唯一の微笑み
吹き付ける風が氷柱のように肌を刺す。
「まーた雲梯持ってくのか」
軍の中央、その馬騰軍寄りに配置されている雲梯を眺める。相変わらず馬鹿でかい梯子だ。
「あれ、役に立つのかよ?」
前回の汜水関では大した活躍をしなかった雲梯は持っていくにしても労力がかかるし、守るのだって気を遣わなきゃいけない。ようは邪魔でしかないのだ。
これに万修は鼻をすすってから「知るかよ……。クソ、また鼻が……」と、どうでもいいことのように汚らしい布で鼻をかんだ。
緊張をほぐそうと話を振ったのにぞんざいすぎやしないか。……それぐらい寒いのはわかってるんだけどさ。
走るとかして身体を暖めていたものの露出している肌の部分だけは対策のしようがなかった。李尋と李和なんか鼻が真っ赤だし、万修に至っては鼻水が止まらないときた。
もちろん馬鹿にしているわけじゃない。冷たさに晒されたのなら大多数の人がそうなるし、俺だってそうなっている。襟巻に口元を埋めなくてはやってられないほどだ。
ただし、具合が悪い場合はまた別だ。
「張さん。顔色まだ悪いッスよ。大丈夫スか?」
汜水関を越えてから張さんの様子がおかしい。
ややげそっとした頬には血の気が感じられず、鼻水が出るどころか震えてすらいないのだ。その表情は万修のように険しく、柔らかい雰囲気は影くらいしか残っていなかった。
「なんなら、今からでも隊長に掛け合って休ませてもらった方が……」
「どこも悪くないよ。大丈夫」
話しかければ微笑みを見せてはくれるけど、内面の切迫感は隠しきれていない。
「顔が茄子みたいなんだなー」
「無理は禁物だなー」
念のためだが茄子の形みたいというわけではない。色が似ているという意味だろう。
李兄弟のこれは大がかりな比喩ではなく、まさにそれだと断言できるほど的を射ていた。張さんの顔色は青白いというか青紫色で、生気が薄れているように見えた。
「四人でも連携はできる。病人がいても邪魔になるだけだぜ」
その様子は万修ですら心配するほどだ。鼻をたらしながらだと恰好がつかないぜ。
「……ありがとう。気遣いは嬉しいけど、抜ける気はないよ」
だけど張さんは決して頷こうとしない。今朝から休むようにと勧めているにだ。
確かに顔色以外――足取りや受け答えなど――は問題ないのだけど、こうまで頑なな態度を取られるとかえって心配と言うものだ。
「私には責任があるから……」
小さいながらも俺たちを見据えながらの一言。
それは“班長としての”だろうか。明確には口に出さなかったが、そこにはどうあっても動かせない巨石のような重みがあった。
……それでも、今の張さんを戦に出させるのは駄目だと確信できる。見るからにまともじゃない状態なのは明らかだから。
「よぉし、点呼完了ぅ! 皆、整列せぃ!」
ところが俺が声を発する間もなく、時を知らせる黄寛隊長の号令が飛んできてしまった。部隊内の点呼が終わったようだ。
「急がんかぃ! 周りはほとんど終わっとるぞー!」
「……急かすなよ」と万修は不機嫌そうに整列を始めた。
整列となると、これから無駄な私語はできなくなる。たぶんだけど、万修のそれは張さんを止められないことへの苛立ちだろう。
張さんは「行こう、整列だ」と、なんとも素っ気ないように言ってからいつもの配置へと足を進めた。
「――本当に、無理はしないでくださいよ」
その背に、俺にはこう言う他に言葉をひりだせなかった。
第三十四話 唯一の微笑み
進軍の銅鑼が鳴り響き、全体の気が張り詰めていくのがはっきりとわかる。
見回すまでもなく周りは大人ばかりで、みんな俺より二回り近くも身長が高い。慣れたつもりだったけど、こうやって戦を前にすると気後れしてしまうのは嫌になる。
「聞けぇッ!」
沈みそうになる気持ちに喝を入れたのは、陣頭からの声――甘寧将軍だ。
将軍は巨馬に跨り、俺たちを見下ろす形で切れ長の目をより鋭利にぎらつかせた。
「これより我らは董卓軍に攻勢をかける!」
銅鑼のように腹に響く声には、寒気を吹き飛ばす熱気が込められていた。
陣頭から部隊を一つ挟んで配置されている黄寛隊。この位置からだと将軍の迫力も一入だ。
「ここを越えれば皇帝陛下を謀る賊臣――董卓は目前である! 我らの武勇にて道を開くぞ!!」
皇帝陛下とか賊臣とかそういうのは知った事じゃないけど、楽進の強い“想い”はわかっているつもりだ。この戦いがどれだけの人のためになるかもわかっている……つもりだ。
だから、俺は全力で戦ってみせる。俺一人じゃ大それたことはできないけど、楽進の手助けになれるように全力を尽くしてやる。
「全軍、進撃せよッ!!」
そして楽進とかは関係なしに、俺自身の意思で生き抜いて見せる。母ちゃんより先に死ぬわけにはいかないからな。
「おおおぉおぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!」
甘寧将軍に続いて、鼓膜を突き破るほどの声の塊が一斉に前進を始めた。
「おおおぉぉ!」
俺も負けじと喉を震わせて脚を動かす。
すると至る所から舞い上がった粉雪が、あっという間に視界を覆い尽くした。
隊列を組んでいるからとはいえ、まともに見えるのは前方を走る横並びの三人と、隣り合う張さんと万修だけ。他は霞がかったみたいにおぼろげで、先頭の甘寧将軍なんて黒い影にしか見えないという程度の視野しかない。
走る際に後ろに蹴り上げた粉雪が風に乗り、俺たちを追い越してはまた新しい煙幕が後続からやってくる。終わらない循環ができあがっていて、視界が晴れることはなさそうだった。
目が使えないとなれば、今回の戦はそれ以外の器官が重要になってくるはずだ。命令を聞き逃さないのは当然のことながら、足音や息遣い、あるいは悲鳴や血の臭いから自分で判断しなければならなくなる場面もあるはず。
そのうちの息遣いだけど、隣りを走る張さんの呼吸がこころなしか乱れつつあるようだ。一定の拍子に混じって、荒い息遣いが耳に入ってくる。
全力疾走にはほど遠く、訓練でやっている時と同じくらいの速度だ。慣れているはずなのに……。やっぱりどこか悪いみたいだ。
しかしながら足取りはしっかりしていて、時たま鼓舞するように上げる声には、まぁ張りはある。肺とか足の問題ではないようだ。遠征による疲労のせいか。
「こっちに寄りすぎだ。まっすぐ走れ」
「いてっ」
よそ見をしていたせいで隣りを走る万修に肘で小突かれてしまった。
ちょっとばかし張さんの事を気にしすぎなのかもしれない。というか俺がよれて、仲間の邪魔になってどうすんだ。
「速度を緩めるな! 勢いのまま敵の前線を突き崩すぞ!」
まるで狙いすましたかのように前方から甘寧将軍の号令がきた。
敵軍との激突が間近に迫っている。
そうも取れる号令に身が引き締まるどころか肩が張ってしまう。敵は連携のとれる“軍”で、今回は最前線での戦いだ。汜水関のようにいくわけがないのは俺にだってわかる。
震えそうになる手を、胸元に押し込んでおいたお守りへとかざす。
――大丈夫。俺は死なない。
お祈りなんてのは柄じゃないけど、こうするだけでも気が安らぐのを実感する。
とうとう、どこか遠くから狂騒じみた悲鳴があがり、近くからは唾をのむ音、乱れだした呼吸等が耳に入りだした。
「始まったぜ」
万修の呟きに頷く。
声の方向からして中央、袁紹様の軍勢が戦闘を始めたのだろう。
「我らも遅れを取るな! 進めェ!!」
甘寧将軍の檄が飛んできて、進軍速度がさらに上がった。
戦いの場までは残りわずか。
震えはないし、緊張だってしていない。大丈夫だともう一度自分に言い聞かせる。
――しかし、敵軍と激突するまでがいやに長い。俺、緊張しすぎなのか。
いやいや。それにしたって距離的には平地の半分ほどは進んでいるはずだ。まさか敵が動いていないとか……。
脚を止めずに警戒心を強めると、ふと鼻をくすぐった生臭い匂いに違和感を覚える。魚介とかのではなく、葉っぱとか花弁とかをすり潰したような植物の生臭さ。嗅ぎ覚えがあるけど……なんだろう。
「全軍停止せよッ!! 止まれぇッ!!」
「な、なんだ……!?」
いきなり轟いた停止命令に思わず声が漏れてしまった。
指揮系統を乱すことから私語は禁止されていたが、俺を咎められるような奴は周囲にはいなかった。
「停止ィ!! 全軍停止せぇい!!」
「止まれ! 止まれぇー!!」
困惑を鎮めようと言うのか、黄寛隊長たちが号令を復唱していく。
それに従い進軍速度が徐々に緩まっていく。急停止は危険であるという教えを守った訓練通りの動きだ。みんなの混乱は一瞬だけだったみたいだ。
部隊が速度を落としたおかげで白いもやが薄れてきた。徒歩の速度になることには考える余裕も出てきた。
背伸びしても前方を確認することはできないので「万修、どうなってんだ?」と声を抑えながら万修に耳打ちする。
「……確認してる。黙ってろ」
低く抑えられた声はぶっきらぼうながら焦りが滲み出ていた。
万修は前方に向けて背伸びをしていたのだが「なんも見え――……なんだ?」と、その顎が次第次第に上がっていく。視線がほぼ真上で止まるころにようやく気がついた。
「空?」
何かを凝視するように黙り込んだ万修。その視線を追うと、曇り空にいくつかの赤い点があった。はるか上空からこちら側に向かっている。
十、二十程度のそれが真上ぐらいまで近づいてくると、そのうちの一本が俺ら目掛けて急降下してきた。
「避けろ!」
「――え」
万修の叫び声の直後、視界が一転した。薄暗い空が目に映り、背中には氷の冷たさが滲む。万修に突き飛ばされたみたいだ。
痛みは無かったからすぐに起き上がってみれば、李尋を含む数人の隊員らが地べたに転がっていた。
「なんなんだなー……」
「痛てぇぞ、万修!」
突き飛ばされた隊員らが口々に文句をたれる。
怒鳴ることはないだろうにと思ったが、怒鳴った隊員の腰当は足型に濡れていた。あぁ、蹴飛ばされたんじゃあ怒りもするか。
「……んなことより、なにが落ちてきたんだ?」
「見ろ」と万修は足元を指した。
そこには赤々と揺れる火が突き刺さっていた。
「火矢だ……」
「こんなんが俺らに効くと思ってんのか?」
「お、おどかしやがってぇ」
周囲から強がりにもとれる呟きが耳に入ってくる。
単体の火矢なんて当たらなければ怖くもなんともないのに、降ってきたのは一本だけ。当てるのが目的じゃないようだ。
この辺に燃えやすいもの――例えば藁なんか――が敷かれているわけでもない。火を使った謀が目的でもないようだ。
しかし――。
「他の矢は? 二十ぐらいあったと思うけど」
「あぁ、それぐらいは飛んでいたな」と万修は顎に手を当てた。
万修も同じだけの数の火矢を確認していた。ならば他の矢はどこにいったのか。
粉雪のせいで視界は狭く、周囲を伺うことは無意味だと悟る。命令を待つしかないかとも考えたが、疑問を解消するのに時間はかからなかった。
「梯子が……! 雲梯が燃えやがった!!」
俺らの後方――部隊の中央付近から悲鳴が響いてきた。
振り向けば、白いはずのもやが血のように赤い光を放ち、光には黒いもやが混じっていた。そして鼻を麻痺させる煤けた臭い。息苦しさを伴うそれは火事の臭いによく似ていた。
「倒れるぞ!! 離れろ! 離れろォー!」
絶叫を口火に、野太い悲鳴を発する人波が押し寄せてきた。その土石流を彷彿させる荒波は、俺ら黄寛隊をも呑み込む勢いだった。
「つ、潰れるっての……!」
だが、この場より前――敵軍側――に進むわけにはいかないとして、意地と根性で人波を受け止める。
「うごぉぉぉぉ……!」
こんな声がどこから出ているのか自分でもわからない。頭の血管が切れそうだ。
受け止めているさなか、ひしめき合う男たちの隙間から、吹雪の衣を纏った真っ赤な物体が倒れる光景が目に入った。まばたきの内に、赤と吹雪に包まれた雲梯は大地を揺らす。
地面は縦に揺れ、突風には高温の痛みが伴っていた。
「あちッ! あちぃ!」
粉雪というもやを消し飛ばしながら襲い掛かってくる熱波。それが人混みに更なる圧力を加えてきた。
――このままじゃ押し潰される。
潰れるくらいならと、人混みの圧迫感から全力で抜け出す。すると支えを失った男達の波が一気に倒れ込んできた。
「あっちィ!!」
波から抜け出るや否や全身に熱波が直撃し、耐えきれず体が浮き上がってしまった。
ぐるんぐるんと脳が揺らされ、全身を地べたが叩く。
「あっつ! 痛ッ……や、火傷してない!? なぁ!?」
じんじんひりひり。顔面を急激なしもやけの痛みが襲い目を空けていられない。
「ムカつく面のまんまだよ! さっさとどけ!」
咄嗟に出た言葉に下から怒鳴り声が返ってきた。
下を見れば同じ隊のオッサンいた。下敷きにしてしまったようだ――って目が見える。良かった。
「あ、ホントだ」
顔を触っても水膨れ等の凹凸はできていない。雪をいじってから火にあたった時のような温度変化による痛みだったようだ。
「悪い」と、オッサンの上から降りて雲梯の方を確認すると、そこだけ切り取ったように白いもやが晴れて、真っ赤に染まりきっていた。
一時的だけだろうけど、どんな被害が出たかを確認するのには充分だった。
俺ら前線と、部隊の中央以降とを分断するかのように轟々と燃え盛る雲梯は山のような存在感を発していた。しかも広さと厚みを兼ね備えた梯子が伸びきっている状態だ。
周囲には破片にやられたのか血を流す隊員が散在している。――たぶん逃げ遅れて潰されたやつもいる。
「どうなってんだ……」
「俺が知るか! 指示は!?」
近くで立ち上がった万修は、周囲を見回しながら怒鳴ったが、その視線が雲梯とは違う方向へ向くと「おい、あっち……」と間の抜けた声でその方を指した。袁紹軍がいる方向だった。
「あぁ……?」痺れた頭のままそっちに目を向けると「――あぁ!?」と考えるよりも声の方が早く出た。
意識して初めてその騒音に気がつけた。
俺たちの部隊のすぐ真横には袁紹軍と董卓軍が戦線を押し合っていたのだ。
「こんな近くで……」
それも袁紹軍がだいぶ押し込まれている形で……。
袁紹軍の前線は燃える雲梯付近まで後退していた。つまり、認めたくないし考えたくもないが、俺たちの真横には敵軍がいる状況だった。
鼓膜を敵軍の足音や叫び声が圧迫する。奴等はまだ袁紹軍しか相手にしていないが、いつこっちに牙がむくかわかったもんじゃない。
「落ち着きましょう! みなさん、落ち着いて指示を待ちましょう!」
「おちつくんだなー」
張さんや李兄弟は隊員をなだめようと声を張るが、混乱と悲鳴にかき消されてまるで意味をなさない。
「どうなってんだこりゃ……?」
俺が下敷きにしていたオッサンが立ち上がった。寝起きのような呆け面を晒している。
俺だってなにがなんだかわからなかった。頭も口も回らず視線を彷徨わせると、オッサンの足元に悪そうな汗をびっしょりかいた隊員がうずくまっていた。
「大丈夫か!」
どういうわけかそれにはすぐ反応できた。隊員の上体をゆっくりと起こしてやる。
「あ、ッつ……。足を挫いちまったみたいだ」
その左足は脛の骨なんて無いかのように変な方向へと折れ曲がっていた。
これ、挫いたんじゃなくて――。
「と、とにかく固定しよう」
板の代わりになりそうな物は――肩当ぐらいか。俺の肩当を取り外して、平らに折って伸ばす。所詮飾りみたいなものだ。無くても困らない。
見た目は歪だけど無いよりはマシとして、隊員の襟巻を使って足を固定する。
「立てますか?」
挫いたと思っているならそのままのが良いだろう。怪我の具合を知らない方が動ける場合もあるし。
とにかくこいつはすぐ後退させないと。隊員の腕を俺の肩に回させて上体を支える。
「……すま――」と隊員が足腰に力を入れようとしたが。
「前方に真紅の『呂』旗!! 同じく赤の『高』旗を確認!」
「敵!」
前方からの報告に咄嗟に身構えてしまい「いっでぇ!!」と隊員は支えを失って地べたに落っこちてしまった。
「あ、わ、悪い……」
「なにやってんだ」と万修の呆れ声が耳に入る。
「うるせぇ」
悶える隊員の脂汗が滝のように流れだすが、そんなのお構いなしに事態は進んでいく。
「呂布です!! 呂布と高順の騎馬隊が迫ってきます! ものすごい速さですッ!!」
「呂布!?」
前から聞こえた報告に万修の顔色が一変する。ぎょっと青ざめているようだった。
万修だけじゃない、介抱していた隊員も、倒れ込んでいたやつらも一斉に顔を上げて正面を凝視し出した。
「呂布……」
噂話に疎いとはいえ聞き覚えのある名だった。
あらゆる武器を使いこなす武の申し子だとか。三万人斬りとかいうわけのわからん記録を残したっていう物の怪だとか。妖怪だとか龍だとかを斬り伏せたとか――眉唾物の噂が多い人物だった。共通しているのは“とにかく強くてヤバい奴”ってこと。
そいつが今、俺たちに向かって来ている。
「全軍後退! 全速力で後退せよ!」
甘寧将軍の裏返りかけた号令は怯えているようだったが、おかげで周辺の空気が動きを取り戻した。
しかし命令とは裏腹に、将軍は手綱を引いて敵軍へと方向を固定した。
「甘寧隊が足止めをする! 後方の部隊と合流し、その後は周瑜様の指揮下に入れ!!」
甘寧隊――甘寧将軍直属の部隊だ。百人隊と人数は変わらないが、軍内部の荒くれ者によって成る部隊だそうだ。
――ちょっと待ってくれ! それだけしか連れてかないの!?
「行けェ!」
将軍はこちらを怒鳴りつけると馬を走らせた。後ろには甘寧隊が追従していく。
同時に、将軍の副官も馬を駆り「全軍後退! 後退だ!」と部隊の先導を始め、部隊の奴らは動きを始めた。
足を折った隊員もそうだが、怪我人は少なくない。そういった奴らも連れて帰らなくちゃならないし、雲梯だって迂回しなくちゃならない。そういう意味では足止めは絶対に必要だ。
だけど――――。
「ぼーっとしてんな! 走れ!」
万修は怯えきった様子で俺の襟巻を掴んできた。有無を言わさぬ強い力だった。
「でもよ、歩兵じゃ相手にならないだろ!」
俺が力いっぱいその手を叩き落すと、万修は血走った眼を向けてきた。
敵は騎馬隊。片やこちらは将軍を除くと歩兵ばかりだ。馬の突進だけで致命傷は確実で、足止めなんて到底出来っこない。いくら将軍が強くったって一人になってしまえば何もできない。
「あれじゃあみんな死ぬぞッ!」
「残ればお前だってそうなる! とにかく走れ! 命令だぞ!」
万修は俺の腕を引っ張ろうとまた力を入れてきた。
その必死な様に、胸にムカムカしたものが込み上げてきた。逃げることしか考えられないのか。
「この弱虫野郎!」と口から出た言葉と同時に万修の腕を振り払う。
「なんだとッ!」
甘寧将軍には目をかけてもらったし、命だって二回は救われている。厳しい上に怖いけど、それ以上に思いやってくれる人だというのはわかる。
「――俺は行く」
そんな人を見捨てるのなんて、俺にはしたくない。
甘寧隊の最後尾を白いもやが覆おうとしていた。それが閉じきってしまえばもう追いつけない。
そんな直感があった。急がなければならない。
「あぁ~ッ!?」
万修は上擦った声でガコガコと顎を開閉して、頭を激しく掻きむしりだす。
が、それも一瞬の事で、汗だくになった万修は奥歯を噛み締め、震える唇を開いた。いつもの強気な表情を無理やり作ったのは明らかだった。
「――……クソッ! 確かに、将軍の窮地を救ったとなりゃ褒賞だってそれなりのモン貰えるさ! ――だがよぉ! 死んだら元も子もないんだぜ!」
死んだら元も子もない――それは万修の勝手な見方だと、俺は理由も無くそう思った。
「駄目なんだよ」
それに褒賞だとか、そういう打算的な考えはないつもりだ。
「将軍が居なくなったら……」
恩返しってわけでもない。
「おい! 死ぬぞ!」
すでに脚は動き出していた。
もう止まれない。
馬鹿野郎!――と万修の決まり文句が後ろから胸を刺す。
その通りだった。傍から見れば無駄死にするだろう馬鹿な行為に見えるかもしれない。命令違反でもあるし、将軍の力になれるかもわからなかい。
けど、今いかなきゃ、祭りの時に垣間見た孫権様の“本当の笑顔”がこの世からなくなってしまう。俺に向けられたものじゃなかったけど、孫権様の心の底から滲み出たあの笑顔が無くなってしまうのは――絶対に嫌なんだ。
俺は――――。
「俺はッ!」
俺は閉じようとする吹雪の扉をこじ開けて、嵐の中へと走った。