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既視感

 見上げた空は曇天で、今にも落ちてきそうな重い灰の色。

 息苦しい灰の空からぱらぱらと舞い落ちてくる、光り輝く真っ白な粒は――雪。

  

「ふぅ」


 吐き出す息は白く、口元を離れると霞のように掻き消えてしまう。

 吐き出した空気の分だけもう一度取り込んでから、冷たさのせいで定まらない指先をなんとか制し最後の丸太を縛る。陣地を仕切る柵の役割を果たすものだ。

 組んだ丸太が崩れるような気配はない。これで割り当てられた仕事は終わりだ。


「さみー」


 作業で冷え切った手はまともに動かず、息を吹きかけても応急措置にすらならないほどだった。極寒の中での作業がここまで辛いとは……。

 早いところ焚き火にあたろう。





「こんな寒いのに戦だなんて」

「身体動かないんだなー」


 焚き火の周りには李尋と李和。距離を置いて椅子代わりの丸太に腰かけている万修の姿があった。


 戦――以前張さんの話にあった通り、洛陽に居座って皇帝の代行として政治を動かしている董卓を討伐する、そのための戦。

 袁紹様の一声によって各地の諸侯が軍を率いて集結し、力を合わせて董卓に挑むとの話。噂によると二十万近くの兵が集まるとか……。

 ところが実際の兵数は少なく、予定されていた陣地の敷地全体の半分ほどしか埋まっていないのが現状だ。

 張さん曰く、原因はこの季節――雪のせいだ。

 降り積もった粉雪と、露出した地面には湿った泥のような土。足を取られやすく行軍にも支障が出ているようで、他の軍の到着が遅れているらしい。


「春になってからでもいいのに」


 この時期の行軍を決めた奴――誰かは知らない――に向け、ついぼやいてしまった。何かが変わるわけでもないのに。

 雪による行軍の遅れもそうだけど、俺たち兵士にとっての問題は、李尋の言うように身体が冷えて動かないことだ。

 その上陣地の周囲には山や壁、建物のような風をしのげるような物は一切無く、冷え切った空気が陣地を吹き抜けている状態だ。こんなところに長期間滞在する、なんてことになれば――。


「凍死するかも……」

「おい、もうちょい詰めろよ」


 寒風かんぷうによるものとはまた別の寒気に震えていると、李兄弟の脇に数人の男が割り込んできた。見覚えのある隊員――同じ黄寛隊の奴らだ。五人いるのを見ると作業の割り当てが終わって休憩しに来たのだろう。

 もちろんだけど、この行為に対して怒りを覚えることはなかった。火も薪も軍から支給された物であり、俺たちだけが独占していい物じゃないからだ。

 李兄弟がのそのそ動く脇で、万修は履き物――足の甲から裏にかけぐるぐると茶色の長物を巻いていた。縄か。


「何やってんだ?」


 近づいてみると、万修は「滑り止めだ」と履き物に巻いていた縄を固く縛った。


「粉雪だと効果はいまひとつだが、やんないよりはマシだ。お前らもやっとけ」

「縄を巻くってそんな意味があったのか」


 雪が積もった日に親父が縄を巻いてくれていたのを思い出す。そうか滑り止めか。


「なんでぇ、知らなかったのかよ」


 李和の隣り、髭面の隊員から茶々が飛んできた。

 その軽んじるような発言についカチンときて――寒さのせいで知らない内に苛立ちが募っていたのかもしれない――「知らねぇことぐらい誰にだってあるだろ。お天道様じゃあるまいし」と喧嘩腰になってしまい後悔するが、予想に反して髭面の方はやけに素直に「そりゃそうだ」と納得したようだ。 


「最近の若いのは利口だなぁ。こう……視野が広いっつーかよぉ」と、その隣でしみじみ漏らしたのは老け顔のオッサン。

「へっ、ガキに諭されてんなよ」続いて吐き捨てたのは坊主頭に剃り込みを入れてる奴。 

「ガキじゃねーっての!」


 またもカチンときて睨みつけてみれば、剃り込みは「あ、すまんな」と強気な顔つきに反してあっさり引き下がったのだ。

 こんなに張り合いなかったかと毒気を抜かれるばかりか、自分の大人げなさにバツの悪さを覚えてしまう。


「…………つーか、張さんは?」


 あまりのいたたまれなさに、ついに李兄弟の方に視線を逃がしてしまった。

 

「あっちなんだなー」


 李和の指した方向には作業が終わった区画、その柵に張り付いている張さんの姿が。

 せっかくだから滑り止めのことを教えようと、万修のそばに放置されていた縄を持って行く。


「張さん、縄を――」

「子義君! ほら! 曹操様だ!」


 陣を仕切る囲いに張り付き、遠くはためく“曹”の旗を差して張さんは子供のようにはしゃいでいた。

 黄巾党の時と同じ状態か、興奮度としてはそれより上かもしれない。この張さんを目の当たりにしたのは二度目だけど、違和感が拭えない。いつもの冷静な張さんの印象が強すぎなのかな。

 張さんに対して若干引いていると、次第に近づいてくる軍勢の先頭を闊歩する黒馬。その馬上の目立つ髪色の人物に、否応なく目がいってしまう。


「金髪のが……曹操様だっけ?」

「おぉ! 合ってるよ! 覚えてくれてたんだ」と声を弾ませる張さん。

「あんなクルクルした髪の毛、そうそう忘れないッスよ」


 艶のある黒馬に跨っている小柄な体格の少女――曹操。頭の両側から飛び出ているらせん状の巻き毛が印象的だ。

 曹操様の警護役なのか両脇には、あちこちにがんを飛ばす額丸出しの黒髪と、静かに目配せする青みがかかった白髪。二人とも女性だ。

 よくよく目を凝らせば、曹操様の後ろを歩く猫の耳がついた被り物をした小柄な女性、濃い桃色の髪の少女などなど、馬に跨っている偉い人物はみんな女性のように見受けられる。


「ん?」


 猫の被り物をした女性の後ろ。馬に跨った三人が横並びになっているその左端に目が留まる。


「どうしたんだい」と張さんの声。

「あそこの奴、知り合いに似てるなぁ~って」


 白っぽい髪の女性。寒さ対策に茶系の外套を羽織っているが、その上からでもわかる姿勢の良さ。見覚えのある影だった。

 俺がじっと眺めているのに感づいたのか、隣りの人物と話していたその女性の瞳がこちらに飛んできた。


「あっ」


 その真っ直ぐな瞳の持ち主は――楽進。以前に貯金の配達を頼んだ楽進 文謙だった。遠目ながら顔に刻まれた二つの刀傷が確認できるし、相手も俺に気づいたのか目を見開いている。間違いない。

 とはいってもお互いに気がついたからと言って馬の足が止まるわけではなく、一瞬のすれ違いの後、楽進の姿は軍勢の流れのまま陣地の奥へと遠のいていった。


「黄寛隊! 集れぇぇィ!」


 楽進の姿が見えなくなるのとほぼ同時に野太い叫び声が空気を震わせる。黄寛隊長のだ。

 

「行こうか」

「はい」

 

 楽進のことは気になるけど、隊長の号令がかかっては後を追うわけにはいかない。

 俺は孫呉の兵士だから。

 




 整列後、恒例の点呼を終えると黄寛隊長は大きく息を吸い込んで「作業終了ォ! これより命令があるまで待機せい! 解散ッ!!」と陣地の向こうにまで届くかという落雷のような声を発した。

 直後、気をつけの姿勢を崩した隊員たちからざわつきが漏れだした。内容は誰も彼も「寒~い」とかそんなんばかり。

 毎度毎度こんな大声出してよく喉がつぶれないなと、隊長のことを疑問に思ったのは俺だけか。


「おぉぉい! 太史慈って奴、いるかぁ!?」


 そんな隊員たちのざわつきを一蹴したのは、解散命令を見計らったように響いた男の声だった。


「俺?」


 耳に入ったのは俺の名前。また何かの任務だろうか。

 隊員のざわつきのせいで方角がわからず、長身の兵士らに囲まれているせいで――身長が低いせいとも言える――姿を確認することもできなかった。


「ここッスよ! ここ!」


 なので遠くに響くように腹から声を出す。隊長の声に及ばないまでも、一里先の相手に聞こえるだろう大声だ。――一里は言いすぎたかな。

 後は相手を待つだけかと思ったが、隊員らの動きに変化が見られた。


「おい空けろ。道空けろって」

「道空けろってさ」

「おう! 太史慈こっちだ。道空けてやってくれ」


 周りに居た連中が隣りへ隣りへと伝言を始めたのだ。するとあっという間に人混みは割れて、声のもと――見知らぬ隊員の姿が見えるまでとなったのだ。

 こんなに優しい奴らだったか。班以外の連中と深い付き合いはなかったから、この親切さが不審に思えてしまう。メシでもたかる気か。

 

「あざーす……」


 なら昼飯ぐらいくれてやるとして、今は声のもとに向かうべきだろう。一応お礼を言いながら見知らぬ隊員のところまで駆け足で向かう。

 近くで見てもやはり見覚えのない顔立ち。装備は同じだから別の隊の兵士だろう。


「なんスか?」

「お客さんだ」


 そう体を斜めにした隊員の後ろから、すっと姿を現したのは茶色の外套を羽織った白髪の女性――楽進だった。


「文謙か!」

「お久しぶりです」


 相変わらずの真面目そうな面構えに嬉しさが込み上げてくる。

 ただ気のせいか、楽進の雰囲気が以前よりも大人びいているように感じられた。背が急激に伸びたわけではないのに、なんでだろう。

 

「ここで――」

「うっほぉぉぉおおおおおおおぉぉぉぉぉ!!」

 

 俺の声に被せるように、周囲から歓喜に似た絶叫が噴き出した。


「太史慈ィ~。もしかしてコレかァ~?」  

「なかなかめんこいじゃねぇ~のォ!」

「こんなガキでもちゃんとしてんのに、お前ときたら……」

「じゃかしいわ!!」


 あろうことか黄寛隊という規律正しい兵士の集団が野次馬軍団へと一変した瞬間だった。

 口笛を吹く奴。手を叩く奴。よくわからないが喧嘩を始めた奴など、耳をつんざく騒音を発している。

 

「やましい!」と怒鳴ったところで勢いが衰えるわけがなく、むしろ喧騒は広がるばかりだった。


 みんな寒さと行軍のせいで苛立ちが溜まっていたのかもしれない。男と女が会っただけでひと騒ぎしたくなるほどの苛立ちが……。不満を溜めるよりはいいのかもしれないけど迷惑極まりない。

 ここまで興奮した連中を黙らせるのは不可能だろう。となれば場所を移動するべきか。

 その旨を楽進に提案しようと目を向けると、焦る俺とは対照的に、楽進は動じるような素振りを見せずに口を開いた。


「少々、お話があります。お時間よろしいでしょうか?」

 

 そう、素振りはなかった。なかったのだが、その声が不機嫌そうな低い調子であったことは、周囲にいた人間なら誰だってわかっただろう。 




第三十話 既視感





 隣りとの陣地の間。人気のない場所まで移動して、楽進はこちらに振り向いた。


「改めて、お久しぶりです」


 軽く頭を下げた楽進が纏う雰囲気からは、不機嫌を通り越して怒りすら感じとれた。

 さっきの野次がそんなに嫌だったのか。はたまた頼んだ配達が堪らなく嫌だったのか。あるいは親父が何か粗相をしたのか――いや、頑固で礼儀には厳しい親父のことだ。客人がくしんに礼を失するなんてことは間違ってもあり得ない。 


「久しぶりだな」

 

 怒りの原因がわからないのなら刺激しないようにすべきだろう。

 それを心がけて成る丈気さくに、不躾ぶしつけにならないよう気をつけて挨拶を返すと、楽進は頭を上げた。


「何故、ここにいるのですか?」


 楽進の真っ直ぐな瞳には険しさが宿っているが、声には冷静であろうとする自制心が表れているように思えた。

 この様子なら、どこかの将軍みたいに殴りかかってくることはなさそうだといくらか気が楽になる。


「見た通りだ。俺、孫策様のところで兵士やってんだよ」

「…………そう、ですか」 


 楽進は眉を顰めた。まるで俺の親父が苛立っている時のような表情だ。


「子義。貴方は御両親のところへ引き返すべきです。今すぐに」

「なんだよ、いきなり……」


 険しい面持ちなのに諭すような口調の楽進。

 怒りからなのか親切からなのか、楽進がどんな意図で言っているのか判断がつかなかった。

 

「貴方は兵士になってはならない」


 楽進は強い口調で断言した。これこそが正しいと言うかのように、だ。

 この有無を言わさぬ断言には覚えがあった。軍に行くことを告げた時、反対の意を示した親父にそっくりなのだ。

 もしかしたら配達の際、親父に変な事を吹き込まれたのかもしれない。


「まさか、親父に何か――」

「違います。私の率直な意見です」


 率直――本心からのってことか。親父とか苛立ちとか抜きにしての、心からの意見ってことか。

 そこまでを聞いて、頭に浮かんだのは意見のもとになっている事柄。


「それって……何? 俺が弱いからってことか?」


 南陽の路地裏での決闘まがいの一戦だ。

 あの時、無様にも竦んで動けなかったことを楽進は見抜いていたんだろう。だからこその“兵士になってはならない”という断定の言葉。だからこその率直な意見。

 楽進は見下すような、憐れむような視線のまま羽織っていた外套を脱ぎ捨てた。


「――理由を教えましょう」


 生々しい傷が刻まれた、胸の丸みに合わせて作られた鉄の胸当て。

 手首から肘までを覆う、腕の部分に比べて拳の先端が異常にり減っている鉄の手甲。

 手甲と同じように膝から下を覆う、あちこちにひしゃげたのを直したような跡が残る鉄の膝脛ひざすね当。

 脱ぎ捨てた外套はそよ風のような横向きの風に乗って、少し離れた所でゆらりと地面に舞い落ちた。


「構えてください」


 楽進は手甲の具合を確かめるよう触れながら遠ざかった。その距離は五歩。

 南陽の時は徒手空拳で襲い掛かってきた楽進。今回は手甲を装備している。あの別れ際の一戦――といっても戦ってはいない――の再現でもして、俺が弱いってことを再確認させる気か。


「構える? 剣を抜けっての?」


 冗談だろ。そういう意図を込めた一言に楽進は「はい」と頷いた。どうやら本気らしい。


「馬鹿にして」


 南陽での一戦と同じように行くと思ってるんだろうけど、あんな無様を晒す気は毛頭ない。俺だって実戦の中で経験を積んできたんだ。気後れなんて絶対にするわけがない。

 腰にある、これまで共に戦ってきた剣を引き抜く。戦いの場において身を守ってきてくれた相棒だ。長さは三尺とちょっとだが、相手が徒手空拳なら攻撃範囲においては優位に立てる。

 手に馴染んだ感覚を確かめながら、再び楽進に目を向ける。


「これでいいの――か……ッ!?」


 呼吸を整える間もなく、心臓を締め上げるような威圧感が襲い掛かる。

 前に南陽で感じた感覚ものとは段違いの闘気――いや楽進の瞳が放つ黒い光は闘気ではない。

 そのドス黒い光は戦場で何度も経験してきた――――殺気だ。これまでの相手とは段違いの、空が落ちてくるような圧迫感を催す“殺す”という意思。


「結構」


 楽進はゆっくり、この凍り付くような感覚が俺の体を覆うのを待つように、ゆっくりと構えた。

 背筋は真っ直ぐ、腰を軽く落として体は半身。左手を軽く開いて体を守るよう前に出し、右は拳を固めて脇を絞め、体の向こうに仕舞うような姿勢。

 これこそが自然体だと錯覚してしまいそうなほど端麗な構え。固めた拳がほのかに輝いているような幻に陥ってしまうほど美しい構えだった。


「――行きます」


 いつかと同じように楽進は静かに告げ、その足が雪に沈む。

 呼吸による僅かな身体のブレすら感じさせない上体。

 沈む足と、力をためる膝の屈折動作。――それらも動きを止めた。

 楽進の呼吸も、止まった――――次の瞬間には降り積もっていた粉雪が、爆発するように舞い上がった。

 白い霞を突っ切り向かって来る楽進。瞬く間に二歩踏み込まれた。



 アホみたいに立ってる場合か……!



 直進してくる楽進の三歩目。その直前でどうにか頭が現状を認識した。

 ――したはいいが、身体に指令を送る間もなく踏み込まれてしまう。これで三歩目。


 四歩目。楽進が上体を捻り始めた。その拳を溜めるような動作を確認してようやく異変に気がついた。

 拳の輝きは幻ではない。実際に光を帯びていたのだと、圧迫感の正体はこいつだと直感した。

 絶対に拳を振りぬかせてはならないと即座に迎撃を試みたが、身体にみを感じることはできなかった。




 そして迫る五歩目は、抵抗することすらできなかった。

 足元に積もった雪を全て吹き飛ばした強烈な踏み込み。露出した泥の面を広がる波紋のような衝撃。

 それによって得た力を脚から腰へ、腰から肩へと伝達した“捻る”動作を経て――――眩いばかりの一撃が放たれた。





「それです」


 ぴたりと南陽での一件を再現したような寸止め。

 楽進から圧迫感が消える。するとその真っ直ぐな、クソ真面目な瞳には俺の姿が映っていた。荒く肩を上下させ、水を被ったように汗にまみれた俺の姿が。


「今、貴方が取るべき道は二つあった。応戦するか、逃走するかの二つ。……けれど、貴方が選んだのは『何もしない』。ただ茫然と立ちつくし、こんな何でもない所で私の拳を受けて『死ぬ』という結果」


 返す言葉が無かった。楽進の言葉に偽りが無かったからだ。

 またも竦んでしまったこと。またも何もできなかったこと。悔しさよりも自分への情けなさから、楽進と目を合わせていられなかった。 


「――――貴方には『』が無い」


 “信念”――?

 唐突に何を言っているんだ。声に出そうとしても喉を震わせることができなかった。喉の渇きと乱れた呼吸のせいなのか。


「いいえ……信念どころか勝利への執念も、生への執着すら貴方からは感じられない。いずれも持たぬ者が戦場いくさばに出れば、遅かれ早かれ至る結果は――死」


 目を逸らさず、はっきりと言い切った楽進。

 さっきから楽進が何を言っているのか、痺れた頭では理解が追いつかなかった。

 俺から感じられないモノ――?


「貴方のような未来ある方が、命を無下に扱うことはありません。御父様も心配されていました。御母様も病に伏せっておりながら気丈に……振舞われておりました…………」と楽進は唇をかみしめながら、何かに耐えるような素振りを見せた。


 母ちゃんの病。

 それがどれだけ重いか、近い将来どうなるのかも俺は知っている。

 楽進がどうして俺に兵士をやめるように言ったのか。今、その理由がわかった。


「もし御両親のことを想うのなら、故郷くにへ帰るべきです」


 心を揺さぶるような、訴えに似た一言。楽進の瞳から初めて揺らぎが見て取れた。

 故郷へ帰る。

 母ちゃんの事を、親父の事を想うのならそうするのが一番なのかもしれない。それが俺と母ちゃんと親父、みんなの幸せに繋がるのかもしれない。


「………ぉ」


 けれど楽進の言葉が敗軍に下される降伏勧告のように思えて――。


「お前ぇ……! 俺を、馬鹿にしてんのかよォ…………!」


 受け入れることはできなかった。 

 受け入れてしまえば、俺のこれまでの経験が嘘になってしまう。俺が軍に入るきっかけになった孫権様から感じた“何か”まで嘘になってしまう気がしたから。

 

「俺は家を出て……自分の力でここまで来た……! それをお前は――」

「貴方に御両親を! 私を納得させられるだけの理由があるのですか! 戦う理由が!!」


 声を荒げ、叩きつけるように言った楽進。途端、我に返ったのか、楽進は目を閉じると大きく息を吸って、気を静めるように細く、長く息を吐いて、それを何度か繰り返した。

 俺の反撃は楽進の放った気迫に呑み込まれてしまい、言葉を紡ぐことはできなかった。深呼吸の間に、何かを言うことはできただろう。だが、言ったところで楽進には届かない。そんな確信のような予感があった。

 しばらくして、楽進はその薄紅色の唇を深呼吸とは違う形で開いた。


「私は大義のために戦っています」


 その二つの瞳は、真っ直ぐ俺の瞳を捉えていた。捉えて、離さなかった。  


「この戦……都で圧政を敷く董卓を討てば、何千、何万もの民を救うことができる」


 その真っ直ぐな瞳の中で揺らめく光は、ぎらぎらと怒りに燃えていた。

 義憤。不意にその二文字が過ぎり、それこそが光の正体を表すのに最適の言葉のように思えた。


「私の命は天下泰平の、無辜の民を守るためのモノ……。例え相手が飛将軍だろうが皇軍だろうが、私には戦い抜く覚悟が――信念があります!」


  



 ――――貴方に私を納得させられるだけのが在りますか。




 重く。灰の空よりも重く圧し掛かる強烈な意志――威圧感か。

 怖いわけではない。けれど、この威圧感を前に息を呑むことしかできない。引き下がれないとわかっていながらも、喉に土をねじ込まれたように言葉も息も吐き出すことができなかった。

 

「私が貴方と、貴方の御両親を世に蔓延はびこる悪党共から守ります。守ってみせます。ですから、貴方は御母様を――――支えてあげてください」


 宣言にも似た、情に訴えかける響きを持った声だった。本心から心配してくれているような響き。心なしか楽進の瞳に潤いような揺らぎが見てとれた。

 母ちゃんの病――それが楽進を駆り立てた理由なんだろう。

 お互いに名前と上っ面しか知らないはずの関係で、友達というより知り合い程度の付き合いなのに、本気で俺の事を心配してくれている。こう考えただけで、胸に日差しのような暖かさが広がっていくのを感じた。

 威圧的な態度も、さっきの決闘も楽進の真っ直ぐさの――不器用さの表れだったのかもしれない。


「文謙……」


 それでも楽進の言葉を受け入れることはできない。

 どう言えば楽進を納得させられるか。足りない頭を回転させても答えが出ない――そんな時だった。


「信念とはッ――!!」


 突風と共に女性の声が響いた。


「信念とは人生という過程の中で、各々の胸に自然と宿るモノ! いわば人生の結晶!」


 聞き覚えのある、気が強そうな声。隣りの陣地の、柵の向こう側からだ。

 舞い上がる雪の中に揺らめく影が近づいてくる。その速度はぐんぐん速くなっていて、柵の手前で急停止したかと思えば――。


「とうっ!」


 影が飛び上がった。俺の身長よりも高い柵を軽々と飛び越えた影。


「その価値は! 異なる過程を経てきた者が測り、優劣を決められるほど単純なモノでは断じてない!」

 

 そしてとうとう、その姿が露わになった。

 華麗な着地を決めて、ゆったりとした足取りで近づいてきた女性。白く丈の短い服装に鮮やかな青い髪の毛。そして脇に抱えた一本の槍。


「ましてや貴女を納得させることに意味がある、と? いや、ありますまい。もっと言うなら子義殿の御家族の為ではなく、ただ貴女が納得したいがための問答にすり替わっているのですからな」

「お、お前は趙雲!」


 影の正体は故郷むらを出て、最初に出会った武人、趙雲。厭味ったらしい性格をした趙雲 子龍だった。

 

「趙雲――常山の趙 子龍殿ですか……!?」楽進もその名に覚えがあったのか、驚愕の声を上げた。


 ところが趙雲は楽進の言葉を制するように手を上げて「おっと、“常山の昇り龍”まで、略さずにお願いしたい」と、わけのわからないこだわりを見せた。


「…………貴女が常山の昇り龍、趙雲子龍殿ですか?」


 楽進のやる気のない視線に、ひどく平坦な声調。

 そりゃあ呆れもするかと俺も同じように目を細める。

 

「いかにも、かの有名な常山の昇り龍とは私の事」

「何か御用でしょうか」


 楽進の声調に変化はないが、趙雲は愉快そうだった。

 呆れられていることに趙雲は気がついているのだろうか。というか丁奉さんと同じで、気がついていてこういう状況を楽しんでいるんだろうな。


「いえ、用というほどのことではありませぬ。痴話喧嘩が耳に入ったものですから、つい――」

「そうですか」と楽進は趙雲の牽制をなんなく躱す。


 俺なら動揺していただろうけど、痴話喧嘩という単語にすら引っかからない、落ち着き払った楽進には素直に拍手を送りたい。

 おかげで、なんとなく気持ちに余裕が出てきた。ここは趙雲への反撃の好機だ。街で別れて以来、ずっと心に留めてきたことを言ってやる。


「つーかお茶代返せ!」

「なんの話ですかな?」と首をひねりながらそっぽを向いた趙雲。

「とぼけるなよ。別れる直前にあんたが口にしたお茶と饅頭の金だ」

「……確かあれは『お礼』という話だったのでは?」

「それとは別に食っただろ!」

「そうでしたか?」またも首をひねる趙雲だが「やはり記憶にありませんな。なにぶん半年以上も前の事、鮮明に思い出せと言うのは無理というものです」と眉尻を下げて言った。


 確かに大した出来事ではない。忘れてもしょうがないのだけど、趙雲相手だと素直に納得できなかった。 


「お知り合いですか?」と楽進。

「賊に絡まれた時に助けてもらったことがあるだけだ」

「えらく冷たいですな」


 はははと笑った趙雲は話題を閉めるように「ごほん」と大きな、咳らしくない咳を発して。

 

「そうそう。話は『子義殿の戦う理由』でしたな。それなら覚えがあります。ええ、あの時決意を口にされた子義殿の雄々しい叫び、今でも耳に残っていおりますとも」

「言ってねぇだろ……」


 楽進との会話を聞いていたのか、とも言おうと思ったけどやめた。

 丁奉さんと同じ臭いがするし、唇から会話を読むとか近くの天幕に隠れていたとかなんとなく予想はついたからだ。


「それで、どのような内容でしたか?」


 しかし楽進は食いついてしまった。

 これに趙雲は何を考えているかわからない笑みを浮かべて、ペロッともったいぶるように唇を舐めてから言った。


「男が戦う理由――といえばわかりますかな?」

「男が……ですか」


 何を想像したのか、さっき趙雲に向けていた呆れ顔がこっちにきた。


「あのよぉ、俺は――!」

「公孫賛様、御着陣~! 北平太守、公孫賛様の御着陣~!!」


 否定しようと――誤魔化そうと――開いた口は、斥候らしい人物の大声によって閉じざるを得なくなった。 

 公孫賛様。張さんが熱弁を振るって褒め称えていた人だったっけ。


「白馬がどうのこうのっていう…………」

「『白馬義従』。伯珪はくけい殿――公孫賛殿自慢の弓を携えた騎馬隊のことです」と脇から趙雲の補足。

「へぇー」

 

 趙雲も知っているってことは、公孫賛様って人は有名なのか。

 遠くの方に“公孫”の旗を発見して、先頭には数えきれないほどの白馬が群れ、規則正しい隊列で陣地の中へと入ってきた。

 更に後方、公孫賛軍に追従するよう“劉”の旗が現れた。




 理由もなく胸騒ぎがした。





「おぉ、都合がいい時に到着しましたな。いい機会です、紹介しましょう」


 隣りで趙雲の声がしたけど、そっちを見る気になれなかった。

 頭痛のせいだ。

 頭の中ではえの羽音がひたすら響くような酷い不快感。頭の芯を爪でガリガリ削られるような、連続した堪え切れない痛み。


「我が主『天の御使い』である北郷ほんごう一刀かずと殿を」


 趙雲の弾むようなに声すら煩わしさを覚えてしまう程の気持ち悪さ。

 趙雲か楽進に助けを求めたかったが声を出せなかった。目で訴えようにも、釘づけになったように“劉”の軍勢から離せなかった。

 ――違う。一人の男から離せなかったのだ。


 “劉”の旗を背にして馬に跨り、困った風な笑顔を浮かべている一人の青年というべき年齢の男。

 初めて見る。

 けれど、見覚えがあるその姿。


 短くもなく長くもない茶系の髪の毛。

 整った顔立ちをした優しげな目つき。 


 そして、絹や鉄とも違う光沢を放つあの真っ白い服を、俺は知っている。

 そう、あれは―――― 







「聖フランチェスカの……制服…………!」


   




 

挿絵(By みてみん)

 読んでくださっている方々、ありがとうございます。

 次回以降も、今回ような投稿速度を維持できればと思います。

 それとあらすじの部分を変更しました。これからもよろしくお願いします。


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