04.白雪姫は幸せになりたい
春になったとはいえ、まだ寒い。
人気のない診療所は特にそうで、暖を入れてもすぐには暖まらないだろう。
「それ羽織っとけ」
その辺りに座るように促し、白雪の頭に被せていた上着を指しながらそう指示する。
「セイハはいいの?」
わざわざ寒い診療所を選んだのは、話に集中したいセイハの我が儘なのだからそれくらい一向に構わない。それに、
「んなこと言う前に自分の手でも温めとけ」
何の気なしに触れた白雪の手は驚くほど冷たかった。自分の手に馴染むほどの温度ならともかく、あのように冷たければどうしてもそちらに意識を移してしまうのだ。それは勘弁願いたい。
セイハの素っ気ない言い分に白雪は小さく頷いた。
「……本当に聞く気があるの?」
いつものように相手の真正面を陣取ったセイハは、白雪の問いに不満げな顔をした。
「だからさっきから、あるっていってるだろ」
「だってセイハ、私の昔の話は聞きたくありません、考えたくありませんって頑なになっていた節があるでしょう」
頑な。正にその通りだ。
ぐうの音も出ず、セイハは盛大に顔を顰めた。白雪の『昔』という単語にさえ神経を張り巡らせている自分も面倒でうんざりする。
「……。聞きたくないんじゃなくて、聞けなかったんだよ」
「同じじゃない」
「願望形と可能形では全然違うだろう」
口が悪い、言葉がテキトーと評される自分が言葉尻に拘る日が来るとは思ってなかった。
「ねえ、セイハ。“幸せ”って何?」
突然飛んできた突拍子のない疑問にセイハは目を瞬いた。
「それ、今関係あるか?」
「とても」
誤魔化してしまおうかと窺った白雪の顔は真剣そのもので、とても有耶無耶に出来る様子ではなかった。そんなこと、セイハに出来るはずがない。
「…また難しいことを聞くな」
自身の膝に肘を置き頬杖をついたセイハに白雪はコテンと頭を傾けた。
「難しいことなの?」
「そりゃあな。お前にとっては簡単なのか?」
「分からないから、聞いたの。
ある人は、そんな当たり前のことを、というようにバカにしたように笑ったの。」
当たり前。また大層な。セイハに言わせれば、それを揶揄できるのは考えに考えて悟りでも開いた自称・高尚なお方か、何も考えてない可哀想な奴くらいだ。どこの誰かは知らないが、白雪にとって考えるに値する者なのだろうか。
へー、とそんな不信感を飲み込みながらセイハは頷く。だから、と白雪は続ける。
「だから、セイハにも聞いてみたいと思ったの。セイハの…セイハにとっての“幸せ”を私は聞きたいの」
「……。」
「私は、」
白雪は一度言葉を切る。少し迷ったように白雪の碧の瞳が揺れた。セイハは黙ってそれを見つめた。
セイハは白雪の瞳の色が割りと気に入っている。白雪は自身のみてくれにすこぶる自信を持っていた。腹の立つことに、白雪の自身への評価は間違いでも過剰でもない。世間一般からみて、白雪の容姿がとてつもなく整っているし、髪だって長くて美しい。声は甘過ぎず、透明感のある涼やかさを持ちよく通る。鳥が集まってくる様をみた時には驚きを通り越して引いた。
白雪は自分の見た目が大好きなようだが、瞳の色にはどうやら不満があるらしい。白雪曰く、暗い色。ニキ達の明るい色合いの瞳を羨ましがっているのを、セイハはいつか見かけた。
(分かってないな。)
深い色合いの緑は凛としていて、白雪そのものだと、セイハは思うのだ。絶対口には出さないけれど。
数拍瞳は揺れたが、最後には意を決したようにセイハを射抜く。
ほら、ぴったりだ。
「私はね、“幸せ”になりたかったの。」
具体的にどうなりたい、なんて考えたことはなかった。ただ“幸せ”になりたいと思ったの。
周りは私を“幸せ”だと言っていた。美しい容姿も髪も声も生まれたときから与えられていて、何でも欲しいものが与えられ、望みも何でも叶えて貰える私は“幸せ”な者だと。だから私も自分は“幸せ”なのだと思って――信じていたの。
母様は私を産んですぐ亡くなった。父様は私のせいで母様は死んだのだと詰った。義母様は私を疎んでいた。けれど、私は“幸せ”なのだと信じていた。
私を無いものとして扱っていた父様が私を母様の名前で呼び始めたときも、義母様が刺客を放っていたのを知ったときも、私は“幸せ”なのだと信じていた。信じていれば、辛くなかったから。
痛みで意識が朦朧とする中――私のこれからの運命を知ったときも今までは偽りの“幸せ”で、今までは本当の“幸せ”を手に入れるための困難なのだなと思ったの。そうすれば、なんてことないことだと思えた。
運命のままに従っておけば、“幸せ”になれるのだと思ったの。私って美しいでしょう?美しいのは神様に愛されてるからでしょう。運命、つまりその神様の采配に沿えば、たどり着くのは“幸せ”に決まっている。その為の過程だと思えば、安心してここに居れた。少しイレギュラーもいたけれど…私の運命と関わりのないイレギュラーだと思えば、何を言われても流せたし、歯向かえたし、甘えられた。
それがね、案外楽しくて困っちゃった。
けれど、私の望んでいた運命の“幸せ”を与えてくれるであろう人にね、今の私は“不幸”だと言われたの。
途端、“幸せ”が分からなくなった。いや、元々分かってはいなかったし、考えたこともなかったのだけど。
「だから、教えて、セイハ。」
白雪の話は本人も分かっていないからかあやふやな部分も多いし、ただ言葉を並び立てているだけで理論然としていない。だからこそ、それは白雪の感じていることの全てなのだと分かる。人の心は矛盾や可笑しなところばかりだ。セイハもその例に漏れない。
「その『当たり前のことを聞くな』と笑った奴はどうした」
“運命の“幸せ”を与えてくれるであろう人”という形容はあえて避ける。そんな風に、呼んでやるものか。
セイハへの問いが終わるまで外で待ってもらってるの、と言われたらどうしようかと考えていると、白雪はけろりと答える。追い返したら流石に白雪に恨まれるだろうか。
「お引き取り願ったわ」
「……は?」
「あちらはどうにか私を連れて帰りたかったようなのだけれど」
まさか、とセイハは腰を浮かす。セイハの視線は白雪の髪に釘付けになった。抵抗する白雪を力でものを言わせようとしたのではないかと思いを巡らすと、心臓を氷水にぶちこんだような感覚に襲われる。
「鬱陶しかったから、その方の大好きな髪をみせしめに切って、差し上げてきたわ」
そしたら面白いくらい興味を無くしてくれたの、と白雪が愉快そうに笑う。
「……本当か」
「嘘をついてどうするの」
眉を寄せる白雪をよくよく確認してからセイハはようやく腰を落ち着ける。
「驚いた?」
「…………………心臓が止まるかとは思った」
ここは『心配した』というのが正しいということは流石のセイハも分かった。言うべき言葉が分かった次に必要なのは素直な心だ。先は長い。
「どうしたの、やけに素直ね」
「……。」
白雪にとってのセイハはどんなもんなのだろうか。自分の評価の低さに頭が痛い。それほどの評価しか貰えないことをセイハはしてきたのだ。
「……訂正する。」
心配した。
素直な心を持つのはまだ難しいが、虚栄心を足せばまだどうにかなる。無駄に持っている虚栄心とほんの少しの素直さを掻き集めて、寄せ集めて、力業でひと纏めにして、押さえつけてようやく言葉になる。
表情も声も苦々しさが隠せていない。隠せるような器用さを持ち合わせていたら、妹達の点数付けにマイナス評価など加えられなかったはずだ。
「そう。」
「ああ。」
そんなもので瞼をぱたぱたと開閉して嬉しさをやり過ごそうとしている白雪は、随分ちょろいと思うし、今までどうやって甘言製造機のような世界を乗りきってきたのか分からないが、まあ、頑張りがいがある。
「まあ、お前がそれでいいならいいけど」
ふふ、と白雪が吹き出す。
「不満そうね」
「そりゃあな」
その場では仕方ないことだったのかもしれないが、白雪が髪を差し出してやるほど価値のある者にはどうしても思えなかった。やっかみを含んでしまっているのは多目にみて欲しい。
「どうせ“世界一”ではないようにしなければならなかったから丁度よかったのよ。」
セイハは手を伸ばして白雪の髪にそっと触れた。乱雑な切り口は鋏で切ったのではないのが窺える。引き千切ったといっていいだろう毛先は当然傷んでいる。そう、引き千切ったのだ。じゃあ、なんだ。剣や適当な刃物の類いだろう。
「……セイハ」
「ん」
「そんな目で見られたら悪いことしたみたいで、嫌だわ」
視線を上げれば、白雪はそれに合わせてふいと目線をそらした。セイハは息を吐くように小さく笑った。相手が及び腰だと余裕が出てくるという面倒な質を持っているセイハは、無意識のうちに身を引いている白雪に身を乗り出した。そして痛々しい毛先を口許に持っていく。
「ざまあみろ」
思い知ればいい。
「で、なんだったか。幸せな、幸せ」
口を戦慄かせる白雪を遮るようにセイハは問題に移る。白雪は不満そうに口を開くが、結局何も言わずに閉じた。賢明な判断だ。
「そんなものは人それぞれだろ。価値観によって違うんだから。
金とか物質的なものではかる奴もいるだろうし、地位や名声、もしくは自分の気持ちとか精神的なのもあるし、」
「そんな説明では分からないわ」
「だから、難しいって言ってるだろ」
唇を尖らして抗議する白雪に勘弁してくれとセイハは表情を渋くする。こんな抽象的な表現だが、これでも必死に考えたのだ。すると、白雪は違うのだと首を振った。
「私は、セイハの“幸せ”を聞いているの」
どこまでも真っ直ぐな瞳に気圧されそうになるのを堪える。逃げるだとかかわすだなんてセイハのプライドが許してくれない。
「……そんなもん、分かってたら苦労しない。」
誤魔化してなどいない。これがセイハの等身大の思いだ。
「けど、じゃあ不幸かって言われるとそんなことはない。不幸か幸せかって聞かれたら、『たぶん幸せだ』と俺は答えるだろう」
「曖昧……」
「たぶん、そんなもんだと思うがな、俺は」
唇を尖らす白雪を放ってセイハは視線を空にやって、考えを巡らす。
「じゃあ、俺もひとついいか」
「じゃあって、セイハ、きちんと答えてないじゃない」
はいはい、と白雪の文句を聞き流す。
「お前にとっての幸せは“与えられるモノ”なのか?」
パチリと碧色の瞳が瞬いた。目から鱗だとでも言うような様子にセイハは唸った。たぶんこの様子だと考えたこともなかったのだろう。時折垣間見る白雪の世界の狭さはセイハをやるせない気持ちにさせる。
「違うの?」
別にそう考えるのは個々の自由なので構わないが、問題なのは他の考えを知らないということだ。
「…さあ、どうだろうな」
不満そうな白雪の額を指先でおしたセイハは苦笑ともとれる風に小さく笑った。額をおさえる白雪を目を細めて見つめる。無造作にさらさらと白雪の髪に指を通す。すぐすき終わってしまうのが少し寂しい。
「よし、来い」
意を決したように、セイハは突然立ち上がった。白雪の腕を掴もうとして、――少し考えてから手を握って促す。
「え?どこに行くの?」
「庭」
「話は終わったということ?」
目を白黒させる白雪に録な説明も与えず、セイハはただニヤリと笑ってみせるだけだ。
「いや、全然?」
首を傾げる白雪に、まあまあとセイハはおざなりに宥める。そんなのでも白雪は最終的には大人しく着いてくるのだから、生来の素直さが窺える。
足取り軽くセイハが向かったのは、庭の、花壇。そこに近づくにつれみえるものに白雪の目は釘付けになる。濃い緑の葉の海に、ぽつぽつと浮かぶのは赤ばかりだ。
「残念ながら、お前の言っていた青のラルカは咲かなかったようだな」
残念ながらと口にしておきながら、セイハの表情は全く残念そうではない。寧ろ得意げに笑みを刻んでいる。
昨日はまだつぼみだったが、今日がたついに咲いたらしい。それをいち早く気付いたのが、丹精に世話していた白雪ではなくセイハなのが気に食わないが、そんな白雪より早く見つけてしまっている時点でセイハも気にしていたことが窺える。
青色の花弁をつけたラルカは咲かなかった。
「『幸せが訪れ』なかったな。」
白雪は驚いてセイハを見上げた。
「まあ、花があるからお前が粘ってた節もあるようだし、そう考えるとコイツは十分役に立っていたがな」
「…別に」
「言い訳作る材料のひとつくらいにはなったろ?」
したり顔に腹が立って、白雪はつんとそっぽを向く。セイハが頑なに花壇の手伝いをしてくれなかった理由が分かった。
「だいたい、何故セイハが花言葉なんて知っているのよ」
まるでセイハが花言葉やらに全く興味がないような言い方だ。心外だが、反論はしない。
聞き返したり追求は出来なくても、一応サインは拾いたいと思うのだ。
「調べたんだよ。それくらいはやるわ。
まあ、赤いのは元々知ってたけどな。母さんが好きだったんだ。赤のラルカは、」
「『手に入る』」
白雪が言葉を引き継ぐ。しかし、セイハは首を捻った。
「そうなのか?
『手に入れる』かと思ってた」
「セイハのお母様は北の方の出身なの?」
「知らないが、そうかもしれない」
地域によって花言葉は全く違ったりするのだ。誤魔化され続けて結局本人の口から聞けず仕舞いだったが、思わぬところから手がかりが出てきた。
「あの人は能動的な人だから、わざわざそれを選んでいた可能性もあるがな。」
欲しいものは自分の手で、自分の足で、自分の力でがモットーの人だ。
「セイハのお母様らしいわ」
セイハ兄弟の父母の出会いは白雪も知っている。どこの出とも知れない旅人の父に、勝手についていったような女性だ。意図して自分の気に入った花言葉を持ってくることもあろう。
「お前、ほんと母さん好きな」
呆れながらそう返すセイハに、白雪はふふ、と小さく笑ながら言った。だって。
「ええ。だって、セイハ達のお母様だもの」
お父様もよ?、とイタズラっぽく白雪が付け足せば、セイハは苦い顔をする。この二人が会ったら面倒そうだ。面倒そうだけど、とそこまで考えて、セイハは自身の口角が上がっていることに気付く。
こういうとき、ああ、とふと思うのだ。
「俺みたいな若造が幸せなんて語れないし、説けないが、これは絶対だな。」
「俺は、今この時を不幸だと呼びたくないし、呼ばせたくない。」
「……。」
「まわりの奴もそうであったらいいと思う。
もちろん、お前もな」
反論も問いも返ってこなかったので勢いをつけて言ってしまう。
「……他になんかあるか。今なら聞いてやるぞ」
うんともすんとも言わない白雪に戸惑いつつ、セイハは恥ずかしさを誤魔化すようにつっけんどんに尋ねる。どうなんだ、と促すと突然衝撃が襲った。
「うわ、ちょ、なんだよ」
そんな弱々しいタックルじゃ倒れたりはしない。身体が軽く傾いでしまったのは、両手を上げていてバランスが取りずらかったからだ。
「……どうした」
口許のすぐそばに白雪の耳があったので少し声量を落とせば、首に回った腕の力が強くなる。セイハの手は空中を暫し漂った末、白雪の背に不時着する。不安定だからしょうがないのだとどこかに向かって言い訳をする。
「……白雪?」
落ち着かせる声色とはどんなもんだろうと考えつつも、結局そのままの声を出す。気にしなくても、勝手に出てくる。自分がこんなに柔らかい声を出せるとは知らなかった。とんとんと一定のリズムで背中を叩けば、白雪はむずかるようにセイハの首筋に額を押し付けた。
「…セイハは私が幸せであって欲しい?」
「……そりゃあ、まあ」
一瞬返答が遅れたのは、白雪の思う幸せを考えたからだ。誰に与えられるわけ?というひねくれた問いは答えなんて欲しくないので口には出さない。
「なに、そのはっきりしないこたえは」
白雪は声の調子を強くして怒りをしめすが、声を裏返しながらぴたりと抱きついて言われても痛くも痒くもない。
幸せになって欲しいとは、もちろん思う。
けれど、どんな形でも、と言えるほどセイハは出来た人間ではない。格好悪い自覚はあるが、どうしようもない。口に出さないから許してほしい。
「あのね、セイハ」
「ん?」
白雪は暫し考えるように黙った後、少し手を緩めて距離を取る。白雪が言葉を探す様をセイハは黙って見つめた。
「私は、やっぱり幸せになりたい。私はまだ、それでしか人生のはかりかたを知らないから。それしか求めてこなかったから、他に何をすればいいか分からないから。
けれど、それはどうすれば訪れるのか、手に入るのか、手に入れられるのかも、分からない。」
白雪は一旦そこで言葉を切った。分からないことばかりよ、と白雪は独り言のように小さく呟いた。それにセイハは当然だと返す。
「当たり前だろう。舐めてんじゃねぇぞ」
つい笑って言えば、白雪も釣られたように口を開けて笑った。やっと碧に自分の姿を確認する。
「そうね、ごめんなさい。けれど、分かっていることもあるわ。
…ねえ、セイハ。貴方は、私に幸せになって欲しいと言ったわ。じゃあ、協力してくれるわよね」
ここ――セイハの隣じゃないと、私は幸せなんかにはなれないわ。
白雪は胸を張って豪語した。
威張って言うことではない。そんな突っ込みすら口からは出てこない。
たぶん、言うべきことは沢山ある。沢山あるが――
「白雪」
「なあに?」
「お前は、本当にかっこいいよなぁ」
「そうね。それに美人だしね。」
「はいはい。
幸せねぇ。俺もなりたいな。だから、」
あるところにそれはそれは美しいお姫様がおりました。色が雪のように白く、頬は血のように赤く、髪の毛は黒檀のように黒く長くつやがありました。周りの者はそんなお姫様を白雪姫と呼んでおりました。
意地悪な継母に苛めれながらも、白雪姫は幸せ――もとい、王子様を待ち続けました。そうして、ついに王子様が白雪姫の元に訪れて言いました。
「貴女は私の隣にいるのですよ」
そうして白雪姫は王子様と結婚し、末長く幸せに――――
その白雪姫とやらは幸せになったのかもしれない。けれど、白雪は違う幸せが欲しくなった。
「是非そうしてくれ」
後日談及び、番外編は書きたいとは思っています。
いつ完成するかは分かりません。