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第一章「天国プレリュード」(前奏曲)1

プロローグ


 私は死人である。名前は、もはやない。

 年は、と言うと、ちょうど四十になったばかりである。 

 立派かどうかは別にして、確かに昨日までは、黒輪くろわ しげるなる名で皆に呼ばれてはいた。が、今では、まるで携帯電話の番号のような……

(あれ?)

 ポケットの中を探ってみたが、どこかで紛失してしまったようだ。

 先程の通関(かな?)の際に、そこの役人からもらった紙切れ。そこで一悶着あった時にでも落としてしまったみたいだ。その一悶着については、後で自宅にてゆっくりとくつろぎながらでも考えてみようと思っていたが、それと一緒に、自宅を示した地図までも見当たらない。これには、いささか閉口した。

(さて、どうしたものか? いきなり野宿というのもなあ)

 私は、ここで初めて周りの様子をうかがってみた。先ほどのお役人さんが言うには、どうやらここは、驚くべき事に天国らしい。

 今まで何度となく耳にした、「私は死後の世界を垣間見た!」とか「私はこうして蘇った!」とかいう類の話は、やはり作り話だったようである。現にこうして目を凝らしてみても、周りの雰囲気は以前と何ら変わっていないし、煙って陽炎っぽい様子など微塵もない。自分自身も、昨日と全くもって同じ。そう、生きているか、死んでいるか、その違いだけのような気がしている。

 ましてや、天使のような羽根なんぞ生えてやしない。念のため頭の上に手をやってみたが、輪っかなんぞもありゃしない。思わず、自分の取った愚行に苦笑さえしてしまう。

 唯一違うのは、着ている服が自分の物ではなく、まるで人間ドックを受ける時に着せられた、白衣の薄いガウンそのものであることだ。

 どうやら私は、下界からは、文字どおり『身体ひとつ』でやってきたようだ。


(でも、何かが違うぞ!)

と、先程から、五感が訴えてきている。あれこれ考えを巡らせている内に、私は無意識に、右手の人差し指で眉間に触れていた。

(うん?)

 そこには、中学二年の時からお世話になり続けている物がなかった。……眼鏡である。いつものように、どこかに忘れてきた……のではない事は確かである。何せ、ずっと遠くの物までハッキリ見えているからだ。まあ、これはこれで一安心なんだが。

 

 しばらく経った後、ようやく、このカラクリに気がついた。

(ははあ、悪い個所はすべて下界に置いてきたって訳か)

 妙に感心しつつ、他に悪いところといえば……私は、思わず頭に手をやった。

(ハハハ、いくらなんでも、ここばかりは無理だろうな)

 ここで身体にある唯一の傷を思い出した私は、ガウンをはだけて下腹部を確認した。やはり、そこには在るべきはずの盲腸の手術跡もなかった。思ったとおりだ。確かに傷跡ひとつないのは悪くはないが、長年見慣れてきた者としては少々寂しい感じもする。

(不思議だが、間違いないな)

 パンツの中を覗きながら考えていると、前の方から「クスクス」と笑い声が聞こえてきた。白人の若い娘が、そばかす顔を赤くしながら笑っている。

「こ、これは失礼!」

と、脱兎のごとく、その場を立ち去る私。


 何十メートル走ったのだろうか、ようやく息を整えて、付近を往来する人々を観察してみた。この迷子の状態から少しでも早く抜け出すために、誰かに相談しようと思ったからである。

 しかし天国には国境がないのか、すれ違うのはもっぱら、肌の色が違う人ばかり。彼らに話しかける勇気など、私は一切持ちあわせてなどいない。


 そうこうしていると、ようやく日本人らしき中年の女性に出会ったので、彼女に尋ねてみる事に。

「あのう、ちょっとよろしいでしょうか?」

 何やら突然すぎたせいか、相手は非常に驚いたらしく、鶏のようなけたたましい声を発してきた。

(しまった! この高低差のあるイントネーションは)

 瞬間的に、香港映画を思い出してしまった。

 とっさに、私は「謝々」と謝って、またもや、そそくさとその場から逃げ出した。ここに来てからというもの、走ってばかりだ。


(ここも、相当暮らしにくそうだなあ)

 そんな事を思いながら、ふと前を見ると……その先に、『カド』という看板が目に入った。描かれているコーヒーカップの絵からして、どうやら喫茶店らしい。私は慎重に、今一度文字を確認した。

(ハングルじゃないよな?)



「いらっしゃーい!」

 ドアのチャイムと同時に、快活な声が聞こえてきた。ここにやってきて初めて聞く、懐かしの日本語である。こんなにホッとした気持ちになったのは、久しぶりのような気がする。 

 その声の持ち主は、見たところ私よりも十歳ぐらい上であろうか、小太りで、満面笑顔の女性であった。

「初めまして! この喫茶店のママをやってる川西です」

 声がやたらでかい。所謂、元気一杯が服を着ている感じか。

(それにしても、喫茶店に入って、『初めまして!』はないだろう)

 だが先方さんは、こちらの様子を察したらしく、

「何を怪訝な顔されていますの? その白衣を見れば、間違いなく『初めまして!』なんですから!」

「あ、なるほど。そりゃそうだ」

 仰せのとおりである。店内を見渡せば、皆さん普通の格好をされており、ガウンを羽織っているのは私唯一人である。何となく場違いな雰囲気で、いきなり恥ずかしくなってきた。

(車で言えば、差し詰め初心者マークという事か)

 私は、気を取り直して挨拶した。

「こちらこそ初めまして、私は、黒輪と申します」

「さあさあ、黒田さん。えっ? 黒輪さんでしたか。まあ、そこにでも座って下さいな。当店自慢のブレンドコーヒー……で、よろしいかしら?」

 ママさんは、私が頷くのを確認して、

「では、すぐに淹れますから。おーい! 健ちゃーん!」

 忙しいママさんだ。健ちゃんと呼ばれて、離れたところにいた男性が振り向いた。いかにもアイドル系という風貌で、キラリと光る白い歯がよく似合う学生風の細身の青年だ。

「ハーイ、ママ!」

 彼もまた、明るい。


「一つお願いがあるんですが」

 やっと一息ついた私は、お冷やを持ってきた健ちゃんに、ある事を頼んでみることにした。それは天国に来て以来、最も気になっている事だった。

「何でしょうか?」

「なかったらいいんですが。煙草なんて置いています?」

(と強がっては見たものの、本当になかったらどうしよう。『百害あって一利もなき物』なんて、ここにある訳がない。しかし、これは私にとっては一大事だ!)

「ええ、ちゃんと置いていますよ! 銘柄は何がよろしいでしょう?」

(おっと。置いてあるだけでもラッキーなのに、銘柄まで選べるとは!)

 私は、おそらく近くにいるであろう神様に感謝して、

「あれば、セブンスターで」

「ええ、ありますよ!」

 そう言いながら、彼は灰皿とマッチも一緒に持ってきてくれた。

「まさかあるなんて!」

 喜び勇んで、目の前に出されたセブンスターを手にとり、早速マッチを擦って至極の時を迎える。

(ふう、良かった……うん?)

 天国製だからなのか、ちょっといつもと味が違うような気がした私は、煙草のパッケージに目をやった。

(やはり、ニコチン・タールがゼロなのだろうか? あり得る話だな)

 健ちゃんの口元からは、白い歯がこぼれている。その目線は、パッケージの表側を指したままだ。

「パッケージ?」

 再度確認してみたところ……

 英文字の『Se』と思っていた個所が、実際は『Hea』だった。


 一服し、ブラックコーヒーも飲み終えて、ようやく私は落ち着いた。

 さらに二本目に火をつけようとして、ふと隣のテーブルに目をやると、そこには黒人の若い女性が座っている。先刻より誰かがいるのはわかっていたが、改めて見ると、彼女はまるでオリンピックの短距離レースにでも登場しそうなスマートさ。髪の毛は束ねられ、後ろに括りつけられていた。あまり見とれるのもどうかと思い、逆に話かけられても困るので、早々に目をそらした。

 私は本題に入るために、カウンターで他のお客のコーヒーを淹れているママさんに声をかける事にした。

「あのーママさん、ちょっとお尋ねしたい事があるんですが?」

 ちょうど、コーヒーを淹れ終わったところで、

「えっ? ハイハイ、何でしょう?」

と言いながら、ママさんは、私のテーブルを挟んで向かい側に腰を下ろした。健ちゃんも、その隣に並んで座ってくれた。

 そこで、私は二人を交互に見ながら、実は今朝入国して右も左も全くわからない状態で、おまけに自宅を描いた地図までも失っている旨を伝えた。



 話が一段落したところで、

「了解! おおよその事はわかりました」

と言いながら、すぐにママさんはカウンターの方へと向かって行った。

(何をする気だろう?)

「じゃあ早速、管理局に電話してみますね。えっと、何番だったっけ?」

「ママ、○○○のXXXXですよ」

 すかさず、サポート役の健ちゃんが反応する。

「さすが、元大学生! サンキュー……あっ、もしもし、そちらは管理局さんですか? 私、喫茶カドのママです……あれ? ねえ、おたくひょっとしてジル君? やっぱりそっかあ、久しぶりね。うん、声でわかるよ……ねえ、最近顔見ないけど、元気にしてるの?」

 まるで、遠方に下宿している息子にでも電話しているようだ。お隣の女性ランナーも、真っ白な歯を見せて大いに笑っている。

 その時、向かいに座っている健ちゃんが、私にボソッと話しかけてきた。

「ところで黒輪さんは、どうして、ここ天国に来られたんですか?」

「『どうして』……ですか?」

 何気ないこの質問が、実は一番触れて欲しくなかった話題だった。しかし、世話になった事でもあるし、ましてや、この先さらに世話になるのは十分に予測できたので、二人だけには『とある事情』を話しておこうと心に決めた。

 その時、電話を終えたママさんが席に戻ってきた。

「よっこらしょっと。黒田さんね、今からジル君がね、地図をファックスで送ってくれるんだって。それが届いたら説明しますよ」

「ママ、黒輪さんですよ」

 健ちゃんの指摘に、ママは軽く頭を下げてきた。もちろん笑顔のままで。

「あらら、そうでしたね。ごめんなさいね、どうも昔から名前を覚えるのが苦手なもんで」

「いえ、気にされずに。それよりも、重ね重ねすみません」

 私は頭を下げるや否や、

「あっ!」

と、ある事に気づいて思わず大声を発してしまった。

 これが突然だったので、二人とも目を大きくして、こちらの顔を覗き込んでいる。

「どうされました?」

「ママさん、大変申し訳ないんですが、今一度、管理局の、そのジル君とやらに電話してもらえないでしょうか?」

「全然構わないけど。何か質問し忘れた事でも?」

 何度も申し訳なかったが、ここは管理局に聞かざるを得なかった。

「すみません。実は先ほど入国ゲートでバタバタしまして、そこの管理人から、自宅の鍵を受け取るのを忘れてしまいましたもので」

 二人は顔を見合わせて、互いに一回頷いた。で、口を開いたのは、今度は健ちゃんの方である。

「それは、『受け取らなかった』のではなくて、『受け取れなかった』のですよ。と言うのも、元々鍵なんてないからなんです」

 やや回りくどい言い方ではあるが、その話は私を十二分に驚かせた。

「鍵がない、のですか? こ、これまた物騒な話ですね」

「いいえ黒田、じゃなかった、輪さん。今、健ちゃんが言ったように、ここには一切鍵という物は存在してないんですよ。何故かって言うと、ほら、人間っていくら善人でも、生きていると邪心の一つ二つは持ってるでしょ! でも、死んでここに上がって来たと同時に、それらは跡形もなく消え去るんですって。便利なものよね! だからね、ここでは盗みも人殺しも……ん? どうしました?」

 私の些細な表情の動きを、チェックされたみたいだ。このママさんは、なかなか観察力が鋭い。

「い、いえ、別に」

「あら、そうですか。えっと、どこまで……そうそう、だから、そんな悪い事は一切起こらないんですよ、ここでは。ついでに言うと、諸悪の根源であるお金という物も、ここでは存在しないんですよ」

「お金も、ない?」

 思わず、独り言のように呟いてしまった。

「そうなんですよ」

とママさんは言いながら、茶目っ気たっぷりに微笑んで、

「ではお聞きしますが、黒輪さんは、ここのお勘定をどうされるつもりでしたか?」

 その言葉に、私は思わずガウンのポケットをまさぐった。

(本当だ。いつも愛用している財布などない。いわゆる無銭飲食状態だな、これは)

「た、確かに。何も考えておりませんでした」

「じゃあ、今から煙草とコーヒー分の皿洗いでもします? アッハッハ!」

と、豪快に笑ってくれるママさん。いかにも天国の住人っぽい。一緒になって笑うしかなかった。

「冗談ですよ! それよりも、さっき健ちゃんと何を話し込んでいたんです? 別にいいんですが」

とは言っているが、その目には好奇心の色がありありと浮かんでいる。

 私の代わりに、健ちゃんが答えてくれた。

「黒輪さんがここにどうして来られたか、という話を始めようとしたところだったんですよ、ママ」

「あらそうなんだ。私の場合はですね……」

(誰も、ママさんの過去を尋ねてはないが)

「どしゃ降りの時に、嫌だったんだけど、急にどうしても車を運転する必要が出てきてね、またそれが相当慌てていたもんなんで、途中で派手にスリップをやらかしちゃって、電柱にドン! で、気がついたら、この世に来ていた訳ですよ。何の苦しみもなく、ね」

 誠に申し訳ないが、苦しむ姿が今一つ想像できない私。

 パントマイムが如く身振り手振りが凄いんで、話を注意して聞かなくても、大体の中身を掴む事ができる。健ちゃんは、と言うと、何回も聞いた話のはずなのに、隣で笑顔のままちゃんと最後まで聞いている。若いのに見上げたものだ。

「でも大変でしたでしょう? 少しぐらいは痛みとか」

 一応の御愛想で、質問なんぞをしてみた。

「いいえ、それがもう……即死も即死! 軽自動車だったから、ペッチャンコ! あの時、『旦那のセダンに乗っておけばなあ』と、実は悔やんだりしたもんですよ」

「そうでしたか。でも、ご家族の事とか気になったでしょうね、さぞかし」

 我が身も被せて、そう聞いてしまった。

「ここに来た当初は、確かにそうだったけど」

 ママは、過去を懐かしく思い出している風に見えたのだが

「ここでバタバタしている内に、徐々に、下界の記憶なんて薄れてきちゃいましたね」

「はあ、そんなもんですか」

「でも、いずれ旦那も、娘も、それに見た事もない孫だって、ここへ来ると思ったら、そんなに寂しくはならないですね。何か悪い事でも働いて、ここに来られなくなったら困りますけどね。アッハッハ!」

とママさんは屈託のない笑顔を見せながら、何かを思い出した様子だ。

「そうそう、これが一番大事な事だけど。何せ、年をこれ以上取らないで済むもんね。本当ならね、私、今頃は還暦なんですよ。ああ、おぞましい! でも贅沢を言わせてもらうと、若返える事ができたら、もっと良かったのになあ。と言うのもね、私ってこう見えても、昔はすっごい美人だったんだから! あなた方に、その頃の可燐なる乙女姿を見せたら、二人とも目がハートマークになるから、きっと!」

 お一人で悦に入っておられるが、何故か気が乗らない。だが、『ここでは年を取らない』という話は初耳だった。


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