運命の赤い糸
私の左手の小指には真っ赤な糸が結ばれている。それはまるで小さな赤い蝶々が私の小指に止まっているようで、とても可愛らしい。羽の下から伸びた一本の糸は私の足元に落ちて、そこから更に床を這って何処かへと続いている。私が物心ついた頃には既に結ばれていて、外そうとしても外れない。更に不思議なことに、どうやらこの糸はお母様やお父様には見えていないようなのである。一体これは何なのか、疑問が尽きない赤い糸の正体であったが、その答えは母が何気なく私に言った一言により判明した。
「結ばれる運命の二人は見えない赤い糸で結ばれているのよ」
見えない赤い糸! 私の小指に結ばれているのはまさしくそれではないか。ということは、この糸の続く先には私の未来の旦那様がいるということである。私は幼心にも興奮した。赤い糸を辿って、未来の夫の姿を見てみたいとも思ったが、コリングウッド公爵家の令嬢として立派に振舞えるよう、教育を受けなければならなかったためにそんな時間はない。しかし、今、頑張って勉強に励み、立派な令嬢になれば必ず運命の相手と出逢い、結ばれることが出来るはずである。私はそう信じ、必死に勉学に励んだ。
そんな日々を過ごしていた私はとうとう結ばれた糸の先、私の将来の旦那様と出逢った。それは私が七歳の誕生日を迎えたお祝いに開かれたパーティーでのことである。私は父の後ろを付いて回って、訪れた貴族たちのお祝いの言葉に微笑みを返していた。彼等の目的は公爵である父とどうにかして繋がりを築くことであり、その手段の一つとして自分の息子を私の夫とすることである。彼等は私へのお祝いの言葉もそこそこに、自分の息子が如何に素晴らしいかということを延々と語っていたが、運命の相手としか結婚する気のない私は聞き流すだけだった。
しかし、ある人が入ってきた瞬間、私の視線は彼に張り付けられる。ふわりと揺れる金色の髪、サファイアのような碧眼、端正な顔立ち。その佇まいには幼いながらも気品が漂い、氷のように冷たい視線が周囲の貴族たちを睥睨した。彼の登場に、会場は一際ざわめく。向けられた無数の視線を気にも留めず、歩む姿は一切の気後れも無く、私と同じ年齢とは思えないほどに堂々としていた。その態度はまさに生まれながらにして人の上に立つ者の風格である。
しかし、私の視線は彼の顔ではなく、その小指に向いていた。そこには見間違えようもない、真っ赤な糸が結ばれていたのだ。それは彼の小指から伸びて、貴族たちの足の間を縫い、私の小指へと繋がっている。そのことに気付いた瞬間、私の胸は高らかに鼓動を叩いた。
熱に浮かされたようにぼんやりとした頭のまま、私は父の後を付いて歩く。向かう先には彼の姿だ。公爵である父がへりくだり、彼に頭を下げて娘の誕生祝いに来てくれたことの謝辞を述べている。私は彼の顔を近くで見ることが出来ず、ただ俯いて胸の高鳴りを押さえていた。
「オーレリア、ルーファス殿下だ。挨拶しなさい」
「は、はい、お父様」
お父様の声を聞き、私はようやく我に返る。顔を上げると、私をじっと見据える彼と目が合った。その瞬間、私の胸がうるさいくらいに騒ぎ立てる。ルーファス=カッシング。国王陛下の第一子にして、この国の王太子。そして、
私の運命の人。
「は、はじめまして、ルーファス殿下。私はオーレリア=コリングウッドと申します」
スカートを摘まみ、淑女の礼をする。しかし、あまりの緊張に思わず声が震え、言葉に詰まってしまった。恥ずかしさのあまり、顔がかあっと熱くなる。きっと、今、私の顔は真っ赤になっているだろう。そんな私の耳元に、父が顔を寄せて言う。
「彼がオーレリアの婚約者だよ」
彼が、ルーファス殿下が、私の婚約者。ああ、やはり赤い糸で結ばれた私と殿下は結ばれる運命なのだ。私は嬉しさに、天にも昇る気持ちだった。
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それから十年間、私は彼に釣り合う淑女になれるよう、必死に努力した。王太子の婚約者ということは、いずれは次期王妃として政務に携わらなくてはいけない。そのためにはありとあらゆる教養が必要となってくる。学ばなくてはならない教育は普通の令嬢とは比にもならなかった。しかし、それも将来、彼と結ばれるため。そう自分に言い聞かせることで何とか乗り越え、私はとうとう令嬢の鏡とまで呼ばれるようになったのである。
「オーレリア様! またルーファス様が例の女と!」
「あんな身分の低い女が婚約者のオーレリア様を差し置いてルーファス様に擦り寄るなんて!」
「身の程をわからせてあげましょう!」
「やめなさい」
しかし、悲しいことだが、ルーファス殿下は私のことを嫌っているようだ。幼い頃はよく一緒に遊んでくれたものだが、時が経つにつれて、彼は私を疎み、避けるようになっていた。学園に入学してもその態度が変わることはなく、まるで婚約者である私への当てつけのように数多くの女性との浮名を流している。しかし、私は彼を咎めもしなかったし、相手の女性に嫌がらせをすることもしなかった。きっと、いつかは私の元へと戻ってきてくれると信じていたからである。何せ、私と彼は見えない赤い糸で結ばれているのだから。
しかし、当然ながら私の友人である他の令嬢たちはそうは思わないようだ。いきり立っている彼女たちを諌めると、皆が泣きそうな顔で私を見る。そんな彼女たちに私は微笑みを返した。
「殿下のことでしたら心配なさらないでください。私と彼は運命の赤い糸で結ばれているのですから」
「ですが、オーレリア様……!」
「それに、相手の女性をいじめてはなりませんよ。私利私欲のために人をいじめるなど決してやってはならないことです。私のために皆様が身を落とすなんてことになれば、私は私を許せません」
オーレリアがそう言い放つと、いきり立っていた彼女らは気まずげに顔を伏せる。私は厳しく引き締めていた顔を再び緩め、優しく笑みを浮かべた。
「ですが、皆様の、私を心配して下さる気持ちはとても嬉しく思います。こんなにも優しく素晴らしい友人たちに恵まれて、私は本当に幸せ者ですわ」
「そんな! オーレリア様こそ、お優しいです……」
「オーレリア様……」
感極まったように顔を歪める彼女たちに、私は感謝を込めて微笑む。こんな優しい方たちの美しい手を私の勝手な嫉妬で汚させるわけにはいかない。殿下が未だ振り向いてくれないということはまだ私の努力が足りていないのだろう。自分を高め、彼の隣に釣り合う淑女になることが出来れば、必ず彼はあの青い瞳で私を見てくれる。胸に溢れる殿下への想いを込めて、私は小指の赤い糸を愛おしげに撫でた。
今、殿下との噂が立っているのはデニス男爵家の令嬢、クラリス=デニスである。一度だけ遠目に見かけたことがあるが、小柄でとても愛らしい少女だった。私の友人たちによると、彼女が殿下と腕を組んで歩いているところを見たというのだ。それ以前にも殿下の女性遍歴は幾度か噂されてきたが、今回は身分の低い男爵令嬢ということもあり、殿下に憧れる令嬢たちからのクラリス嬢に対する嫉妬の視線は日に日に強くなっている。私が辛うじて抑えているが、それもいつまで出来るやらわからない。いずれ、我慢できずにクラリス嬢に手を出す方も出てきてしまうだろう。今までは静観していたが、そろそろ何かしら手を打たないと殿下の評価まで下がってしまうかもしれない。
しかし、そうも言っていられない事態が起きてしまった。クラリス嬢が何者かにドレスを切り裂かれたというのである。私はその情報を耳に入れるや否や、糸を辿って殿下の元へと向かった。殿下ならば必ず彼女と一緒にいるはずである。そのことがわかってしまったことに胸が痛むが、気にしている余裕はない。
そこには既に多くの生徒たちが集まっていた。彼等は私が来たことに気付くと、おずおずと道を開ける。彼等の中から出てきたのは殿下とクラリス嬢であった。彼女の足元にはナイフで切り刻んだように無残な姿へと変わったドレスが落ちている。水色を基調としたシンプルなドレスはさぞ彼女に似合っていただろう。クラリス嬢は顔を手で押さえているが、指と指の間からは抑えきれない涙の粒が零れて床を濡らし、嗚咽が彼女の喉から漏れている。殿下はそんな彼女を慰めるように優しく抱き締め、心配げな表情で見つめていた。彼等のそんな姿は噂に聞いていた以上に恋人同士のようで、私は殴られたような衝撃を受ける。しかし、それよりも胸に突き刺さったのは、私が来たことに気付いて顔を上げた殿下の表情に浮かんだ深い嫌悪と激しい怒りの視線であった。
「……何事ですか」
「何事か、だと。よくもそんな口が叩けるな。クラリスに嫌がらせをしておきながら」
殿下の言葉に私は驚く。当然のことであるが、私はクラリス嬢に嫌がらせはしていない。それどころか一度見かけただけで会ったことすらないというのに、どうやって嫌がらせをするというのか。てっきり我慢出来なかった令嬢の一人が起こしたことだと思っていたが、まさか自分が糾弾されるとは。驚きで声が出ない私に代わり、私の友人たちが悲鳴のような声を上げる。
「何をおっしゃるのです、殿下!」
「オーレリア様がそのようなことをするはずがありませんわ!」
「……殿下、私がやったという証拠はあるのでしょうか?」
更に私を弁護しようとした友人たちを手で制し、私は抑えた声で殿下に問い掛ける。しかし、私の問いに対して殿下は馬鹿にしたように鼻で笑った。
「ふん、クラリスが犯人は貴様だと言うのだ。言い訳は見苦しいぞ」
その言葉を聞いて、私は泣きそうになる。彼はクラリス嬢の言葉だけで私が犯人だと断定したと言うのだ。婚約者である私の言葉は一切聞いてくれないというのに。殿下はクラリス嬢の言葉を疑いもせず信じるほど、私のことを嫌っているのだ。一体何が駄目だったんだろう。
「殿下、私の話を聞いてください。私は」
「もういい。どうせ、下らない言い訳でもするつもりだろうが、貴様の言い訳など、聞く必要などない。大体、私は元々貴様みたいな外面だけの女は嫌いだったんだ。いつもいつも余裕ぶった笑みで私を見下しおって」
殿下は剣を鞘から引き抜き、一切の躊躇も無く私の腹部に刃を突き刺した。周りにいた生徒たちがざわめき、令嬢たちが甲高い悲鳴を上げる。しかし、私の瞳はただ一人、殿下の姿だけが映っていた。怒りに染まったサファイアの瞳が私の視線と絡み合う。数年ぶりに間近で見た彼の顔はやはり幼い頃と変わらず端正だ。彼の手に握られた冷たい刃が私を蹂躙したかと思えば、今度は焼けるような痛みが私の頭を襲う。ずっと好きだった。子供の頃からずっと。彼の隣に立てるように必死に努力した。しかし、それも全て無駄だったのだ。私の瞳から堪え切れなくなった涙が零れる。
「……ど……して……殿下……」
私は小さく呟き、その場に倒れて横たわった。重い瞼を持ち上げると、赤い糸の結ばれた自分の小指が目に入る。運命の赤い糸。ルーファス殿下。私の運命の人。
――ああ、そうか。赤い糸は私を――
そのことに気付いた瞬間、私の意識は深い闇の中へと呑まれていった。
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「ああ、クラリス……これでようやくあの邪魔なオンナも消えた……やっと君を手に入れられる……ずっとずっと、一緒にいよう……」
「あ……あああ……違う……私は、こんな……」
恐怖と罪悪感に身を震わせるクラリスをルーファスは優しく抱き締める。そんな二人の足元をオーレリアの小指から伸びた真っ赤な血の糸が這い寄り、彼の持った剣先に結ばれていた。