表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/44

直下

 寸前まで迫った刻限を前に“孫”の牙門旗がうるさいほどにはためいていた。

 

「視界が悪いな」


 前方に広く布陣している董卓軍を見据えながら甘寧はひとりごちた。

 

「そうでしょうよ」


 意図せず返ってきた言葉に甘寧が振り返ると、竹簡とにらめっこしている大柄な男が視界に入った。甘寧の副官だ。

 副官は顔を上げると、その太くたくましい眉を毛虫のように縮めて董卓軍を指した。


「砂みたいに粒の小さい雪ですぜ。こうなるのはとっくにわかってたでしょう?」


 甘寧は今一度、平地を挟んで展開している董卓軍に目を向けた。

 平地では薄く降り積もっていた粉雪が強風に煽られ砂嵐のように視界を阻んでいた。十里も離れていない董卓軍ですら雲に隠れているようで、かろうじて視認できるのは敵兵の影だけ。吹雪に切れ目が入ればまた違うが、それは稀であった。

 加えて足踏みしただけで舞い上がってしまうほど軽い雪だ。進軍がはじまれば、今見えている影すら視認できなくなる恐れがある。

 

「降っていないだけまだマシなんでしょうがね」

じきに振り出しそうではあるがな」


 副官の言葉の通り雪は降っていないが、雲の色は黒に近い。


「攻めるなら今の内、か」

 

 袁紹らの進軍の判断に周瑜は早計だと否定的であったが、よくよく天候を考慮したなら合理的な判断であったとも考えられる。

 両側にそり立つ崖のせいかやけに風が強い。これで雪でも降ってしまえば進攻どころか野営すら困難となり、汜水関まで引き返さなければならなくなるというものだ。


「――もしそうなら」


 幾度も繰り返した推理によって甘寧の脳裏に一つの説が浮かびあがった。

 敵の狙いは、これよりきたる猛吹雪ではないだろうか。雪の質を事前に知っており近日中に天候が荒れることを予知した、それまでの足止めのための布陣ではないだろうか、と。

 この地域で長く生活してきた者になら天候を予測することぐらい造作もないだろう。江賊として水上生活が長かった甘寧にだって――船の上限定で、かつ大雑把にではあったが――そういったことはできる。

 しかし、どうしても推理の域を出ない。


「報告します!」

 

 甘寧がその説を破棄したところで“隊長”の腕章をした男が二人、副官のもとを訪れた。男たちはぱっぱと簡易的な礼をしてから報告を始めた。

 

陳誠ちんせい隊、整列完了しました!」

延岐えんき隊、同じく整列完了です!」


 副官の男は竹簡を確認すると「よし、戻れ」とすぐに二人を返した。

 その竹簡は甘寧が周瑜から授かったものだ。部隊編成が記されており、副官は“陳誠隊”と“延岐隊”の箇所に×印を書き加える。


 もうじき約束の一刻後だった。隊列が整いつつある隣りの馬騰軍を一瞥してから、甘寧は副官へと声をかけた。


「あと何隊いくつ残っている?」

「あとは……三隊ですかね」副官はちらっと竹簡に目を通してから「ええ、あと三隊です」と言い切った。

「そうか」

  

 三隊ぐらいならもうしばらく待ってみるか。甘寧は整然と並び立つ兵士らを眺めた。

 それらは黄巾賊との戦を経験し、幾度もの勝利を収めてきた気鋭に富んだ人材ばかりであった。立ち振る舞いには歴戦とは言えないまでも、戦に勝ち抜いてきた自信のような風格が窺えた。

 それら呉における重要な戦力をこの程度の戦――悪く言ってしまえば消化試合――で消耗するわけにはいかないと甘寧は拳を固める。


かしらぁ」


 が、女々しい響きが甘寧の鼓膜を震わせたため、その力はゆるゆると抜け出てしまった。

 声の主は副官の男だったが、男色の気があるのではないかと邪推してしまうほど気味の悪い発声であった。副官のそんな噂は全くなかったが。


「将軍と呼べ。……なんだ?」と甘寧はため息交じりに言った。


 江賊時代からの部下であった副官は、何かをねだる際には決まって甘寧をこのように呼ぶのだ。


「いい加減、あっしに筆を持たせるのはやめてくだせぇ。指にタコができちまいますよ」


 しかも内容のほとんどはこれである。


「同じ事を何年言うつもりだ」


 甘寧にしてみらば、まさに耳にタコができるほどであった。


「副官を辞めたければ代わりを連れてこい。信頼できる奴をな。……仲間内でお前並に読み書きできる奴がいるか? お前こそいい加減に諦めろ」

「あっしは一兵卒のが性に合ってるんですよ……」


 ぶつくさ文句を言うものの、その事務能力はなかなかに優秀であり、気遣いまでできる出来た男であった。甘寧は内心の気負いが和らいだのを感じ取りながら口元を緩ませる。


 そこへまた一人、“隊長”の腕章をした豪胆そうな大男が近づいてきた。つるっとした頭の大男は締まりのある礼をしてから報告をはじめた。


黄寛こうかん隊、整列完了しました」


 黄寛隊――覚えのあるそれに、甘寧の脳裏に一人の少年の姿が思い浮かんだ。

 黄寛隊は延岐隊のすぐ後ろの配置だったなと、甘寧は部隊の配置を思い返しながらその位置に目をうろつかせた。

 そして見つけた。兵士らの中にあってぶっちぎりで身長の低い少年――太史慈の姿を見つけた。


 甘寧がその姿を目にしたのは実に収穫祭以来であった。興味を失ったからというわけではない。反董卓連合や“この戦の後”の準備に忙殺され、南陽を留守にしていたからだ。

 ――変わったか?

 太史慈の立ち振る舞から、甘寧はその内面のどことない変化を感じ取った。

 眼つきの悪さは相変わらずだが、そこに臆した様子はなく、焦りも見えない。種子が根を張るような、矮小なれど確然たる安定感が、甘寧の直感的な感覚に語り掛けたのだ。

  

「これであと二隊……将軍、どうします? 呼びに行やしょうか?」


 副官の声に甘寧は名残惜しいながらも目を戻す。黄寛隊隊長はすでに去った後であった。

 

「まだいいだろう」

 

 甘寧は連合側の布陣、その中央に目を向けた。

 馬騰軍と逆側に隣接する袁紹軍は未だばらばらであり臨戦態勢には程遠い。


「しばしの余裕はありそうだ」


 


 


第三十五話 直下




 中央から銅鑼の音が響いた。

 何度も何度も鳴り響くそれに、若馬は鼻息荒く首を振った。

  

「落ち着け」


 甘寧は跨っている若馬のたてがみを撫でる。指が抵抗なく通り抜ける様は実に心地よい感覚であった。

 若馬は言葉を理解しているのか、その激しい気性を徐々に鎮めていく。


「賢いな」


 鼻息は荒いままだったが甘寧はその背に飛び乗り、冷え切った空気を静かに吐き出した。


 自らに従う万の軍勢を背に、訓練を積んだ十万近くもの敵軍が立ちふさがる。戦慣れした甘寧と言えどこれだけの大舞台は初めてであった。

 ――初陣を迎えたのはいつだったか。

 甘寧の内に望郷にも似た感覚が湧き上がる。江賊としてではなく、呉の将としてのそれに緊張しているわけでも懐古するでもない。かつて誓った志を、再び胸に刻みつけるかの如き追憶であった。

 甘寧は大きく息を吸い込むと、馬の手綱を引いた。


「聞けぇッ! これより我らは董卓軍に攻勢をかける!」


 甘寧の視界に万の部下が飛び込んできた。


「ここを越えれば皇帝陛下を謀る賊臣――董卓は目前である!」


 前線の指揮権は甘寧にあり、眼前に広がる部下の命――その全てを自分自身が握っていると、甘寧はその重みを、必要性をその目にしかと刻み付けた。


「我らの武勇にて道を開くぞ!!」


 ――決して無為の死は与えない。私の手で生かす。

 それを孫策に、周瑜に、そして遠く離れた地にて新たな戦いの備えに奔走する孫権に誓い「全軍、進撃せよッ!!」と敵軍へと武器を振り切った。


「おおおぉおぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!」 


 途端、連続した地響きが動き出すと、時を同じくして馬騰の軍勢も群鳥むらどりが発つように行動を開始した。

 袁紹、袁術軍はすでに半里ほど先を進んでいる。舞い上がった粉雪のせいで先頭は窺えないが、その勢いは甘寧らを後続とでもみなすようにぐんぐん速度を増していた。


「合わせる気は無いのか……!」

 

 袁紹軍によって雪が舞い上がっているとはいえ、まだ敵軍を観察できるだけの視野が残っていたのは幸運だった。

 敵の進軍速度は徒歩のように遅く、その陣形は槍兵や弓兵を主軸とした迎撃体制でもない。言い換えてしまえば敵軍には進軍速度を上げる余地がふんだんに残されており、用兵に緩急をつけた戦術を取れると考えられた。


 突出しすぎれば敵軍に包囲されてしまうことぐらいわかっているだろうに。甘寧は袁紹を睨み付けてしまうが、彼女らを見捨てる選択肢はない。

 袁家の兵力は連合全体の半数を越えており、反董卓連合における要ともいえる存在であった。兵の数はそのまま勢力の強さを示しているようなもの――つまり袁家の兵力を失うことは連合の力を著しく弱めてしまうということに繋がる。


「速度を緩めるな! 勢いのまま敵の前線を突き崩すぞ!」


 結論として、他の諸侯は多少の無理をしてでも袁家の動きに合わせざるを得ないのだ。 

 強い追い風が背中を押す今ならば、気持ち進軍速度を上げても問題は無さそうだと、甘寧は馬の腹を蹴りつけた。


「おおぉぉぉぉぉッ!!」


 万の雄叫びが甘寧の背に圧しかかる。

 それから間もなくして、戦場の中央から悲鳴とも雄叫びとも取れない奇声が上がり、吹雪の密度が急激に上がった。


「袁紹、袁術の両軍が戦闘を開始しました!」


 副官の業務的な報告に甘寧は頷く。

 

「我らも遅れを取るな! 進めェ!!」


 戦が始まった。甘寧はそれを知らしめるための号令を発すると、部隊から気勢が返ってきた。気力は充実しているようだった。

 甘寧は正面を睨み付ける。今度のは探りではなく、戦う気概を持っての眼光だ。



 だが、途端――大地が崩れ落ちるかの如き、突発的な怖気が甘寧を襲った。


 

 甘寧はすぐさま探りの視線に切り替えた。

 袁紹軍が巻き上げる雪のせいで前方の吹雪に敵影はない。敵軍は未だ前には出てきていないようだ。

 ――誘い込まれているのではないか……?

 甘寧の中にそんな猜疑心が浮かび上がったが、常識的に考えたのなら敵が不動であることは当たり前とも言えた。

 互いの練度が同程度で尚かつ戦線に前後のばらつきが生じてしまったのなら、いかなる作戦もない敵味方入り乱れた混戦へと陥ってしまうのが常であった。董卓軍が長期戦を狙うのであれば兵力の消耗が大きい戦況は避けるはず。となれば、やはり袁紹軍と戦線を合わせる行動こそ最善だ。


「そう、これこそが最善だ……」


 事態は刻々と変化している。

 前線においては即決即断こそが胆であるとして、甘寧は怖気を振り払うよう決心を固めた。


 ――――この僅かな迷いこそが致命的であった。

 


かしらァ! 中央の戦線が押し込まれてます!」


 副官のいやに焦燥した報告に甘寧の意識が引き戻される。

 戦線が押し込まれるなど、戦場においてはありふれた光景だろうに。副官が何を焦っているのか。理由を探ろうと、甘寧は戦場の中央に目をやって――――愕然とした。

  

 袁紹軍の派手な鎧の兵士らが、敵軍にまるで歯が立たんとばかりに薙ぎ払われていく光景があった。

 徐々にではない。まさに激流に飲まれるが如き勢いであった。

 こうして甘寧が眺めているほんの僅かな間にも、袁紹軍の戦線はみるみる敵軍に浸食されていく。その境目は、この時既に甘寧の目前に迫っていた。

 ――馬鹿な! 

 悪態づくのを堪え、甘寧は即座に命令を出した。


「全軍停止せよッ!! 止まれぇッ!!」

「停止! 停止だ!」


 隊長らが命令を後方へ伝言していき、部隊の勢いが緩み始めた。

 訓練通り、徐々に速度を緩めていくが、それが反比例するように甘寧の余裕を圧迫していった。

 甘寧は前方の敵軍に未だ進軍の気配がない事を不気味に思っていたが、その背後――虎牢関から赤い流星が打ち上がったのを視認した。その数は、甘寧が数えただけで二十七はあった。

 

「――なんだ!?」


 銅鑼に変わる敵軍の合図かとも考えたが、その軌道は弓なりであり、こちらに届くものと思われた。

 

「火矢、か……。なぜ今?」


 そう呟いた甘寧の鼻を、この場に不釣り合いな植物性の生臭さがくすぐった。

 甘寧はこれに覚えがあった。


「油の臭い……」


 民衆の間で好んで使われる胡麻ごまの油の臭いであった。

 風は追い風。後ろから漂うものだと甘寧は背後に目を向けた。

 吹雪が顔に吹き付け、視界は真っ白――――。


「まさか……!?」


 だが、甘寧の中ですべてが繋がった。

 甘寧の視線が注がれているのは部隊の中央付近、馬騰軍寄り。その上空、雲を突き抜けた山頂のように視認できる巨大な雲梯こそが臭いの源だと、それ以外に無いと直感した。

 火矢。油。雲梯。

 それらの要因を組み合わせて予測できた結果は一つしかないが、甘寧の中にたった一つの根本的な疑問が浮き上がった。

 それを実行したところで何の意味があろうか。平地の布陣と全くかみ合わない策略に何の意味があろうか。それが甘寧の思考をせき止めた。

 

 ともあれ異変であることは間違いないとして、甘寧は周瑜に与えられた権限を行使すべく喉を震わせたが、それは部隊には届かなかった。


「梯子が……! 雲梯が燃えやがったァー!!」 


 突如部隊の中央に火柱が出現し、絶叫が場を支配した。

 甘寧が目を離した一瞬における出来事であった。雲梯の頂上には炎が立ち昇り、周辺に舞う雪は蝋燭ろうそくのような反射光を煌めかせていた。

 白と赤。一見調和のとれた幻想的な光景であったが、浸る間もなくそれは崩壊の兆しを見せた。


 ぐらりと、雲梯に斧をいれたような傾きが生じたのだ。


「倒れるぞ!! 離れろ! 離れろォー!」


 雲梯付近から男の悲鳴が轟き、雲梯はみるみるうちに地面に引っ張られていく。

 そのさなか、甘寧の思考には“不自然”という疑問が蔓延していた。

 

 まず一点は、雲梯が炎上してから傾き始めるまでの間隔があまりにも短いことだ。油で雲梯の表面に火を放とうと、雪で湿った柱の芯にまで火が及ぶにはそれなりの時間を要する。芯がしっかりしているのなら倒れることはまずないからだ。

 そして二点目は倒れ込む雲梯の、その方向についてだ。風は自軍から敵軍へと吹くいわゆる追い風で、吹雪を引き起こせるほどの強風であった。だというのに雲梯は風をさえぎるようにその長身を傾けている。

 ――部隊を分断する気か!?

 戦場の中央に存在する敵軍の壁。

 前線部隊を切り取るかのような雲梯の倒れ方。

 それにもう一つ、馬騰軍でも似たようなことが起きており、救援は互いに困難を極めるこの状況――孫呉の前線部隊を孤立させる魂胆がようやく爪を露わにした。

 

 しかしながら、この状況に陥ってしまった甘寧には敵の策略を阻む術は無い。

 成す術もなく倒れ込んだ雲梯が熱波を放つ。破片や燃えかすをまき散らしながらのそれには、甘寧も身を丸くして堪えるしかなかった。


 状況が収まって倒れた雲梯を見れば、甘寧の推理が現実のものとなっていた。

 雲梯は梯子の部分を伸ばしきり、炎の壁となって部隊の真ん中を横断していた。組み立て式であった雲梯は炎上しようともその形を失ってはおらず、その幅と高さがそのまま山脈のような圧迫感を発していた。

 

袁術ヤツめ……!」


 やってくれたなと甘寧は口の中の埃を吐き捨てた。

 雲梯は袁術が――正確には側近の張勲であったが――持ち込んだ物だ。

 組み立て式の雲梯がどうすれば崩れるのか。雲梯に油をどう持ち込むかなど。こうも大がかりな細工を施せるのは袁術以外には不可能だと、甘寧は奥歯を噛み締めた。

 

 離間の計という考え方も甘寧の頭の隅にはあった。が、主の敵であり、主君の母の仇でもあった袁術に怒りを燃やすことで甘寧は冷静さを保ったのだ。


 さて、敵の策略は分断まで成った。

 となれば、敵がこの好機を逃すはずがない。後方の部隊と合流するまで耐え忍ばなければならないとして、甘寧は迎撃を試みたが、状況は予断を許さなかった。


「前方に真紅の『呂』旗!! 同じく赤の『高』旗を確認! ――――呂布です!! 呂布と高順の騎馬隊が迫ってきます! ものすごい速さですッ!!」


 呂布。

 呂布 奉先ほうせん


 その名。その武。その姿。

 甘寧はそれに一度だけ対峙したことがあった。

 命のやり取りをしたわけじゃない。とある宴の余興としての軽い手合せであった。

 されど、剣を交差するその瞬間ごとに流れ込んできた火山の脈動を彷彿させるが如き粛々たる鼓動は、甘寧の記憶に、ある強烈な感情を植え付けていたのだ。


かしらァ!!」


 副官によって心臓の鼓動を取り戻した甘寧は、続けざまに部隊へと命令を下した。


「全軍後退! 全速力で後退せよ!」


 ――臆したと思われるかもしれない。

 この瞬間、甘寧は自らの将としての威厳を失う覚悟を決めた。


 冷静に考えたのなら、この采配は理性的な判断であった。

 先の熱波や雲梯によって出た怪我人の量と、それによる部隊の混乱は計り知れないものであった。迫りくる敵の騎馬隊の機動力に太刀打ちできる装備も余裕もない。

 それらは疑い様も無く定かであったが、甘寧は“将としての”ではなく、“個人としての”感情を優先させてしまったことを恥じたのだ。


「甘寧隊が足止めをする! 後方の部隊と合流し、その後は周瑜様の指揮下に入れ!!」


 将として甘寧に残った最後の意地は、周瑜の命令を守り通すこと――即ち、味方を逃すための殿を務めることであった。

 前線に孤立した兵士らで戦闘に参加できそうなのは二千、三千といったところ。敵の騎馬隊の足止めでもしなければ、その他雲梯付近に配置されていた千以上の怪我人が逃げ切ることは不可能であったからだ。


 この決断に至ったのは意地だけではない。

 自らが命を捧げると誓った、年若い次代の王を想ってのことであった。

 味方を生かすことが孫呉の為、その王となるべく日夜身を修めつづけている孫権様の為となる。――そう信じての、捨て身の選択であった。

 

「将軍!」と副官は見開いた目に迫力を込めてきた。

「お前は部隊を率いて後退しろ。一人でも多くの兵を生かせ」


 甘寧は副官には業務的にそれだけを告げる。

 足止めといっても騎馬隊の全てを抑えきることは不可能だ。であれば冷静に部隊を後退させられる指揮官の存在は必須であった。


「わかったな」


 それは副官にも、周辺の顔なじみにも向けた言葉であった。


「甘寧隊が盾になり、騎兵の勢いを削ぐ! 付き合ってもらうぞ」

「うおおぉぉぉ!!」


 百人の屈強な荒くれが武器を掲げた。

 彼らは江賊時代からの甘寧の部下であった。義侠心を掲げていたその心意気が今も失われていないことに甘寧の頬が緩んでしまう。


「行けェ!」


 甘寧は迫りくる敵軍へと馬を走らせた。

 






「班ごとに散開して敵軍にあたれ。後ろに抜けようとする騎馬を叩けばいい」

「応!」

「無理には追うな。数を減らせ!」

「応ッ!」


 追い風が馬の脚を速める。というより、まるで吸い込まれているかのような感覚であった。風が背中を押すのではなく、体が竜巻か何かに引き込まれていく感覚。

 甘寧は手綱を固く握りしめた。

 振り落とされそうだったからではない。

 

 ――――来る。


 甘寧は吹雪の切れ目に敵軍の姿をはっきりと視認した。

 その騎馬隊の先頭に甘寧の視線が吸い込まれる。向かい風をものともしない、筋肉の鎧を纏った赤い巨馬の、その騎手。

 甘寧が記憶と照らし合わせるまでも無かった。


 揺れ動く赤髪に、特徴的な二本の触覚。

 禍々しく歪な形状の戟はその身長を上回るほどの長物。

 血を被ったように紅い巨馬に跨るその姿は、正に“飛将軍”の名が相応しい威信に満ち満ちていた。


 甘寧の頬に汗が伝う。

 目算距離は二里。もう目と鼻先ほどの間しか残されていなかった。

 より近く、より鮮明に映るその姿は、いつかに相見あいまみえた時と全く変わらぬただずまいであった。

 

「散開せよ!」


 甘寧は、速度を一気に上げた。隊の足音が耳から離れていく。

 加速と同時に甘寧は寒気を目一杯取り込んで、はち切れんばかりに喉を震わせた。


「我が名は甘寧! 呂布よ! 貴殿に一騎打ちを申し込む!」


 呂布さえ抑え込めれば――そんな淡い期待が甘寧にはあった。

 呂布、高順の部隊がそんななまっちょろいものでは無い事は、甘寧とて無論承知している。

 しかし敵の指揮官であり、大陸で最強と名高い呂布を分断することが甘寧隊の騎馬狩りおける最大の援助となる。そう考えての行動であった。


「勇あらば我が申し出を受け、飛将軍の名が偽りでないことを貴殿の武にて示されよッ!!」


 これに呂布は武器を構えて、騎馬隊から突出して来る。

 その後続の騎馬隊も左右に展開し、甘寧を避ける軌道に乗った。呂布が一騎打ちに応じた証であった。


 仕合ではなく死合。

 戯れではなく本気。  

 敵は、最強。

 

 甘寧は極寒の地にあって、えも言われぬ高揚感に震えを抑えきれなかった。


「いざ!」

 

 甘寧の奮起に馬は鼻息荒く速度を上げた。

 こちらが速度を上げや否や、呂布は威嚇するように戟を振り上げた。

 戟の長さは、甘寧が手にしている湾刀の三倍はある。それがそのまま呂布の間合いとして機能するとしたら、甘寧に先手を取ることは極めて難しい。


「ふぅ……」 


 よって必然的に甘寧は迎撃の体制に入る。

 速度は落とさず、呼吸を整え、目を見開き、呂布の一挙一動に全感覚を注ぎ込んだ。

 六馬身、四馬身と距離が詰まる。

 

 そして来る二馬身の距離――呂布の瞳が光を放ち、その腕がしなった。

 甘寧はその軌道に合わせて湾刀を振り切る。


 視線と刃が交差する。


 呂布のこちらを見ているようで見ていない瞳は以前と同様の気質であった。

 そして、その膂力りょりょくも――。


「くッ!」


 刃同士の正面衝突は、甘寧の腕に地響きの唸りをもたらした。

 その刹那、押し切られると悟った甘寧は勢いを受け流すべく、手首を返した――――が、完全には至らず、戟の軌道に若干の狂いを与えただけであった。当然、勢いは死んでいない。

 

 甘寧は太ももを引き締め、咄嗟に上体を逸らすことで対応する。

 

 燕の風切り音が甘寧を襲った。


 その刃が甘寧の皮膚を持って行き、赤い水滴が視界の端を掠める。

 馬から落ちそうなほど仰け反った甘寧。その逆さになった視界には、遠ざかる呂布の背が映った。


「――――ああァ!」


 甘寧は腹と下半身の筋肉でもって上体を戻した。


 ――――生きてる。


 馬上に戻った甘寧は首筋に指をはわせる。血の滴りが伝わってきた。

 薄皮一枚だけだったが、その一撃は甘寧に正面対決の無謀さを知らしめた。

 直後、甘寧の馬は甲高いいななきを発しながら、二度三度と首を荒く振った。

 

「落ち着け。私はまだ生きている」


 甘寧は馬の首を撫でるが、その荒さの中に微小な震えが隠れていたことに感づいた。


「気をしっかり持て」


 馬の首を撫でるが、その力みは和らぐ様子はない。

 馬は賢い生き物だ。おそらく呂布とその赤馬から本能的な恐怖を感じ取ったのだろう。

 

 馬。

 呂布は馬を避けるように甘寧だけを狙ってきた。首だけの一点狙いであった。

 考えるまでもないが、騎手よりも狙いやすいのは騎馬の方だ。武器が戟であれば、馬の脚なり胸なりを狙った方が早く片がつく。

 それをしないということは即ち、呂布は純粋な“武”による勝負を望んでいると、甘寧はそうあたりをつけた。であれば狙われる場所はおのずと限られてくる。

 

「行くぞ」


 甘寧は馬を操って旋回の軌道に入り、合間に呂布の行動を観察する。

 呂布は既に旋回を終えてこちらに向かってきていたが、距離としてはまだ開きがあった。焦る必要はないと甘寧は馬のたてがみに指を通す。

 

 そして再度、呂布と真っ向から対峙する。

 目に、鼻に、唇にビュウビュウと寒気が吹き付ける。追い風は、向かい風に変わった。

  

「はァッ!」 


 甘寧は馬の腹を蹴り、全速力で呂布へと駆ける。

 馬の脚を止めての真っ向からの斬り合いでは甘寧の敗北は揺るがない。間合いや膂力など、それは初撃で確認済みだった。ならばと、交差する一瞬の勝負に懸けることを甘寧は選択した。

 時間稼ぎの為ではない。純粋に、ただ勝利を目指しての突進であった。


 真っ向からの斬り合いは、もとより甘寧の土俵ではない。乾坤一擲、最速の一撃にこそ彼女の真価はあった。

 呂布の狙う部分は大まかに絞れている。戟の間合いも速度も目に焼き付いている。

 戟をいなし、敵の体勢を崩し、すれ違いざまに最速の一撃を叩きこむ。甘寧は湾刀を握り直し、深呼吸を幾度か繰り返した。


 距離は既に十馬身というところまで迫っていた。

 甘寧の呼吸が音を止めた。


 八馬身。

 呂布の一挙一動に再び神経を注ぎ込む。

 その呼吸、手足、馬の動きに至るまで、その全てに意識を張り巡らせる。


 六馬身に迫る。

 呂布が戟を構える。その纏う雰囲気は戦慄するほどの静寂であった。

 

 四馬身。呂布の瞳に険が現れた。

 次の一歩。

 それが勝負の間合いであった。甘寧も湾刀を構えた。






 ――――そして馬が次の一歩を踏み出そうと力んだ瞬間、甘寧の足元が崩れ去った。







「――……なっにッ!」


 沈みこんだ馬体に甘寧の全てが途切れてしまう。前かがみに沈み込む馬は悲鳴を発しながら酷く震えていた。


 ――不味い。


 浮き上がる身体。甘寧は前方に押し出されそうになるが、咄嗟に太ももを絞めて堪える。

 だが足場であった馬の、その前足の勢いは止まない。


 ――――不味い。


 停止した空間の中、甘寧の視界に禍々しい形状の刃が映った。



 ―――――――不味い!


 赤馬の破竹の突進力と呂布の怪力が合わさった、目にもとまらぬ一撃が甘寧に向かってきた。

 その軌道は、体勢を崩した甘寧の身体の中央へと吸い込まれていく。


 躱せない。


 甘寧は身を引き締めて湾刀を胸元に持ってくる。

 そして反射的に足の力を緩めたその時、湾刀を中心に空気が震えた。


「ぐッ、ううぅぅぅぅ!!」


 湾刀の腹を盾に、身体の正面でその暴風の一打を受け止める。

 吐き気を催す浮遊感、木の幹が折れるような不快音とが甘寧の痛覚を駆け抜け、足場を手放したその軽い身体が綿のように浮き上がった。


 まるで風に乗るようであった。

 後方へ大きく吹き飛ばされた甘寧は、思考する間も身体に指令を出す間もなく、その瞳の輝きを失った。


 風は止んでいた。


 毎度、読んでくださいましてありがとうございます。

 次回はできれば早めに投稿します。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ