01.白雪姫は運命に従いたい
「可愛い可愛いお嬢さん、林檎はいかが?」
「まあ!なんて美味しそうなのかしら。
ありがとう、あばあさん」
「ついに!ついにこの時が来たわ!」
少女が勢いよく扉を開けて飛び込んできた。そしてその場でくるくると回り、手に持ったもの――林檎を天に掲げた。真っ赤なそれを見つめた彼女はうっとりと微笑んだ。花が咲いたようなその笑みに感嘆のため息を吐く者は、残念ながらその場にはいなかった。
少女の肌は雪のように白く透き通り、美しかった。血のように赤い頬は、嬉しさのためかいつもより一層鮮やかな色をしていて彼女の笑みを際立たせる。そして黒檀のように黒く艶がある長い髪は、少女が跳ねる度にさらさらと揺れた。鈴のような可愛らしい声で笑い声を溢せば、周りに小鳥たちが集う。
「騒がしいぞ。どうしたその林檎」
机について資料を広げていた青年は、そんな彼女を見上げて呆れたように尋ねた。彼としては、比重が置かれている言葉は前半の文句の部分だ。そして、反対に彼女は後半しか聞こえていないようで、よくぞ聞いてくれたとばかりに胸を張った。
「貰ったの」
「誰に」
「そんなこと、どうでもいいわ。これでついに、私は運命の相手と会えるのよ」
ふふふ、と少女は微笑むが、誰もが頬を染めてしまうようなその笑みに青年の表情は変わらない。運命の相手。確かいつかもそんな意味の分からないことを言っていた。青年としては、少女が愛おしげに抱える林檎は林檎にしかみえない。思った通りにそれを指摘すれば、少女は一度キョトンとした後、可笑しそうに笑った。
「違うわよ。これは、」
毒林檎、と続けた途端林檎は青年に取り上げられた。少女がそれに気付いたときには、もう林檎は火の中だ。焼き林檎にもならず、それは忽ちただの炭に変わる。青年が少し火力と火の種類を変えたのだ。少女はその火をじっと見つめる。そして拳を握り、戦慄いた。
「何それ!まだそれ教わってないわ!」
「教えてないからな。お前まだノルマ達成してねぇだろ」
暖炉を覗きこんで、確かにそれが燃え尽きたかどうかを確認している青年は視線さえ寄越さない。絶対にいつか教えろと念押しする少女にはいはい、と軽く返すだけだ。言質を取れた少女は一安心出来たようで、次の話題に移す。
「ちょっと、せっかくの毒林檎をどうしてくれるのよ」
「よく分からんが、んな物騒なもの家に持ち込むな。もしガキ達が食ったらどうすんだ」
腰に手を当て怒る体勢を整える青年に、少女は今気付いたとばかりにぱかりと口を開けた。
「本当ね、ごめんなさい。考えなしだったわ。浮かれてた」
少女が素直に謝れば、青年は鼻を鳴らして頷いた。少女はこちらの常識を知らない。とんでもないことをしでかしてばかりの彼女が青年に放り出されるまでに至ってないのは、その学習能力が一役買っていた。
「そんで?毒林檎って?」
誰に、いつ、何のために使うつもりだったんだ。
少女の腕を捕まえ、椅子に座らせる。青年も彼女に向かい合うように座るが、彼女の腕は拘束したままだ。
「ええと、私に。時はいつでもいいんじゃないかしら。何のためって、」
運命の王子様に会うためよ!
地を這うような低い声に少女は顔色ひとつ変えず、明るい顔で声をあげた。また踊り出したい衝動に駆られるが、腕は青年に捕らえられたままだったので叶わなかった。
どんな可憐な花にも負けないその顔一杯に広げた笑みは、年頃の男だけでなく老若男女、人間だけでなく動物や草木までもが見惚れるものだった。
青年は渋い顔をして、数拍空を見つめた。この意味の分からない彼女の考えを簡潔に問うためだ。
「………。」
何故お前が毒林檎なんぞ使う。死にたいのか?自殺か?そもそも“毒”林檎はどのような毒なんだ。死に到るものか?どうしてそれを食べたら“王子様”とやらが来るんだ。何を根拠に?なんだ?天からの御使いのことか?ということは、やはり死にたいということか。
相変わらずの一方的な口上に、少女は子供達が青年に似ないことを祈るばかりだ。
「いいえ、実際には食べないわ。喉に詰まらせるだけ。毒は……殺しにかかってきているから、死に到るものじゃないかしら。喉に詰まらせてしまったせいで、息をしなくなった私を助けて下さるのが、王子様。正真正銘のね。きっと金髪碧眼で、白馬に乗っているわ。勿論私の容姿にみあうような、美形。そうして……」
青年が不審そうに眉をひそめて、口を開けた。しかし彼が言葉を発する前に、少女はこてんと頭を傾けた。
「呼吸が止まったら死ぬんじゃない?」
「こっちの台詞だ」
「…仮死状態みたいなものかしら」
「んなけあるか」
「うーん。意味が分からないわね」
「お前がな」
よくよく考えれば常識はずれもいいところだと、少女は自身の発言に首を捻る。そんな彼女の様子に釈然としない表情を浮かべながら、そもそも、と青年は口を開いた。彼女の話はあまりに突拍子がない。
「そもそも、なんでそんなことを言える」
少女はお得意のお手本のような笑みを浮かべて、こう言った。
だって、そうなるのだもの。
【白雪姫は幸せになりたい】
それはいつもと変わらぬ優雅な日だった。
少女はいつものように美しいドレスを着て、いつものように美しく髪を結い、いつものように美しい装飾品をつけ、いつものように美しい自らの顔を鏡で見つめていた。
黒檀のように真っ黒な長い髪、雪のように真っ白な肌、血のように赤い頬、どれをとっても美しい。産みの母がそう願ったから、つまりその母の愛故の美しさだと周りの者は美談のように語っているが、そんなことは少女にはどうでもいい。
鏡を見つめる度、自分が如何に神様に愛されているのか少女は確認した。今日も今日とて、彼女は神様に愛されていた。溺愛の域だ。
こんなに美しいのだ。こんなに愛されているのだ。
だから、世界一美しい自分は、世界一神様に愛されている自分は、世界一幸せなのだ。
少女はそう思っていた。
自分に見とれていた少女は気付かなかった。少女の背後に忍び寄る黒い影に。
そういえば、最近召使い達の顔ぶれが大きく変わっていた。そういえば、今日は自室に侍女が控えていなかった。そういえば。
手掛かりは辺りにごろごろ転がっていた。だが、少女は気付かなかった。少女は人を疑うという行為を知らなかったのだ。
少女はそんなことをする必要がなかったのだ。
何故なら、少女は世界一幸せだから。
ぱちり、と目を開いた。
真っ先に目に入ったのは緑と青。ここは、どこだ。そう心中で呟いた途端、五感が沢山の刺激を拾い訴えかける。
青臭いほどの草木と土の匂い。風にさわさわと揺れる木葉の音。体の下は柔らかくなく、固い。石や草が刺さってチクチクした。
夢にしては明瞭な感覚に彼女は困惑した。取り敢えず立ち上がろうとしたが、それは途中で阻まれることになる。
「ッ!」
身体中に痛みが走る。あまりの痛みの大きさに、どこが痛むのかも分からない。痛みを自覚した途端襲ってきたのは、吐き気と寒気。血が出ている感覚はないため、頭を打ったのかもしれない。だが切り傷以上の怪我をしたこともなければ、病気になったこともなかった少女は、そんなことを考えることもせず、すぐさま意識を失う選択肢を選んだ。
そんな状況のなか、痛みはあれど彼女の中に不安というものは存在しなかった。
―――これは必要な過程なのだ。
何故か漠然とそう思った。
意識を失う直前、高い声が聞こえた気がした。
「あ、にいちゃーん。起きたよー」
重い瞼を開いた途端、聞こえた声は頭に響くような高い声だった。
視界に映ったのは青や緑ではなく、白だった。晴天時の雲みたいな綺麗な色ではなく、くすんだ白。
青臭い匂いの代わりに消毒液の匂いがした。身体の下は先程よりは柔らかくベッドの上にいるのだと分かったが、少女の知っているベッドとは比べ物にならないほど固かった。まだ少女のソファの方が柔らかい。
「おねーちゃん、大丈夫?」
白い天井を背ににょきりと顔が視界に入ってきた。反射のようにそちらを見れば、違う方向からもにょきにょきと顔が出てきた。しかもどれも同じような顔だ。少女が驚きのあまり大きく息を飲めば、その拍子に頭が痛んだ。
「あ、動いちゃダメだよ。あんせいにしてて」
声を上手く出すことが出来なかったので、じっとすることでそれに応える。少女は傷に触らぬよう、まじまじと彼らを観察した。
(1、2、3…6人。)
一人足りない。
何故かそう思った。
似た顔が六つあるだけでも十分驚くべきことだ。なのに彼女は足りない、と思った。彼女はそれに違和感を抱くことはまだ出来なかった。
ばたんと扉の開く音とぱたぱたと忙しない足音がした。そしてまた、新しい顔が加わる。
「もうちょっと待っててね。にいちゃんすぐ来るから」
そして最後の一人。揃った、と思っていると、何故か先程とは違う扉の音と足音が聞こえた。それはどちらも落ち着きを感じる。踏みしめる音だって小人とは思えないものだった。
(……小人?)
「気分はどうだ」
ぬっと出てきたのは、小人達とは比べると、とても大きな身体だった。イレギュラーの存在に少女は身体を強張らせる。
「ほら、邪魔だから散れ」
「はぁい」
少女の驚きを他所に男は、痛みの具合だとかを尋ねてくる。男に水を差し出されて初めて喉が渇いていることに気付く。水は温く、量もあまり貰えなかったが、声を出すのには十分だった。
「きょ、」
「きょ?」
「巨人……」
「……は」
きゃらきゃらと七人分の笑い声をBGMに少女は再び意識を失った。
「セイちゃん、セイちゃん」
道具を片付けていると、しわがれているのにどこか若さを残した生き生きとした声に呼ばれた。顔を上げれば、老婦人が楽しそうに笑っていた。楽しそうに、と形容したものの正しくはそれはにやけているという。去年の暮れの体調が芳しくなかった頃を思えば、彼女の回復は喜ばしい。これから何を言われるのかは彼女の表情で粗方予想がつく。セイちゃんと呼ばれた青年はそのことを苦く思いながら、彼女にきちんと向かい合った。
「なんでしょう、チトさん」
「聞いたわよ~。ついにセイちゃん、奥さんが出来たんですって?」
めでたいわ、と顔を輝かせるチトに青年――セイハは、ついに嫁かよ、と苦虫を噛み潰したような顔をする。わざわざ説明して回るのもどうかと思ったし、あまり公にしたくなかったのではぐらかしていたら、話は面白いくらいに飛躍した。
「……はあ、どうしてそうなったんですか。」
そろそろ上手い言い訳を作らなくてはならないとようやく考えたセイハは、チトに自身の噂を尋ねる。彼女は顔が広いので沢山の噂を知っているだろう。
「セイちゃん、いつか女性物の服やらを買ってたでしょう?そこで可笑しいなって話になってたんだけど、大して洒落たもんじゃないし、患者さん用かしら、って見過ごしちゃったのよね。
そしたらその後食料の買う量が少しばかり増えて、もしや、って話してたのよ」
セイハとしてはそこからか、と頭を抱えたくなっているのだが、すぐに気付けなかったことが余程無念だったのか、チトは悔しそうに語る。
「で、セイちゃんに聞いても口を割らないじゃない。もうこれはしょうがないなってなってね、お宅の七つ子ちゃん達のお友達に聞いてみたら、『お姉ちゃんが出来たらしい』っていうじゃない?もう、これは、ってなったの。」
うふふ、とチトは若い娘のように口元に手を当ててイタズラっぽく笑って見せる。彼女達の観察眼と好奇心には毎度驚かされる。セイハが眉間の皺を揉んでいると、チトは先程より柔らかい笑みを浮かべた。年相応のそれに、セイハは反射のように背筋を伸ばした。
「セイちゃんって仕事と兄弟の世話ばかりで浮いた話がひとつもなかったじゃない?だから、あなたにお世話になってるじじばばどもは嬉しくて嬉しくて」
「……。そんな。寧ろお世話になっているのはこちらの方です」
彼女――を含め、沢山の人がセイハ兄弟を気にかけてくれていることは、彼も十分理解していた。
セイハの母は数年前に他界し、父は医学の旅だとかいって他国へ学びに出ている。父に関しては常に動いていないと死んでしまう生き物だと認識しているので、セイハとしてはよく何年もじっと出来たものだと少し感心しているがそれは置いておこう。町から少し離れた森の中で、まだまだ年若いセイハと七人もの子供。情の深い彼らが、セイハ達を無視することなど出来るはずがなかった。感謝してもしきれない。
だが、それとこれとは別だ。
彼女達には悪いが、ここははっきり否定させていただこう。
ふと、奴は嘘も方便だなんて言葉すら知らないのだろうな、と思った。
「ご期待に沿えず申し訳ないんですが、彼女は家族どころかそういう仲ですらありませんよ。
弟妹達が森で倒れている彼女を見つけてきたので看病しただけです。少し記憶障害があるようで自分の帰る場所が分からないらしいんですよ。だから、放り出すわけにもいかなくて。」
今作り上げた話をセイハは滔々と語った。
予想していたより悪い状況と思ったからなのか、記憶障害という聞き慣れない単語を聞いたからなのか、チトは顔を曇らした。セイハがそんな彼女を宥めるように、体調はもう万全なのだと付け足せば、チトは少し表情を緩めた。寝込んでいたのは最初だけで、今では鬱陶しいくらい元気だ。
「元気な者をタダで居座らせるわけにはいきませんから、今は家の手伝いや弟妹たちの面倒をみてもらっています。そうですね…彼女は、患者兼家政婦といったところでしょうか」
「まあ。災難だったわね、彼女。お大事にと伝えておいて」
「はい」
納得して貰えたようで、セイハはひと安心した。嘘はついていない。記憶障害だと確固たる証拠がある訳ではないが、体調が悪いとき確かに彼女は混乱していて、可笑しなことを口走っていた。今は大分落ち着いたが、それでも釈然としないことを時折言った。
(まあ、かなり変わった奴であることは確かだけど)
記憶障害についてはあまり詳しくなかったセイハは、彼女を看病する傍らそれについての本を読んでいたときがある。その本を彼女の枕元に置き忘れた時は、あまり物事に動じないと評されるセイハとて肝を冷やした。記憶障害と聞いて不安や不快な気持ちを抱く可能性があるからだ。彼女のような多感な年頃の少女は特に。
少女が見つけないことを祈りながら病室を覗けば、そこにあったのは熱心にその本を読む少女の姿だった。セイハの存在に気付いたらしい少女は、自分はたぶん記憶障害の類いではないと思う、と神妙な顔で告げた。ムキになっている様子はなかったが、セイハは一応その理由を問う。彼女がどれほど冷静にそう判断したのか、何を理解してそう考えたかによって彼女の意見の重要性が変わる。スラスラ出てくる考察はきちんとその本を読めていることが窺えた。詳しくないといっても専門家にくらべればという意味であって、その本は決して容易な内容ではない。
「けど、あの七つ子ちゃん達が懐くなんて珍しいわよね」
「それには俺も驚いています」
「彼女には悪いけど、セイちゃん達は少し助かったんじゃない?余裕が出てきたからか、最近のセイちゃんの表情筋、前よりはましになっているわよ」
「……前よりは…」
七つ子とは、セイハの弟妹のことだ。学校に通い始めてもうすぐ1年になる彼らは人見知りだ。そこまででない者もいるのだが、兄の贔屓目抜きでみても歳の割りにしっかりしている彼らは警戒心が強いのでそう括られてしまうのだ。
片田舎でのんびりとやっているので、緊急以外は割りと融通の効く仕事とはいえ、セイハ一人で七つ子の面倒をみるのは難しい。
長年セイハの家のことをしていたお手伝いさんは、孫の仕事の関係で急遽引き継ぎ無しで辞めてしまった。父が旅に出て半年、七つ子が学校に通い初めて三ヶ月後のことであった。
町外れの森の入り口に住むセイハの家に働きに出てくれる者は少なかった。いても、七つ子達の人見知りによりものの二日三日で七つ子、家政婦、セイハは疲労困憊に陥り、皆去っていった。因みにセイハの疲労の理由は、家でも言葉に気を遣わなければならないことと他人が家にいるという不快感による。セイハは確かに、警戒心が強く人見知りの七つ子の兄であった。
彼女を拾うまでの二ヶ月間、セイハと七つ子だけで家を回していたのだが、精神的な負担が小さいそちらの方がまだましだという残念な結果しか得られなかった。
ましというだけであって、大変なのは変わりない。彼らはそれほど長く学校にいかないので、セイハは限られた時間しか仕事が出来なかった。患者にもどれほど融通を利かせてもらったか分からない。七つ子だって、我慢していることがあるだろう。
そんな状況の中、現れたのがその少女だった。
「……自分達が助けてあげた存在っていうのが、警戒心を緩めるんですかね」
「あら、理由なんかが欲しいの?」
セイハがぽつりと落とした言葉をチトは隙なく掬った。くすりと笑われ、セイハは、いや、まあ、と言葉を濁す。たぶん、図星だ。
はっきりとした原因があった方が、無くなったときの虚無感を誤魔化しやすいのだ。誰の話だ。セイハの話だ。
「それもあるかもしれないわね。けど、始まりなんてどうでもいいんじゃない?結果が全てよ」
「……チトさんって優しくないですよね」
「えええ。セイちゃんったら、反抗期?」
「……。」
若々しく声をあげるチトに、ついセイハは顔を歪ました。20過ぎた大の男とて、彼の数倍生きた彼女にしてみれば子供同然である。
「じゃあ、結婚間近の瑞々しい男女の関係って訂正しとくわね!」
「いや、ほんと勘弁して下さい」
セイハの渋い顔に、チトは一層笑みを深めた。
本編は一日おきの更新予定