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結末

「よう」


 聞きなれた男の声が頭に響く。

 目を動かしても薄暗い視界にはぼやけた空間しか映らないが、声が誰のものかはわかっていた。


「いい加減なんか言え。お前は四丁目のボケジジイか」

「――――」


 肺からの空気は喉に引っかかりもしない。喉の風邪の感覚に近い。

 耳の奥からヒューヒュー隙間風が聞こえる。肺もおかしいのか。

 

「ったくよぉ」


 うんざりした声の後、ぼやけた視界に動きがあった。

 視界に円形の物体が現れる。輪郭ははっきりしないけど、その円が西瓜すいかの種みたいな楕円に変形していったかと思えば――。


「あがッ!!」


 降り注いだ冷たい液体が喉に直撃した。冷水だ。

 吐き出そうと舌で抵抗するが喉は乾いた土のように水を吸収していく。冷たい恵みが喉元から胃の奥にまでまんべんなく染み渡っていく実感があった。


「うえッ! ……ごぇぇ!!」


 顔中が水浸しだ。鼻にも入ってる。

 寒さで頭がガンガンするがおかげで喉が通った。首も回る。


「……よぉ、万修。いきてたのか」


 声は掠れていたが大して気にはならなかった。

 脳みそもやっと目覚めてきたらしく、水をぶっ掛けやがったスカタンの顔がはっきり見えるようになった。

 

「おかげさまでな」


 腫れた青あざに邪魔されながらも万修は口角をいやらしく吊り上げた。

 手には水差しらしき物が握られている。


「てめぇ……」

「返事ぐらいさっさとしろ」

「無茶言うな。……なんか顔拭くモンよこせ」


 どうやら体は横になっているようで、顔だけじゃなく寝床までもがびしょびしょだ。

 しかも季節は冬。冷水をぶっ掛けるなんて非常識にもほどがある。熱湯をかけられた方がまだマシだ。


 起き上がろうと腹筋に力を入れるが、上体は上がりきらない。せいぜい枕ほどの高さしか上がっていないのに腹筋は引っ張る力を失ってしまう。

 左腕の痛みが頭を過ぎる。このまま倒れるのは良くない――――と、わかっていても身体はいうこときいてくれない。重力に引っ張られる。

 

「いだッ――」


 柔らかい地面に体が沈み、左腕から例によって痛みがのぼってくる。


「あれ?」


 ところがどっこい激痛といえるものは感じなかった。涙が出るほどではあったけど痛みが長引かない。

 掛布団をめくる。

 左腕は木の板と包帯でガチガチに固められている。肘から先が棍棒にでもなっているかのようだ。ガチガチといっても動かすと痛いことに変わりはないけど。

 よくよく見れば万修の左腕も同じように固定されている。骨折しているのか。


「つーか……」


 包み込むような柔らかさが背中を支えてくれている。

 右の肘を立てるがそれすらも沈み込むようで、骨がとこにぶつかる感覚は全くない。ふっかふかだ。

 

「なにこれ!? すっげぇ柔らけぇ!!」

「はしゃぐな、馬鹿」


 手ぬぐいが胸元に舞い落ちた。


「一週間寝たきりだったんだぜ。動けるほうが変ってもんだ」

「……体が重いわけだ」


 顔を拭く動作すら鈍く感じる。腕も変に重い。

 首を回すのも億劫だけど、周囲の違和感に見回さずにはいられなかった。

   

 広さは俺らの班室の倍ほどか。

 ふかふかの寝床を囲むように四方に柱が立てられ、垂れぎぬ――未来で言うところのカーテンに近い――が留められている。

 寝床から少し離れた所には、執務用か来客用かわからないけど高そうな机と椅子が置かれている。

 兵舎のがたがたの木枠とは全く違う、装飾の施されたイカした窓枠。

 壁の高い位置に備え付けられている漆で塗られた箱型の彫り物。たぶんかがり火を焚くための照明器具だ。


 王様でも住むのかってぐらい豪華な一室。王様は言いすぎか。将軍とか偉い人の部屋みたいだ。

 ――――まてよ。


「一週間……?」

 

 寝たきりで一週間が過ぎた。

 一週間前、俺は戦っていた。雪に覆われた虎牢関の地で、董卓軍を相手に戦っていた。

 

「戦はどうなったんだよ。……いや、待って。ここどこだ。みんなはどうなった!?」

「あぁ~?」


 駄目だ。訊きたいことがあり過ぎてこんがらがってきた。

 ……落ち着こう。一番知りたいのは戦についてだ。


「戦はどうなった……?」


 俺らが戦に出た初戦。袁紹やら袁術様やらの軍勢は劣勢だった。

 あれから一気に盛り返せるはずはないだろうが、孫策様が何の抵抗もできずに敗北するわけがない。となればそれなりの期間、戦は続いたはずだ。今も続いているかもしれない。


「虎牢関では連合側が勝った。俺らが、その……敗けてから二日後、御使い様とやらの軍勢が呂布を退けた。それが決定打になったみたいだぜ」

「北郷さんか……。すげーな」


 呂布を退けた。あの人間離れした化け物に勝った。

 北郷さんの所で強そうだったのは趙雲と黒髪の人。きっと二人のどっちかがめちゃくちゃ強いんだろうな。まさか北郷さん自身がめちゃくちゃ強いなんてことはないよな……。


「じゃあ、連合はどのへんまで進軍してるんだ?」

「今頃は洛陽にでも入ってるだろうよ」


 敵の本拠地、洛陽。董卓が居座る最後の戦いの場だ。


「最終決戦か」


 洛陽の外壁も相当なものと聞いている。苦戦は絶対だろう。

 

「いや、戦は終わった。董卓は洛陽から逃げたとか死んだとか――そんなとこらしい」


 ……戦わないのなら苦戦もクソもないか。


「はっきりしねぇな」

「洛陽入りの報告がまだ届いてねぇんだ、しょうがねぇだろ!」


 万修は怒鳴った勢いのまま近くにあった竹の松葉杖を手に取り、使えとでも言うのかこっちに突き出してきた。


「出るぞ。立て」

 

 足の怪我はないけど、万修の眼力につい松葉杖を受け取ってしまう。

 

「出るって、どこ行くんだよ」


 俺が言葉を言い終える頃には、既に万修は出口の扉に手をかけていた。


「お前の知りたいことを教えてやるってんだよ。ついてこい」


 そのまま問答無用で竹林のような装飾を施された扉を押し開いた。

 外から寒気が流れ込んでくる。


 季節はまだ冬だった。






 ここは一度だけ通ったことがある。確か城の――南陽の城の中庭につながる通路だ。

 南陽に帰ってきていたのか。

 記憶の通り、通路の先は孫策様に酒を飲まされたあの中庭が沈黙を守っていた。人影のない、僅かな日の光に照らされた中庭は哀愁が漂っているようだった。

 

「おい。歩くの速いって」


 こっちは筋肉が衰えてんだからもう少し配慮してくれ――とか考えても万修は無言で突き進んでいく。

 無言。しゃべらない万修。

 不機嫌な時はいつもそんなだったな。こういう時は下手に声をかけない方がいいか。

  

 静まり返った廊下を抜けて裏口から訓練場の方へ出る。


「う……」


 日の光が目に染みる。あの吹雪の時のような強烈な閃光――。

 はっとして頭を振る。絡みついてくる黒い感情から逃れたい一心だった。


 太陽は西の空にあった。

 虎牢関では吹雪に苦労したけど、こっちには雪なんか一片たりとも積もっていない。風さえ気にしなければ日差しのおかげで暖かいぐらいだ。

 そんな好天に恵まれているにもかかわらず、訓練場には人っ子一人見当たらない。


「人がいないな」

「本隊はまだ帰ってねぇんだ。こうもなるさ」


 ようやく口を開いた万修だったが歩く速度は相変わらず早足に近い。訓練場を堂々と横断していく。

 慣れない松葉杖じゃあ追うのが精一杯で体中汗だくだ。息も切れてきた。


「一週間でこの様かよ……」


 体を支えている足が丸太のように重い。

 持ち上げた時の松葉杖が剣のように重い。

 汗を吸った服が鎧のように重い。

 身につけている全てが、自分の肉体が――――心までもが気怠いほど重く圧し掛かってくるようだったが、足を止めるつもりはない。


 唾液に血の味が混じりだした頃、ようやく万修が足を止めた。


 湿った砂を踏みしめる。

 万修の向こうには木造建築、二階建ての横長い建物が腰を下ろしていた。雨風で色落ちした懐かしき俺らの寝床。

 

「兵舎か……」


 黄寛隊と陳誠、延岐隊。三隊の為の兵舎だ。

 周囲に人影は無く閑散としている。みんな仕事にでも出ているみたいだ――って、違うか。洛陽からまだ帰ってきていないんだろう。


「ちゃんとついて来いよ」


 念を押すように万修の視線が飛んできた。

 心に氷柱を差し込むようなその瞳に背筋が震えた。




 心当たりはあった。だけど、それを自分から言い出そうとすると体が震えてしまう。心が怖気づいてしまう。

 唾を吐き出す。砂に染み込む唾は赤く濁っていた。 




 万修は扉を開けて中に入っていく。

 ギシギシと木が軋む音だけが建物に木霊する。普段の生活音は全然聞こえない。人の気配もない。扉は全て閉まっている。

 

「はぁ……」


 進むにつれて息苦しさが増してきた。汗も冬とは思えない量が流れて出ている。 


 どれだけ歩いただろうか。

 泥の上を歩いているかのように脚が上がらない。

 どれだけの時間が経っているのだろうか。

 差し込む日の光が俺だけを照らし続けているような蝕む熱気に視界がぐらつく。


 終わりのない荒野を彷徨う錯覚の中、とうとう万修が足を止めた。

 目の前には見るからにぼろい木の引き戸。


 張豊班の札が掛かっている俺たちの班室。扉はやはり閉まっている。

 安堵の間もなく、万修は扉を空けろとでもいうのか道を空けて顎をしゃくった。その態度は、強迫的だった。

 

 ガタタン。扉が引っかかるぼろさもいつもの事だった。

 腕が水につかっているように重いが少しばかり力を入れて扉を軽く持ち上げる。引っかかっていたところが外れた。


「はぁ――」

 

 熱いはずの息が冷たく吐き出される。

 開けたくない。開けなければならない。義務感が背中を押す。

 

 そう。

 自分の目で確かめて、認めなくてはいけないことなんだ。

 戸惑う心を奮い立たせて、俺は扉を一気に――開き切った。




 ――――おかえり、子義君。




 柔らかい声が聞こえた気がした。が、耳に残るのは空の壺を打ち付けたように響く扉の軋みだけ……。

 

「なんで」


 自分の声すらも虚しく響く狭い空間。


「なんで空っぽなんだよ……」


 部屋の中は床板、それだけが敷かれていた。たったそれだけ。

 染みのできた天井。ところどころ虫に食われた木の壁。小さい窓。それ以外になにもない空っぽの部屋。


「俺の――みんなの荷物はどこいった!?」


 親父から貰った革袋も、張さんのこぢんまりした荷物も、李尋と李和の私物も、着物も座敷も――全部が全部なくなっていた。


 閑散とした空間にカコンと竹を打つ音が鳴り響いた。

 

「おい、なんでだ! 万修! なんでだァ!!」


 気づけば俺は万修に掴みかかっていた。

 左腕の痛みに我に返りつつあった。答えなんてわかっているようなものだった。

 だけどそれらを振り払って奥歯を噛み締める。


 ――認めたくなかった。


 腕が震える。衰えた右腕では万修を持ち上げるには至らない。

 ひやっとした様子のない万修。平静を装っているようにも見える万修が小さく口を開いた。


「お前の荷物は移動済みだ。安心しろ」

「俺のはいい!! なんでみんなのが――――」

「李尋と李和は故郷くにへ帰った。李尋が利き腕を失くして、李和も一緒にってことだ。……張豊の事は、わかってんだろ」


 万修は燃えたぎる力強さで俺の腕を掴み上げてきた。

 腕を握りつぶさんばかりの握力。睨みつける瞳に、俺は抵抗することができなかった。


「張さんは――」

「張豊だけじゃねぇ。黄寛隊の奴等はほとんどいなくなっちまった」


 声には噴火寸前というような気迫が籠っていた。

 ――いなくなった。

 その言葉だけで万修が何を言おうとしているのかわかってしまう。悟ってしまった。


 ――――認めたくない。 


 緩みそうになる目頭を必死にこらえて万修を睨み付けるが、眼の前の男は言葉を止めない。睨み返してきやがった。

 

「ここまで言やぁわかるだろ! 黄寛隊は解散した! テメェの勝手な行動でみんな――――」

「俺はァ……!」

 

 俺には口から飛び出るそれを抑えきれなかった。 


「俺はついて来いなんて言ってねぇ!! 一人で戦えた……戦えたんだ!! なのにィ――」


 これは本心からの言葉だったのだろうか。

 胸に乱暴な衝撃が響く。


「いいか、テメェが勝手に行ったからみんなが命を懸けたんだぞ!!」


 万修が折れていない方の腕で胸ぐらを掴んできた衝撃。

 首を絞めるかの如き締め上げは全く息苦しくなかった。心が苦しくなかった。

 

 口が勝手に開く。


「ムカつくなら殴ればいいだろ! そのまま……殺すつもりでぶん殴ってみろよ!!」


 俺の倍もある万修の腕を握り返して目に力を込める。

 これも本心からなんだろうか――――わからない。

 

 万修の目元が、口元が痙攣するようにひくつく。耳の奥を不快に揺らす歯ぎしりは万修からだった。


「気のいい奴らばかりだった……。それがお前みてぇな、何でもかんでもわかった風なガキの為に――!」


 喉にくる息苦しさが消えた代わりに、またも胸に衝撃がきた。

 万修に突き放された震動。体勢を崩され、ひざが折れそうになるがなけなしの気力を振り絞って踏ん張る。


 腕が一本だけでは殴れない。万修はそう考えて突き放したんだろう。きたる痛みに備えて足腰に力を注ぐ。

 されど万修の表情からは力が消えた。眉尻を下げ、どうでもよくなったというようにこれ見よがしにため息をついて「もういい」と空っぽの部屋に――――俺に背を向けた。

 

「――……お前、昇進が決まってるらしいぜ。城の中に私室を持てるほどのな」

「急に、なんだよ……」

「さっきの金持みてぇな部屋がそれだ。テメェはそれなりに高い地位を貰えるってことさ」


 唐突に語りだしたそれは吐き捨てるような淡々としたものだった。


「俺も、昇進が決まってる。お前に比べりゃちんけなもんだがな……」


 万修は扉に手をかけた。

 ガタタン。扉が引っかかる音が響く。


「待てよ、万修!」


 どうしてそう言ったのかは自分でもわからない。引き留めたからって何かが変わるわけじゃないのに……。

 言うまでもなく万修は止まらない。扉を開き切った。


「配属は別々だ。もう、会うこともないだろうぜ」




 ――あばよ。

 最後に聞えたその言葉は扉越しからだった。




「なんだよ……」


 頭が追いつかなかった。考えられない。

 体は力を失っていた。追いかけられない。


「なんでだよォ……」  


 遠ざかるたった一つの廊下の軋みが知らせるのは“もう誰もいない”という現実。

 その残響はひたすらに心細くて、俺は涙を堪え切れなかった。




第四十話 結末




 南陽が闇に沈む。

 雪こそ降らないが急激に冷え込んだ気温に季節が冬だということを今一度思い知らされた。

 街にはところどころで焚き火がされていて、転々とした光の道標のように夜道を照らしていた。人影はまばらだ。


「はっ……はッ……」


 その道標に逆らうように足を進める。白く乱れた呼吸は掠れていた。


 ひとりになりたかった。

 なんでそうしようと思ったのかはわからない。夜風が恋しくて、星が見たくて――――少なくともそんな夢見がちな理由からじゃないのは確かだった。

 

 暗い道ばかりを選んでいたら街のはずれ――外壁へと行きついてしまった。

 巨大な壁としてそびえる真っ黒な外壁。月の光を遮るそれに気持ちを押し潰されてしまいそうな錯覚を覚えて、近場の階段に足をかけてしまう。

 外壁の上に続く階段。無断でのぼるのは軍規違反だったが今の俺には怖いものなんてなかった。どうでもよかった。


「くそ……」 


 足が思うようにあがらない。段差はそれほどではないのに、傾斜のある山道のように辛い。

 

「何やってんだ、俺は」


 大人しく柔らかい寝床で寝ていればいいのに。

 汗だくになってまで理由も無く動き続けるなんて馬鹿みたいだ。馬鹿だけどさ。

    

 一段一段。

 一歩一歩。

 俺はここまで進んできた。辛いことも怖いことも山ほどあった。楽しいことだってそりゃあった。

 張さん。万修。李尋。李和。黄寛隊長に隊のみんな。

 友達とかじゃなくて、たぶん仲間っていう関係。苦楽を共にした関係は今にして思えば――。


「家族みたいなもんだったのかもな」


 親父とか母ちゃんみたいなのじゃなくて、兄弟みたいな感じ。安心できる場所だったのに。


 階段が終わり、凍える風が吹き付けてきた。

 頂上から見上げる空には何の障害もない。月に一番近いところまできたはずなのに、どうあがいても手は届かない。


「もう、いいか……」


 戦う理由――――楽進の言う信念は俺には持てそうにない。

 体は包帯だらけ。腕は折れている。体力の衰えも酷い。

 だけどお金は相当貯まった。戦の給金も入っているだろうし、母ちゃんのところに帰るのもいいかもしれないな。


 外壁の上に吹く風は体の熱気を冷ましてくれる。肌を撫でるそれは俺の目を覚まさせてくれた気がした。


「昇進の話は断ろう」


 実力もないのにでしゃばって隊のみんなを――。

 孫権様に近づきたいなんて変な野心みたいな気持ちせいだ。長い夢を見ていたけどもうこれっきりだ。


「ホント、俺は――――」

「こんな遅くに何をしている」


 心臓が跳ねる。

 近づいてくる足音。声の主は容易に予測できた。警邏の兵士だ。


「す、すんません!」


 頭を下げたのは反射からだった。

 直後、気づいてしまった。さっきは怖くないとか思っていたのに、いざその場面になってみればこれだ。

 俺のは覚悟でも何でもない。そうした方が見栄えがいいとか思っている見栄っ張りの思考だったんだ。こんなんじゃ楽進の言う通り、生き残れるはずがない。


 ―――――故郷に帰ろう。


 心は固まった。

 今度こそ、もう動かない。


「……よし」

 

 小さく呟く。

 そうと決まればまずは現状を打破しないと。投獄なんてことになったら目も当てられない。というか親父に勘当されてしまう。


「顔を上げろ、太史慈」


 しかし頭上から聞こえたのは俺の名前。

 悪い想像を消し去ったその命令口調、凛とした張りのある声には覚えがあった。間違えようがなかった。

 頭に浮かぶのは警邏隊の人よりも恐ろしい人物――。 


 内心を出さないよう表情を引き締めて、顔を上げる。


「甘寧将軍……」


 羽織った厚手の着物をはためかせ眼の前で足を止めたのは、予想通り甘寧将軍だった。

 拳でも飛んでくるかと思いきや、そこにはいつものとげとげした覇気は感じられない。

 額を覆う包帯に、木の板で固定された右の腕。傷に塗ったであろう、至る所にできた軟膏の痕。一目で大怪我だとわかってしまう。そのせいか。


「警邏というわけではないだろう。無断でのぼってきたな」

「すんません……」


 いやいや。怪我人だからって気を緩めちゃいけない。

 会話するみたいにぼこすか殴りかかってくる甘寧将軍なのだ。鞭打ち百回、引きづり回し千里などなど死んだ方がマシってぐらいの刑罰にかけられる可能性だってある。


「その……傷が痛くて、なんとなく風に当たりたかったんスよ。……見逃してください」

「何の事だ」と甘寧将軍は口にしたが、すぐに思い至ったのか「安心しろ。お前をどうこうしようなど考えていない」とほんのちょっと口元を緩ませた。

 

 微笑みとまでは言えない笑顔であったが、その生きた表情に実感がわいてくる。

 虎牢関で俺たちが戦かった意味はあった、と。

 目頭に熱いものが込み上げてくるが人前で泣くわけにはいかない。額から流れ落ちる汗と一緒に拭き取る。

 

「具合はどうだ」

「いえ、見たまんまッスよ。気分が悪いとかはないッス」

「……声がおかしいな。明日、医者を呼んでおこう」

「そこまでしても……いただかなくていいッスよ」


 将軍はほんの二拍ほど考え込んでから「ならば明日、医者に掛かれ。いいな」と外壁の外に目を向けた。

 心配してくれているのかわからない事務的な声調だったが、普段の将軍からは考えられない柔らかい物言いに感じられた。優しい言葉をかけ慣れていないような、そんな感じ。

 

 将軍は口を閉ざしたまま動かない。外の荒野を眺めているだけだ。


 なにかあるのか。

 視線を追う。外壁の外には月の光に照らされた青白い荒野が広がっている。特別目を惹く物はない。

 将軍は動かない。

 建物の柱に背を預けて外の静寂を眺めている。昼間は休憩所として一般開放される屋根しかない建造物だ。


 ――なんで黙ってんだよ。


 肌をバシバシ叩いてくる沈黙。

 俺がなにか喋ればいいんだろうけど話題を振る気にはならなかった。気分が乗らないというか、ひとりになりたい気持ちが強まっていた。

 じゃあ俺はこれで――とか言って帰るわけにはいかないし、どうしよう……。


「――そういえば」


 静寂に溶け込むかのような平坦な声。


「まだ話していなかったな」


 改まった将軍はそんな風に切り出してきた。その様子からして真面目な話のようだ。昇進についてかな。


「命令違反は厳罰だ。軍の規律を乱すな」


 将軍の口から、感情を感じさせない淡白な台詞が白い息となって吐き出された。


「……は?」

「虎牢関での事、忘れたとは言わせんぞ。撤退命令を無視して私の戦いに割り込んできただろう」


 まるで想定していなかった内容に開いた口が塞がらない。

 

「本来なら相応の刑罰が執行されるところを減給に留めてくださったのだ。孫策様の寛大な処置に感謝するのだな」


 将軍は目を合わせようとか言葉を交わすとか、そういった気は全くないように身動き一つしない。


 気分が悪くなる。

 それは俺たちの戦いがさも意味をなさなかったような否定を暗示していた。そう受け取るべき態度と台詞だった。


 将軍は動かない。


「それだけ……なんスか」


 自制心を働かせつつ息を吐き出す。  


「もっと他に言うことがあるんじゃないんスか……!」


 俺だけにじゃない。俺にじゃない。

 張さんや万修。李尋に李和。そして黄寛隊長たちに言わなきゃいけないことがあるはずだ。


 将軍は何かを解したように「あぁ」と息を吐いて。


「褒賞が昇進だけでは足りんというのか?」


 発したそれは的外れなんてもんじゃない。俺の事を金や地位でどうにかなる男だとでもいうような侮辱だった。

 刑罰だとか昇進だとか、そんな下らないことしか――。 


「あんたはそういうことしか言えないのか! 俺らが行かなきゃ死んでたんだぞ!!」


 鋭い瞳が暗闇に光る。光の矛先がようやく俺に向いた。


「過ちは自らのものとする。私が招いてしまった結果だ。どうであれ受け入れなければならない」

「死ぬことになってもかよォ!」

「孫呉の為ならば死すら是とする。それも将の勤めだ」


 将軍の声に抑揚はない。悟っているようにも聞こえた。

 将としての責任。

 甘寧将軍にはそれよりも大切な物があるだろ。誰にもとって代れない大事な役目があるだろう。


 ――――甘寧は私にとってかけがえのない大切な存在だ。


 孫権様が口にした言葉。あの誇らしげな表情は今でも鮮明に思い出せる。

 安らぎに満ちた孫権様を悲しませることなんて絶対に認めない。


「あんたが死んだら、悲しむ人がいるだろうがァ!」


 腹の底から飛び出た声が傷口を抉るが顔には出さない。頬の内側を噛んで堪える。

 これでわからないようなら腕ずくでわからせてやる。両脚は既に肩幅程度に開かれている。いつでも飛び出せる。


 ところが将軍に動く素振りはなく、初めて面白いものに出会ったように目を細めた。


「生意気な口だ。それがお前の素か?」


 本当に、初めて見た。

 将軍の微笑みは青白い月光も相まってお姫様のように神秘的だった。 

  

「お前の言う通りだ。蓮華れんふぁ様――孫権様は涙を流されたよ。私が生きていることを喜んでくださった」


 将軍は頬を撫でながら、遠くを眺める。


「手痛い叱責もいただいた。怪我をするな、死ぬのは許さんとな」


 そこには心の底から滲み出るかのような安堵感があった。孫権様が甘寧将軍の事を話すときのような――。


「お前のおかげであの方を悲しませずに済んだ」


 切れ長の目を細めた将軍のとは思えないくらい穏やかな瞳。名残惜しくも、その瞳が俺から外れる。

 将軍は伏し目がちに、薄く潤った唇を開いた。

 

「感謝する。ありがとう」


挿絵(By みてみん)


 どこか感傷的で人間味のある声調のそれは、紛れも無く将軍が発したものだった。

 将軍の口から吐き出された白い息が何よりの証拠だが、緩やかな風へと幻のように溶け込んでいってしまう。




 俺は――――。




 俺は呼吸を忘れていた。


「――……お」


 声を出そうとしてようやく気がつけた。


 驚いたわけではない。怪我のせいでもない。

 目の前の光景が、自分に向けられた言葉が旋風のように胸中を駆けまわった。


「お、俺に言うなぁ!」  

 

 将軍の姿が水面のように揺らぐ。

 ぐるんぐるんと渦潮のように胸の内が掻き混ぜられていく。この感覚はわけがわからない。


「それは、張さんや隊長に言うべきことだろうがぁー!!」


 声は乱暴に吐き出され、腕は勝手に動き回る。

 考えるよりも先に言葉が出ていく。じっとできなかった。


「それにっ! 俺はあんたの為に戦ったわけじゃ……」


 突きつけた指は揺らめきに消えていき、言葉までもが波に飲まれた。

 鼻水と涙で呼吸もままならず、もう――――わけがわからなかった。


「――お前が死地に赴いたのも、何か想うところがあっての事だろう」   


 嗚咽の中、将軍の冷徹な声が鼓膜を震わせた。


「己が信じるモノの為に戦えばいい。その結果がどうなろうとも受け入れる覚悟を持てば如何なる感情も力にできる」


 だけど氷の奥に隠された温かみは感じることができる。わかってしまう。


 結果。

 甘寧将軍を助けに行った結果……。


 張さんを死なせてしまった事も。

 李尋に取り返しのつかない怪我を負わせてしまった事も。

 隊のみんなを死なせてしまった事、大怪我をさせてしまった事も。

 全部認めなくちゃいけない。


 俺が何も言わずに飛び出してしまったから、みんなを危険な場に駆りだしてしまった。

 頭ではわかっている。理性では理解している。

 けど――――。



「やはり夜は冷え込むな」

 

 ぼそりと投げ込まれた声に顔を上げる。

 目の前で重力を振り払うように着物が翻った。


「長居は傷に響く。先に失礼させてもらう」


 甘寧将軍は階段の手すりに手をかけた。肩越しに見える瞳はいつもの将軍のものだった。


「体は、冷やすなよ」


 言葉には確かな思いやりが込められていて、その姿は暗闇に沈んでいった。






 この場には誰もいない無の静寂だけが残っていた。

 頬に熱い感覚が流れる。


「張さん」


 頭には張さんが見せた最後の微笑みが浮かんでいた。


「ありがとうございました」


 あの微笑みが俺を守ってくれた。俺を生かしてくれた。


「……すんませんでした」


 俺の無茶な行動につき合わせてしまって。俺のせいで死なせてしまって……。

 俺が呂布に勝てなかったばっかりに、こんなことになってしまった。


「――――俺は、強くなります」 


 張さんに救われた命は無駄にはしません。 

 俺は、まだ戦います。 

 自分の大切なモノを見つけられるように戦って、強くなってみせます。



 だから――――。




「張さんの――みんなの命を貰っていきます」


  

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