に飲まれて小腸にやってきたアムロジピンたちはCYP3A4によって力を失われることなく血液の中に入って行けるようになっていた。グレープフルーツジュースを飲まない時よりも体の中に入ってくるアムロジピンの数が増えてしまうのである。これでは薬が効きすぎて副作用が出てしまう場合もある。アムロジピンでいえば血圧が下がり過ぎて目の前が真っ白状態、ふらふら状態となって失神してしまうなどという副作用も報告されている。薬と薬、または薬と食品を組み合わせると副作用が出てしまうことを「相互作用」と呼んでいるが、このような相互作用はアムロジピンに限らずジヒドロピリジン系カルシウム拮抗薬と呼ばれるすべての仲間に起こる可能性がある。
五 血管拡張か利尿か、結局どっちだ?インダパミド
私は塩田丸男が飲みだしたもう一つの薬の働きをみるために心臓の先にある動脈へと移動した。早い流れの中でインダパミドはアムロジピンほどでないにしろ八割程度がアルブミンに乗車していた。彼らの目的地の一つは先ほども出てきた血管の平滑筋だ。アムロジピンの時にも出てきた交感神経と血管が接する場所に私は来た。交感神経の末端から飛び出してきたノルアドレナリンがアルファ1作業場にたどり着いた時、作業場が変化していたがインダパミドたちはその作業場の変化を必要最小限度に抑え込んだ。つまりノルアドレナリンの働きを弱めるので血管が拡がり気味となり血圧が下がるのだ。インダパミドの主な働きは弱いながらもノルアドレナリンの働きを邪魔することだといえるだろう。
私はインダパミドたちがまだ物足りなさそうな顔をしているのを見ていた。私は再び彼らと一緒に血管の中を旅することにした。やがて私たちは腎臓に到着した。腎臓の中にある尿細管の周辺にも血管が走っている。私たちはその血管に足を進めた。アルブミンから下車したインダパミドは血管に沿って走る近位尿細管の壁のすき間を通りその中へと入っていった。
私も彼らに従って糸球体のろ過装置とは別ルートで尿細管の中に入った。そこは原尿であふれかえっている。膀胱に向かって原尿は流れる。インダパミドの後を追ってヘンレのループと呼ばれるU字形の場所を通り上行し遠位尿細管という場所に到達した。そこの壁面には特有の装置がほどこしてあった。尿の中を私たちと一緒に流れていたナトリウムとクロルがその装置を通って血管の中に戻されるのだ。その装置は細井満智夫の時にも出てきたナトリウム・クロル共輸送体である。インダパミドはその装置にさっと覆い被さるようにした。やがてそこから外れるのだが覆い被さっている間はナトリウムもクロルもそこから再吸収されなくなる。本来再吸収されるはずのナトリウムがその装置の傍を通過する。するとこの先にある集合管でのナトリウムの数も多くなる。ナトリウムと水はいつも一緒に行動するので、水も再吸収されず尿となって外へ出て行く。つまり尿の量が増えるのだ。大局的に見ると尿の量が多くなると血管の中の水分量が減ることになり、それは血管への圧迫感を和らげて血圧を下げる方向に働いてくれる。
尿が多く出るようになる働きを利尿作用と呼んでいる。インダパミドのように利尿作用によって血圧を下げる薬を「降圧利尿薬」と呼んでいる。しかしインダパミドの利尿効果は弱い。遠位尿細管でのナトリウムの再吸収量は手前にあるヘンレのループの上行脚のナトリウムの再吸収量より少ないためだ。インダパミドの仲間の薬は「サイアザイド系」の薬と呼ばれるが、これらの薬の血圧を下げる力は利尿作用よりも直接血管を拡げる作用によるところが大きいのだ。
尿細管には一旦糸球体から原尿へと放出された物質のいくつかを体が再利用するための吸収装置が用意されている。私は体で不要になったはずの「尿酸」を再吸収する尿酸輸送装置の存在を見た。尿酸というのは血液中にたくさんあると「痛風発作」というとても痛みを感じる病気の犯人だ。その犯人ですら再利用しようとする人間の体の貪欲さを感じてしまう。それにしても今回は尿酸の取り込まれる数が多いように思った。
インダパミドが尿の出を良くする時、水と共にたくさんのナトリウムも体外に出ていく。その結果、体の中のナトリウムたちが減って行く。人間の体は不思議なもので失うものがあれば、それを惜しみ取り返そうとする。人間が生きとし生きていくためにはバランス感覚が必要なのだ。
尿細管の壁の一部にはナトリウムと共に筋肉の疲労物質としても知られている「乳酸」を血管にもどす輸送装置が埋め込まれている。この輸送装置と尿酸輸送装置が連動しているようだった。ナトリウムと乳酸が輸送装置に吸い込まれていくと尿酸輸送装置からは尿酸が吸い込まれると同時に乳酸が吐き出されてきた。
まとめてみよう。インダパミドがナトリウムと一緒に尿の量を多くして体の外に出せばだすほど尿酸が体の中に引き戻されるという現象が起きているのだ。これはインダパミドに限らずサイアザイド系薬やここでは取り上げないがループ系薬と呼ばれる利尿薬に共通する副作用なのだ。したがって降圧利尿薬は痛風発作を起こした人や血液中の尿酸の値が高い人には慎重に使うべき薬となる。
膀胱へと続く尿細管の壁面には実にさまざまな輸送装置が埋め込まれているためインダパミドは更に複雑な副作用を示してくる。血液中のナトリウムの数が減ると逆にそれを増やそうという力が働くと言ったが、その状態を脳が察知して、腎臓にはレニン号という巨大船団を、肝臓には巨大ロボットのアンジオテンシノーゲン隊を出動させるように命令をだす。するとその二つの集団は協力してアンジオテンシンⅡという精鋭ロボット隊を組織する。アンジオテンシンⅡたちは自分たち自身もさまざまな任務を果たすが、さらに副腎という臓器から巨大船アルドステロン号を動員させる。そのアルドステロン号は尿細管の最終段階である集合管に集まってくる。そこで彼らは尿中の水とナトリウムを体の中へ引き戻す任務と血液中のカリウムを体の外へ出す任務を果たす。これらの一連の動きの経路をレニン・アンジオテンシン・アルドステロン系と呼んでいる。長い名前なのでそれぞれの頭文字をとってRAS系と略してしまう人もいる。
巡り巡っての話になるがインダパミドが血液中のナトリウムの数を減らすため、RAS系が始動してアルドステロン号が集合管でカリウムを体の外へ吐き出し、その結果血液中のカリウムの数が減ってしまうという現象が起きてしまう。これを低カリウム血症と呼んでいる。この副作用は筋力の低下を招いたり、心臓を不規則に動かしたり、血糖値を上げたりする可能性も指摘されているが、まれにしか起こらない副作用でもある。
ところでインダパミドのような利尿薬に、よくスピロノラクトンという薬が一緒に出される時がある。この薬は抗アルドステロン薬と呼ばれる薬で先ほどのアルドステロン号の働きを弱めてくれる薬である。つまりインダパミドが引き起こす低カリウム血症を予防してくれるのだ。スピロノラクトンはアルドステロン号と逆の働きをするためカリウムを体内に保持してくれるタイプの利尿薬という意味でカリウム保持性利尿薬とも呼ばれている。
六 まずは食事だが・・・
私は三カ月ほど仕事に追われて塩田丸男にも会えず仕舞いでいた。そんなある日、地下鉄の駅から地上に出たところで声をかけられた。聞いた声だったが私は誰だか分からなかった。
「わてやがな。塩田や」頬がこけ肩幅も狭くなった印象があったが、まぎれもなくそれは塩田丸男であった。「この三カ月で十五キロやで」ややくぼんだ目からうれしそうな雰囲気が伝わってくる。
「すごい努力したんやな」私は正直驚いた。
「で、血圧はどうやった?」私は勢い聞いた。
「ばっちりやがな。若い看護師のお嬢さんにも褒められてな。これだけ痩せると何だか女にもてるような気がしてるわ」
「良かったやないか」血圧の下がったことに私は素直に喜んだが、極端なダイエットはリバウンドを伴う。それに必要な筋肉までそぎ落としてしまう可能性もある。悪い病気にでもなったかと思わせる位の塩田丸男の痩せ過ぎに一抹の不安を抱いたのも確かだった。
第三章 重症高血圧の安藤美惠子
一 五種類の高血圧の薬は多いだろう。でも下がらない人もいる・・・
安藤美恵子は私の伯母にあたる。私の母より五歳年上だが、母より認知症の気はなく体も健康そのものだった。しかし昔から血圧だけは高かった。私は一度彼女が飲んでいる薬を見せてもらったことがある。なんと四種類もの血圧の薬を飲んでいるのだ。今日は久しぶりに伯母がグループホームに入所している母を見舞いにきてくれたので落ち着いたところで血圧の様子を尋ねてみた。
「また一種類薬が増えたわよ。太ってもいないのにねえ。薬を飲んでいれば、ぎり正常な血圧かな。一日でも飲み忘れるとすぐに一五〇は超えてしまうわ」伯母は血圧が高いことに無頓着を装っていた。しかし内心いろいろな合併症になるのではないかと恐れているのも事実だった。脳梗塞や心筋梗塞になりやしないかとか腎機能が低下して人工透析にまでならないかとか時々心配そうに私を見る。
「結局、今はどんな薬を飲んでるの?」私は五種類まで血圧の薬を飲むくらいに重度の高血圧になった伯母に驚いた。
伯母はエルメスのバッグからしゃれた花柄印刷の薬手帳を取り出した。「これを見たら、あなたなら分かるわよね」そう言いながら私にその手帳を渡した。
手帳を開くと一年前からの薬の記録が薬をもらう日ごとにシールとして貼られていた。その手帳も何冊目かのはずだ。確かに一カ月前から血圧の薬が一種類増えていた。
名前を列記するとカンデサルタン錠、エナラプリル錠、プロプラノロール錠、ドキサゾシン錠、メチルドパ錠である。塩田丸男が飲んでいた薬とはどれも血圧を下げる仕組みが違っているので私は思わずほくそ笑んだ。伯母の体の中に入ると新しい風景が見られそうだからだ。
二 血圧を上げる体内物質の邪魔をするカンデサルタン
私は伯母がグループホームの施設を辞するのを機に彼女の血管の中に入った。カンデサルタンは一日一回飲む薬なので血液の中にはまだ結構な人数のカンデサルタンたちが残っていた。カンデサルタンたちのほとんどがアルブミンという巨大なバスに乗っていた。一〇〇人中九十九人以上が乗っているから相当な車好きと言えるだろう。何人ものカンデサルタンが乗車したアルブミン・バスは血液の流れに任せて下流へと向かっていく。私はその後を追った。バスに乗りながらもカンデサルタンは周囲への監視を怠らない。どうやら彼らは血管のある場所を探しているようだった。
やがて私は作業場のような設備のある場所を見つけた。特殊な形をしていたが何ものかの作業場になるのだろう。AT1という番号がペンキで塗られていた。そこへ血管の上流からカンデサルタンの2.4倍ほどの大きさの女性たちがゆらゆらと私たちに近づいてきた。そして彼女たちは先ほどの作業場に向かって行った。その大柄ではあったが美形の女性たちがAT1作業場に到着するとその場の構造が少し変化した。すると私の周りにあった血管壁がぶるぶると震えだしたかと思うとぎゅーと狭まり始めた。私が押しつぶされることはなかったが、血管内の圧力を上げるには十分な狭まり具合だった。つまり彼女たちはAT1作業場に着くことで血圧を上げるように働きかけるのだった。彼女たちの胸にぶら下がるネームプレートにはアンジオテンシンⅡと印刷されていた。
私の傍らにいたカンデサルタンは『しまった』という表情を隠さなかった。どうやらアンジオテンシンⅡより先にAT1作業場に行くつもりだったようだ。アンジオテンシンⅡよりも小柄だったがカンデサルタンは勇猛果敢にAT1作業場へと向かって行った。アンジオテンシンⅡを押しのけるようにして彼はその作業場を占拠してしまった。
すると血管内の狭まりは次第に拡がりをみせて血圧も次第に下がってきだした。カンデサルタンは私を見ながら『どんなもんだい』というようにしたり顔をしてみせた。彼らのようにAT1作業場を占拠してアンジオテンシンⅡに仕事をさせないタイプの薬を「アンジオテンシン受容体拮抗薬」、略してARBと呼んでいる。
彼はまだそこに居たいようだったので私は先に進むことにした。血管を下っていると今まで気が付かなかったが方々にAT1作業場があり、そこにも別のカンデサルタンたちが取り付いていた。しかし中にAT2という記号の作業場があるのにも気が付いた。AT1と一見しただけでは代わり映えがしない。しかしカンデサルタンたちはしっかりと見極めておりAT2を占拠することはほとんど無かった。
AT1作業場にたどり着けなかったアンジオテンシンⅡたちは仕方が無いようにAT2作業場に着地してしばし休憩をしているようだった。その時、私は気が付いた。アンジオテンシンⅡがATⅡ作業場に到着すると血管が拡がりをみせて血圧を下げ始めたのだ。同じアンジオテンシンⅡ専用の作業場でも1と2では出てくる結果が正反対なのだ。
カンデサルタンは血圧を下げるAT2作業場には影響を与えず、血圧を上げるAT1作業場にしっかりと取り付いて血圧を下げる働きをする薬なのだ。
アンジオテンシンⅡの女性たちはどこから来るのだろうか?私はAT1作業場に着地すると血圧を上げる彼女たちの生れ故郷を探索することにした。そのためには血液の流れに逆らって行かねばならない。体力を要する作業だがこの際仕方ない。私は自分の腕と脚の力を信じて血管の上流へと泳ぎだしていた。
三 母なるアンジオテンシノーゲン
上流へ進んでいる内に血管の一部に特殊な建物を見つけた。どうやらそこからアンジオテンシンⅡが何人も出てくるようだった。私はその建物の前に立った。カンデサルタンの三〇〇倍以上もの大きさの建物だ。建物の玄関の上にはACEというエンブレムが彫られていた。正式な名前はアンジオテンシン・コンバーティング・エンザイムと呼ぶが、このような長ったらしい名前を誰も呼ばず単にエーシーイーと呼ぶ方が多い。日本ではアンジオテンシン変換酵素とも呼んでいる。
私はACEの建物の前で様子を見ていた。アンジオテンシンⅡは実は八個の部品から構成される女性型ロボットだ。八頭身の美女と言って良いだろう。彼女らが出ていく代わりに十個の部品から構成される女性型ロボットたちがACEの建物に入って行く。容姿は似ているのだが十頭身になるため姿形は不自然な感じになる。彼女たちはアンジオテンシンⅠと呼ばれているが、ACEの内部で二個分の部品を切り取られて美人のアンジオテンシンⅡになるようだ。私がその風景を見ていると背後に気配を感じて振り向いた。そこには私と目が合ったので驚いたのか目をくりっとさせた若者が立っていた。いつの間に私の背後に来ていたのか分からなかったが、彼は私に黙って一礼をしてACEの建物の中へ入って行った。そこの関係者なのだろうか。
それにしても決して美人とは言えないアンジオテンシンⅠたちはどこから来ているのだろうか?私はさらに上流へと泳ぎを進めることにした。血液の中にはいろいろな物質が流れてくる。薬の乗り物として以前アルブミンを紹介した。それと大きさがほぼ同じくらいの塊りが私の目の前に流れ着いてきた。長いヒモのようなものが折りたたまれているような印象だ。その塊りをじっくりと見ていた私は思わずドキリとして後ずさりした。塊りの中で光る眼玉を見たからだ。その部分は顔だった。それもアンジオテンシンⅠやアンジオテンシンⅡに共通した顔だ。八頭身や十頭身の顔の部分だけが大きな塊りの中に埋め込まれているのだ。奇怪な姿だった。その塊りの表面にはしっかりと「アンジオテンシノーゲン」という刻印が記されていた。
その時、私はアンジオテンシノーゲンの三分の二程度の大きさの巨大船が近づいてくるのが見えた。その船の甲板の先端には大きな鋏のついたクレーンが取り付けられていた。その船が徐々にアンジオテンシノーゲンに近づくと、クレーンの先にある鋏を巧みに動かしながらアンジオテンシノーゲンのすき間に差し込みはじめた。直後だった。パチンという音が聞こえたかと思うとアンジオテンシノーゲンからアンジオテンシンⅠが飛び出してきた。アンジオテンシノーゲンは実は四五三個もの部品で出来上がった巨大ロボットだったのだが、その中からたった十個の部品のアンジオテンシンⅠだけが切り出される。残りの四四三個の部品は不要なのだ。何か体の役に立っているのかもしれないが、今のところそれは分からない。やがてバラバラになって再利用されるのだろうが、なんて非効率な生産性だろうかと思ったのは確かだ。
ここまで血液の中を旅して私は血圧を上げる原因となるアンジオテンシンⅡの母がアンジオテンシンⅠ、そしてその母がアンジオテンシノーゲンであると知った。
先端にハサミを装備した巨大船は再び血管の下流へと漂っていく。そして新たに現われたアンジオテンシノーゲンに再びハサミを差しこんでいた。その巨大船の船体の横には「レニン」号と銘が打ってあった。
私はレニン号の出どころも気になったが、まずは母なるアンジオテンシノーゲンがどこから生まれるのかを知りたいと思い、さらに上流へと泳ぎを進めた。何だか切りのない旅になりそうだがレニン号の製造工場は後で行くことにしよう。
私の周囲に巨大なアンジオテンシノーゲンの数が増えてきた。彼女と呼ぶにはあまりにも中性的な存在になってしまったがアンジオテンシノーゲンの生れ故郷が近いのだと思った。慎重に泳ぎを続けると血管の壁面からポコポコとアンジオテンシノーゲンが現われている場所があった。改めて周囲を見回すとここは肝臓の血管の中だった。塩田丸男の時に紹介した薬物代謝酵素が豊富に存在しているあの肝臓という臓器だ。私は肝臓の一つの細胞の中に入ってみることにした。
細胞の中は複雑だ。アンジオテンシノーゲンはどうやら袋状のものに包まれて細胞の奥の方から細胞の表面に運ばれ血液中に放出されるようだった。細胞の奥深い暗闇の中に大きな壁で囲まれた球体状の構造物があった。これは核と呼ばれていて中には遺伝子が収納されている。遺伝子の働きを乱すのは私の本意ではないので私は周囲の様子だけを観察することにした。最悪の場合、細胞が無秩序に分裂し続ける癌化につながりかねないからだ。
観察していると血管内のナトリウムの数が少なくなったり血圧が低めになった時にそれを感知して脳からの指令が届くようだ。今もその伝令係らしき男性が核の壁のすき間を通り中に入って行った。その都度、核の中から長い鎖状のものが飛び出してくる。それが細胞内にある台座のようなところに張り付く。鎖状のものはA、G、C、Uという記号のついた四種類の部品がランダムに並んでいるようにみえた。その三つに一個の割合でアンジオテンシノーゲンの部品が付き、鎖状に次々とアンジオテンシノーゲンの部品が繋がって行く。そして四五三個の部品が連なり結合して母なるアンジオテンシノーゲンの姿が出来上り、さらに袋の中に包み込まれて細胞の表面へと浮かんで行った。
アンジオテンシノーゲンはいわゆる蛋白質である。核の中にある遺伝子の本体はDNAと呼ばれるが、そこには蛋白質の情報が埋め込まれているのだ。その情報が鎖状のものに写し取られる。その鎖状のものはメッセンジャーRNAと呼ばれている。それはA、G、C、Uで略される四種類の塩基と呼ばれる物質で主に構成されており、三つの塩基の特定の組合せが一つの特定のアミノ酸を決定する。アミノ酸を繋げていく台座はリボソームと呼ばれている。そして出来あがったアミノ酸の繋がったものが蛋白質だ。
私は肝臓から血液に戻り、さきほど見かけたレニン号の後を追うことにした。何回か体中の血管を巡るうちに私はレニン号がたくさん出航している造船場を見つけた。そこは腎臓だった。腎臓もよく紹介する臓器だが、その腎臓の一角にレニン号を造船している工場が存在しているのだ。
レニン号による血圧を上げる仕組みをまとめるとレニン号がたくさん増産されるとアンジオテンシノーゲンがアンジオテンシンⅠになり、さらにACEという建物の中でアンジオテンシンⅡとなる。そして、それがAT1という作業場にたどり着くと血管が狭まり血圧を上げるという流れだ。
私はその造船工場の見学会に参加させてもらえた。案内人は小柄な老人だ。彼はその工場をリタイアした後、余暇を利用して見学会の案内役をボランティアで買って出ているという。「ボケ防止だよ」と彼は笑って言った。
レニンも蛋白質なので先ほどのアンジオテンシノーゲンと同様に腎臓の細胞の奥深い場所にある核内のDNAからの情報を基にして作られるという説明があった。血液の中のナトリウムの数が減ってくるとレニン号の造船指示が脳から発せられるという。それとは別に尿の中に含まれるナトリウムの数の少なさによっても指令がくるそうだ。
案内人の老人は私に『分かってもらえるだろうか』と心配そうな顔を向けた。「分からなかったら質問しますよ」と私は彼の心を読んで答えていた。
腎臓の糸球体からろ過された原尿に含まれるいろいろな物質は尿細管を通る途中で再吸収され再び血液の中に戻されたり、そのまま素通りをしたりして最終的に体の外へ飛び出していく。尿細管の途中にヘンレのループがあり、その上向きの通路にナトリウム・カリウム・クロル共輸送体という装置があった。そこで三つの無機物たちが血液の方へと回収されていく。そして尿の中のナトリウムやクロルが少なくなる。そこからやや下流に進むとマクラデンサと呼ばれる別の装置がある。細井満智夫の時の尿細管を旅した時にも出てきた装置だ。その装置は実はレニン号の造船工場と隣接していた。尿細管はぐいっと糸球体の方へと戻るような形になっているのだ。
「マクラデンサは一種のクロルセンサーじゃよ」老人は私に言った。
「ナトリウムとクロルは同時に少なくなっているから、クロルが少なくなったということは同時にナトリウムも少なくなったというわけじゃ」
「はあ」私が納得できないでいると更に老人は続けた。
「尿中にナトリウムが少ないということは血液中にもナトリウムが少ないという意味になる。ナトリウムが多すぎても困るが少なすぎても困る。丁度良い加減を保ってもらわねば困るわけじゃね。だからナトリムが減ったことを何が何でも脳に知らせてもらわねばならんわけじゃ。何故、マクラデンサがナトリウムではなくクロルのセンサーにしかなりえなかったのかは私には分からんがね」
「しかし、レニン号が増産されるとなぜ血液中のナトリウムが増えることになるのですかね。アンジオテンシンⅡは血管を縮めて血圧を上げるだけでしょう?」
「まだまだ旅が足りんようじゃな。ほれ見てごらん。今、マクラデンサのセンサーが反応した。造船工場は今から忙しくなるようじゃ」老人は造船風景が好きなのか食い入るように工程を見て、私の質問にはもはや答えようとはしなかった。見学料金を払っているわけではないので私はその場から退出することにした。
老人が言った私には旅が足りないという言葉が引っかかっていた。そう言えば、私はアンジオテンシンⅡの行く末もまだ追及していないことに気が付いた。確かにAT1作業場に着くと血圧を上げ、AT2作業場に着くと血圧を下げる様子は見ていたが、そこを離れたアンジオテンシンⅡがどこへ行くのかを追っていなかった。老人はこのことを指摘していたのだろう。
四 塩分と水を欲しがる体内ホルモン、それはアルドステロン
体の中のシステムは不思議だ。いろいろな者がいろいろな場所で関連しあっている。小さな体の中できちんとコントロールされている。この精密機械とも言われるシステムが狂うと人間はたやすく病気になってしまうだろう。長年に渡り使っている精密機械も経年劣化をするごとく、人間の体も歳をとると共に体のどこかの調子が悪くなって病気になるのも最もなことだと思う。
さて私はアンジオテンシンⅡの後を追っていくことにした。彼女は八頭身の美人ロボットなので後を付けて行くのもなんとなく楽しい。ただ会話機能が設置されていないため、いくら話しかけてもむなしいだけだ。血液の流れるままに私たちは腎臓の上部に存在している副腎に到達した。副腎という臓器は表面部分が皮質、内部が髄質と区別されており、副腎の皮質はさらに三層に分かれている。一番表層にある球状帯という場所にアンジオテンシンⅡは入った。私も一緒に球状帯に入るとそこにも造船場のような施設が整っていた。
そこではコレステロールを原料にして何段階もの工程を経てアルドステロンという船を作り出す。だからアルドステロンの姿はなんとなくコレステロールの姿を彷彿とさせる。コレステロールは血液中にたまり過ぎると血管が硬くなる動脈硬化を引き起こし、脳卒中や心筋梗塞を引き起こしてしまう物質だが人間を健康に保つための重要な役割を果たしている。コレステロールは脂質異常症の原因となる物体だが今回は高血圧の話なので詳しい話は機会があったら触れよう。
さてアンジオテンシンⅡとアルドステロンの関係だが、アンジオテンシンⅡは球状帯工場で製造されたアルドステロン号を血液中へどんどん流し出す役割を果たしている。アルドステロン号自体はアンジオテンシンⅡの三分の一程度の大きさなので流し出す作業はアンジオテンシンⅡにとっては何の造作も必要がなさそうだった。
私は新規に現れたアルドステロン号を追わねば疑問の解決にならないと思い、再び血液の中にでてアルドステロン号を追った。どこまで私の追跡旅は続くのだろうか?
アルドステロン号を追っていると再び腎臓の血管へと戻ってきた。今度は腎臓の中でも集合管という尿細管の中でも最後尾にあたる場所に到着した。くどくなるかもしれないが尿細管の周囲には常に血管が存在しており、許された者達が血管から尿細管の細胞へと移動できるのだ。アルドステロン号は集合管にある細胞の一つの中にスルリと入って行った。ここは集合管の主細胞と呼ばれている場所だ。私はここですぐさまアルドステロン号が活躍するものだと思っていた。しかし意外な光景を私は眼にすることになった。
細胞の中にはもう一隻の船が待機していた。船体にはMRという刻印がある。見ているとアルドステロン号とMR号が連結するように合体した。そしてそのまま細胞の奥深くにある核内へと去って行った。私は追いかけていくべきかどうか迷った。このパターンは遺伝子のDNAに働きかけて新しい蛋白質が作り出される前兆なのだ。遺伝子部分にまでお邪魔をするのは体に重大な危機をもたらすかもしれないので私はしばらく核の外で待っていた。
やがて核内から鎖状のメッセンジャーRNAがいくつも出てきた。そしてカンデサルタンの一七〇倍ほどもある巨大なロボットがリボソーム台座の上で製造されだした。およそ五七七個近くの部品で出来上がっているようだ。その側面にはAIPという文字が書かれていた。そのアルファベットはアルドステロン誘導蛋白質の英語読みを略したものだそうだ。その巨大なロボットたちの顔の部分の表情は硬く感情というものを全く感じさせなかった。彼らの何体かは尿の通り道である集合管の方向へ進み、のこりは血管側へと進んだ。
私はいささか疲れてきていた。これほど複雑な反応が続くとは思っていなかったからだ。それでも集合管へ行くAIPを追うことにした。この細胞の尿の流れている集合管側の壁には特殊な通路があった。それは尿の中にあるナトリウムを集合管細胞の中に引き入れる通路だ。AIPはその通路に近づくとその通路の入り口を大きく拡げた。その結果、たくさんのナトリウムたちが集合管細胞の中に入ってきた。
一方、主細胞の血管側にも特殊な装置があった。この装置は主細胞の中にあるナトリウムを血管側に押し出し、血管内のカリウムを主細胞の中に引き込む装置だ。AIPはこの装置を活発に動かすように働く。つまり集合管側でたくさん引き込んだナトリウムを血管内へと効率よく運ばせられるわけだ。そのかわり細胞内に入ったカリウムを集合管側に開いているカリウム通路を通じて尿の中にカリウムを放出する現象もおこる。
長い話になってしまったが、レニン号の造船の増加でなぜ血液中のナトリウムの数が増えるのかという理由を尋ねてここまできたが、まとめるとレニン号に依ってアンジオテンシンⅡが増えて、それがアルドステロンの数を増やし、それが尿細管の集合管部分でナトリウムの血液への再吸収を増やすためだと分かったわけだ。そして水はナトリウムと行動を共にするのでアルドステロンは水とナトリウムを体内へ引き戻しつつカリウムを体外へ放出する役目をもっているわけだ。
五 血圧上げる体内物質の製造工場に侵入せよ。エナラプリル
カンデサルタンの動きを追い続けるうちに体中のあちこちと動き回らされて、さすがに疲れてしまった私は一旦体の外に出ることにした。伯母が飲んでいる他の薬の探索は明日にしようと思う。
「伯母さん。今朝は薬を飲んだのかい?」翌日、私はまだ朝の薬を飲もうとしない伯母に尋ねた。
「あら、そうだったわ。最近、時々忘れちゃうのよね。食後になってたけど、思い出した時に飲めばいいからと薬局の薬剤師が言っていたから今飲むわ。思い出させてくれてありがとう」伯母はそそくさと席を立って薬を置いてあるキッチンに向かった。その隙を利用して私は彼女の血管の中に入った。今いる場所は薬が小腸で吸収されて最初に入ってくる血管、門脈である。その門脈の先には肝臓が鎮座している。
やがて朝飲む薬たちがやってきた。最初に昨日動きを追ったカンデサルタンたちがやってきた。昨日飲んだカンデサルタンたちは体の中で変化をうけて尿や便と共に体の外へと立ち去るが、それでも少しは残っている。昨日の最盛期の時と比べると十五%程度が残っていた。しかし今日きた連中と同じ姿かたちをしているので区別はつかない。次にカルベジロールと呼ばれる薬たちが入ってきた。そして三隊目がエナラプリルと呼ばれる薬たちだ。
実は私は昨日エナラプリルの姿を間近で見ていた。ACEという建物で私の背後に潜んでいたあの若者だ。口々に「こんにちは」と挨拶をしながら私の傍らを過ぎていく。今回私は彼らのゆくえを追うことにした。
案の定、彼らは血管にあるACEの建物の中へと入って行った。今回は私もその建物の中に入ってみた。エナラプリルの一人が私を振り向いた。
「ここは大きな工場なのです。中で第一工場と第二工場に分かれています。この第一工場にアンジオテンシンⅠというロボットがやってきて中で行われる分離作業によってアンジオテンシンⅡというロボットに変換されます」エナラプリルはていねいに私に説明をしてくれた。体内にいる連中はたいていが不愛想で私に親切にしてくるのは珍しいことだ。しかし彼の説明した内容は私も昨日の観察でおおまか知っていた。
「僕たちは第一工場の入り口にいてアンジオテンシンⅠがこの工場に入れないようにする役割があります」そうエナラプリルが言っている内に、建物の中にアンジオテンシンⅠたちが入ってきた。例の少し不自然な感じのある十頭身のロボットだ。私は部屋の前から離れて様子をうかがうことにした。
「ねえ、僕たち、そこをどいてもらえないかしら。私たちそこでおめかししなくてはいけないのよ」アンジオテンシンⅠはロボットらしからぬ大人の女性の雰囲気を漂わせながら部屋の前を占拠しているエナラプリルに言い寄った。
「ダメ。絶対にダメ」エナラプリルは怖い顔をして通せん坊をするように頑なに入口を塞いだ。何度かやり取りが続いていたが根負けしたアンジオテンシンⅠは「あんた。将来、女に嫌われるよ」という捨て台詞を残して建物を出て行った。窓の外をみると彼女は近くにあった別のACEの建物に向かったようだったが、そのACEの前にもアンジオテンシンⅠが何人も行列を作っていた。どこのACEにも他のエナラプリルたちが入り込んでアンジオテンシンⅠがアンジオテンシンⅡに変わるのを防いでいるようだった。
「アンジオテンシンⅡができないので血管が狭まらない。だから血圧が下がる訳です」いつのまにか私の背後にきたエナラプリルの一人が私につぶやいた。彼は昨日私の背後にいたエナラプリルだった。まだ体の外に出られずに残っているらしい。
「ところで第二工場があると言ったけど、そこも同じような作業をしているのかな?」私はエナラプリルに尋ねてみた。
「こちらに来てください」彼は私を長い廊下を通り第二工場まで案内してくれた。第二工場の前には第二番目の玄関口があった。そして第二工場の玄関前でも仲間のエナラプリルたちが占拠していた。しかし彼らの前にいるのはアンジオテンシンⅠではなかった。別のロボットたちがいてエナラプリルたちと口論をしていた。そのロボットたちも頑ななエナラプリルの行動に負けて、あきらめたようにACEの建物の外へ出て行った。
「彼らは九個の部品でできた青年型ロボットでブラジキニンと呼ばれています」案内役のエナラプリルが解説をしてくれた。
「ブラジキニンは聞いたことがあるな。確か血管を拡げて血圧を下げてくれるロボットではなかっただろうか」
「さすがですね。その通りです。僕たちはアンジオテンシンⅡができないようにして血圧を下げると共に、ブラジキニンを第二工場で壊されないようにして生かすことでも血圧を下げているのです」エナラプリルは自慢気な表情をした。どうやらACEの第二工場ではブラジキニンを残酷にも分解してしまうらしい。
「でもブラジキニンのせいで空咳が出ているのが君たちの副作用の一つにもなっていると聞くけど」
痛い点を突かれたのか若者を黙って下を向くと「まあ、そうかもしれませんが」と言いよどんだ後で、「インスリン抵抗性改善にも効いているのですよ」と付け加えた。
空咳というのは痰のからまない咳が発作のように出てくる症状でエナラプリルの仲間の薬たちに共通した副作用だ。またインスリン抵抗性というのは糖尿病の患者さんで高くなった血糖値を下げるホルモンのインスリンが効かなくなる症状で、ブラジキニンがその症状を改善してインスリンの効果を出しやすくする。つまり血糖値を下げやすくする働きがあるというのだ。功罪相半ばするというのが薬の基本の基本の役割である。ことわざには無いが「薬とハサミは使いよう」なのである。言いそびれたがエナラプリルのようにACEの建物自体の機能を止めてしまうタイプの薬を「ACE阻害薬」と呼んでいる。
私はさらにエナラプリルと共に血液を浮遊しながら下流へと向かった。変身できなかったアンジオテンシンⅠも恨めし気に私たちを見ながら浮遊している。血管の壁にはAT1作業場が用意されているが、アンジオテンシンⅠのままではそこに着地することができない。またエナラプリル自身もその作業場には見向きもしていない。というかカンデサルタンのようにそこへ着地する能力がないのだ。
ある血管の場所からゆらりと巨大な船がでてきた。それはアンジオテンシンⅠの二十三倍程度の大きさを持つ船だった。甲板には昨日も見た大きなハサミのような装置が備え付けられている。次々と船が出てきて一大船団を形成する勢いだ。
「やばいな。キマーゼ船団だ」エナラプリルは驚いたように叫んだ。彼の驚いた理由がすぐにわかった。
キマーゼ船団が、元々美人とは言い難い顔がさらに表情が台無しになるほどの不愛想な表情で泳いでいたアンジオテンシンⅠを取り囲んだ。一艘の船の大きなハサミがアンジオテンシンⅠに向かって下りてきた。周囲を船団で囲まれ身動きの取れないアンジオテンシンⅠの足元の二個分の部品が切断された。そして船団がさーと離れるとそこには八頭身美人ロボットのアンジオテンシンⅡが艶やかに姿を現した。
その間、エナラプリルは何もできないでいた。どうやらキマーゼ船団に対してエナラプリルは無力のようだった。新生アンジオテンシンⅡは早速AT1作業場に取り付き血管を狭めて血圧を上げようと働き始めた。アンジオテンシンⅡを産み出す役割はACE工場だけでなくキマーゼ船団にもあったのだ。それはエナラプリルの働きが完ぺきではないということを証明していたが、全体としてみると血圧を下げてくれると言ってよさそうだ。
六 プロプラノロールの好敵手はノルアドレナリン
エナラプリルと旅をして体の中にはいろいろな装置が仕込まれているものだと改めて思いしらされた。そのエナラプリルと別れてまもなく今朝伯母が飲んでいた薬の一つプロプラノロールと会った。なかなか頑固そうな爺さんである。初対面から不機嫌そうな表情を私に向けてくる。まるで怒っているかのような強張った表情をしている。このような人物は第一印象から私とは性格的に合いそうにないと思ってしまう。とは思いながらも彼らを追うのが今の私の義務のような気がしてきたので彼らに気付かれないように後を追うことにした。
門脈から肝臓の中へ入る。以前にも紹介したが肝臓には薬物代謝酵素と呼ばれる薬を体の外に出しやすくする作業をする船団がある。アムロジピンの時はCYP3A4という船が作業をしていたがプロプラノロールに向かってきた船にはCYP2D6、CYP1A2そしてCYP2C19という記号が書かれていた。
船団による代謝を免れたプロプラノロールは肝臓で作られたアルブミンと共に再び血液の中へと戻される。アルブミンは薬のバスのような乗り物だった。プロプラノロールたちのうち八十八%がアルブミン・バスに乗って血液を回る。残りの十二%のプロプラノロールは一人で血液の中を流れていく。
「あなたたちはこれからどこに行くのですか?」私は不機嫌そうな顔をしているプロプラノロールたちの中でも一人淡々とした表情をしているプロプラノロールに話しかけた。
「わしらは心臓へ行く途中じゃ。付いてくるのは勝手だがわしらに話しかけん方がよい」
「どうしてあなた達はみなさん不機嫌そうな顔をしているのでしょうか?」私は穏やかに質問を続けた。
「皆、一徹者なのじゃ。心臓のベータ1作業場へ行って、情け容赦なくそこの作業場でノルアドレナリンの奴らの邪魔をするんじゃよ。一徹者は不機嫌そうな顔をするのが相場じゃ」そう答えたプロプラノロールも急に不機嫌そうな顔つきになったので、私はそれ以上質問するのを止めた。一徹者は不機嫌総な顔をするのが相場かどうかは知らなかったが、私は黙って彼らの後に付いて行った。
やがて血液の流れにのって心臓に到達した。しかしこの場所は心臓の内部の部屋、つまり心房とか心室という場所ではなく、心臓の表面を覆う血管である。この血管は心臓自体に酸素や栄養分を補給するルートでもあり、特別に冠動脈とも言われる。ここの血管が一時的に詰まってしまう病気を狭心症と呼び、完全に詰まってしまう病気を心筋梗塞と呼ぶが、今回はこれらには触れずにおく。
プロプラノロールたちは血管の壁のすき間から外へと抜け出し始めた。私も彼らの後を追う。そこには塩田丸男の時に見た時と同じ風景が広がっていた。つまり血管の表面にアルファ1作業場が設置されていたのである。その近くの空間には奥に続く管のついた浮遊体があり、その浮遊体からはノルアドレナリン作業員たちがポコポコと飛び出してきていた。その血管の傍には心臓本体があった。外側から心臓を眺める感じだ。心臓本体には血管にあったのとは別のタイプの作業場があった。プロプラノロール爺たちはその作業場へと向かっていた。その作業場にはベータ1という記号が記載してあった。その上空にも例の浮遊体がありノルアドレナリンたちが放出されて、何か所もある心臓のベータ1作業場に到着すると心臓自体が大幅に縮まってしまった。その震動は生半可なものではなかった。考えてみれば当然で心臓は血液を全身の隅々にまで送るポンプ役だから押し出す力も相当なければいけないのだ。
ただこの血液を押し出す力が強すぎると血管を押し広げる力強くなる。つまり血圧が高くなってしまうのだ。高血圧の治療の一つとして心臓の力を少し弱めてやるというやり方がある。先ほどの心臓の表面にあったノルアドレナリンの働き場であるベータ1作業場を占拠してしまえば良いのである。そこでプロプラノロール爺たちの登場となる。爺たちはベータ1作業場を占拠してしまうのである。そこへ近づくことができなくなったノルアドレナリンたちは露頭に迷うことになる。その結果、心臓の血液を押し出す力が弱まり、血圧が下がるという流れになる。プロプラノロール爺たちもいつまでも作業場を占拠せずある程度時間が経つと離れていく。したがって心臓の動きが完全に止まるようなことはない。あくまでも心臓の動きを少し弱める程度になる。
しかし人によっては影響が強く出る場合も出てくる。脈拍数が極端に減ったり心臓の動きが鈍くなったりと決して軽くはない副作用もあるのだ。何度でも繰り返すようだが薬とハサミは使いようなのだ。副作用があってあの薬を飲むと殺されるなどとセンセーショナルに書いている週刊誌もあるが、しょせん薬というものは諸刃の剣に過ぎないということを知っていてもらいたい。高血圧には将来的に心筋梗塞や脳梗塞という命に関わる病気になるリスクがある。そのリスクと薬のリスクを天秤にかけて、どちらが良いかという判断が重要なのだ。無論、この判断は医師がすることになるが、患者も薬のリスクを知っておくことは大切である。さて、プロプラノロール爺のようにベータ1作業場を占拠してノルアドレナリンが作業できなくなるタイプの薬を「ベータ受容体遮断薬」という。略してベータ遮断薬とも言ったり、気取ってベータブロッカーなどと言ったりしている。
私はここで一旦、伯母の体から出て、しばらくは通常の仕事に戻ることにした。
七 安藤恵美子の既往歴
既往歴という言葉がある。「きおうれき」と読むが、これは昔かかっていた病気で今はすっかり治ってしまったように見える病気のことをいう。私の伯母の恵美子は幼い頃、喘息持ちだったという。喘息は鼻から肺へ続く通路である気管支に炎症が起こって気管支が狭まり空気の出入りが悪くなるために起こる激しい咳の発作である。成人してからはすっかりと喘息は影を潜めていたが、最近時々咳き込むことがあるという。痰もからむのでエナラプリルの副作用で出てきやすい空咳とも違うようだ。
カルベジロール爺の仕事を見終わってからはしばらく伯母の体の中にも入っていなかったが、彼女の喘息の話を聞くといても立ってもおられず私は彼女の血管の中に入った。
時間は昼過ぎで朝食後に飲んだ薬や昨夜夕食後に飲んだ薬の残党などがわしゃわしゃと血液中に残っていた。喘息に似た発作が起こる以上、気管支の近くに行かなければならないと思った私は気管支の周囲に絡まる血管に続く動脈へと泳ぎを進めた。
周囲には薬の他にも当然のように赤血球や白血球や血小板などの細胞が流れている。彼らの間をかい潜りながら私はようやく気管支の傍にある血管にたどり着いた。さっそく血管の壁のすき間から外へ出てみた。血管の表面には相変わらずアルファ1作業場がそこかしこにあった。少ないながらもベータ2という名前の付いた作業場もあることは先ほども説明したが、それと同じ名前の作業場が空気の通り道である気管支の表面にもある。それもかなりたくさんの数が用意されている。さらに気管支表面の近くにも脳から続く管の先端にある例の浮遊体があり、そこからもノルアドレナリンたちがポコポコと出ていた。
ノルアドレナリンたちは気管支上の表面にあるベータ2作業場へと次々と降り立った。そして作業を始めると作業場の構造が変化し始め、最終的には気管支の直径が拡がりはじめた。つまり鼻から肺への空気の通りが良くなっているわけだ。しかしノルアドレナリンたちのベータ2作業場での仕事の効率は最悪と言ってよいほど悪い。副腎という場所から出動するアドレナリンの働きが優っている。
そんな所へ例のプロプラノロール爺がやってきた。あの爺さんたちは心臓のベータ1作業場に降り立って心臓の収縮を緩める仕事をしていた連中だ。私は彼らがベータ1作業場とやや似た形をしたベータ2作業場でも仕事をするのかどうかを観察してやろうと思った。
見ているとプロプラノロール爺たちはベータ2作業場にも降り立ちその場を占拠してノルアドレナリンの到着を邪魔した。すると気管支が狭まり空気の出入りが悪くなって恵美子伯母が軽い喘息っぽい咳をしているのが遠く体の外から聞こえてきた。
プロプラノロール爺のようにベータ1作業場と共にベータ2作業場も占拠するタイプを「非選択性ベータ受容体遮断薬」と呼んでいる。一方、ベータ1作業場を優先的に占拠してベータ2作業場にあまり関心を示さないベータ受容体遮断薬たちもいる。そのような連中をベータ1選択性ベータ受容体遮断薬と呼んでいる。ビソプロロールといった連中だ。
非選択性のベータ遮断薬は気管支を狭める可能性が高いため喘息もちの患者さんには投与してはいけないことになっているし、ベータ1選択性の遮断薬でさえある程度ベータ2作業場を占拠してしまうため喘息患者さんには慎重に判断して使わなくてはいけない。伯母の場合はせめてベータ1選択性の薬に変更してもらうべきだろう。
八 もう一つのノルアドレナリンの好敵手、ドキサゾシン登場
伯母は夕食後にも高血圧用の薬を服用している。それも二種類ある。一つはドキサゾシンで、もう一つはメチルドパである。彼らは早朝の高血圧に威力を発揮する部隊でもある。
夕食を終えて三十分ほど経った頃、伯母は二種類の高血圧の薬を飲んだ。私は肝臓の先にある大静脈付近で彼らを待っていた。最初にやってきたのはドキサゾシンたちである。彼らは大柄な青年たちであるが一〇〇人のうち九十九人の割合でアルブミン・バスに乗車しており、一人が泳いで私の近くを通り過ぎる。若いくせに独力で泳げよと思うのだが、やがてドキサゾシンたちは血管のすき間から外に出る。私も彼らの後を追う。そこには良く見る風景が広がる。脳の奥までつづく管の先端にある浮遊体からノルアドレナリンたちがポコポコと湧いてくるあの風景だ。そしてノルアドレナリンの二倍半の大きさがあるドキサゾシンたちは近くにあったアルファ1作業場にさっさと座り込んでいた。ノルアドレナリンがその作業場に着くと構造が変化して血管が縮んで血圧を高くしたが、ドキサゾシンたちがそこに座り込んでも構造が変化することはなかった。
遠巻きにして様子をうかがっていたノルアドレナリンたちだったが、大柄とはいえ若い連中をみて組みしやすいと思ったのだろうか一斉にアルファ1作業場へ向かった。
「そこはわしらの作業場じゃけんね。どいてくれんね」ノルアドレナリンはドキサゾシンに今にも掴みかからんばかりの勢いで声をかけた。
「君たちの言うことは聞けませんね」ドキサゾシンはあっさりと彼らの申し出を断った。
「腕づくで立ちのいてもらうけんね」ノルアドレナリンはドキサゾシンに襲いかかった。ノルアドレナリンは言葉でいうほど強くはなかった。ドキサゾシンたちにあっさりと負けてしまったのである。それに息も続かず持久力も無さそうであった。ノルアドレナリンたちは借りてきた猫のようにおとなしくなってしまった。
彼らが争っている間はアルファ1作業場には変化は起こらず、その結果として血管は狭まらず血圧が下がるのが分かった。このような働きをする高血圧用の薬を「アルファ1受容体遮断薬」と呼んでいる。
人の体の仕組みは複雑であるが一定のサイクルを持っている。体内時計と呼ばれているものだ。体内時計は脳のある部分から発生する情報がほぼ一日間隔の周期で出されるために時計と呼ばれている。その情報の影響は睡眠のパターンや体内にあるホルモンの放出パターンや体温の上下動に影響を与えている。今回注目するのは明け方ころの伯母の血圧の上がり方である。
人は朝に向かって目が覚めようとする時間帯に脳から延びている交感神経という神経が活発に活動しようとする。これから動き始めるぞという開始信号を発すると言ってよいだろう。交感神経の末端からはノルアドレナリンたちが飛び出していく。彼らとはすでに何度も会っているが、血管のアルファ1作業場に到着すると血管を狭め、心臓のベータ1作業場に到着すると心臓を強く収縮して心臓からの血管へ吐き出す血液量を増やして全体の血圧を上げる役割を果たしていた。
伯母の場合は朝の血圧がかなり高かったという。朝の交感神経の高ぶりが人よりよほど大きかったのだろう。恐らくそれは今も変わらないのだろうが、薬を飲んでいるので朝の血圧も正常だ。
朝方に交感神経が高ぶり血圧が高くなる現象をモーニングサージと呼んでいる。私はよく夜明け前後に街の中を走る救急車のサイレンの音を耳にすることがある。血圧が急に高くなると脳の中の血管が切れてしまい脳梗塞や脳出血になる場合がある。モーニングサージの影響が救急車のサイレンにつながっているのではないかとついつい思ってしまう。
ちなみに睡眠中は副交感神経という交感神経とは正反対の性質をもつ神経が積極的に働いている。明け方頃は二つの神経の交代時期でもあるので複雑怪奇な珍現象も起こる。今回は交感神経が活発になるという話にとどめておこう。
さてドキサゾシンを夕食に飲むことで夕食後から明け方近くにかけて数多くのドキサゾシンたちが体の中にいることになる。そのために明け方の交感神経が活発になる時期に対応ができる。ドキサゾシンのノルアドレナリンに対抗する力は強いと言われており、ドキサゾシンを飲み始めた頃は血管の拡がり具合にご主人様であるはずの人の体がついて行けず、めまいや立ちくらみを起こしたりする。体全体のこれまで狭まっていた血管が急に拡がったとしよう。すると中にあった血液は重力に逆らえず落下しようとする。それは脳を巡っていた血液も同様で脳に必要な血液が下へ落ちて行こうとする。そしてなかなか上にある脳へ上がっていけなくなる。すると血液は酸素や栄養分を運ぶ役割があるので脳に十分な酸素や栄養分が行き渡らなくなり、これがめまいや立ちくらみを引き起こす原因になってしまう。特に立ち上がろうとした場合には余計にその影響が出てきてしまうので、この一時的な低血圧状態を「起立性低血圧」と呼んでいる。
体の仕組みは不思議なもので飲み続けて行くと一時的な低血圧状態を改善しようとするので次第に気にならなくなってくる。しかし人の構造は百人百様なので強くめまいが出るようなら日常生活を送る上で危険を伴うし、軽くてもいつまでもめまいが続くようなら医師に相談して薬を減らしてもらうか別の薬に替えてもらう必要があるかもしれない。
九 これもノルアドレナリンの好敵手か、メチルドパ
メチルドパはこれまで出てきた高血圧の薬の連中の半分程度の大きさの小柄な高齢な女性である。しかしパワーはある。私は今度は彼女に付いていくことにした。薬としての彼女の誕生は古く、見た目以上に老獪な印象を与えていた。
彼女達のアルブミン・バスへの乗車はほぼ無いといってよい。ほとんどのものが自力で泳いでいた。タフな婆さんたちだ。私は彼女達と一旦心臓へ入り、動脈へ出て、上の方向つまり脳への血管へと泳ぎを進めた。太い血管から次第に細い血管へと枝分かれしていく。
やがて脳の内部へと続く血管に到着した。
「あんた。通行手形持ってるのかい」少し枯れた声が目の前から聞こえてきた。その声はメチルドパから発せられていた。
私はまさか彼女から話しかけられるとは思っていなかったのでドギマギしながら「無いですけど。通行手形が必要なのですか?」と尋ねた。
「今までは血管から外へはすき間を通って何とか行けたが見てごらん。ここはすき間もありゃしないだろう。所々に関所があるのだが、そこを通れば血管の外へ出られるってんだ」メチルドパのばあさんはどこの出身なんだろうか。下町言葉が妙に鼻についた。
「私の甥っこの手形があるから、これを使いな。写真も何も貼ってないから大丈夫さ」そう言うと彼女はエルメスのボリードポーチの中から深い緑色の表紙をした通行手形を差し出した。
メチルドパは近くの立派な鉄製扉に向かっていく。その扉に隣接した小窓からは審査官が厳しい目をして顔を出していた。メチルドパは自分の手形を彼の前に掲げると直ぐに鉄製扉が開いて中に消えて行った。
そこに朝食後に飲んだ薬の一つアムロジピンがやってきた。審査官のいる小窓へ近づき「私も中に入れてもらえないか?」と交渉している声が聞こえてきた。
「通行手形を持ってないあんたは無理だね。もっとも通行手形の所持すら許可されなかっただろうよ」審査官は冷たく言い放った。
「こんなに頼んでもダメかい」アムロジピンはなおも喰い下がったが無駄だった。
「たとえ通行手形を持っていたとしても、それは何かの間違いということでここは通さないよ。私にはその真偽が分かるんだよ」そこまで審査官に言われてしまっては引き下がるしかないようだった。
アムロジピンは諦めて血液の流れるままに下流へと泳いで行った。
改めて鉄製扉の上をみると「BBB」と書いてあった。
「スリービーですか?」私は審査官のところまで近づき聞いた。
「ブラッド・ブレイン・バリアの略ですよ。それぞれ頭文字がBになるのでたまたまBが三つ並んだだけです」審査官は私には優しく解説してくれた。
「血液脳関門とも日本では言っています。血液の中のすべての物質が大事な脳へ入って行くと大変なことになります。変な連中が脳内に入ってかく乱されるとこの脳の持ち主の精神状態や体の状態が狂ってしまいますからね。私たちは脳に必要なものだけを選んでいるんです」とも付け加えた。そう言う彼に対して私は少し疑念を抱いた。社会的に問題を引き起こしている覚せい剤や麻薬は一体どうなっているのだろうかと。それらは人間にとっては必要の無いはずのものだが、しっかりと脳の中に入り込んでいるではないか。
「同じ外からくる薬でも入れるタイプのものと入れないタイプがあるのですね」私はあからさまな非難は避けて当面の話題であるメチルドパとアムロジピンへの対応の違いから聞いてみた。
「そうですね。体が小さくて油に溶けやすいタイプは入りやすくて、体が大きくて水に溶けやすいタイプは入りにくいというのが基本的な規則です。
私は彼にメチルドパ婆からもらった通行手形を使って難なく血管の外にでた。血管の外は複雑怪奇な世界が広がっていた。脳の神経のネットワークが複雑にからみあっているのだ。人間が思考し行動する大元になる場所だから複雑なのは当たり前だが、それにしても複雑怪奇としか言いようがなかった。脳内にある透明な液体の中を浮遊しながら私はメチルドパたちを探した。やがて彼女たちがある特定の場所に集まっているのを見つけた。
「スムーズに来れただろう」先ほど私に手形をくれたメチルドパ婆が話しかけてきた。
「ありがとうございました。ところで、ここは何をする場所なんでしょうか」私は手形を彼女に返しながら聞いた。
「ここはね。血管の運動を制御する大元の場所なんだわ。ここから体のいろいろな場所の血管に対して血管を拡げろとか血管を狭めよとかの指令を出しているってわけさ。つまり血圧を下げたり上げたりする大元の場所だ」
血管が拡がったり狭まったりする動きを制御する脳の一部を「血管運動中枢」と呼ぶ。そこから延びた管の先端には円盤状のものがあり、その円盤状の部分から例のノルアドレナリンが飛び出してきた。そして向かいにある網状になった部分にあるアルファ1作業場へと向かいそこに着地すると作業場の構造が変化した。
「あの網状になった部分から管がいくつか繋がりながら延びて血管へと行きつくのさ。その最後にある管の先端の浮遊体からもあのノルアドレナリンたちが飛び出して、血管の上にあったアルファ1作業場へ降り立つと血管を狭めるんだよ。そして血圧が上がるって寸法さ」メチルドパが目の前で起きている光景の解説をしてくれた。
「あんた。見ててご覧よ。私の仲間が仕事をするよ」
血管運動中枢から延びた管の先端にある円盤にはアルファ2と書かれた作業場があった。それはアルファ1作業場と空間を挟んで相対する位置にある。アルファ1作業場と似てはいるが構造が少し違う。メチルドパたちはそのアルファ2作業場を占拠しだしたのだ。そしてその作業場が変化しだすとこれまで勢いよく円盤から飛び出していたノルアドレナリンの勢いが止まりだした。それにつれて網状になった場所にあるアルファ1作業場へのノルアドレナリンの着地数も減って行く。アルファ1作業場の変化が少なくなると、最終的な管の先にある浮遊体からのノルアドレナリンの放出も少なくなる。その結果、血管への作業も弱まり血管は拡がりをみせて血圧が下がるという仕組みになっているわけだ。そのためメチルドパは血圧の薬の業界では「中枢性アルファ2受容体刺激薬」と呼ばれている。
「なんだかものすごい遠隔操作ですね」私はつい感嘆の声を上げた。
伯母はメチルドパを夕食後に飲んでいた。つまり夜から明け方にかけてメチルドパは総動員をかけることになる。メチルドパもドキサゾシンと同様にノルアドレナリンの働きを抑える働きをしていた。つまり交感神経から放出されるノルアドレナリンの働きを抑えるので、交感神経の働きが活発化する明け方、あのモーニングサージを効果的に抑えることができるわけだ。
しかしメチルドパの婆さんたちは脳内で余計な作業もしている。脳内のいたる場所でいたずらをしかけて眠気や悪夢を催したりさせているようだ。これがメチルドパの特徴的な副作用だ。
私は伯母の体の中から出ていくべき時がきたと思った。それは伯母が飲んでいる薬の働きが分かったからに他ならない。薬はその人に良い結果ももたらすこともあれば、悪い結果も引き起こす。その結果の良し悪しは薬を受け入れる人の体質とその薬を使いこなせる医師の腕にかかっていると言えよう。
第四章 座談会
1 取り残された者たち
私は知人の塩田丸男と伯母の安藤恵美子の体内で何種類の高血圧の薬として利用される連中と会ったかを数えてみた。塩田丸男が飲んでいた薬はインダパミドとアムロジピンの二種類で、伯母が飲んでいたのはエナラプリル、カンデサルタン、プロプラノロール、ドキサゾシン、メチルドパの五種類だ。それぞれ働き方が違っていたので別々の薬と言える。
インダパミドは降圧利尿薬と呼ばれ血液内の余分な水分を尿として外へ出しながら血管への圧力を減らし、かつ血管自体も拡げる働きもある。アムロジピンはカルシウム拮抗薬と呼ばれた。血管細胞内にカルシウムが入ってくると血管が狭まり血圧が上がるので、そのカルシウムの流入を抑える仕事をして血管を拡げて血圧を下げる。エナラプリルはACE阻害薬だった。血圧を上げてしまう八頭身ロボット、アンジオテンシンⅡが生れてくる原因となったACEという工場を操業停止に追い込ませる仕事して血圧を下げた。カンデサルタンはアンジオテンシン受容体阻害薬と呼ばれ、アンジオテンシンⅡが実際に作業をする場所で彼女の邪魔をして血圧を下げた。プロプラノロールはベータ受容体遮断薬と呼ばれた。ノルアドレナリンが心臓の収縮を強めて血管の中への血液の流れを多くして血圧を上げようとするのを邪魔する仕事をして血圧を下げる。ドキサゾシンはアルファ受容体遮断薬と呼ばれ、ノルアドレナリンが血管に働いて血管を狭めて血圧を上げようとするのを邪魔して血圧を下げた。最後のメチルドパはアルファ2受容体刺激薬と呼ばれている。脳の中の血圧に関わる仕事をしている神経に働きかけて、最終的に血管を拡げて血圧を下げてしまう薬だった。
それぞれは血圧を下げる働きを持っているのは十分に証明されているところだが、副作用について私は少しずつしか触れてこなかった。そこで私なりの副作用感について諸氏に述べさせて頂き、忌憚のない意見を聞かせてもらおうという会を開催することにした。私は国際会議場の十一階にある小会議室に午後一時に集合と召集をかけた。当日は梅雨の晴れ間であったが湿度が高く気温も三十度を越していたので出席率が気になっていた。
真っ先にやってきたのは老婆のメチルドパだった。
「こんな日に年寄りに外出させるなんて、どういう人なんだい」メチルドパは結構口が悪い。プロプラノロールは相変わらず不機嫌そうな頑固爺姿で現れた。それでも午後一時までには七名全員が揃ったのは私の心の中では画期的な出来事だった。会議室の扉が閉められ、司会役の私が開会のあいさつをしようとしたその時だった。会議室の扉がいきなり大きな音を立てて開いた。そこには六人の男女が立っていた。
「我々をこの会議に呼ばないのはどういうわけだ。失礼だろう」先頭にいた老人が険しい表情で私に向かって甲高い声で叫んだ。眼はまっすぐに私の眼を凝視し、私は思わず視線を逸らさざるを得なかった。
「突然乱入してくるお前たちの方が無礼者だ」頑固爺プロプラノロールが先頭の老人に言った。これまた鋭い視線を先頭の老人の目に向けた。お互いの視線が交錯し、一触即発の雰囲気が漂った。
その時「おお、お前さんはレセルピン翁じゃ」メチルドパ婆が懐かしそうな表情で先頭にいる老人に声をかけた。
私は彼らが誰かを一瞬にして理解していた。しかし今回は私が血管の中に入って出会った薬たちだけに来てもらうことにしていたのだから、彼らに失礼呼ばわりされるいわれはないと思っていた。
「身近な人たちだけを招待したもので特に他意はなかったのですがね。せっかくお出で下さったのだから席にお座りください」私は気持ちとは裏腹に彼らを空いた席に迎えいれた。
先頭にいた老人はレセルピンで血圧の薬業界の中では最高齢者といえる。さらに年齢不詳の中性的雰囲気の漂うカルベジロール、ベテランの中年女性スピロノラクトン、取り澄ました顔つきでどこか人を小馬鹿にした雰囲気のある青年アリスキレン、ベテランの職人気質の中年男性のフロセミド、そして最後にゆっくりと席についたのは年老いた印象の強い老婆ヒドララジンである。
私は一気に十三人の薬の相手をしなければならなくなった。つまり高血圧の薬には効き方の違う薬が数多くあり、同じ効き方のグループにも体つきの異なる、つまり構造の違う薬が何種類もあるので世の中に血圧の薬というのは綺羅星のごとくあると言える。中には十等星のようなものもあるが。この数の多さは昔から高血圧というのが身近な病気でかつ重い病気であったことを示しているのではないだろうか。古来、中風といわれた病気があった。現代の脳卒中のことだ。この原因に高血圧が大きく関係していると分かってから一気に薬の種類が増えていったのだろう。
2 大長老レセルピンはかく語り
レセルピン老は今もなお現役ではあるものの若い時と比べると出番は格段に少なくなった。よほどの事態が発生しない限りは使われない。椅子に座ったまま相変わらず私を睨みつけている。一呼吸おいてから私は話し始めた。
「今日は高血圧の領域で活躍されている皆さんにお集まり頂きました。すでに七名の方たちとは体内でお会いして活躍具合を確認させて頂いています。従いまして、今日は皆さんの負の側面、つまり副作用に関する話を私の方からさせて頂きたいと思いお集まり頂きました」
予め会合の主旨は通達していたはずだが、中には十分に把握していない連中もいて場が少しざわつきだした。
「我々の負のイメージをわざわざ公表するなんて、あまりと言えばあまりのやり様じゃないか」ベテラン中年男性のアムロジピンが早速口を開いた。
「お言葉ですが、薬には人の体に役立つ面と不利益を与える両面性を持っています。その事実を正しく患者さんや医療関係者に伝えることは安全で安心な治療を提供する上で非常に大切だと思います」私は真摯な気持ちでアムロジピンに対峙した。
全員に身に覚えがあるだろう、会議室内はシーンと静まり返ってしまった。
「不利益な面を隠したまま使い続けた結果、過去にも悲しい医療事故があったのは確かだ。いわゆる薬害と言われるものも副作用の延長だ。わしは情報公開するのに大賛成じゃ」そう発言したのは頑固爺のプロプラノロールだった。扱いにくい性格の頑固爺だとばかり思っていたが、薬の持つ問題に十分な理解をしてくれているのだと私は感動を覚えた。
「わしもその趣旨には賛成じゃ。のうおばば」そう言ったのは私をにらみ続けていたレセルピン翁であった。そして彼がおばばと呼びかけたのは老婆ヒドララジンであった。
「そうじゃ、そうじゃ」と老婆ヒドララジンは頷くだけだった。
「ただ不満は、わしら後から来た六人がどのような活躍をするのかが話されていないことじゃ」レセルピン翁の機嫌をなだめるには、まずは彼らの働きを紹介するしかなさそうだ。
「もちろん、そうですね。会の進行上、私の方から紹介させて頂いてよろしいですか」私は恐るおそるレセルピン翁を見た。
「構わんよ。のう、みなの衆」レセルピン翁がそう呼びかけると他の五人はただ黙ってうなずくだけだった。レセルピン翁は私が思っている以上に隠然たる力を持っているのかもしれない。
私はかつて血管の外で脳から続く長い管の先についた浮遊体を見たことがあった。そこから大勢のノルアドレナリンたちがポコポコと出てきて血管のアルファ1という作業場に着地すると血管が狭まり血圧が上がったのだった。
レセルピン翁の働きを確認するには、さらに浮遊体の中に入り込む必要があった。私はこの会議場の担当の女性事務職員者を呼び付けた。そして彼女の血管の中にレセルピン翁と共に入ってみた。高血圧でもない彼女に高血圧の薬を与えるのは酷というものだが、レセルピン翁一人きりに入ってもらうので大した影響は出ない。少し話が逸れてしまうのをお許し願いたいが、何故、レセルピン翁一人きりだと大丈夫なのかを説明したい。
レセルピンは0.25mgという量を一日に飲む薬である。化学を少しでも学んだ人なら分かると思うが、レセルピンは実際には化学物質である。究極の形はレセルピンという分子である。分子というのは何種類かの原子から成り立っている。レセルピンの場合は炭素原子が三十三個、水素原子が四十個、窒素原子が二個、酸素原子が十個で構成されている。そして分子量が六〇八.六八グラムだ。これはレセルピン分子が十の二十三乗個の約六.〇二倍集まった時の重さだ。詳しい計算は省くがレセルピン0.25mgはレセルピンの分子の数からすると約25京個に相当する。京は兆の一万倍の数である。日本の国家予算が約九十五兆円だから、血圧を十分に下げる量としては日本の国家予算の約二六三二倍のレセルピンの数が体内に投与されなければならない。だから今回一緒にくる一分子(たった一人)のレセルピン翁の影響など無に等しいといえる。
私たちは女性事務職員の血管外の浮遊体に近づいた。それは交感神経終末と呼ばれる部分でもある。そしてするりと内部に入った。その中には大型の格納庫のような建物が建っていた。私たちが着いてまもなく格納庫の正面口の扉が大きく開き、大型バスが出てきた。バスの中は大勢のノルアドレナリンたちでひしめきあっていた。大型バスはやがて浮遊体の端に行き、外に向けてノルアドレナリンたちを放出するように降車させていた。それは私が以前からよく見ていた浮遊体からポコポコとノルアドレナリンが出てくる光景を浮遊体の内側から見ている光景になるのだ。
私とレセルピン翁は格納庫の背後に回ってみた。そこではノルアドレナリンに似たような姿をした人々が格納庫の裏口の扉を開けて次々と中に入っていた。
「あれはドパミンじゃよ」これまで沈黙していたレセルピン翁が言った。
「中に入ってみましょうよ」私はレセルピン翁に声をかけて裏口から中に入った。
中には白衣を来た人たちがいた。ドパミンたちは手際よくベッドに寝かせられ体の一部にOというアルファベットが印刷された部品を整形外科的に取り付けられた。それだけでドパミンたちは私が良く見ていたノルアドレナリンへと変身できていたのだ。化学的にはドパミンの体の一部の水素に酸素が結合した水酸基という形に変化している。
「意外と簡単な作業ですね」私はレセルピン翁を振り返った。しかしそこに彼はいなかった。てっきり私の後から付いてきているものだと思っていた私は驚いて周囲を探したが、彼はまだ外にいた。というより中に入って来られずにいるようだった。むしろ入口を塞ぐのが彼の役割のようだった。そうなるとドパミンは当然この格納庫に入って来られなくなる。従ってノルアドレナリンもできなくなってくる。大型バスはわずかに残ったノルアドレナリンだけを乗せて出発するしかなく、その結果浮遊体から放出されるノルアドレナリンの数も減る。結局それは血圧を下げる方向に働くことになる。格納庫の入口の外にいるレセルピン翁に私は今考え付いた彼の役割を伝えてみた。交感神経の末端の方で働く高血圧の薬という意味でレセルピン翁は「末梢性交感神経抑制薬」と呼ばれている。
「そうじゃ。しかし一人きりでは辛いわな。そろそろ外に出んかい」弱音ともとれるレセルピン翁の声が返ってきた。
「年寄にいきなり何をさせるんじゃい」体外への帰路にレセルピン翁は私を恨めし気に見ながら疲れた様子で言った。
「あなたは脳にも行ける能力がありますよね。脳の中でノルアドレナリンが減るとどうなりますか?」私は彼の非難の声は無視して質問した。
「そんなこともお前は知らんのか?脳内でノルアドレナリンが不足すると「うつ」になりやすくなるんじゃ。最近のうつ病の薬では脳内のノルアドレナリンの量を減らさないようにする薬もある位じゃ」レセルピンは自慢げに言った。
レセルピンは古代のインドの医学書にも出てくるほど古くから知られている薬だ。もちろん一つの化学物質としてではなくある植物の薬草としての効果で知られていた。しかしレセルピンは血圧を下げるのは良いのだが、人によってはうつ病にもなってしまうという危険性もあるため、最近では特別な事情が無い限り用いられる機会は少なくなった。薬を中止しても数か月はうつ状態が続くという事実もあり、レセルピンにとってうつ病という副作用は重大な副作用としての位置付けになっている。
3 老女ヒドララジンは負けない
ヒドララジンも一癖ありそうな老女である。彼女の生まれも古い。四十年近く前は若きレセルピンと共に降圧薬の分野で主薬として君臨していた二人なのだ。かつてレセルピンとヒドララジンは二人仲良く合体しながら使われていた時代もあったくらいだ。
「ヒドララジンさん。私と一緒に来ていただけますか?」私がそう言うと物憂げな表情で静かに頷いた。会議室に控えていた女性事務員の血管内に再び老女ヒドララジンと共に入った。彼女の口数は少ない。
「私自身も何故かは分かっていないが、いつもここでしか仕事をしておらん」そう言った彼女の示す場所は動脈を構成している血管細胞だ。
以前カルシウム拮抗薬と呼ばれるアムロジピンが血管の細胞の中にカルシウムが入ってくるのを邪魔して血管が狭まるのを防いで血管を拡げていたのを見た。それと同じように老女ヒドララジンがやってくると動脈の血管細胞内のカルシウムが少なってきて、やがて血管は拡がりをみせ始めた。そして血圧は下がる。確かに細胞内のカルシウムの数は減っているが何故減るのかが十分に分かっていない。ヒドララジンも以前は人気があり盛んに使われていたが今では見る影もないほど利用されていない。そのためか今さら誰も熱心に老女の細かい作業を研究する者もいないのだろう。だから何故動脈だけを拡げて静脈を拡げないのかも謎のままだ。彼女は静脈の中ではわき目も振らずに一心に前を見ながら動脈を目指して血液の中を浮遊するだけだった。動脈に限定されるものの血管を拡げる血圧の薬というので老女ヒドララジンは「血管拡張薬」という分類をされている。
ここでヒドララジンの複雑な人間関係を紹介しておこう。老女ヒドララジンには強力な血管拡張作用があるため血圧は一気に下がろうとする。すると血圧を上げようとする勢力が体の中で動き出す。すべては脳からの指令によるのだがノルアドレナリンたちを放出する交感神経が活発になるのだ。ノルアドレナリンたちは心臓のベータ1作業場へ降り立ち作業を開始する。すると心臓の収縮が増して血圧を上げようと働き出す。また心臓の収縮回数も増えるので不自然な鼓動をするようになる。これは頻脈という不整脈で副作用の一つだ。また心臓への負担が増えると狭心症という胸の痛みを伴う心臓の病気を引き起こす場合もある。これも副作用だ。これらの症状を防ぐためにベータ遮断薬といった連中と一緒に行動させればよいとされている。何故ベータ遮断薬なのかというと彼らはノルアドレナリンたちの心臓への働きかけを邪魔する薬だからだ。
さらに活発化した交感神経は腎臓にも働きかけてレニンという強力なハサミを装備した巨大船の造船作業を活発にさせる。レニンはアンジオテンシノーゲンに働きかけて十頭身ロボットのアンジオテンシンⅠを作らせ、さらにACE工場で八頭身美人ロボットのアンジオテンシンⅡが作られた。アンジオテンシンⅡは血圧を上げるとともに副腎に働きかけてアルドステロン号を動かした。その結果として体にむくみを引き起こさせた。むくみは心臓の機能が低下した心不全の患者には悪い影響を与えるので、むくみも副作用になる。むくみを起こさせないために体内の水分やナトリウムを尿として積極的に出してやる薬、つまり利尿薬を一緒に行動させてやればよいとされている。
ヒドララジンで血圧を下げようとすると、その副作用を抑えるためにベータ遮断薬と利尿薬を一緒に飲まなければならなくなる。一緒に飲む薬だって副作用をもっていることを考えると副作用と遭遇する危険性がポーンと上がってしまうのだから、いろいろと有用な薬が他にもある現代においてヒドララジンは利用価値がかなり薄れていると言わざるをえない。但し、昔から利用されているため妊娠している女性に対して使っても安全であることが確かめられており、高血圧の薬の中で妊娠中の女性に対して利用できる数少ない薬の一つである。無表情だった老女ヒドララジンが妊娠時に安心して利用できると私が言った時だけ、ふっと笑みをこぼした。しかし直ぐに無表情になり会議ではそれ以上話をしなくなった。
4 両刀使いのカルベジロール
カルベジロールは中性的な印象がある年齢不詳の男である。ニヒルな表情が不気味でもあったが能力は意外と高い。アルファ1作業場を邪魔するドキサゾシンとベータ1作業場を邪魔するプロプラノロールの両方の能力をもっているのだ。血管を拡げて血圧を下げ、かつ心臓からの血液の押し出しを弱めて血圧を下げるというダブル効果を狙ったものだ。しかしベータ作業場に対しては区別をつけない男なのでベータ2作業場も邪魔をする。したがって喘息患者には使用が禁じられているのだ。彼や彼らの仲間はアルファ1受容体の阻害作用も持ってはいるが「ベータ受容体遮断薬」に分類されている。
5 熟女スピロノラクトンの誘い
この会議場はホテルが経営している。そこのホテルのボーイが私が予め頼んでおいたコーヒーを持ってきた。皆の前にコーヒーを置いて立ち去ろうとした時に私は彼を呼びつけた。
「悪いがちょっと私たちに協力してくれないか?」私は彼に十分間程度、黙ってここに立ってくれるように言った。怪訝そうな顔をしていたが無碍に顧客を断れないと思ったのかすぐに笑顔に戻って私の申し出を承諾した。
私は中年女性のスピロノラクトンを誘って今度はその男性の血管の中に入った。私は彼女を誘った時から彼女の私に対する目線が気になった。何か私を誘惑するような目線だ。しかしそれは彼女の生来持っている性格から来ているものだと知った。若いボーイの血管の中に入ったスピロノラクトンは、もはや私には興味が無くなった様子で若い男性の血管の中に入ったというだけで興奮しているようだった。
とりあえず私は熟女スピロノラクトンの働きを確かめるべく一緒に腎臓の集合管へと向かった。実は私はかつて塩田丸男の血管の中に入った時に、集合管の中でアルドステロン号の活躍を阻止する薬としてスピロノラクトンを紹介していた。アルドステロン号は集合管の主細胞の中にあるMRという船体とドッキングして核内へと移動した結果、AIPというロボットを作り出した。それが血圧を上げたり、むくみを引き起こすような悪さをしていたのだった。
熟女スピロノラクトンはアルドステロン号がMR船とドッキングする場に行き合わせた。そしてそのドッキングを見事に阻止してみせた。アルドステロン号の働きが阻止されると核内で製作されるAIPロボットが少なくなる。するとAIPロボットの働きであった尿の中にいるナトリウムと水の再吸収とカリウムの尿への放出ができなくなってしまう。体の外へ水分を吐き出す利尿効果は血圧を下げる方向に働くので熟女スピロノラクトンは降圧利尿薬の分類に入る。しかし残念ながらその力は他の高血圧の薬の力と比べると極めて弱い。ただカリウムを体内に引き戻そうとする力は強い。以前、利尿作用と血圧を下げる作用を併せもつインダパミドには血液中のカリウムの数を減らすという欠点があると指摘した。そこに熟女スピロノラクトンを一緒に行動させるとカリウムが血液中に戻り始め低カリウム血症になるのを防いでくれるのだ。
「インダパミドのおばさんと一緒はいやだけど、これも仕事だからね」と熟女スピロノラクトンは私に媚びるような視線を向けながらさらに続けた。
「それにあの堅物男のフロセミドともよく一緒に仕事するけどね。だから久しぶりに若い男性の体内に入って気持ちがいいわ」
「今回は話にはでないけど、最近は心不全の患者さんの体内にもあなたは良く出かけていると聞きましたよ」と私は話題を変えた。
「そうなのよ。あのアルドステロンって船団はたくさん集まると心臓にも悪さをするのよ。だからそこで私が彼らを懲らしめているってわけよ」熟女スピロノラクトンはそう言いながら血液の流れに任せてボーイの上半身の方へ行き始めた。
「どこへ行くんですか。そろそろ会議室に戻りますよ」私が声を掛けると、「まだ十分も経ってないわよ」と返事があった。彼女はどうやらボーイの胸の乳首付近の血管を目指しているようだった。
男性の乳首の下には女性ほどではないが乳腺と呼ばれる乳を分泌できる組織が小さく存在している。そして女性ホルモンと言われるエストロゲンやプロゲステロンの作業場も申し訳程度に存在している。女性の場合は女性ホルモンがそれぞれの作業場に働きかけて乳腺の発育を促し、乳房を大きくしたりして母乳を出す準備をする。
熟女スピロノラクトンは私にいたずら娘のような視線を向けた。「見ててね」そういうと彼女は乳腺表面にあるプロゲステロンの作業場へ着地した。すると作業場の形が少し変化した。どうやら乳腺の細胞が増え始めようとしているようだった。これを続けさせると何が起こるかは目に見えていた。私は無理矢理、彼女の腕を引っ張り体外へと進んだ。
「これからだったのに~」熟女に似合わない可愛らしい声を出しても私には通用しない。せっかく私に協力してくれたボーイに迷惑はかけられない。乳腺が増え始めると男性の胸だって膨らんだようになってくるのだ。これを女性化乳房という。熟女スピロノラクトンの立派な副作用である。
6 出すぞおしっこ、フロセミド
細井満智夫の体内巡りをしていた時に尿細管の中に入ったことがあった。その一部分にヘンレのループがあり、そこから続く上行脚という場所にナトリウム・カリウム・クロル共輸送体という装置があった。そこで行われるナトリウムなどの再吸収の威力はかなり強大なので、この装置を働けなくするとナトリウムの尿への排泄は格段に進む。そして尿中のナトリウムが多ければ多いほど一緒に体の外へ出て行く水の量は多くなるのでナトリウム・カリウム・クロル共輸送体を確実に押さえておきさえすれば利尿効果はかなり強力なものになる。フロセミドは中年男性で顔付きは職人肌というか仕事に対する一徹さを思わせる容貌している。彼はその共輸送体を徹底して抑え込む男なのだ。
私はボーイにもう少し付き合ってくれと頼みこんだ。胸に少し違和感を覚えていたようだったが今回も快く応じてくれた。彼の血液の中に入った私たちは腎臓の血管へと向かった。尿細管にまとわりついている血管にたどりつくと、さらに尿細管の細胞の中を通り尿細管の中の原尿の中へ進んだ。この道筋は降圧利尿薬として紹介したインダパミドと同じだ。原尿にでた私たちはヘンレのループを通り、目的地である上行脚にあるナトリウム・カリウム・クロル共輸送体にたどりついた。眼の前でナトリウムやカリウムそしてクロルが共輸送体を通じて尿細管の細胞の中に次々と入っていく。周辺からはナトリウムやカリウムそしてクロルがどんどんと無くなっている。それらのミネラルを体は再利用しようというのだからその行為自体は責められない。
しかし何らかの病気にかかりナトリウムなどと共に水を体に溜め込んで体全体が浮腫んでしまって心臓に大きな負担をかけてしまい心不全になるようでは本末転倒になる。できるだけむくみを取ってやる必要がある。つまり体の中で溜まり過ぎた水分を尿として抜き取ってしまうのだ。フロセミドはその身を共輸送体に委ねるように入り口部分を塞いでしまう。共輸送体を利用しようとするナトリウムたちがフロセミドの背中にどんどんとぶつかってくる。フロセミドは顔色一つ変えずにしがみつく。やがて背中のシャツもボロボロになり肌も赤く爛れてくる。「いつもなら代わりが来てくれるのだが」フロセミドがつぶやいた。私は彼一人きりではもう限界と察して彼の手を引いて体外にでることにした。
フロセミドは疲労困憊気味の様子で用意された椅子に深々と座った。背中の赤い腫れが痛い痛しい。側にいたボーイがもじもじし出した。
「御用はお済みでしょうか?私はこれで失礼させて頂きます」そういうと急いで部屋から出て行った。
「トイレに行くのよ」私の傍にいたインダパミドが笑いながら言った。たった一人のフロセミドでそのような力はないはずだ。たまたまトイレに行きたかっただけだろう。
「フロセミドさんは利尿作用が強力なんだから、直ぐにおしっこに行きたくなるのよ。でも私の利尿作用は弱いけれど血圧を下げる力は私の方があるのよ」インダパミドは高血圧の分野では自分の方がフロセミドよりも優秀だと言わんばかりの顔をした。 確かにフロセミドの利尿作用は強力であるが、インダパミドのように血管を拡げる働きは持っていないとされる。その分、血圧を下げる力は劣ってしまう。
副作用ではインダパミドと同様なものが多い。血液中の尿酸を多くしたり、血液中のブドウ糖(つまり血糖値)の数を高めにしたり、血液中のカリウムの数を減らしたりする。
7 新参者のアリスキレン
最後に残ったのはこの高血圧治療薬の中でも新参者のアリスキンだ。取り澄ました顔つきは周囲を小馬鹿にしたような雰囲気を漂わせる。若いがどうも私はこのタイプが苦手だ。
「次は僕ですよね」痺れを切らして自分から名乗りをあげた。
「僕は二〇〇九年に生まれたアリスキレンです」彼はどうだと言わんばかりに周囲を見渡した。皆の反応は特になく冷淡にも感じられた。それにも関わらず彼は自分の業績を滔滔と語り始めた。
かつて安藤美惠子の体内でみた四五三個の部品からなる巨大ロボット、アンジオテンシノーゲンとその体の一部にハサミをいれたレニン号の話に遡る。彼の話によるとこうなる。
私が母なるアンジオテンシノーゲンと呼んだ巨大ロボットはレニン号が積載するハサミのような重機によって巧みに切断される。するとアンジオテンシンⅠとよぶ十頭身の少々アンバランスなロボットが出来上がった。さらにACEという建物の中でアンジオテンシンⅡの八頭身の美人ロボットへと変換され、彼女が血圧を高める役割を果たしていた。これまではアンジオテンシンⅡの働きを止めていたのはエナラプリルでありカンデサルタンであった。彼らはそれぞれアンジオテンシンⅡが出来上がってくるところを抑えたり、アンジオテンシンⅡが働く場所でその活躍を抑えたりしていた。アリスキレンはそうじゃないという。エナラプリルやカンデサルタンよりさも上位者であるかのように上から目線で話だす雰囲気に私はますます嫌気がさしてきた。しかし個人的な感情と臨床における役割は別問題だ。
彼はハサミ重機を装着したレニン号を直接攻撃して抑え込むのだという。彼の言うことが本当だとするとアンジオテンシノーゲンからアンジオテンシンⅠが出来上がる工程を抑え込むので、確かにより上流の部分でアンジオテンシンⅡの役割を抑え込める寸法だ。
「僕はエナラプリルさんやカンデサルタンさんの欠点をカバーしていると大いに自信を持って言えます。つまりエナラプリルさんはACEの建物でアンジオテンシンⅡが出来てくるのを抑え込むことはできても血液中を漂うキマーゼ船団には歯が立ちません。つまりまんまとキマーゼ船団にアンジオテンシンⅡを作らせているわけです。一方でカンデサルタンさんはアンジオテンシンⅡが作業するAT1作業場で彼らの作業を邪魔するわけですが、アンジオテンシンⅡ自体は血液中に残ったままの状態です。残っている以上、どこかで影響がでてくる可能性を秘めています。つまりお二方とも仕事に片手落ちがあるわけです。そこで私の登場です。レニン号を直接抑え込むのでアンジオテンシンⅡをまったく産出させないのです。そのシステムに漏れは無いといえます」アリスキレンは自慢気な顔で、テーブルについている皆の顔をぐるりと見渡した。
ほとんどの者は無表情に黙って聞いていたが、ある者は敵意をむき出しにしていた。カンデサルタンだった。
「君は体への吸収が悪いと聞いているよ。君たち百人が口から入った時に血液の中に入れるのは二人か三人しかいないというではないか。食事の影響ももろに受けてしまうだろう。そんな不安定な吸収の薬が果たして有用なのかね」カンデサルタンはアリスキレンを凝視しながら質問した。
「臨床試験で血圧が下がることは証明されています」気色ばんでアリスキレンは言った。
「なんでも食後に飲んだ時は空腹時に飲んだ時と比べて三分の一程度しか血液の中に入れないそうじゃないか?」カンデサルタンはアリスキレンの気負いを削ぐように続ける。
「効果が出るようにと食事前に飲めと言われた人が飲み忘れて食事の後で飲むと効果が無くなってしまうってわけだ」
「血液中の数は減るが効果は出ます。それは確かなんです。副作用を考えると食事の後で飲んでもらうのが安全でしょう。食事の前で飲んだり後で飲んだりと言う気ままな習慣があると困りますが、食事の後で飲んでもらって血圧が下がるのを実感してもらいたいのです」アリスキレンは意固地になっていた。
なんとなく場もしらけてきたので私はそろそろ次の話題に移ろうと提案した。次はいよいよ私が話す番だ。
ちなみにアリスキレンはレニン・アンジオテンシン・アルドステロン系の最上流部分にあたるレニンの働きを弱めるというので、高血圧の薬の分野では「直接的レニン阻害薬」と呼ばれている。
8 副作用論 その一「薬の作用の延長型」
世の中にある様々な物質の中で人の体に大きな影響を与えるものを「生理活性物質」という難しい名前で呼ぶ。その中で人の体に良い影響を与えるもの、つまり人の病気を治してくれるものは「薬」と呼ぶ。一方人の体に悪い影響を与えるものは「毒」と呼ぶ。病気を治してくれるのが薬なのだが、結構むらっ気の多い薬もあって病気を治してくれるものの別の働きで人を困らせる場合も多い。この人を困らせる働きを「副作用」と呼んでいる。有害作用とも呼ばれる。副作用は大きく三つに分類できる。この三つの分類を良く理解すれば、飲むのを直ぐに止めるべき副作用なのか、飲む薬の量を減らせばよい副作用なのか、別の同じ作用の薬に切り替えればよい副作用なのかの区別がつくようになる。
その一つ目は薬が本来持っている作用の延長線上の副作用だ。血圧の薬を飲めば血圧は下がる。しかし一回に多くの薬を飲めば血圧が下がり過ぎてふらふらになる。ひどい時は脳にしっかり血液が届かなくなって気を失ってしまう場合もある。これが第一の副作用で薬の作用の延長線上にある副作用だ。本来の薬の作用が強く出るのだから、その副作用の起きる確率は高い。今回は血圧を下げる薬諸氏に集まってもらったので、先ほどの副作用は各氏に共通する副作用だ。血圧が下がり過ぎると脳は血圧を上げよとの指令を体の各所に出し始める。交感神経という神経を借りてその神経の先端からノルアドレナリンという血圧を上げる物質を放出する。ノルアドレナリンは血管にあるアルファ1作業場に働いて血管を狭めて血圧を上げる。さらに心臓にあるベータ1作業場に働いて心臓の動きを活発にする。すると心臓の鼓動が活発になって胸のドキドキ感が強くなり動悸や脈の変化として人は感じる。これらも薬の作用の延長上の副作用と言える。
アムロジピンはカルシウム拮抗薬という分類の血管を拡げる薬だった。顔にある血管が拡がるとどうなるか?血管の中を通る赤い血液が増えて、恥ずかしくもないのに顔面が紅くなって見える。これを顔面紅潮と呼ぶ。薬の作用の延長上の副作用だ。私が塩田丸男の恥じらいの紅い顔に感じた副作用だ。ベーター遮断薬のプロプラノロールやカルベジロールたちがベータ2作業場にも多かれ少なかれちょっかいを出して私の伯母に喘息のような咳き込みをさせたのも彼らが本来持っている薬の作用の延長上の副作用になる。
血圧が下がり過ぎて、さらに薬の作用の延長上の副作用が出ているのであれば薬の量を減らせばよい。血圧が丁度よく下がって、そのような副作用が出ている時は、同系統の薬で作用がよりマイルドな薬に変更する手段もある。薬の作用の延長線上の副作用は、その薬自体を止める必要はなく何かの工夫をして続けることも可能なのだ。
9 副作用論 その二「薬の通過障害型」
二つ目の副作用は、薬自体が持つ毒性だ。毒性というと言葉がきついかもしれない。人がドアを開けて家の中に入る場面を想像してみよう。人は毎日何回もドアを開けては家に出入りをする。やがてドアは経年劣化によって蝶番部分が壊れて開け閉めがしにくくなる。その時は蝶番部分を修繕したり交換してやれば再び元のように出入りができるようになる。しかし何かのきっかけで修繕もできない状態になるとそのドアは壊れた状態となりドア自体を取り換えるほどの大修理をせねばならなくなる。
これと同じように考えて、薬が体の中に入ってきてどこかの臓器を通過したとする。たとえば肝臓では薬の代謝という反応が行われていた。体の中で起きている化学反応だが、反応の際に熱が出たり、やたらと元気な化学物質ができたりして周囲の細胞や肝臓を傷つけてしまう場合がある。しかし体は修復機能を持っていて肝臓の壊れた部分もすぐに修復してしまうので一見何事も無かったように見える。一方で薬が長期間に渡って使われると、その人の体調によっては修復機能が十分に働かなくなる時も出てくる。すると肝臓の細胞の一部が壊れたままになり本来の薬の代謝という働きも弱ってしまう。肝臓の一部が壊れると肝臓の細胞の中にある物質が血液の中に漏れ出てしまったり、肝臓の中にある黄色い物質が胆汁に混じって小腸の中に出て行かずに血液の中へと逆流して体を黄色く染める黄疸という症状が出たりする。
このような副作用を毒性型副作用と呼ぶ。薬が通過する際に周りに障害を与えていく副作用という意味では通過障害型副作用と言った方が分かりやすいかもしれない。
薬の通り道となりやすい場所は薬を飲んで最初に吸収される場所である小腸などの消化管、次に消化管から吸収されて門脈の中を通って行きつく先の肝臓、さらに静脈の流れに乗って心臓に一旦集中してから全身を巡るが、主要な薬の出口の一つである腎臓。そういった所が薬の通過障害による副作用が現れやすいと言われている。その他にも白血球などの血球を作る骨髄や脳神経にも影響が出やすいようだ。
通過障害型の副作用は長期間に渡って飲めば飲むほど、または多くの量を飲めば飲むほど出てきやすい副作用といえる。ずっと同じ薬を飲んでも大丈夫だったのに最近妙に体調がおかしいという場合は病気の変化もあるが、この手の薬の副作用が出始めているのかもしれない。このような場合は薬を減らすとか、中止するとか、他の薬に変更するなどの処置がとられる。また、この副作用は定期的に血液検査などをしていると肝臓の機能、腎臓の機能、血液の機能などを知る検査値で引っかかってくるものが多いので、定期的な血液検査は病気の状態を知る上でも大切だが薬の副作用のチェックという意味でも重要な手掛かりになっている。
もちろんその一の「薬の作用の延長型」の副作用も長期間服用していると出てしまう時もある。もっぱら腎臓から尿に混じって体の外へと出ていた薬が腎臓の働きが年齢と共に鈍くなってくると、その薬は血液の中に残りやすくなってくる。つまり体の中に薬が多くなってきて薬の作用の延長型の副作用もでやすくなるのだ。
10 副作用論 その三「薬への過敏症型」
最後は薬への過敏症型の副作用である。薬に対してアレルギー症状を起すという表現もある。これまで見てきた二つの副作用のタイプは薬が人間の体に悪さをするタイプだった。今回の場合は人間の体が薬に攻撃をしかけるのだが、それが逆に人間の体に悪影響を与えてしまうものだ。具体的には蕁麻疹がでたり、痒みがでたり、皮膚が水ぶくれになり赤く腫れて剥がれ落ちてくる重い皮膚症状がでたり、肺炎や肝臓炎も引き起こす。アナフィラキシーショックという死にいたることもある怖い過敏症もある。過敏症型の共通する特徴はごく少量の薬でも起こり、一旦起こるとその症状は重いという点である。
人間の体の中には体の中に入ってきた異物を排除する機能が備わっている。その機能を「免疫」と呼んでいる。体を守ってくれる防衛軍と言ってよいだろう。その免疫防衛軍は「免疫細胞」とよばれる細胞の集団が担当する部隊と「免疫グロブリン」という蛋白質の集団が担当する部隊に分かれる。それらが人間に悪さをするウイルスや細菌や毒素を駆除してくれて、決して自分たちの部隊が存在する人間の体にある味方の蛋白質や臓器は攻撃しないのだ。ただ例外的な病気もある。代表的な例が関節リウマチに代表される自己免疫疾患と呼ばれるものだ。自国の防衛軍が自国民を攻撃するようなものなのだ。
一方で、薬は外からやってきた異物つまりエーリアンだが、薬自体は小さい物質なので免疫防衛軍からは見逃さられる。免疫防衛軍は蛋白質のような比較的大きな物体しか狙えないのだ。ではなぜ小さな薬に対して反応するのだろうか。
それは薬が何かの拍子に体の中にある蛋白質や臓器の一部などの大きな物質に結合して、薬を含めた巨大化物質ができるためだ。免疫部隊は薬がくっ付いてわずかに変化した巨大化物質を外部から侵入したエーリアンとみなして攻撃するのだ。この時に担当する部隊は主に免疫グロブリンの集団だが、攻撃する時にいろいろな武器が利用される。攻撃に利用された武器は人間の体の正常な部分にまで被害を与え、それがアレルギー症状となって現れるのだ。
免疫グロブリン部隊は最初にエーリアンが入ってきた時にはあまり反応しない特徴がある。最初に侵入してきた時にエーリアンのタイプを覚えておいて、そのエーリアンを攻撃しやすい型の免疫グロブリンを作り置きしておくのだ。二回目にそのエーリアンが体の中に入ってきた時に、専用に用意しておいた免疫グロブリンが一斉に体外物質に襲いかかって様々な武器を使いながらエーリアンを分解して排除してしまうのである。
話はややこしくなるが、免疫は病気の原因となるウイルスや細菌を排除してくれるので本来は良い働きとなる。この時に働いてくれる免疫グロブリンはGタイプと呼ばれる。しかし薬の大きな過敏症の副作用につながる免疫グロブリンはEタイプと呼ばれるものだ。このEタイプ免疫グロブリンが大量発生すると肥満細胞という細胞に働きかけて、細胞の中にあるアレルギー物質ヒスタミンを大量に周囲に撒き散らしてしまう。これが様々な過敏症型副作用を引き起こしてしまうのだ。もちろんGタイプの免疫グロブリンも悪さをするのだが話が混乱するといけないので、今回は重い過敏症を引き起こすEタイプの話にとどめておこう。
過敏症型の副作用は二回目以降に発生しやすいことは先ほども言ったが、多くの場合は半年以内に起こるとされている。薬を飲み始めて半年間、過敏症型の副作用が起きなかったら、まずその人には過敏症型副作用は起こらないと考えてよいだろう。半年以降は薬の通過障害型の副作用が出てこないかどうかを気にすればよいことになる。むろん世の中には例外のない出来事はないという事実は頭の隅に置く必要がある。
過敏症型副作用の場合はEタイプの免疫グロブリンがその薬を記憶しているので、同じ薬を再び飲んでしまうと同じように免疫反応が起こり、さらに強い反応が起こる可能性もある。従って、過敏症型副作用が起こったら、その薬は直ぐに中止して二度とその薬を飲まないようにすることが大切である。
第五章 先の見えない戦いにしない
会議室に集まった連中はみな神妙な顔をして私の話を聞いていた。誰しも身に覚えのある副作用の話なのだ。薬は確かに病気を治す働きがあるが、それとは別に体を傷つける働きも持っている。重い軽いはあるにしても副作用の無い治療薬は無いと断言して良いくらいだ。
副作用を放置して重い病気になって更に治療が必要になる場合もある。だからと言って薬を怖がって飲まないでいると病気の本体が体をむしばんでいく。
なんども言うが薬は使いようなのだ。副作用が心配なら主治医や薬をもらう薬剤師によく相談してみることだ。近頃、「この薬は危険だから止めなさい」とか「この薬は効かないから止めなさい」といったセンセーショナルな記事が週刊誌の特集で組まれていたりする。副作用が出るのは当たり前で、それをことさら取り上げて薬を自己判断で中止させようとする勢いすらある。今まで知らなかった薬のことを医師や薬剤師に聞いて納得がいく治療になるきっかけになればよいと個人的には思っている。
残念ながら世の中には製薬会社の宣伝に乗って安易に薬を使う医師がいるのも事実で、主治医が信頼できないようなら医者を替えてみるのも一つの手だ。替えなくてもセカンドオピニオンという手もある。何より薬の専門家であるかかりつけの薬剤師によく相談してみるのも大切だ。日中は患者対応に追われて中々十分な相談に乗ってくれないかもしれないが、空き時間にでも自宅に電話をかけてもらうように申し出ても良いだろう。それでも相手をしてくれない薬剤師はダメな薬剤師だろう。
医師も薬剤師も患者によって成長していく・・・のも事実だということを付け加えさせて頂く。また、難しいかもしれないが安心して薬の治療を続けていくためにも患者さん自身も積極的に治療に参加して頂きたいものである。
高血圧もそうだが、糖尿病や脂質異常症は食事や運動不足が密接に関係する生活習慣病である。そして放置していると今は何ともないが、将来、脳梗塞になって半身不随になったり、心筋梗塞になって突然死になったりすることもある。それだけ将来的に重病になりやすい病気でもある。薬だけでは治せない病気なのである。しかし、それを分かっていても普段の生活の節制は難しいものがある。先の見えない戦いであるが、本人が自分の病気を他人事と考えずしっかり理解することが大切だ。
ちなみに塩田丸男は、しっかりと体重がリバウンドして元に戻り、大量の汗を流し紅い顔をしながら動き回っている。そして薬はより強力なものに変更になったという話だ。
おわり