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懸念

「甘寧! 一番乗りィ!!」


 遥か上方、汜水関外壁の上から凛々しい雄叫びが降り注いだ。甘寧将軍が突入に成功したようだ。

 将軍に呼応して、後続の部隊も天を衝く勢いで雲梯うんていを駆けあがっていく。梯子はしごを踏み抜くような猛々しい足音に雲梯の耐久力が持つのか心配になるが、そっちを気にしている暇はない。


「よおぉぉぉし! 各自持ち場を死守せよッ!! 盾で受け、槍で突き殺せぃ!!」

「おぉぉぉ!!」


 黄寛隊長の腹に響く檄に周囲から気勢が上がった。


「子義! 今なんだなー!」


 同時に前方で盾を構えている李尋から合図が来た――敵の攻撃だ。

 敵兵は李尋を盾ごと押し潰そうと、圧し掛かるように剣を押し付けている。兜から胸当てまでが丸見えという大きな的だ。これなら酔っ払いでも外しようがない。


「ふぅ……」


 肺に残った冷気を押し出してから、思いっきり息を吸い込んで気を入れる。

 気力のみなぎりと共に、敵兵の胴体部分目掛けて大きく踏み込む。薄く積もった雪のせいで地面はぬかるんでいたが、滑り止めのおかげで十二分に踏ん張りがきいた。

 肉を伝う大地の力を逃さぬよう膝で受け止め、腰を入れ、肩へと押し上げる。筋肉の心地よい伸縮が、肉体の連動の正しさを教えてくれる。

 この流れを槍の切っ先の、その一点から放つようにして――――槍を突き出す。

 

「ふッ!!」


 しなった竹が元に戻るように、勢いよく飛び出した槍は一直線に敵兵へと突っ込んでいった。

 瞬きの間もなく、敵兵へ接触した切っ先は高音の悲鳴と共に火花を散らす。腕には弾力なんて全く感じさせない、硬い感触が響いた。

――胸当てに命中した。

 そう意識よりも速く、身体が動いた。

 柄を握る指から余計な力みが抜ける。手首に自然と絞る動作が生まれて、槍が俺の腕を引っ張った。

 

「うげぇッ!!」

 

 槍自体に一瞬の加速が生じた瞬間、切っ先は鎧の抵抗を無視して、鉄の層を難なく突き破った。

 急激に軽くなった腕の負担から刃が肉の層へと到達したのを認識するが、またも硬い岩盤にぶち当たったような感触がきた。槍が勢いのまま肉体を突き抜けて、鎧の背中部分に到達してしまったのだ。

 敵兵の肉体を槍で支えてやるような形になってしまった。はやく引き抜かなければと考えたが、今なお迫りくる敵兵を考えると槍を引き抜くには時間が惜しい。……仕方が無いか。

 持っていた槍をさらに押し込むと、瀕死の敵兵はうめきを上げながら仰向けに倒れていった。胸には槍が突き刺さったままだ。


「槍! 一本くれ! 早く!」

「あいよ!」


 雲梯の台車部分に収容している武器、その管理者である黄色い腕章をした輜重しちょう隊の人間――呉の兵士――に要請を出して、合間に周囲の様子を伺う。

 雲梯を囲んでの防衛戦。張さんも万修も李和も無事で、大きな怪我はなさそうだ。盾と槍を駆使して敵兵の突撃に耐えている。

 黄寛隊も、隣の陳誠ちんせい隊もまだ余裕があるらしく、防衛線に乱れは無い。

 さらに遠く、汜水関正門付近には敵兵の姿はまばらだった。華雄とかいう指揮官の撤退の後、他の将兵らも撤退したんだろう。


「ほいよ! 坊主!」


 戦場に似つかわしくない爽やかな声に視線を戻すと、輜重隊員が槍を投げてきた。

 ふわっと山なりに飛んできた槍は彼の性格を表しているようで、なんとなしに肩が軽くなった。だからといってその発言を聞き流すわけにはいかず「坊主じゃねえ!」と怒鳴ってから槍を受け取る。

 

「ありがとよ!」と、もちろんお礼は忘れない。


 再び敵軍へと目を向ける。

 敵の一波は退けたようで、後続の影がここまで到達するにはまだ時間があるように思えた。

 指揮官が引き上げたとなれば、現在向かってくる敵兵は殿しんがりの部隊――ようは撤退の時間稼ぎをする捨石――というだろう。

 だというのに雲梯側に突撃してくるのはどうしてだ。雲梯を壊すために戦力を分散するぐらいなら、正門と城壁の上に兵力を集中させた方が時間を稼げるはずだ。それに戦場の中央では孫策様らを相手に、敵軍の残党勢力が奮戦しているじゃないか。

 おかしな点はそれだけじゃない。

 敵兵には気力の衰えというものを全く感じない。むしろ充実していて、数の上では圧倒的に優勢のはずなのにこっちが押し込まれているような感覚に陥ってしまうほどだ。まるで楽進を相手にした時のような――。


「うおっ!?」


 俺の心臓に追い打ちをかけるように、銅鑼の音よりも低く、鈍い響きが耳に入った。隣りかというぐらい近くからだ。


「子義ー!」


 ひりだしたような李和からの合図――敵兵だ。

 今度の相手は大男で、丸く肥えた李和が軽いといわんばかりにぐんぐん押し込まれている。張さんも万修も別の相手と交戦中で、李和の補助には来れそうにない。

 俺にはびびっている暇もないようだ。 


「任せろ!」


 俺は気持ちを奮い立たせて、力の限り前へと踏み込んだ。


 


第三十二話 懸念




 汜水関の中、陣の中央で甲高い金属音が闇に響いた。

 流星のごとく夜空を舞った銀の光が、弧を描いて雪上に突き刺ささる。

 

「馬鹿な! 何故勝てぬッ!!」


 群衆に囲まれ、赤く揺らめく光に映し出されたのは半裸の男だ。

 反り返っている腕は大きく震えていたが、それは剣を弾かれた痺れのせいではない。

 半裸の男には剣が突きつけられていた。

 

「そんなこともわからぬのか?」


 剣を突きつけているのは、似合わない桃色の長髪をなびかせる渋い声調の男だ。


「決定的な敗因はただ一つ。貴様が華雄で、俺が孫策であることだ!」

「何だとぉ!? どういうことだ!?」


 半裸の男――華雄と呼ばれた男は悲鳴のように声を上げて、大仰にのけぞった。

 孫策と名乗った男は、その言葉を待っていたとばかりに口角を吊り上げて「決まっておろう!」と目の前にある木箱に、踏みつぶす勢いで飛び乗った。


「貴様は、我が身を流れる孫家の血に敗れたのだ! 我が母――孫文台に敗れたあの時から、貴様は私に敗北することが決定していたということだー!」

「なっ、なんだとォー!?」


 落雷のような絶叫を上げた華雄の脚が勢いよく震えだした。

 生まれたての仔馬のようによろめく、今にも崩れ落ちそうな華雄の姿からは戦意というものをまるで感じられない。


「おおぉぉぉぉぉぉぉ!!」


 その今にも泡を吹きそうな華雄に勝利を確信したのか、周囲の群衆が沸き立った。

 勝利の歓声に似たそれを押さえつけるように孫策の手があがると、喧騒は徐々に引いて行った。だが、群衆の熱い視線だけは鎮まっていない。

 ようやく場が静まり返ると、孫策はその逞しく雄々しい指先を勢いよく華雄に突きつけた。


「私の敵である貴様には! 未来永劫、勝機が訪れることは無い! 」

「うぬぅ……! うぬぅぅぅぅ!!」


 華雄は青ざめた表情から一転して真っ赤に燃え上がり、裏返りかけた地響きのような声を発した。そして闘争心が再燃したのか、噛み殺さんとばかりに凄まじい形相を孫策に向けると、大きく飛び退き、どこからか光り物を取り出した。


「小癪なり孫策! 小癪なり孫家の血統よ!! かくなる上は……」


 ぬらりとした赤い光に映し出されたのは短剣だった。

 切っ先を孫策に向けて固定した華雄は、脇を絞めて腰を落とした。最後の突撃を仕掛けるようだ。

  

「天命を知っても尚挑むというのならそれも良し!」


 孫策は不気味な薄い笑みを貼り付けると、俺たちのと変わらぬ剣の刃を口元に引き寄せて唇を開き。


「我が伝家の宝剣、南海なんかい覇王はおうびにしてくれるわッ!!」


 悪役を思わせるあくどい眼光を放ちながら蛇のように舌を這わせた。

 それに何を感じ取ったのか、華雄は再び青ざめて、その腕がしぼむように力を失っていくのがわかった。


「おぉ……この並々ならぬ覇気! 吾輩、華雄にはどうやっても勝てぬというのか!?」

 

 手からこぼれた短剣は音もなく雪に沈み、弱り切った華雄の脚がとうとう崩れ落ちた。

 

「将軍!」


 群衆の中から現れた三人の男――子分役かな――によって支えられ、華雄は最低限の体裁を保つことができているが、一軍の将というにはあまりにも情けない姿だった。

 魂が抜けたようにしなだれた華雄はもごもご口を動かしていた。なにか言っているようだ。


「将軍?」


 背中を支えていた子分にも聞こえないのか、子分らは華雄の顔を覗き込んだが、華雄は突然手足をばたつかせて飛び上がったのだ。

 

「退くぞ! 退却だぁー! 虎牢関まで逃げるのだ~!!」


 華雄は押し倒した子分をそのままに、必死の形相で舞台の上から走り去っていった。


「うはははははは! 孫策様ばんざーい!!」

「ええぞ! ええぞ!」


 すると万雷の拍手と共に浮かれた歓声が沸きあがった。観客は大盛り上がりだ。

 舞台の上では、戻ってきた華雄役の男を含む役者たちが赤くなった顔で手を振っている。その赤みの理由が演技による緊張や熱ではないことは予想するまでも無かった。


「まだお酒はあるんだなー」と近くで酒壺を取り出したのは李尋だ。

「お! 悪いな李……のどっちだ?」

「僕は李尋なんだなー」

「李尋か! いやーほんっと同じ顔だな! わっかんねぇぜ!」


 大口開けて笑うおっさんの盃に酒が流れ込む。

 そう、陣地には酒が出回っていた。もちろん違法な代物ではない。軍から戦勝祝いとして支給されたものだ。


 汜水関での戦は勝利に終わった。

 しかも正規兵の大軍が相手にもかかわらず黄寛隊の損害は軽傷者――擦り傷等を除く――は三名、死者はいない。まさに圧勝と言うに相応しい出来栄えだったのだ。

 直接の要因は何かと聞かれれば、孫策様と華雄という将軍の一騎打ちによるものだと誰もが口をそろえて言うだろう。部隊から募った有志による寸劇――言っちゃ悪いが茶番のような劇――が盛り上がったのもそのせいだ。


「なんだありゃ……。大根役者のがまだマシだな」


 いつの間にか隣りにいた万修は、嘲るように口元に笑みを浮かべていた。

 

「士気が上がるならいいんじゃねーの? 大根でもれん根でもよ」


 俺らが楽しめてなくとも、酔っ払いばかりの陣地は戦の疲れなどないように盛り上がりを見せている。その祭りを思い出させる喧騒と万修とを見比べてふと思い至った。


「万修。お前は酒飲まねぇの?」


 陣のそこらじゅうから湧いてくる、浮ついた声には強烈な酒の臭いが混じっていた。だから浮ついた様子のない万修から酒の臭いがしないことがはっきりわかった。

 これに万修はくだらない質問だと見下すような渋い表情を見せた。いつ見ても頭に来る顔だ。殴り飛ばしてやろうか。


「戦の最中に飲むわけねぇだろ。奇襲でもあったらどうすんだ」


 しかし、言っていることは正しいのだから怒るに怒れない。生真面目な野郎め。

 万修の言い分には隊の気が緩みすぎだという含みがあるように思えた。


「奇襲ね……。あるかもしれないけど、俺らが前線を務めたんだぜ。他の軍が対応してくれるだろ」


 俺らと北郷さんの軍を除けば、袁紹とか他の軍の人たちは後ろに引っ込んでいたようなもの。汜水関突破に一番貢献した前線部隊の疲労ぐらい考えているだろう。そうでなければ協力している意味が無い。

 おまけに今いる場所は汜水関内部に設営された陣地であり、汜水関に敵兵が潜んでいるかの調査も終えている安全地帯だ。陣地の周辺には見回りがいるし、全ての門には反董卓連合傘下の軍がそれぞれ兵士をおいている。この現状なら奇襲があっても心配はいらないだろう。

 

「どうだかな」


 俺の考えが通じていないのか、万修は納得していない様子だ。

 通じていての答えだったのかもしれない。なにか含みをもたせた一言だったが、それきりかっこつけるように黙り込んだ万修は宴の方を眺めた。

 

「なんなんだよ」


 まさかとは思うけど、万修は不満を言うためだけに俺のとこに来たのか。人の事を言えないけど、友達とかいないのか。

 万修が口を閉ざすと、喧騒の合間に小さな足音が入り込んできたのがわかった。

 一つや二つではないそれがだんだん大きくなってくる。近づいてきているようだ。それが近場の酔っ払いより騒がしくなってきたおかげで、音源の方向がわかった。陣の外からだ。


「おい、なんか来たぞ」


 ひとりひとりが木材を担いだ部隊が近づいてくる。松明の明かりが行き届いていないのもそうだろうが、最後尾が見えないほど長い列だ。

 その隊員たちは暗闇でも目立つ黄色い腕章を身に着けていた。


「輜重隊だろ。夜通しの作業になるらしい」

「夜通しか……。後方支援ってのも大変なんだな」


 後方支援の部隊は食料や戦の備品関係の仕事が主になる。戦わない分、雑務の多さは全ての部隊でも断トツと耳にしている。

 彼らが抱えている木材は何かの資材なんだろうな。


「袁術様の兵士もいるな。他は……劉備に、公孫賛のとこのか?」


 万修の視線をたどって列を眺めると、確かに俺らのものとは異なる装備のやつもいた。

 さらに目を凝らしてみれば、その隊列の中には戦で世話になった爽やかな声をもつ輜重隊隊員の姿があった。彼も身長ほどある木材を担ぎ、両手で支えていた。

 昼間のお礼だけでも言っておこうと思い、大きく息を吸い込んで。


「お疲れ様ッス!」


 世話になった隊員に向けて手を振ると、彼はわかってくれたのか動きを見せた。

 隊列から抜けてこっちに向かってきたその顔が火に照らし出される。年のころは俺よりも少し上――二十歳とかそのぐらい――だろうか。にこやかな表情だった。


「槍の坊主か!」

「坊主じゃないッスよ……」


 戦の最中とはいえ昼間も言ったのに、覚えてくれていなかったか。

 少しだけがっかりしたけど、輜重隊隊員は「そうだったな。すまん」と素直に頭を下げてくれた。やっぱりいい人じゃないか。


「昼間はお世話になりました」

 

 小さなつっかえも消えてすっきりしたところで、俺は自分の中の誠意を込めて彼に頭を下げる。例え役割に沿った連携だったとしても、目の前の彼がいなかったら李尋か李和、あるいは班や隊の誰かは生きてはいなかったかもしれないのだ。


「まさか槍の事言ってんのか? そんな感謝する事でもないだろ」と彼は照れ臭そうに頬を掻いた。


 すると彼が担いでいた木材は片方の支えを失い、肩の上でふらふらと踊り始めた。


「おっと!」


 彼はひやっとした表情を見せると、慌ててぐらつく木材を両手で固定した。

 夜通しの作業になるって万修が言っていたな。この木材のせいかな。


「なんスか、これ?」

「これ? 雲梯の部品だよ」彼は身長ほどある木材を地面に突き立てた。「雲梯、馬鹿みたいにでかかっただろ? あのままじゃあ門を通れないからばらして運んでるのさ」

「ばらすって、あの雲梯を!? 大変ッスね……」


 台座から梯子を取り外して、台座から車輪を取り外して、というのがふつうの雲梯を分解する工程だ。

 しかし、彼が言っているのはあの雲梯だ。梯子にしろ台座にしろ、ひとつひとつの部品の重量は相当なもんだろう。分解して運ぶというのは、おそらく木材の一本一本にまで細かくしなきゃできないはずだ。


「それがそうでもないんだよなぁ~」


 ところが彼は余裕を思わせる不敵な笑みを浮かべた。


「こいつは梯子の部品だ。……見てくれよ」彼は木材の端を指さした。「あの雲梯、実は組み立て式でさ。ほら、ここが窪みになってるだろ。この窪み同士を組み合わせて造られていて、分解と組み立てがすっげー速くできるのよ!」


 凹と凹を組み合わせて造る、か。想像し辛いけど、釘や縄に頼らずに造ったってことだろう。そりゃあ、部分部分には釘とかを使ったのかもしれないけど、彼の話しぶりからするとあるかないかってぐらい僅かな箇所だけなんだろう。

 釘や縄を外す手間はないし、また打ち直したりする必要もないのだから、当然作業速度も上がるだろうな。


「それでいてしかも頑丈でな。昼間見ただろ? 将軍の部隊が梯子を駆け上がる勢い」


 将軍が外壁に乗り込んだ時の事か。それなら覚えている。


「すごい勢いだったんで、梯子が壊れるかとひやひやしたッスよ」

「あれで壊れないんだぜ! いうなれば石組みの梯子ってぐらい頑丈な造りだな」


 彼は自分事のように鼻息荒く言った。

 俺の身長より二回り以上も高い、頭頂部から足先まで鎧を身に着けた兵士が十人単位で登ってもどうってことない梯子だ。石組みのように頑丈というのも頷ける。


「設計した奴も、制作に取り掛かった奴らも間違いなく名工と呼ばれる人だろうな」


 木材の材質や感触を確かめるように触れる彼の眼差しは真剣そのものだった。

 その様子は兵士よりも職人といった方が相応しいように思えた。


「おい、ヤス! なにやってんだ!」


 彼の集中を途切れさせたのは、輜重隊の列から飛んできた怒鳴り声だった。


「げぇ!! すいません、隊長!」と遠くの隊長に向けて頭を下げるや否や、俺の方にほがらかな表情を見せると「じゃあな、坊主。南陽に戻ったら飯でも食おうぜ」と木材を抱えて去ってしまった。

「坊主じゃないっての……」 


 無論の事だけど、この呟きが彼に届くわけがなかった。

 彼は木材を抱えているにもかかわらず、あっという間に列の前方へと走り去ってしまったからだ。

 ――しかし雲梯なぁ。


「あの雲梯さ、正直いらなくね?」

「いきなりなんだよ」

 

 久しぶりに話を振られて驚いたのか、万修はびくっと肩を震わせた。


「華雄だっけ? そいつが砦から飛び出してきたかと思えば真っ先に敗走してんだぜ。『これが正規兵かよ!?』ってぐらい早く前線崩壊して、開戦からずっと押せ押せだったじゃん」


 開戦の直後、最前線で行われた孫策様と華雄の一騎打ちは、劇の通り――脚色はあっただろうけど――孫策様の勝利だった。

 その華雄という将軍が敵軍の指揮官だったらしく、指揮官が敗走した後の敵前線は急速に乱れていったのだ。


「甘寧将軍が梯子をよじ登んなくても、正門が開くのは時間の問題だっただろ」


 撞車とうしゃという丸太で門を打ち破る兵器もあったのだ。味方にしろ敵にしろ、雲梯のところではなく正門に戦力を集中した方がよっぽど効果的だったのではないだろうか。


「お前はわかってねぇな……」


 万修はうんざりしたという風に溜息をつくと、これまた頭に来る得意顔を浮かべやがったのだ。


「外壁の上にいた弓兵を排除するためって御達しがあっただろ」

「弓兵っつっても、俺らが外壁に辿りついた時にはいないようなもんだっただろーが。あんなの脅威でもなんでもないだろ」


 雲梯が外壁に近づいても、弓による迎撃はまばらというよりスッカスカだった。


「なんだわかってんじゃねぇか。弓兵に関しては便宜上っつーか、雲梯を使わせるための方便ってところだな」


 反論が来るかと思いきや、万修は微笑みと共に顎をさすった。


「方便?  命令したヤツがいたってことか?」

「あぁ、間違いなくな」万修は急に顔を近づけてきて「いいか、これは袁術様の策だぜ」と声を潜めた。

「策ぅ?」

「汜水関では袁術様の軍は戦闘に参加していないこと。そして連合の盟主は袁術様と袁紹の二人であること。これは知ってるだろ?」 

「もちろん知ってる。二人してすっげー後ろの方でふんぞり返ってたな」

「だからだよ。戦に出てなくとも雲梯を貸し出して戦に貢献したっていう功績は入る。それだけで同じように後ろでふんぞり返っていた袁紹よりも有利に立てるって魂胆があったのさ」 

「ホントかよ……?」


 言ってることはもっともらしいけど万修じゃあてにならん。潜入任務の時、出世街道に乗ったとかいってぬか喜びさせられたのは忘れてないぞ。

 それにこういうのは張さんの方が詳しいだろう。宴の中にその姿を探すが。


「……あれ?」

 

 見当たらない。

 日が落ちたとはいえ、陣の中にはいたるところに松明が掲げられている。暗くて見落とすなんてしないと思うんだけど……。


「なぁ、張さんは?」

「医務室だ。気分が悪いらしい」

「医務室!?」


 正確には医務室代わりの天幕のことだろう。

 どうして医務室なんだろう。まさかどっか怪我でもしていたのか。


「宴が始まってすぐ行っちゃったんだなー」

「顔色悪かったんだなー」


 話を嗅ぎつけてきたのか、李尋と李和が脇から入ってきた。


「大丈夫かな……」


 寒中の行軍に戦疲れ。体調を崩しても仕方ない状況だ。

 悪い病気でなければいいんだけど……。


「お前こそ、それ大丈夫なのかよ。盗まれるぞ」


 話を折るように、万修の指が俺の首元に向けられた。

 目を向けてみると、首元には松明の光を反射する物体があった。

 

「え、あぁ、大丈夫じゃないや」


 それを慌てて服の内側にしまい込む。何かの拍子で外に出てしまったのかな。


「どっかからってきたのか?」と万修はちょっと怖い風に言った。

「んなわけあるか。お守りだよ」

「お母さんから貰ったって聞いたんだなー」

「子義はお母さん想いなんだなー」


 李和が言った通り、母ちゃんから貰った黒い石のお守りだ。

 正規兵が相手と言うから、藁にもすがる思いで持ってきたんだけど、今日の戦を鑑みればいらぬ心配だったといえる。


「はっはっはっは。なんだかんだ言ってもよぉ、まだ乳離れができてねーみたいだな」


 大口開けて笑う万修の見下すような視線。馬鹿みたいに笑いやがって……。


「『泣き虫の季然クン』には言われたくないね!」


 仕返しのつもりで言った一言に、鬱陶しい万修の笑い声は晩夏のセミの如く止んだ。

 この場にいる天敵に気がついたようだな。


「おい、それ言うのやめろって――」

「『泣き虫の』?」

「『季然クン』?」


 そこに食いついてきたのはやはりというべきか李尋と李和だった。手には盃。顔は真っ赤。二人が酔っぱらっているのは明白だった。

 はえと化した――纏わりつく煩わしさ的な意味で――二人は厄介だぞ。この場に居たら俺まで危うい。李兄弟に気づかれないよう、さっと場を離れると、後から万修の悲鳴が聞こえた。

 

「ざまぁないぜ」


 この呟きも、万修の悲鳴も宴の中へと溶け、誰のとも知れぬ騒音へと変わっていく。

 それらが単なる雑音となるほど陣地から離れてから振り返ってみると、妙な違和感を覚えた。


 宴の熱気には違和感があった。

 勝利に酔うように盃を傾けているがそうではなく。酒に酔うように互いをたたえ合っているがそうではなく、何か別の意図で行っているような違和感だった。


「……あぁ、そうか」

 

 場の雰囲気に流されていてすっかり忘れていた。

 宴の喧騒には違和感があった。

 酒におぼれる様は怯えを思わせて、互いの無事を喜ぶように不安を発散してる。

 

 汜水関を突破して、休む間もなく告げられたのは次の戦の指令だった。

 汜水関の次に待ち構えている第二の要所――。 


「虎牢関か……」


 そしてそこでの黄寛隊の配置が――――最前線であることを告げられたんだ。




 半月ほど遅れてしまいました。申し訳ありません。

 読んでくださっている方々、ありがとうございます。次回はもっと早く投稿します!

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