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天の御使い

「無いとは思いますが、一応」


 趙雲はそんな前置きから始めた。


「美麗な黒髪を結った、『いかにもな堅物』には間違っても突っかからないようお願いします。いや、ね。本心としては、構わないどころかどんどんやってくれと言いたいのですが、今回はに我が主のもとにお連れしたいと考えております故。『ふらんちぇすか』という天の言葉を知る貴方を――」

「『天の言葉』、ね……」


 “天”――張さんの言葉を思い出すなら“大陸全土”のことになる。

 ただ、これは例え話の中での“天”に過ぎないから、趙雲の言う“天”とはまた別物だろう。


「何故知っているのかは、訊いても……無駄ですかな?」と探るような視線の趙雲。

「無駄っつーか。俺だって知りたいんだよ」


 “フランチェスカ”なんて言葉、今まで聞いたこともないし、天の御使いとやら、北郷一刀とやらが着ていたにだって覚えはない。

 なのに何故知っているのか。知らないはずなのに、知っている知識。

 頭を掻き毟ってしまうほどの不快な痛みに、気が狂ってしまいそうだった、今は治まったけど、胸の底に汚泥が溜まったような気持ち悪さは拭いきれていない。

 疑問の答えを知れば、この胸糞悪さも少しはマシになる。予感にしか過ぎないけど、大事な事――そう思うからこそ、俺は趙雲の後ろを歩いている。


「まぁいいでしょう。貴方と主の会話を聴けば何かわかるでしょうしな」趙雲は柵の前で止まると「さて、ここから先は……」と俺を支えるように寄り添っていた楽進に目を送る。


 気がつけば“劉”の旗を掲げた一際立派な天幕は目前だった。

 これまで肩を支えてくれていた楽進から「ありがとよ」と離れ、心配させないようしっかり地面を踏みしめて立つ。頭はふらつき脚に力が入らないけれど、歩くぐらいはできそうだった。

 楽進の意見を受けての俺の意思。今度はきっちり言わなければならない。


「文謙。お前の気持ちはすげー嬉しかった。でも、俺は軍に残るからな」


 楽進の言う“信念”までは答えられなかったけど、これが俺の本心からの答えだ。


「――……残念です」


 言葉とは裏腹にどこか嬉しそうに言った楽進は、目を柔らかく細めた。


「ですが貴方にも信じるモノがあるのでしょう。それを揺るぎないモノとして己の内に獲得できれば、この戦も生き延びることができるでしょう。貴方と再び会える日を心待ちにしております」


 楽進の言うことを全部理解したわけじゃないけど、“信念という揺るぎない意志”というのは感覚でわかる。

 アニキの“子分のために正しい道を歩く”という意思。楽進の“民を守る”という意思。

 ――俺の中にもあるのだろうか。俺にも見つけられるのだろうか。

 本気で心配してくれた楽進への感謝を込めて「またな」と再会の約束をする。

 これに楽進は「どうか、御武運を」と、ありったけの誠実さを詰め込んだようなビシッとしたお辞儀で応えてくれて、この場を遠ざかっていった。

 

「行きましょう」


 趙雲は見計らったように、天幕を囲う柵の衛兵に許可を取って足を進めた。

 さあ、天の御使いは目前だ。そう気を入れ直している最中、天幕から黒髪の女性が出てきた。


せいか。陣地へ先行しての伝令、ご苦労だった」

「なに、雑用をこなしただけのこと」

 

 星――趙雲の真名だろう――と口にした艶のある黒髪を結っている、強い眼力を放つ女性。“いかにもな堅物”とはこの女性の事か。

 

「後ろの者は誰だ? 見た所どこかの兵士らしいが」

「彼は太史慈といってな。私の友人だ」

「友人? こんな子供がか?」

「……悪いかよ」と趙雲の後ろに隠れて、小さくぼやく。


 罪人に向けるような黒髪の視線。言葉は交わしてはいないけどはっきりした。俺はこの黒髪のことが嫌いだ。

 疑惑を向けるだけならまだいい。けれど、こいつの瞳には野良犬を目にした時の軽蔑の色が溢れんばかりで、趙雲の忠告がなかったら怒鳴りかかってやろうってぐらい気に入らない。

 

「ここまで連れてきたのは何故なにゆえか?」と趙雲に目を戻した黒髪。

「主に至急確認したい案件がありましてな。その重要参考人とでもいいましょうか」

「ならば私が承ろう」


 黒髪は趙雲の言葉を軽んじているのか、道を譲ろうとはしなかった。


「私は『主に』と言ったのだ。火急であるが故、貴公の出る幕ではない」

「駄目だ」


 趙雲は若干強い口調で言ったが、黒髪は頑な態度を崩さない。

 頑固者、か。趙雲の言うように、俺が突っかかっていれば天の御使いに会える可能性は万に一つもなかったかもしれない。我慢してよかった。

 

「子義殿。ちょいとお待ちを……」


 趙雲は俺にそう耳打ちしてから、黒髪の手を引っ張って距離を取った。

 二人して二、三言葉を交わしたかと思えば、黒髪は赤くなった顔で睨み付けてきた。


「不穏な動きがあれば切り捨てる。いいな!」


 黒髪からあっさり許可をとった趙雲は勝ち誇った、いやらしい面持ちのまま入り口に手をかけた。

 何を話していたのかは、訊かないでおこう。


「ささ。どうぞ、お入りください」

 

 天の御使い。

 こいつに会えば、この奇妙な感覚の答えが出る。

 深呼吸を一つして気を落ち着ける。気持ち悪さも大して感じない。


「行くか」

  

 そうして俺は北郷一刀と出会うことになる。




第三十一話 天の御使い




 質素な内装だった。

 天の御使いというからには、金銀財宝に彩られた空間にでも身を置いていると推測していたが実際はどうだ。

 漆が塗ってあるかさえわからない机と椅子。地面に敷いてあるのは絨毯というより、布のような薄っぺらい敷物。もちろんだが、あたりを見回しても装飾品は一つとしてない。

 だからだろうか。

 質素とは対照的な、眩いばかりの光沢を放つ天の御使いの姿に感動のような昂りを覚えたのは。

 

「お時間、よろしいかな」


 意識を引きもどしたのは趙雲の生意気そうな声。天の御使いに確認を取っているようだ。

 主の確認を取る前に見知らぬ人――俺の事――を招き入れた趙雲と、それを叱ることのない天の御使い。部下への信頼の表れとも考えられるが、天の御使いには警戒心というものが無いのだろうか。

 再度、目だけで周囲を確認する。ここにいるのは俺と趙雲を除けば四人、机を囲んでなにか話し合っていたようだ。 

 

「どうした、星?」と、まず一人、天の御使いだ。

「主に話を伺いたいという者がおりましてね。こうして連れてきた次第にございます」

「私は止めたのですが……」と二人目は黒髪の堅物。


 三人目はとんがり帽子を目部下に被った小さい女の子。

 四人目は赤い髪の女性。柔らかく、どこか不思議な雰囲気を持つ童顔の女性だ。

 そんな四人が囲む机の上には、作戦会議の最中なのか地図が広げられていた。こんな大事な時にいいのかと趙雲に確認を取ろうと目を送るが。


「構わないよ。ちょうど話がまとまったところなんだ」と天の御使い――北郷一刀は地図を丸めていた。


 どうやら悪くない時にお邪魔したようだ。

 ほっと胸をなでおろすが、ほどなくして「さぁ、子義殿」と趙雲が背中を押してきた。


「え? もっと……」


 事情を説明するべきじゃないか。そう抗議する前に、趙雲の細腕からは考えられないような力で天の御使いの前に押し出されてしまった。

 フランチェスカの制服。

 その温かそうな厚い生地には、絹の柔和な光沢とも鉄の硬質な光沢とも違う、強烈で滑らかさを伴う輝きがあった。夜空において常に北を示す極星のような、広い荒野を迷わず進める道標のような存在感を思わせる強い輝きだ。


「おほん」


 趙雲の急かすような咳払いに引き戻される。

 机の向こう岸には、澄んだ小川を思わせる瞳があった。天の御使いの微笑みだ。


「すんません」


 怒ってはいないようだけど、間を開けてしまったことについて謝る。

 以前にも同じような状況があったな。孫権様と会話をしていた時のことだ。今みたいに変な間を開けてしまい、あの時は狼狽えてしまったんだっけ。

 けれど今は心に乱れは無い。全くないというわけではないけど、いつも通りに話させそうなちょっとした緊張感だ。

 

「はじめまして、太史慈と申します」


 慣れてきたおかげか、どこにだしてもおかしくない綺麗なお辞儀ができた。様になってきたのかも。

 自分の成長を実感していたのだが、この気持ちのいい感覚はすぐに吹き飛んでしまうことになる。

 

「ご丁寧にどうも。初めまして、北郷一刀といいます」


 “天の御使い”こと北郷一刀が頭を下げたのだ。不慣れなのか、ぎこちないお辞儀だ。

 天の御使いであり、一軍の長である男が頭を下げる――あり得ない光景だ。俺みたいな兵士なんて鼻息だけで吹っ飛ばせるような権力を持つ男がやる行動じゃない。


「それで、太史慈君。俺に何を訊きたいの?」


 頭を上げた北郷一刀は気さくな青年を思わせる口調だったが、こちらを軽んじている感じはないようだ。むしろこれが素であるような、自然な口調だ。

 彼は“天の御使い”なんていう神の使いではなく、服を着替えて街に出れば、その辺の人と変わらない――俺たちと変わらない普通の人間なのかもしれない。

 心の動揺は消えた。いくらか軽くなった気分で、本題に入る前に頼もうと思っていたことを口にする。


「できれば、二人で話をしたいのですが……」


 単に話を聞かれたくないという思いがあった。

 “フランチェスカ”とかいうわけのわからないことについて話すのだ。きっと他人だけでなく俺自身も知らない、頭が狂ったと思われるだろう空想のような馬鹿らしい話になるだろう。おとぎ話にもならない狂言、妄言のような話に。

 気狂いと思われるのであれば、せめて話す人物は少ないに越したことはないと考えるのは俺が臆病だからか。

 もう一つ理由があって、北郷一刀の雰囲気からか、はたまた別の要因からなのか。彼とは十年来の友人のように腹を割って話せそうな気がするのだ。俺なんかが天の御使い様と対等に話すという時点でおかしいのだけど、ともかくそんな気がするのだ。


「そのようなこと、受け入れられるわけがなかろう」


 予想通りと言うべきか、黒髪が睨みを利かせてきた。「愛紗あいしゃ」という北郷一刀の制止の声に、その眼力はすぐさま引っ込んでしまったが。

 “愛紗”とは黒髪の名か。いや、響きからして真名の方だろう。


「理由を聞かせてくれるかい?」と黒髪とは正反対の柔らかい口調の北郷一刀。


 理由。

 本心を言うのは黒髪の手前不味いだろうし、北郷一刀にも不敬だろう。趙雲が面倒くさがらずに、きちんと説明してくれていたら悩む必要はなかっただろうに。

 今からでも趙雲に仲介を頼むべきか……。


「――いや」


 趙雲は説明が面倒で俺に丸投げしたわけじゃない。説明を省いて俺を天幕に入れたのはこの展開になることをあらかじめ知っていたからだ。

 その証拠にたった一言。二人っきりになるための呪文ともいえる言葉を、趙雲は口に出さずに残してくれていたじゃないか。失礼だとは思ったが、北郷一刀へ――彼が着ている服を指さす。


「その制服……」ここで北郷一刀の顔色に変化が表れ「『聖フランチェスカ』のヤツ、ですよね」と言いきって、趙雲を除く全員の顔色が変わった。

「どうして…………それを?」

 

 北郷一刀は目を見開いていた。この反応、予想通りと言うべきか。

 趙雲が説明を省いたのは“この場で”“最初に”俺の口から“フランチェスカ”と言わせるためだったのだ。趙雲に俺を天の御使いに合わせようと決心させた一言を、だ。

 趙雲の“フランチェスカ”への興味の持ちようを考えれば、趙雲がこの言葉を知るきっかけだった天の御使いも、これを知る俺に興味を示すはず。事実として北郷一刀は動揺を見せた。

 仮に、だ。最初の説明で趙雲が“フランチェスカ”と言ってしまえば、次に俺の口から言っても大した衝撃にはならず――今はアホ面を晒しているが――黒髪あたりが「趙雲が教えた」とでも抗議を始めただろう。奇襲に二度目はないからだ。


「できれば、他の人には聞かれたくない……です」 


 “フランチェスカ”による衝撃の後にもう一度頼めば、たぶん北郷一刀は――。


「……みんな席を外してくれないか」


 乗ってくれた。これも予想通りだ。

 趙雲はここまでの展開を見越しての仕込みをしていたのか。流石は“常山の昇り龍”だ。

 感謝と称賛の気持ちを込めて目を向けたが――――趙雲も意外そうな顔をしている。なんだ、説明しなかったのは単に面倒だっただけか。


「何故です! ご主人様!」突如声を上げたのは黒髪だった。「こやつはご主人様を暗殺しようと企む刺客ですよ! 先ほど我々に向けられた悪意に満ちた瞳こそ、その証拠!」

「暗殺!?」


 暗殺しようって輩が、こんなにも堂々と標的に会いに来るわけがあるか。

 唯一の武器である剣だって趙雲に預けている。害意が無いこと示そうと両手を上げるが、効果は無いだろうな。

 黒髪のこれまでの話しぶりからして、思い込みが激しく、自分が正しいと思うのなら引かない性格のように思える。けれど、主である北郷一刀の言葉なら渋々でも引き下がるはずだと目を向けるが、北郷一刀は俯いて、こちらの状況に気がついていない。

 足音が聞こえ目を戻すと、黒髪は抜き身の剣を手にしていた。


「そんな気はない! です!」


 こんな叫びが通じることはなく、黒髪は「動くな!」とジリジリ間合いを詰めてくる。


「でも、なんで天の言葉を知っているのかな?」


 そこへ助け舟をだしてくれたのは赤髪の女性だった。


「暗殺であれば対象者を調べるのは当然です!」

「だからって私たちはご主人様や、そこの太史慈君みたいに『ふらんちぇすか』って流暢には言えないでしょ。はい、愛紗ちゃんも言ってみて」


 赤髪の言う通り、趙雲の発音にも違和感があった。

 違和感を感じるってことは、俺は正しい発音を知っていて、それができているってことになる。道理に合う理屈じゃないか。これで黒髪が流暢に言えないのならば引き下がらざるを得ないはずだ。


「『ふらんちぇすか』――くっ……」と悔しそうに唇を噛む黒髪。

「『ふらんちぃぇすか』。私も駄目です……」と、とんがり帽子の幼げな声も続いた。


 納得してくれたのか黒髪は剣を隅の方に投げ捨てた。

 ほっと息を漏らすがその刺すような視線に緩んだ気配はない。

 趙雲の煙のような雰囲気は苦手で済ませられるけど、黒髪の刃のような雰囲気とは二度と対峙したくない。命がいくつあっても足りないからだ。


「みんな頼む。二人きりにしてくれ」


 遅まきながら、再び北郷一刀が声を発した。俺の提案を受け入れてくれたようだ。


「ほら命令だぞ、愛紗」と趙雲が黒髪を小突く。

「……異常があれば駆けこみますからね」


 黒髪はそう言い残すと、他の人たちと共に渋々天幕から出ていった。


「悪かったね。彼女にも悪気があったわけじゃないんだ」

「気にして、ない……ですよ。さっそくですけど、『フランチェスカ』って何なんですか?」


 もちろんだけど黒髪は気に入らないが、戦時下で時間が無い今、話を円滑に進めるにはこう言うべきだろう。


「無理に丁寧な話し方をしなくていいよ。どうせ誰も聞いちゃいないんだし」


 北郷一刀はまたも気さくに言った。取り繕っている様子はないし、やはりこれがこの人のありのままなんだろう。

 黒髪への苛立ちをどこか遠くへ放って、この言葉に頷く。


「まずは一つ、訊いてもいいかな」と微笑みと共に北郷一刀は言った。

「なんスか?」

「どうして君は、この制服の事を知っているんだい? 誰かから聞いたとか?」

「いえ知らない内に口から出てたっつーんスか……。あんたを見たら思い出したような感じなんスよ」


 そう口に出し切ってからはっとする。

 自分の口から出たにしては無礼すぎる口調だった。楽進とは階級を気にしない友好関係にある――趙雲はまた別――からこそああも気楽に話せるのだが、どうして一軍の長である北郷一刀にこんな無礼な言葉使いをしてしまったんだろう。相手の許可があったとはいえ、これは怒られても仕方が無い。


「思い出した、か。……記憶喪失って知ってる?」


 しかし本郷一刀は俺を咎めることはなかった。負の感情すら表に出していない。

 相手が気にかけていないとはいえ、言葉遣いは改めるべきだろうと反省するとして――さて、“記憶喪失”。知っているも何も、一般に知れ渡った常識的な言葉だ。


「昔の事を忘れたってやつですよね。俺は生まれてからの記憶はあるので、それとは違います」

「そっか……。あ、それでね。聖フランチェスカってのは学校のことだよ。俺が通ってたところ」

「がっこう……――学校! 確か寮に住んで通っていた……」


 学校――覚えがあった。

 俺ぐらいの年齢の奴らが集まって、教室で朝から晩まで勉強する場所のこと。学校が終われば、寮――兵舎のように大勢が寝泊まりする生活の場――に帰る。

 泉の底から浮き上がってきたような感覚で、間違いないと断言できる知識だった。


「ある! あるよっ! 学生寮!」


 これも北郷一刀は身を乗り出し、溢れるような笑顔を見せた。


「えっと……なら、日本! 日本とその首都は?」と北郷一刀は続けて言う。


 それも知っている。


「日本は島国で……。首都は……東京。ごちゃごちゃしてて、臭かったっけ」

「じゃ、じゃあアメリカとその首都は!?」


 それも知っている。いや、思い出したの方が適確か。


「アメリカはでっかい大陸。首都は…………ニューヨーク?」

「ワシントンだよ……。ワシントンD.C.」

「あっ、そっか……」


 そうだった。アメリカの首都はニューヨークだって勘違いして以来、昔から訊かれるたびに間違えてたっけ。

 昔から……?

 

「関連したことなら思い出せるんだ……。なら俺が単語を挙げていくから、君は思い出したことをどんどん言ってくれ!」


 俺が頷く前から、北郷一刀は「じゃあ……」と何を言うか考え始めていた。

 せっかちな人なのかな。


 その後、天の御使いこと北郷一刀の口から出た言葉はどれも昔から知っている――思い出したというべきか――馴染のある言葉ばかりだった。

 国語や英語などの授業科目。

 車や電車などの乗り物。

 テレビや洗濯機などの家電。

 天皇陛下や総理大臣のような有名人。

 DoGoMoやハードバンクのような会社名。

 御面ライダーとかドラグンボールなんてのもあった。


「長いッスよ……」

「ごめんごめん。『向こう』を知ってる人に会えるとは思ってなかったから、つい嬉しくて……」と困った風に笑う北郷一刀。


 質問に答え続けるというのは疲れる。相手の言葉を理解して、一つ一つ伝わるように言葉を選ばなくちゃいけないという、俺にとって不慣れな作業だからか。


「何か思い出した?」


 うきうきと声を弾ませる北郷一刀。

 質問を返すようで悪いけど、ここまでの話ではっきりさせたいことがあった。


「『向こう』って――電車とか新幹線とかって……今からずっと先の、『未来』の話で……北郷、様は未来から来たってことッスか?」


 乗り物に関する話の最中、馬や馬車なんて時代遅れだと、原始的だという感覚を思い出した。移動手段が徒歩や馬という“今”よりもずっと先の時代の乗り物――それが電車や新幹線なのだ。

 それが物語るのは――推測も多分に混じるけど――俺の知識は未来の知識であり、それを知り、語ることができる北郷一刀は未来から来たということになる。


「その通りだよ。今からざっと二千年先の未来から、この時代に……。自分の意思で、じゃないよ。気がついたら荒野に放り出されていたんだ」

「二千年先……。俺が十六ッスから、えーっと……途方もない話しッスね」


 本郷一刀の話を聞いてもいまいちピンとこないのはどうしてだろう。

 俺とその二千年程未来の“天の国”。関係あるのかどうかも怪しいくらいおぼろげで、遥か遠くの記憶に思えた。


「他には? 例えば日本人としての名前――自分の名前とか?」


 姓は太史、名は慈。字は子義。真名はやしろ。これが俺の名前で、それ以外はない。


「いえ、全く……」


 北郷一刀の期待するような眼差しには申し訳ないけど、これまでの話に関連したことしか思い出せず、自分から語れそうなことは思い当たらなかった。


「そっか。思い出させてあげたいけど他に案はないしなぁ……。こうなったら占いでもしてみる? 管輅かんろって占い師が有名みたいだよ」

「占い~?」

「ほら、困った時の神頼みって――占いは違うか……」と肩を落とした北郷一刀。

「神様じゃなぁ~くて! あたしが説明しちゃうわぁ~ん!」


 遠くから聞えたのは、無理やり女声を出している時の奇妙な震えを伴うオッサンの声だ。


「なんだ? どこから……」と北郷一刀はあたりを見回す。


 天幕のすぐ近くというには、あまりにも小さい声だった。外には黒髪が控えているはずだし、何かあれば騒ぎになっているはず。

 まるで何枚も壁を隔てたようなこもった声。どこからだと考え込んでいたその時、地響きとともに急激に地面が盛り上がり、敷物を突き抜いて何かが飛び出してきた。 


「うおぉ!? 何だ!?」

「でっかい……ツクシ?」

「あらやだぁ。『春を待ちきれなかったツクシの妖精』だなんて……斬新~」

「ツクシがしゃべった!?」


 ではなく、地面から生えてきたのは人間の頭部だった。

 ぬるっとナメクジが二匹並んだような分厚い薄紅色の唇。角ばった高い鼻。整えられた硬そうな顎髭。齢にして三十は超えていそうな老け顔。

 中でも奇怪なのは泥にまみれながらも光を反射する頭部の、そのモミアゲ部分。モミアゲ部分だけは毛を残し、三つ編みにするという奇抜な髪型――髪型と言っていいのかすらわからないけど。


「なんだこの妖怪は……」


 絞り出すような声。北郷一刀のだ。

 

「ご主人様といえど聞き捨てならないわねぇ~」


 ぼこんと今度は土から手が生えて「あ、よっこらしょっとォ!」とオッサンの全身が地上に現れた。

 膨れ上がった大胸筋にはち切れんばかりの上腕二頭筋。くっきり割れた腹筋に、丸太のようにぶっとい脚が二本。衣服と言えそうなものは股のフンドシのみで、ほぼ全裸という目に悪い出で立ち。

 気に恐ろしきは人の形をとっていながらすね毛、腕毛等、人間に当たり前のように備わっている毛が一本も見当たらないという点。肌のてらてらした光には吐き気を覚えるほどだった。


「さぁ、ご主人様! 見目麗しい漢女おとめの裸体を目にして、まぁ~だ私が妖怪だっていうのぉ~!」

「うわぁあああああああああぁぁぁ!!」


 肉薄する筋肉妖怪を前に為す術なく天幕の隅に追い込まれてしまった北郷一刀は、とどめを刺さんとばかりに飛び上がった筋肉妖怪を間一髪で躱すと、必死の形相で俺の方へと向かってきた。

 すぐさま体勢を立て直した筋肉妖怪を連れて――。


「こっちにくんなァ! こないでくださいよォー!」

「やはりか! 賊め!」

「主よ!」


 そこへ飛び込んできた黒髪と趙雲にその他諸々。ここから先は言うまでもないだろう。

 阿鼻叫喚の地獄絵図の完成である。

 



 場に落ち着きが戻ってから、北郷一刀に趙雲らを追い出してもらい、三人で机を囲んで席に着いた。


「私の名は貂蝉ちょうせん。御覧の通り絶世の美女よぉ~」

「美女……?」

 

 どうみてもみょうちくりんな筋肉もりもりのオッサンだろう。


「それで、どうして俺がこうなっているのか説明してくれるんだろう?」と北郷一刀。

「ついでに俺の記憶のことも」


 便乗して言ってみたが、この貂蝉とかいう筋肉達磨はずっと北郷一刀に熱い視線を送っている。

 声が届いているかすら怪しいほど北郷一刀に夢中みたいだ。そういえば北郷一刀のことをご主人様って呼んでいたし、配下に加わりたいのかもしれない。


「あんっ。そんなに急かさなくても逃げないわよ~。でも、待ちきれないご主人様の為に、とぉ~ッても短く、端的に説明するわよぉ」


 貂蝉はぴくぴくと胸筋を動かしながら、頬を赤く染めていた。


「天の御使いはこの大陸の希望。ご主人様はみんなと協力して、この醜い争いの時代を終焉へと導くためにここにいるの。以上! 終わり!」

「終わり!? いや、元の世界への帰り方は!?」

「帰り方はねぇ~、なるようにしかならないってことで!」

「知らないのか……」と、がっくり肩を落とした北郷一刀。


 貂蝉は「泣かないで~」と本郷一刀の側にすり寄っていった。そのうねうねした芋虫の動きに気分が悪くなってきた。

 可哀想だけど、本郷一刀の方はそれで決着がついたとして。

 

「つーか俺は!?」


 俺にも北郷一刀と同じ“未来”の知識はあるけど、記憶の方は全く思い出せない。

 どうしてこうなっているのか、まるで想像がつかない現象だった。

 

「あらん? あぁ~んごめんなさい! すぅ~っかり忘れてたわ~ん」貂蝉はようやく俺の方を見たのだが「あんら~?」と目をぱちくりさせた。

「な、なんスか?」

「あなた~将来が楽しみねぇ~。怖いおじさんに何かされなかったぁ~?」


 ぐんっと距離を詰めてきた貂蝉は俺を舐めまわすように視線を動かしていた。

 むわっとした汗の臭いに混じって、甘ったるい香水の香りが鼻をつんざく。


「今……されてるんだよ…………」


 徐々に近づいてくる二匹のナメクジに、寒気と鳥肌が止まらなかった。

 貂蝉は鼻息がかかる距離まで接近してくると、ニンニクの香りと共に言葉を発した。

 頭までぐらついてきた。

 

「すこ~し補足するとぉ、ご主人様はね、悪い奴らに狙われてたのよぉ~。二人組のお馬鹿さんなんだけど、あたしの方できっちり叩き潰しておいたから大丈ブイ! あなたが天の知識を持っているのはそいつらが関係してるのかもねぇ~ん」

「まさか『ぶるぁぁ』とかいう雄叫びを上げてたのは……」

「雄叫びじゃな・く・て! 漢女のか細いながらも決死の叫びと言ってちょうだい」

「……やっぱり、黄巾の時に」


 白装束――二人組みではなかったけど、そいつに妙な事をされて意識を失う直前に聞こえた雄叫びは貂蝉のものだったようだ。

 

「白装束…………――そうだ!」

 

 どうして今の今まで忘れていたのか。すっかり抜け落ち、違和感をも感じなかったあの潜入任務での出来事。

 気を失い、甘寧将軍を待たせてしまった原因ともいえる白装束をすっかり忘れていたこと。そこで読んだ――読むことができた書物への疑問も、だ。

 そして至る。最重要とも言える一点、天からの啓示のように理解した一点。


 意識を失い、夢の中で垣間見た青年の姿――鮮明には見えなかった影の正体が、北郷一刀と重なったことだ。


 夢幻で片づけることだってできたはずだ。

 けど、夢の場面に出てきたのは“天の知識”にあった道路、トラック、赤い信号機であり、青ざめた青年――本郷一刀の姿。

 

「どうして……」


 北郷一刀の姿が思い浮かんだのだろうか。潜入任務の時には姿形も知らない北郷一刀を、どうして知っていたのだろうか。  

 これは“記憶”か。

 知識ではなく、俺の記憶なのか。


「おい、貂蝉……さん。俺は――」

「あぁ~ん。ごめんなさい!」 

「――うおっ!?」


 甲高いオッサン声に高まっていた集中力がぷっつりと切れてしまった。


「ダーリンにお使い頼まれてた途中なのよ~」


 貂蝉は「きゃぴ!」とかカワイコぶって――可愛いとは微塵も思わないけど――俺に背中を見せた。逞しく、見事な広背筋だった。


「もぉ~あたしったら、お馬鹿さん! すぅ~ぐ戻らなくちゃ!」

「おい! 俺、聞きたいことが――」

「待ってくれ! まだあんたの正体とか色々――」


 俺の声はともかく、本郷一刀の叫びさえも通じることは無かった。


「悪いけどここでおいとまさせてもらうわぁ~。じゃ、またね~ん」


 貂蝉は飛び上がると、穴の中へと落下していったのだ。

 穴を覗き込むが中は真っ暗で底が見えず、ごりごりと岩を削るような掘削音が聞こえる。追うのは無理そうだ。


「ドリルかよ……」


 時折穴から響くのは「ぶるあぁぁ」という排気音じみた巻き舌と、岩盤を突き破ったかのような豪快な破砕音だった。

 間違いなく、貂蝉は人間じゃないな。


「太史慈君。すまないけど、君の記憶に関してはもう役に立てそうにない」


 沈んだ声色の北郷一刀。

 ――その姿形は夢の中で見た時と、体格や輪郭が一致しているように思えて仕方が無かった。


「最後に一つだけ訊いてもいいッスか?」


 せっかく思い出したことだ。何かの手掛かりになればと話を振ると、北郷一刀は「あぁ」と頷いてくれた。


「俺と貴方、どこかで会ったことありませんでしたか?」

「会ったこと?」

 

 貂蝉のどろっとしたのとは違う、じっと確認するような本郷一刀の視線だったが。


「記憶にない……な。何か思い出したのかい?」


 返ってきたのは否定の言葉だった。


「…………いえ、勘違いみたいッス」 


 やはりあれは単なる夢だったのだろう。考えるだけ無駄か……。


「俺ばっか助けてもらう形になって、申し訳ありませんでした」 


 俺の質問に答えてもらうばかりで、何一つ役に立てなかったことを詫びたのだが、北郷一刀は首を横に振った。


「そんなことはないよ。おかげで俺も……天の御使いと俺自身の役目について、きちんと考えなくちゃいけないことがわかった」


 それは決心がついたというような口ぶりだった。


「俺の帰れるのかという質問に、貂蝉は『なるようにしかならない』と言った。つまり、自分の運命を受け入れて先に進まなければならないってこと、天の御使いの役目を受け入れて進んでいけば、何かがわかるってことだ。これが分かっただけで、俺にとっては大きな収穫だ」


 根拠になっているようでなっていない、ただの前向きな台詞だったが、その表情が物語っているのは俺でもわかった。

 “希望はある”

 それが真実であるように、北郷一刀の声には力強い響きがあった。


「そこで提案なんだけど……未来を知る者同士、お互いに助け合わないか? これから世の中は更に荒れることになる。信頼できる仲間は多い方が心強いだろ」


 いいところのお嬢様のように傷のない、綺麗な手が目の前に差し出されたが、その手を取るのは気が引けた。

 

「俺、ただの兵士ッスよ。とてもじゃないけど、助けになれるような権力ちからなんてないッスよ……」


 軍を率いるとか作戦を練るとか、そんなこととは無縁である単なる一兵卒が、天の御使いの助けになれるはずがないからだ。

 俺がそう言いきっても、北郷一刀は手を引かなかった。


「兵士とか身の上なんて関係ないよ。……俺は君に会えて心強いと思ったし、安堵したよ」


 嘘も偽りもない、清水のように澄んだ瞳だった。

 

「初めて桃香とうかたちに出会った時、彼女たちは“未来の知識”を信じてくれた。……けど心のどこかに釈然としない思いがあったんだ。俺以外に“未来の世界”を知ってる人はいなかった。だから“未来の世界”は俺の妄想にしかすぎなくて、俺は気狂いなんじゃないかってさ。麻薬をやってる奴は現実と妄想の区別がつかないって言うだろ? 俺がそうなんじゃないかって不安になる時があった」


 その表情に初めて影が落ちた。その様子から、この言葉が本心だと直感できた。

   

「だけど今日確信できた。“未来の世界”は俺だけが知っている空想の世界じゃなく、実際に存在して、俺はそこから来たんだって確信できた。君のおかげだよ。――だから、どうだい? たまに連絡とってさ、無事を知らせてくれるだけでいいんだ」


 連絡を取るだけ。それぐらいでいいのなら俺にもできそうだ。


「……あ」 


 連絡を取る。そこには重大な問題が潜んでいたんだった。


「俺、字を書けないんですよ。読もうにも漢字ばっかりで理解できないし……」

「なら日本語は? 日本語はどうだい?」

「あっ」


 忘れようがないぐらい身近にあった日本語なら覚えている――思い出した――上、書くことだってできるはずだ。

 十年近く学生をしていたんだ。むしろ忘れるはずがない。


「いけます! それなら大丈夫ッスよ!」

「良かった。近いうちに俺から手紙を送るよ」

「はい。ありがとうございます……北郷、様」

「様なんていらないよ。北郷でも一刀でも好きな方で呼んでくれ」


 そうはいってもやはり呼び捨てにするのは気が引けて。 


「はい、北郷! さん!」

「『さん』もつけなくていいのに」


 北郷さんはまた困った風に笑った。

 けれどその情けない微笑みは張さんを彷彿とさせて、どこか心強かった。




 貂蝉は何者か。

 白装束は何者か。

 天の御使いとは何なのか。

 ――俺の知識と記憶はなんなのか。

 肝心なことは何一つ告げなかった貂蝉のおかげで、疑問ばかりが増えてしまった。

 明らかになったことは俺に“未来の知識”があるということで、それを共有できる北郷一刀がいるということだけだった。

 








 それから七日後、まだ東の空に太陽がある頃だった。

 

「きけぇい!」


 黄寛隊長の号令に、俺を含めた隊の連中が姿勢を正す。

 誰一人として私語はない。


「儂らの任務は! この雲梯うんていと袁術様の工作兵を城壁まで守り抜くことである!」


 雲梯――移動式の台座に折り畳み式の梯子をつけた、いわば攻城兵器だ。

 ただし、その大きさはいつも目にしていたものとは桁違いだった。

 通常の物であれば大の大人が横並びに五人寝れるかという車輪がついた台座と、それに見合う折り畳み式の梯子が備え付けられているのだが、この大型の雲梯は通常の倍ほどの大きさだった。折り畳み式であるはずの梯子も、物見やぐら程の高さがあるように思えた。


「孫策様の作戦通りに行けば、敵軍は野戦を仕掛けてくるとのこと。いいか! しくじれば厠掃除を一か月だ! 糞の臭いにまみれたくなければ、命に代えても雲梯には近づけるなァッ!!」


 厠掃除よりも命の方が大事だけどなぁ。こう考えたのは俺だけじゃなかったようで、そこら中から笑い声が漏れている。隊長なりの気遣いなんだろう。

 相手は華雄という猛将を筆頭に武勇に優れた指揮官ばかりで、五万とも十万とも噂される訓練を積んだ正規兵が守りを固めている堅牢な砦が舞台だ。

 一週間前の俺だったなら、隊長の冗句があったとしても震えは止まらなかっただろう。

 けど、今は楽進の言葉が胸にある。恐怖は無い。

 

「以上! 各員持ち場を離れず、楽な姿勢で待機せぃ!」


 先頭には甘寧将軍、周泰将軍、そして孫策様。

 周りには頼りになる黄寛隊の面々に、他の部隊のやつら。

 更に同じ前線で戦ってくれる北郷さんの軍。遥か後方には――楽進がいた。

 手に持った槍に力が籠る。気力は充実していた。




 汜水関で、戦が始まろうとしていた。




 次はもうちょっとだけ早く投稿できると思います。

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