第4話
店の中の空気が、ピタリと止まったように感じられる。それはおそらく、トキの思考が一時的にフリーズして瞬きすらも忘れたからだろう。
「おい、大丈夫か?」
静止したまま動かないトキに、ルクが声をかける。その声で正常に戻ったトキは、思い出したかのように呼吸をした。
「あ、大丈夫です。で、え? どういうことですか?」
きっと、自分の聞き間違えでなければ、今持っている魔導書には世界を滅ぼす力があると彼は言った。そこまで理解して、そこから理解が進まない。
「信じられないだろうが、本当なんだ。俺達は、捜査局の中でもその魔導書を追うためだけに作られたチームだ。この任務は、実に重い責任を伴う。もし任務に失敗したら、比喩でも何でもなく、首が飛ぶ」
「ええぇ、いや、でも……」
「その魔導書は、千年前、ある魔術師が書いたものだ。その魔術師は、とても大きな魔力を持っていて、強力な魔法が使えた。そして彼は、自分が用いた数々の魔法を後世に残すべく、この本を書いた。その本の中に、自分の魔力を封じ込めて」
ルクはとても真面目に、神妙にそう言った。トキは相槌にならない声を漏らしながら、手元にある本に目をやった。
「本当にすごい本なんだ……」
トキの胸に浮かんだのは、畏怖、興味、興奮、喜び、それらを綯交ぜにした感情だった。そんな重要な文献に出会えるなど、本好き冥利に尽きる。トキは本当ならば叫んで飛び跳ねたい気持ちだったが、ルクの前ではそんなことはできないと、彼を仰ぎ見た。
「俺達は、その本を追っていた。それは、一つ間違えばとても危険な代物。俺達が厳重に管理する。だから、渡してくれ」
「えっ」
急に言われた言葉。
トキは、一気に頂点からどん底へと突き落とされた気持ちになった。自分が今読みたくて読みたくて仕方のない本を、取り上げられてしまう。それはトキにとって、耐え難い苦痛だった。
「お願いだ。本を渡してくれ。その本は、俺達が大切にする。きちんと保管するから、安心して渡して。さぁ」
子供を窘めるように、ルクは言った。しかしトキはそれでは納得ができず、少し声を荒らげた。
「嫌です! 私、この本を読みたいんです。欲しいなら、力ずくで持って行ってください!」
叫んで、トキははっと気が付いた。目の前の屈強な男達を前に、力で勝てるわけがない。力ずくで持って行っていいのなら、すぐに奪取される。
しかし、目の前の男達は困った顔をしていた。トキのその言葉が、まるで致命傷でもあるかのように、頭を悩ませている。
「君、悪いことは言わない。渡してくれ、お願いだから」
「力ずくで来ないんですか?」
「無理なんだ」
「え?」
ルクは、ほとほと困り果てた様子で頭を抱えた。手で髪の毛をかき回して、ため息を一つ吐いた。
「まえがきを読んだか?」
「まえがき? そういえば、飛ばしたかも」
記憶を遡ると、目次とまえがきは端折って第一章の本編から読み始めていた。
「そこに書いてあるんだ。この本は、心の底から本が好きな人にしか持てない。もし、本への愛情が欠如している者が持つと、千年前の魔術師が本の中に秘めた魔力が暴走すると。……実際、何世代か前の捜査局の人間が、無理やりに本を奪ったことがある。そうしたら、魔力が暴れ馬のように暴走し、本を奪った者を襲ったんだ。しかし、持ち主の心からの同意があれば他の者も持つことができる。だから、俺達は君の同意のもとでその本を持っていくしかないんだ」
「えええ」
「この本を書いた魔術師ってのが大の本好きだったらしくてな。自分と同じように本が好きな奴じゃなきゃ持つことは許さないと、そういう制約を付けたんだ」
「成程……」
「だからこうして頼み込んでいる。なぁ、渡してくれないか」
トキは悩んだ。本来ならば、渡さなければいけないのだろう。しかし、自分の本心は、渡したくない、だ。それほどまでにトキは、この短時間で目の前の魔導書に心惹かれていた。自分の心を惹きつけるものが、この本には秘められている。そう感じる程だった。
「悩んでいるのか?」
ルクの言葉に、トキはばっと顔を上げる。気付いたら本を覗き込むように頭を垂れていた。
「いいか。君がこの本を持つことは得策じゃない。なぜなら、それが危険を呼ぶからだ」
「……どういうこと、ですか?」
「率直に言おう。その本を狙っている者達がいる」
「え……」
「さっきも言ったように、それには世界を滅ぼす力が秘められている。当然、それを使ってこの世を征服しようという輩も出てくる。そいつらの正体は強力な魔術師達。俺達捜査局の人間は、そいつらからその本を守らなきゃいけないんだ。だから、君が持つことは事実上不可能なんだ」
トキは冷水を浴びせられたかのように打ちひしがれた。この本を、狙う人達がいる。この強力な魔術を使って、世界を征服しようとしている。
そこまで考えて、トキの胸の内にわき上がってきたのは、「怒り」。
「許せない」
「は?」
「本を悪用しようとするなんて、私許せません」
「君、何を言っているんだ?」
「こんなにすごい本を、世界を征服するために使うなんて……そんなの、私が許さない。本は、みんなを幸せにするためにあるんです。色んな知識を教えてくれて、時には泣かせてくれて、時には笑わせてくれる。それが本なんです。本をそんな風に使うのは、認めません」
トキは唇を結んで、本を持つ手に力を込めた。すると、そこで異変が起こった。
「え……? 本が」
魔導書が淡い光を放ち、輝き出したのだ。この現象に、ルクは目を丸くしている。
「まずい、この本、君を持ち主として認める気だ!」
ルクが急いで本に手を伸ばす。しかし、光は一瞬大きく瞬いて、ルクの手を弾き返した。そしてそのまま光は小さく集束し、本から浮き上がった。それがゆっくりとトキに近付き、彼女の胸の中へと、すっと消えていった。
「しまった……。本が、君を持ち主として認めてしまった」
落胆して呟くルクの向かいでは、トキが未だ放心状態で本を見つめている。
「これでもう、俺達は手出しができない……」
「どういう、意味ですか?」
少し放心状態から回復したトキが、ルクに問う。
「今までは、さっきも言ったように、君の同意があれば本は持って行くことができた。しかし、もうそういうわけにはいかない。どれだけ君が同意しても、他の者がその本を持つことは許されないんだ。本が君を認めてしまったから」
「そうなんだ……」
「そうなると、君に残された道は一つしかないぞ」
「へ、どういうことですか?」
「その本を持ち続けるしかないということだ。今言ったように、この本を狙い輩がいる。そいつらは、とても強力な魔術師だとも言っただろう? 奴らは、その本の暴走を抑えることができるだけの魔力・魔術を持っている。つまり、君から本を無理やり奪い取っても、本を抑え込んで自分達のものにしてしまうことができる程の実力を持っているということだ。その輩を相手に、君は本を守らなきゃいけない。奴らと戦い、勝利して、本を持ち続ける。それが君に課せられた使命だ。もう、俺達にできることは何もない」
トキは、胸がドキドキするのを感じた。先程の興奮や喜びとは違う、目の前が全く見えなくなった時の不安感。
昨日まで、いや、つい三十分前までは、自分の日常はこれからも続くと思っていた。朝店を開き、本を読みながらお客さんが来るのを待つ。接客をして世間話をしながら、一日を過ごす。休みの日には友達とショッピングや旅行に行ったりする。そうして積み重ねたものが一生だと思っていた。
それが今、百八十度変わった。
一冊の本を軸として、トキの日常は、一気に回転したのだ。本を、守る。そのために、戦う。
トキは魔術の覚えなど一つもない。本を守れるかなど、わからない。しかし、やらなければいけないのだ。そうすることでしか、この本を、世界を、守れない。
トキの不安を煽るように、ルクは現実を彼女の前に突き付けた。
「この世界は、君にかかっている」